処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが

ポポリーナ

文字の大きさ
40 / 51

ノーヴァルの手——王都からの嵐の前触れ

しおりを挟む
 早朝の執務室。帳簿の数字を追っていた手が止まる。フリッツは通常、規則正しい歩幅で廊下を歩く。王太子の従者として叩き込まれた歩行術だ。しかし今日の足音は速く、わずかに乱れている。

「セラフィーナ様、緊急の報告があります」

 ドアを開けたフリッツの表情は硬かった。手帳を胸に抱えたまま、一瞬だけ言葉を選ぶ素振りを見せた。この慎重な男が言い淀むということは、内容が重い。

「王都から急使が参りました。商務大臣カーティス・ノーヴァルが、王宮に上奏文を提出したとのことです」

 ペンが指先から滑り落ちた。インク壺の縁に当たって、澄んだ金属音が鳴った。

「上奏文の内容は」

「ヘルムガルド領の直接取引モデルが、王都商業ギルドの規約に違反しているとの申し立てです。具体的には、正規の仲買商人を介さない取引が王国商法第四十二条に抵触する、と」

 窓の外で鳥が鳴いた。平穏な朝の音。しかし今、その平穏に亀裂が入った。

 来た。

 ギュンターが半年前に警告していた通りだ。いや、ギュンターの予想よりも早い。ノーヴァル商会は待てなかったのだ。辺境の成功が大きくなるほど、彼らの焦りも大きくなる。

「レオンハルト殿下はご存じですか」

「はい。今朝、殿下にもお伝えしました。殿下は——複雑なご様子でした」

 複雑。王太子として公正であるべき立場と、辺境で見た現実の間で揺れているのだろう。上奏文を無視すれば王太子としての公正性が疑われる。しかし上奏文に同調すれば、辺境の改革が潰される。

「フリッツ殿、ありがとうございます。ギュンターのところへ行ってきますわ」

 帳簿を閉じた。指先が震えていないことを確認して、立ち上がった。


  ◇


 ギュンターの商店。奥の密室。

 壁一面に貼られた取引先リストの前で、ギュンターが腕を組んでいた。白髪混じりの頭が、苛立ちで揺れている。

「言った通りだ。半年以内に来ると言ったが——もう動き出しやがった」

 テーブルの上に広げられた紙の束。ギュンターが独自の情報網で集めた、ノーヴァル商会の動きに関する報告書だ。取引先の名前がずらりと並び、いくつかには赤い印がつけられている。

「赤い印は?」

「ノーヴァルの息がかかっている商人だ。ここ二週間で、急に辺境との取引を渋り始めた連中。先月まで「ヘルムガルド鋼は最高だ」と言っていた奴らが、急に「品質に不安がある」と手のひらを返しやがった」

 ギュンターの声に、怒りだけでなく悔しさが混じっていた。商人同士の信頼を、金と権力で踏みにじられることへの怒り。

 指で数えた。七つ。辺境の取引先のうち、三割近くが既に圧力を受けている。まだ残りの七割は持ちこたえているが、時間の問題だ。

「それと、もう一つ厄介な話がある」

 ギュンターの目が鋭くなった。商人の目ではない。戦場を見据える目だ。

「新住民のクルト——あいつの正体が割れた。ノーヴァル商会の手の者だ」

 やはり。泳がせていた間者の正体が、ようやく確定した。クルトが辺境に来たのは半年前。新しい生活を求めてという触れ込みだったが、鍛冶場と薬草園の周辺をうろつく頻度が不自然だった。

「確証は」

「あいつが王都に送っていた手紙を、関所の検問で写しを取らせた。中身は辺境の生産量と取引先の詳細だ。宛先はノーヴァル商会の下請け——ルドルフの名前もあった」

 ルドルフ。以前撃退したノーヴァル商会傍系の商人だ。直接来て失敗したから、今度は内部に人間を送り込んだ。敵は学習する。こちらも学習しなければならない。

「クルトは追い出しますか」

「いや。泳がせておけ。追い出したら次の間者が来る。見えている間者の方が御しやすい。それより——」

 ギュンターが赤い印のついた取引先リストを指で叩いた。

「次は取引先への圧力だ。ノーヴァルは上奏文で法的に攻めると同時に、取引先を締め上げて辺境を経済的に干上がらせる。二正面作戦だよ、お嬢さん」

 二正面作戦。政治と経済を同時に攻める定石。前世の会社でも、競合他社がやっていた手口だ。法務部と営業部を同時に動かして、相手の体力を削りながら追い詰める。逃げ道を塞いでから、本丸を叩く。

