泡沫には消えないもの。永遠には残らないもの。

唯純 楽

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再会

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 ひと通り、簡単な掃除や片づけを終えたメルリーナは、伸びをして窓を開け放ち、カラリと晴れた空を見上げて、微かに香る潮の匂いに微笑んだ。

 天気もいいし、春になって多くの帆船が姿を見せていると、先日ラザールが言っていたことを思い出す。
 久しぶりに港へ出かけてみようかと思った時、いきなりノックもなしに扉の開く音がした。

「お姉様。ディオン様が帰って来たのに、会いに行かないの?」

 振り返った先には、異母妹のオルガがいた。

 高級な生地であることがひと目でわかる、折れそうに細い腰や豊かな胸を一層強調するようにぴたりとその蠱惑的な身体に沿っている光沢のある濃い緑のドレスは、オルガによく似合っていた。

 オルガは、その美しさに魅力される多くの男性から愛を囁かれ、次々と恋人を変えては、享楽的な日々を送っているらしい。

 リヴィエールで開かれるすべての夜会に参加していると言っても過言ではないらしく、毎日のようにドレスを新調しているため、本邸にはオルガ専用の衣裳部屋が二つもあるのだと、メルリーナの世話を嫌々している侍女が教えてくれた。

「知らせもなかった……ということかしら?」

 嬉しそうに笑うオルガから、メルリーナは顔を背けた。

 亡き祖父の離れに、ひとり引き籠るようにして暮らしているメルリーナの下をオルガが訪れるのは、メルリーナを傷つけ、蔑むことの出来る何かを手にしたときだけだ。

 ディオンから真っ先に知らせがなかったことに落胆し、傷つきはしたが、それを顔に出してオルガを喜ばせるつもりはなかった。

 獲物を捕らえ、止めを刺すまでいたぶって楽しむのがいつものオルガのやり方だ。
 美しい妹は昔から、メルリーナが傷つくたび、嬉しそうにする。
 傷ついていないふりをすれば、傷は浅くて済む。
 
「ディオン様は、リーフラント王国のフランツィスカ王女とご一緒に帰国されたんですって。婚約者としてお披露目するつもりだと噂になっているけれど、お姉様なら真相をご存知かと思って」

 知っていると言い返したかったが、すぐにバレてしまう嘘など無意味だ。

 二年前にリヴィエールからカーディナルへ向けて旅立ったディオンに、メルリーナは月に二度ほど手紙を出していた。

 ディオンからも、不定期に手紙が届いていたが、半年ほど前からはパタリと途絶えている。

 ディオンは、海軍学校で勉強しながら、時折船に乗り、カーディナルの社交界にも顔を出さなければならないらしく、とても忙しいことは不定期に届いていた手紙の文面から察せられた。

 忙しいのに手を煩わせたくなくて、寂しいとは思いながらも返信を催促するような手紙は一度も書かなかった。

 読む暇さえないということは、最後にディオンから送られて来た手紙が、まるでメルリーナの送った手紙と噛み合わない内容だったことからもわかっていた。

「……いいえ、知らないわ」

「あら。ご存知なかったの? 随分前から噂になっていたようだけれど。社交界に顔を出していれば、心の準備だって出来たでしょうに……。まぁ、いくら幼馴染とはいえ、王女様では勝ち目がないものね。所詮お姉様とのことなんて、子供の頃のことだもの。公爵夫人は、あちこちで公言していらっしゃるようで、宮殿にお勤めの人たちも楽しみにしているそうよ」

 ディオンとリーフラント王国の二番目の王女、フランツィスカが親密な仲であるという噂は、社交界に出入りしないメルリーナも知っていた。
 ディオンから届く手紙の中で、フランツィスカの名は幾度も登場していた。

 二人は、カーディナルへ遊学に向かうフランツィスを乗せるために派遣された船に、ディオンが便乗したことで初めて顔を合わせたのだが、フランツィスカの母であるリーフラント王国の王妃がディオンの母グレースと若い頃からの友人という縁もあり、エスコートを度々引き受けていたようだった。

