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遭遇 4
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『メル』
聞こえるはずのないディオンの声が聞こえ、ビクリと大きく肩を揺らしてよろめいたメルリーナをクルトが支えてくれた。
「おい、大丈夫か?」
「は、はい……」
ディオンと目が合ったのは一瞬だけで、すぐにディオンはフランツィスカを支えるようにして自分の船へと戻って行く。
二人がリヴィエールの船に乗り込むのと入れ替わりに、セヴランがヴァンガード号へ乗り移り、メルリーナの姿を見つけると微笑んでくれた。
「メルっ!」
一気に、懐かしい気持ちが沸き上がり、じわりと熱いものが目の縁に込み上げた時、ゲイリーの声が間近に聞こえて驚いた。
「あっちへ戻ろう。懐かしい顔に会いたいだろう?」
いつの間にかこちらの船へ飛び移っていたらしいゲイリーが差し出した手を取ろうとしたメルリーナは、自分の手が――手だけでなく全身が血塗れであることに気付き、つい後退りした。
「で、でも……あの、エメリヒさんのお手伝いを……」
こんな格好で、ディオンやフランツィスカと並びたくないと思ってしまった。
恥ずかしいとは思わないけれど、ディオンとフランツィスカは、ヴァンガード号に乗っている人たちとは違う。
ブラッドフォードは伯爵で、ゲイリーも本物の王子様だけれど、船の上の日常を分かち合って来た人たちの前では平気でも、そうではない人たちの前では平気だとは思えなかった。
第一、怪我人の手当は終わっても、世話をしなくてはならない。
傷口が化膿しないようこまめに包帯を替えて綺麗にしたり、水を飲ませてやったりと、むしろこれから先の方が手が必要になる。だから行けないと言い訳しようとした。
ゲイリーは、そんなメルリーナの心の内などお見通しだとばかりに血塗れの手をさっと握ってしまう。
「代わりはいるから大丈夫だよ。この先、リヴィエール側の船医がエメリヒを手伝ってくれる。メルも、色々と聞きたいことがあるだろう?」
フランツィスカのこと、リーフラントのこと、エナレスのこと……そして、ディオンのこと。
確かに聞きたいことはたくさんあった。
どれから聞けばいいかわからないほど、色んなことがぐちゃぐちゃに頭の中で交じり合っていた。
「メルの王子様は船へ一旦戻ったけれど、お付きの者が代わりに説明してくれるってさ」
お付きの者、と聞いてメルリーナは目を瞬いた。
セヴランのことならば、お付きの者というより、お目付け役と言った方が正しいかもしれないと思った。
セヴランは、ディオンにとって部下というより、厳しい兄のような存在だ。
「メル、行け。メルが乗ってりゃ、あいつらもいきなり船を沈めるなんてことはしねぇだろう」
しかし、クルトのそんな発言に、ゲイリーは肩を竦めた。
「逆に、沈める理由にするかもしれない。メルを手にするためにね」
「それじゃあ、海賊じゃねぇか!」
呆れたように叫ぶクルトに、ゲイリーはその通りだと苦笑しながら、メルリーナの背を押して促す。
「取り敢えず、行き先はリヴィエールだ。何とか置いて行かれないように付いて来てくれ、航海長」
クルトはぐるりと目を回して天を仰いだ。
「おいおい……あのご立派な軍艦で曳いてってくれねぇのかよ」
「王女様を陸へ送り届けるのが最優先だそうだ。ヴァンガード号やこの船が海賊に襲われても、足手まといになるようだったら、拿捕されないよう先回りして沈めるときっぱり言われたよ」
つまり、邪魔になったら海賊たちに拿捕されて捕虜の交換などといった面倒な交渉に持ち込まれないよう、手ずから攻撃して沈めてしまうということかと理解して、メルリーナは目を見開いた。