 違うのは、前世では私が追い詰められる側で——逃げた。過労の中で戦う気力を失い、上司の顔色を窺い、結局何もできなかった。

 今は違う。逃げる場所がない。逃げたくもない。


  ◇


 領主館の会議室。

 長テーブルの周りに、異例の顔ぶれが揃った。

 私。ギュンター。レオンハルト。ルキウス。エミル。ヨハン。フリッツ。

 レオンハルトが口を開いた。

「余は——この件に関して、王太子として公式に動くことはできない。上奏文が正式な手続きを経て提出された以上、余が介入すれば職権濫用になる」

 正しい判断だ。レオンハルトの苦渋が声に滲んでいた。公正であろうとする意志と、目の前の不正を見過ごせない感情が、碧い目の中で戦っている。

「しかし、非公式には協力する。フリッツに王都の動向を探らせる。情報だけは提供できる」

「殿下、それは——」

「余の判断だ。フリッツ、構わないな」

「……はい、殿下」

 フリッツが手帳にペンを走らせた。主人の命令を記録する従者の手は、微かに震えていた。王太子が非公式に動く。それは本来、あってはならないことだ。

 ルキウスが腕を組んだまま、低く唸った。

「剣で斬れる相手なら、とっくに片づけている」

「ルキウス殿、商務大臣は斬れませんわ」

「わかっている。だから苛立つんだ」

 琥珀の目が天井を睨んでいる。拳が膝の上で固く握られていた。この不器用な騎士は、守るべきものが脅かされているのに剣では戦えない現実に歯噛みしている。しかし会議の場を離れない。それだけで、ルキウスの覚悟は伝わった。

 エミルが穏やかに口を開いた。

「法的な攻撃には、法的な防御を。商業ギルドの規約違反という主張ですが——辺境領主の領内商業権は、王国基本法で保障されています。セラフィーナ様の直接取引は、領内商業権の正当な行使として反論できるはずです」

 全員の目がエミルに向いた。宮廷魔術師がなぜ法律に詳しいのか。

「魔術師ギルドも、過去に王都商業ギルドと管轄権で揉めたことがありましてね。その時に学びました」

 穏やかな笑顔。しかしその目は——味方の目だった。理由はまだわからない。しかし今は、その力を借りる。

 ギュンターが頷いた。

「法的な防御は俺の方でも準備する。三十年分の取引記録がある。ノーヴァルの中間搾取の証拠も揃えてやる」

 三十年。ギュンターは三十年間、この時を待っていたのだ。ノーヴァル商会に圧迫された商人たちの怨みを、帳簿という武器に変えて。

 全員の視線が、最後に私に集まった。

「セラフィーナ、どうする」

 レオンハルトの声は静かだった。命令ではない。問いかけだ。

 窓の外を見た。夕暮れの辺境。鍛冶場の煙突から立ち上る煙。薬草園の温室の屋根が夕日に輝いている。通りを歩く領民の姿。マルクスの弟子たちが笑いながら帰路についている。

 この景色を——守る。

「受けて立ちますわ」

 声は静かだった。しかし確かだった。

「ノーヴァル商会が二正面作戦なら、こちらは三正面で返しましょう。法的防御、取引先の確保、そして——辺境経済圏の正式な確立。攻撃を受けるだけでは終わりません」

 前世では、戦えなかった。追い詰められて、逃げて、壊れた。

 今世では——逃げない。

 テーブルに両手をついた。指先に力を込めた。この手は帳簿を記し、人々と握手し、辺境の土を掘った手だ。もう震えていない。

「ギュンター殿、取引先への対応を。エミル殿、法的な論点の整理を。ルキウス殿、辺境の物流路の警備強化を。レオンハルト殿下——」

 澄んだ瞳が真っ直ぐに私を見ていた。

「情報を、お願いいたします」

 レオンハルトが頷いた。真剣な眼差しで、その頷きに——信頼が宿っていた。

 ヨハンが隣で黙って拳を握りしめていた。戦略を立てる力はなくても、この従者は最後まで隣にいる。それだけで十分だ。

 会議が終わった後、一人になった会議室で窓辺に立った。辺境の灯りが、一つ、また一つと点っていく。領民たちの暮らしの灯り。

 ギュンターの最後の言葉が耳に残っている。

「半年以内に来ると言ったが——もう動き出しやがった。次は取引先への圧力だ。覚悟しろよ、お嬢さん」

 覚悟なら、とうにできている。この辺境に来た日から——いや、あの卒業式の壇上で声を上げた瞬間から。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】男装して会いに行ったら婚約破棄されていたので、近衛として地味に復讐したいと思います。

銀杏鹿
恋愛
次期皇后のアイリスは、婚約者である王に会うついでに驚かせようと、男に変装し近衛として近づく。 しかし、王が自分以外の者と結婚しようとしていると知り、怒りに震えた彼女は、男装を解かないまま、復讐しようと考える。 しかし、男装が完璧過ぎたのか、王の意中の相手やら、王弟殿下やら、その従者に目をつけられてしまい……

蔑まされた没落貴族家の悪役令嬢ですが、この舞台の主役は私がやらせていただきます!