 フランツィスカはとても賢く、話をするのは楽しい。チェスも強くて度々相手をしてもらっているとディオンはいつも手紙の中で絶賛していた。

「明日、ディオン様の帰還と、不在だった間の誕生祝いを兼ねた盛大なパーティーが開かれるんですって。招待状が来ていないなら、手に入れてあげましょうか?」

 同情と憐れみを演じた眼差しを送るオルガに、メルリーナは首を横に振った。

「いらないわ。招待されてもいないのに、厚かましく顔を出すことはしたくないの」

「……」

 かつて、祖父マクシムが口にしたのと同じ言葉を返せば、美しいオルガの顔が一瞬醜く歪んだが、すぐにその赤い唇に残酷な笑みを浮かべる。

「でも、これでよかったのかもしれなくてよ? お姉様。分不相応な相手を選ばなければ、それなりに幸せになれるかもしれないもの。たとえ、二十も三十も年の離れた相手でも、裕福な暮らしが出来るかもしれないし、見目麗しい若い男を愛人に出来るかもしれないし……お母さまは、お姉様のためにお金持ちで物分かりのいい人を探しているから、ディオン様に捨てられたとしても、心配する必要はないわ」

 これまでソランジュが持ち込んで来た縁談の相手を思い浮かべて、メルリーナは顔を強張らせた。

 ディオンがカーディナルへ旅立ってから一年後、マクシムが急な発作で亡くなってからというもの、継母のソランジュは、次から次へとメルリーナに縁談を持ち込んだ。

 無理矢理にでもメルリーナを結婚させて家から追い出したがっているのは明らかで、今までどうにか断り続けられたのは、公爵家の意向――ディオンの意向がわからないうちに下手なことはしたくないという父ギュスターヴの考えがあったからだ。

「お姉様。慰めてくれるお相手が必要だったら、遠慮せずに言って。私のお友達を紹介するわ」

 蔑むような眼差しと冷笑を浮かべたオルガは、嫌悪の表情を隠しきれなかったメルリーナを見ると高らかに笑いながら去って行った。

 しばらくの間、じっと立ち尽くしていたメルリーナは、滲む涙を蹴散らすように瞬きしながら、二階の寝室へと駆け上がった。

 クローゼットを開き、深紅のドレスを引っ張り出す。

 昨年、マクシムが亡くなる前に贈ってくれたドレスは、ディオンの髪の色と同じものだ。
 特別な日になるからと用意してくれたマクシムのためにも、たとえ噂が本当だったとしても、会わずにはいられない。

 オルガに頼むつもりはなかったけれど、ディオンから招待状が届いたなら、絶対に行くつもりだった。

 ドレスをぎゅっと胸に抱きしめて、メルリーナは亡き祖父マクシムに勇気をくれるよう祈った。
 現実から目を背けることなく、ディオンと向き合う勇気が自分に備わっていることだけを祈った。


◇◆ 


 翌日、メルリーナはどうにかして深紅のドレスを身に纏い、不器用さを誤魔化すために片側で編んだ髪に一つだけ赤い薔薇を挿して、薄い化粧を施した。

 昨日、オルガが去って間もなく、メルリーナのもとへ、待ちわびていたディオンからの招待状が届いた。

 パーティーへの招待状と一緒に、連絡が遅くなったことを詫び、パーティーの後、宮殿に泊まるようにと走り書きされた紙きれが入っていた。

 相変わらず短気でせっかちなディオンの片鱗を見て、メルリーナは思わず笑ってしまい、心配することはないのだと思うことにした。

 ディオン本人に会って、ディオン本人の口から聞いたことだけを信じようと思った。

 久しぶりにドレスを着た自分を鏡に映したメルリーナは、艶のない髪や荒れた手など、手入れの行き届いていない様々な粗が気になったけれど、華やかな会場に長居するつもりはないのだからと、無理やり目を瞑ることにした。

 マクシムが亡くなると同時に、侍女のエマは辞めてしまい、メルリーナの世話をしてくれるのはその時々で手の空いている者となっていた。

 必要最低限の掃除や洗濯はして貰っていたが、個人的な用事を頼むのは気が引けるし、ましてや必要もない肌や髪の手入れを頼むことなど、とても出来なかった。

 この一年、メルリーナが邸を出るのは、ラザールのチェスの相手をするために宮殿へ行くときか、今日のように天気のいい日に思い立って散歩がてら港へ行くかくらい。
 それ以外は、本を読むかひとりチェスをするか、ディオンの手紙を読み返すだけの日々だった。