「そりゃあ…………海賊よりひでぇ」
クルトがぼそっと呟いた。
◇◆
「まずは……メルリーナ様。お久しぶりです。愚問かもしれませんが、お元気にしていらっしゃいましたか?」
取り敢えず、血塗れの手だけを拭わせてもらってから、船長室でブラッドフォード、ゲイリーと一緒にセヴランと向き合ったメルリーナは、懐かしい顔に浮かべられた懐かしい笑みを見て、ほっとした。
「はい。セヴランさんもお元気でしたか?」
一年前より更に精悍な容貌になっているセヴランだが、ブラッドフォードや砕けすぎた格好をしているゲイリーと比べると、落ち着きと品がある。
貴族とか、紳士とかいうものの見本のようだ。
ただし、口を開くとなかなか辛辣で面白い言葉が飛び出してくるのは、やはりセヴランらしかった。
「ええ。子守りで忙しくしていましたが、元気です」
「子守り……?」
一体何のことだとメルリーナは首を傾げたが「ぐふっ」と背後で妙な音がし、振り返ればゲイリーが手で顔を覆い、俯きながら肩を震わせていた。
どこに笑いのツボがあったのか、全然わからない。
「こうして無事にお会い出来て、何よりです。スタンリー伯爵と……ゲルハルト殿下のお陰ですね。前リヴィエール公爵にとって、メルリーナ様は孫娘のようなもの。無傷で連れ帰ってくださったこと、前公爵に代わってお礼申し上げます」
律儀に礼を述べるセヴランに、ブラッドフォードは「言葉じゃなく物で、礼をたっぷりもらいたいものだ」と要求し、さっさと本題へ入るよう促した。
「リーフラントの船が王女様を乗せているのを知っていたということは、いよいよカーディナルはエナレスと一戦交える気になったということか?」
ズバリと尋ねられたセヴランは、ふっと笑みをこぼした。
「そうだとは言えませんが、その可能性はあると言っておきましょう」
「ふん。でもって、皇帝はリヴィエールとリーフラントをくっ付けるつもりか」
「カーディナルとしては、それが一番手っ取り早い理由付けになると考えていることは、確かですね。噂もありますし」
「で、カーディナルの犬になったリヴィエールは、ご主人様の命令に従うために、尻尾を振って王女様を迎えに来たと?」
ブラッドフォードの辛辣な言葉に、セヴランの眼差しにほんの少しだけ冷気が増した。
「フランツィスカ王女がリーフラントを出たのは、こちらの意図したところではありません。一年前からリーフラントとリヴィエールの間で婚約話が進んでいるという噂があることは否定しませんが、正式な申し込みもしておりませんし、されてもおりません。何の約束もないままです。それに……」
セヴランは、メルリーナに安心していいと言うように微笑みかけた後、その表情をふてぶてしいものに変えた。
「我が国は、カーディナルの犬ではない。カーディナル皇帝の要望は考慮しますが、服従することはしませんよ。リヴィエール公国の統治者は、あくまでリヴィエール公爵家ですからね」
かつて、アンテメール海の制海権を握り、どんどんのし上がるディエゴの力を欲したのはカーディナル皇帝の方だった。
表向きは皇帝が爵位を与え、町を与えて公国として治めることを認めたことになっているが、実際のところ敵対されてはかなわないと思ったからこそ、破格の待遇となったのだ。
一方のディエゴは、リヴィエールを自分のものにする代わり、私掠船で稼いだ金銀財宝の一部をカーディナルに上納することで、「爵位」は買ったものにすぎない、皇帝は「主」ではないと暗に主張し続けた。
現在は、アランが妻に皇帝の娘であるグレースを迎えたことから、だいぶカーディナル皇帝寄りと思われているが、そもそもリヴィエールはカーディナルの要求を一応は聞くものの、服従はしない。