あぷりこっと
恋愛
「君の嫉妬深さにはもう辟易しているんだ」 婚約者のハイベルクにそう告げられた瞬間、レーウは確信した。 ――計画通り。 何も知らない侯爵令嬢ランダ。王国最強と謳われた騎士団長ハイベルク。彼がその双剣を振るう相手を間違えた時、破滅のカウントダウンは始まった。 世間がレーウを嫉妬に狂った没落家の伯爵令嬢と蔑んでいる間、彼女は自警団と共に貴族院の秘密を暴き敵の逃げ場を奪い続けていた。 格安警備会社へのすり替え、配電盤の掌握、そして夜視の魔導具。 感情を切り捨て毒となった令嬢が公爵邸舞踏会を、社会的抹殺の舞台へと変える。 「不運と踊る?……いいえ。私に踊らされていたのだと、地獄で気づきなさい!!」 ※ヒロインの活躍が凛々しいので応援してください♪

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

「婚約破棄された転生令嬢ですが、王城のメイド五百人に慕われるメイド長になりました。なお元婚約者は私のメイドに土下座中です」

まさき
恋愛
社畜OLとして過労死した私は、異世界の令嬢・アリア・ヴェルナーに転生した。 目が覚めたら、婚約破棄されていた。 理由は「地味で面白みがない」から。 泣く暇もなかった。翌朝、王城のメイド採用面接に向かった。 最初は鼻で笑われた。雑用係からのスタートだった。 でも——前世で叩き込まれた仕事術と、一人ひとりの話を聞く姿勢で、少しずつメイドたちが集まってきた。 厨房が変わった。リネンが変わった。王城全体が変わっていった。 そして就任スピーチで宣言した。 「500人全員の名前を、覚えます」 冷酷と噂される王太子は、静かに見ていた。 悪役令嬢は妨害を仕掛けてきた。 元婚約者は——後悔し始めていた。 婚約破棄された令嬢が、500人に慕われるメイド長になるまでの物語。 なお元婚約者は、私のメイドたちの前で土下座中です。

あの日々に戻りたくない!自称聖女の義妹に夫と娘を奪われた妃は、死に戻り聖女の力で復讐を果たす

青の雀
恋愛
公爵令嬢スカーレット・ロッテンマイヤーには、前世の記憶がある。 幼いときに政略で結ばれたジェミニ王国の第1王子ロベルトと20歳の時に結婚した。 スカーレットには、7歳年下の義妹リリアーヌがいるが、なぜかリリアーヌは、ロッテンマイヤー家に来た時から聖女様を名乗っている。 ロッテンマイヤーは、代々異能を輩出している家柄で、元は王族 物語は、前世、夫に殺されたところから始まる。

転生モブは分岐点に立つ〜悪役令嬢かヒロインか、それが問題だ!〜

みおな
恋愛
 転生したら、乙女ゲームのモブ令嬢でした。って、どれだけラノベの世界なの?  だけど、ありがたいことに悪役令嬢でもヒロインでもなく、完全なモブ!!  これは離れたところから、乙女ゲームの展開を楽しもうと思っていたのに、どうして私が巻き込まれるの?  私ってモブですよね? さて、選択です。悪役令嬢ルート?ヒロインルート?

私が騎士団の司令官ってなんですか!? ~聖女じゃなかった私は得意の料理で騎士たちの心を掴んだら食堂の聖女様と呼ばれていました~

あんねーむど
恋愛
 栄養士が騎士団の司令官――!?  元社員食堂の職員・白城千鳥は、ある日突然「聖女」として異世界アルゼリオン王国に召喚される。  しかし期待された聖女の力はまったく発現されず、判明したのは彼女がただの一般人だという事実。  役立たずとして放逐されるかと思いきや、千鳥は王宮食堂で料理人として働くことに。慣れない異世界生活の中でも、栄養管理や献立作りを通して騎士たちの体調を支え、静かに居場所を築いていく。  そんなある日、問題児ばかりを集めた新設部隊アルゼリオン王国騎士団戦術騎士隊【アルタイル】 が発足。なぜか千鳥が司令官に任命されてしまう。  戦えない、魔法も使えない、指揮の経験もない。  困惑する千鳥を待っていたのは、王子である身分を隠している隊長のエドガー、年下で聡明だが一途すぎるノエル、俺様で口の悪い元衛士隊のクラウディオ、外見に反してサディスティックでマッドサイエンティストのフェルナンド、癖も事情も抱えたイケメン騎士たちだった。  最初は反発され、軽んじられ、失敗も重ねる千鳥。それでも彼女は騎士一人ひとりと向き合い、少しずつ信頼を勝ち取っていく。  聖女でも悪役令嬢でもない。戦場に立つことすらできない彼女は、やがて隊員たちを導く司令官として成長していく。    ★にキャラクターイメージ画像アリ〼  ※料理モノの物語ではありません。

王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません

きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」 「正直なところ、不安を感じている」 久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー 激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。 アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。 第2幕、連載開始しました! お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。 以下、1章のあらすじです。 アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。 表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。 常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。 それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。 サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。 しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。 盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。 アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?

処理中です...