 寂しいとは思ったけれど、あと一年だけ我慢すればディオンが帰って来ることだけを思い、くよくよしないように、自分を励ましていた。
 
 ディオンが今夜、宮殿に泊まるように言って来たということは、きっと後で会うつもりだからだろう。
 パーティーでは顔を見て、無事の帰還と誕生祝いを述べるだけにし、いつものようにラザールの部屋へ顔を出して、調子がいいようならチェスをする。
 ディオンとは、パーティーの後で、二人きりでゆっくりと、積もり積もった二年の間に起きた出来事を話せばいいと、今から緊張している自分をどうにか宥めて離れを出た。
 
 静まり返った邸の様子から、同じく招かれているに違いないギュスターヴらは、いつものようにメルリーナには何の知らせもないまま、出かけたようだ。

 出がけにオルガとソランジュに出くわさずに済んだことにほっとしながら、メルリーナは二年前に預かった大事なチェス盤を胸に抱きしめて、ディオンが寄越してくれた馬車に乗り込んだ。
 
 車窓から街の様子を眺めれば、ディオンの帰還を祝うリヴィエール公国の旗が、店先だけでなく、停泊している船にも翻っているのが見える。
 見慣れた風景で、通い慣れた宮殿までの道のりのはずなのに、いつも以上に長く感じた。

 ディオンに、会いたい気持ちと、会うのが怖いと思う気持ちが入り乱れ、落ち着かない。

 道端の芽吹いたばかりの樹々の緑を食い入るように見つめ、逸る気持ちをどうにか堪えて宮殿に到着すれば、十年来の顔なじみの御者は、馬車から降りるメルリーナに手を貸し、微笑んだ。

「ようやく、お会いになれますね」

「え、ええ」

 浮かれた気持ちが顔に出ていたのかもしれないと、メルリーナは恥ずかしさに頬を赤くした。

「ありがとう」

 御者に礼を言って、白い磨き抜かれた階段の上をつい足早に駆け上がれば、そこには懐かしい顔が待っていた。

「お久しぶりです、メルリーナ様」

「セヴランさん!」

 日に焼けて、一層精悍な面持ちになったセヴランは、侍従のお仕着せではなく、金の釦が二列に並んだ深い海の色をしたコートと白いトラウザーズを纏っており、一回り大きくなったように見えた。

「お元気そうですね」

「ええ。セヴランさんも」

 メルリーナの手を取って、甲に口づけるフリをしたセヴランは、歩き出す前に改まった表情をして伏し目がちに告げた。

「航海長のこと、お悔やみ申し上げます」

 一年前の葬儀に参列できなかったことを詫びるセヴランに、メルリーナは気にしないでほしいと微笑んだ。

「お祖父様は、湿っぽいことは嫌いでしたから」

「確かに。棺は海に?」

「はい。ラザール様が、お祖父様の望み通りに手配してくださって、アンテメール海に」

 マクシムは、生前から、陸の上ではなく海に葬られることを望んでいたため、ラザールが船を出して、アンテメール海に棺を沈めてくれた。
 
「そうですか。マクシム様らしいですね」  

「ええ」

 急な発作で倒れ、そのまま帰らぬ人となったマクシムは、誰にも何も言い遺すことが出来なかった。

 遺言は用意されていたものの、細かな取り決めを記したものではなく、爵位は父ギュスターヴが継ぐこと、離れはメルリーナに与えること、男爵家の財産についてはギュスターヴが管理することが記されていたくらいだった。

 ギュスターヴは、マクシムが亡くなるとすぐにソランジュを妻に、オルガを子としてイースデイル家に迎え入れ、メルリーナと同等のイースデイル家の相続権を与えた。

 その結果、イースデイル家におけるメルリーナの居場所は、ますますなくなったが、ギュスターヴにとっては必要最低限の衣食住の世話をしてやっているのだから、それで義務は果たしているということになるらしかった。

 メルリーナが最後に父と会話したのは、マクシムの遺言について話した一年前のことだ。

 セヴランには、そういった事情をあからさまに話すことはしなかったが、当たり障りのない近況報告からでも推察することは難しくないだろう。

 時折、何かを窺うようなセヴランの眼差しを感じながらも、努めて微笑みを維持し、大広間までやって来たメルリーナは、久しぶりに見る光景に圧倒された。
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