リヴィエールにとって、何の益にもならない話であれば、受け入れない。
カーディナルとしても、武力で押さえつければ逆効果となり、無敵を誇る軍艦ごとエナレスにでも降られたらおしまいだということはわかっている。
「だが、実際手助けすることになるだろう」
「偶然、助けただけですよ」
セヴランは涼しい顔で言ってのけるが、この広い海原で偶然出会うという確率は、そう高くはないはずだ。
「それは……」
ブラッドフォードは、そんな戯言が通用するはずがないと馬鹿にしたような態度で言いかけ、セヴランが上乗せした言葉に声を失った。
「偶然、リーフラントの船を助けに来たウィスバーデンの船に加勢しただけです」
「加勢どころか、沈めようとしただろうがっ!」
ブラッドフォードがこめかみに青筋を立てて怒鳴りつけると、セヴランは片方の眉だけを引き上げて何か言おうと口を開いたところで止まった。
「それは、貴船が停船命令に従わなかったからだ。こちらは、停船を要求する旗を掲げていた」
ノックもなしに扉が開き、入ってくるなりそう言い放ったのはディオンだった。
また身長が伸びたらしく、間近で見ればゲイリーとほぼ同じ高さだった。
細身でありながらも鍛えた身体には、緩みのないぴたりとした軍服が素晴らしくよく似合う。
しかも、ただ黙って鋭い視線を向けられただけでも、その圧力を感じるほどの覇気がある。
船長として、船のすべてを取り仕切っているからこその、自信が滲み出ているのだろう。
一年前にはあった少年らしさは影も形もなくなって、その表情も物言いも、侮ってはいけない人物だと、相手に思わせるに十分な迫力がある。
狭い船室の空気が更に薄くなった気がして、メルリーナは息苦しさを覚え、胸元を押さえた。
「逃亡を図る海賊に手加減する馬鹿はいない」
ディオンのひと言に、ブラッドフォードがキレた。
「てめぇ、こっちは通信を求めていただろうがっ!」
「砲門を閉じて船を止め、戦意がないことを示さない相手とは、話し合う必要はない」
冷ややかな眼差しでブラッドフォードを見据えるディオンの台詞に、メルリーナは目を瞬いた。
ディオンは、こと船のことになるとものすごく記憶力がいい。
一度見た船は忘れることなどないし、その船の特性なども外観などから大体予想出来ているはずだ。
ブラッドフォードの船は、間違いなく一年前には見たことがあるはずだし、遠眼鏡で覗けば甲板にいたブラッドフォードの顔だってわかったはずだ。
それを知らないと言うということは……。
「おまえ……喧嘩売ってんのか?」
「そんなものを売り買いするような面倒なことはしない。基本的にリヴィエールは海賊との交渉には応じない。こちらの要求に応じない場合は、沈めるだけだ。もしも次に、いかなる理由であれ停船命令に従わなければ、容赦はしない。それだけだ」
事情を聞こうが聞くまいが、命令に従わない場合は攻撃する。
顔見知りだからとか、知っている船だからといった感情とは無関係に対応するだけだと言うディオンは、虚勢を張っているでもなく、かと言ってブラッドフォードを嫌っているでもなく、どの船に対しても迷いなく同じことをするのだろう。
どちらかというと、感情的だったかつてのディオンからは想像もつかない言動に、メルリーナは旅をしていたのは一年ではなくて、もっと長い期間だったのではないかと思ってしまった。
「話は終わったのか? セヴラン。日が暮れる前に距離を稼がなくては、余計なハエが寄って来るかもしれない」
「言えるところまでは。あとは、ディオン様から直接お話された方がよいかと」
「部外者に話すべきことは何もない」
「部外者というのは、当てはまらないんじゃないかな? 僕らが先に辿り着いていなければ、君の大事な王女様は海の藻屑となって消えていたよ」
ゲイリーの言葉に、ピクリと眉を引き上げたディオンは、低い声で反論した。
「フランツィスカ王女は友人ではあるが、リーフラントの王女であって、自分個人のものではないし、リヴィエールが保護すべき相手でもない。今回の件は、あくまでも偶然で、あくまでも単なる善意だ」
「ふうん? 単なる友人が胸に飛び込んだりするのかなぁ? こうやって抱きしめたり?」
メルリーナは、印象の違い過ぎるディオンに落ち着かない気持ちでいたが、いきなり逞しい腕が腰に回されたかと思うとぐるりと回転するように引き寄せられた。
広い胸板が眼前に迫り、慌ててはみたものの避けられるはずもなく、そのまま思い切りはだけたシャツの合間から覗く、ゲイリーの素晴らしい左右の胸筋の境目に顔を埋めることになった。
「……っ!」
温かい肌が鼻先に触れ、腰に回されたものとは違う手で後頭部を支えるように押さえつけられて、今度は唇が触れる。
汗の匂いとゲイリーの匂いが入り混じったものが鼻腔を満たし、くらりと眩暈を覚えて思わずその背に回した手でしがみついてしまった。
ギリギリと言う聞き慣れない何かが軋む音が聞こえたが、拘束されていて音の出所を確かめられなかった。
「抱きしめてなどいない。抱き止めただけだ。それに、フランツィスカ王女は恐ろしい思いをしていたせいで、精神的に参っていた。知った顔を見て安堵するのは当然だろう」
「へぇ? あんな鋼鉄の仮面を被った王女様の内心がよくわかるくらいに、親密なんだねぇ」
頭上から聞こえるゲイリーの言葉は、明らかにディオンを煽っていた。
「ゲイリー、さん、あの……」
メルリーナが、どうにか逃れようとジタバタしても、ゲイリーの腕はますます強く抱き竦めてくる。
「友人だからだ」
「恋人より友人の気持ちの方がわかるのなら、いっそのこと、友人を恋人にしたらどうかな? 別に違和感もないんだろうし」
「友人と恋人は、同じじゃない。友人だからと言って、恋人になれるというわけではない」
「心狭いねぇ。どちらでもいいんじゃない? 好きなことに変わりはないんだからさ」
「どちらも変わらないと言うことは、誰でもいいと言うことと同じだ。おまえがからかって玩具にするのは、別にメルじゃなくてもいいと言うことだろう」
「……言ってくれるね」
ゲイリーの声の温度がいきなり下がるのを感じ、必死でもぞもぞと動いたメルリーナは何とか顔を上げることに成功した。
「メル」
ディオンの声に視線を巡らせれば、先ほどまで見せていた険しい表情ではなく、どちらかというと少し困ったような、情けないような顔をしていた。
「少しだけ、話したい」
断る理由もないので頷けば、ほっとしたように微かに口元を綻ばせた。
「別室には行かせない。ここで話してもらう」
ゲイリーは、諦めと苛立ちを交えた溜息を吐くと、メルリーナをぐるりと回転させ、ディオンに向き直らせた。
しかし、腰に回した腕はそのまま。背後から抱きかかえようとするので、さすがに邪魔だと振り仰いで抗議の眼差しで睨めば、渋々解放する。
「強引な真似をしたら、即刻海へ叩き落とす」
ゲイリーの宣戦布告に、ディオンは「ふん」と鼻で笑いながらもきちんと説明した。
「返り討ちにしてやるよ。でも……今は、ただ話したいだけだ。約束の勝負はまだしていないから、無理に船から下ろすことはしない」
「だったらいいけど」
それでも信用出来ないと言うゲイリーにブラッドフォードの方が呆れた。
「いい加減、鬱陶しいぞ。自分を置いて出かける主人を不安そうに見送る犬にしか見えない。大人しくしていろ。ゲイリー」
「……」
聞こえるはずのないディオンの声が聞こえ、ビクリと大きく肩を揺らしてよろめいたメルリーナをクルトが支えてくれた。
「おい、大丈夫か?」
「は、はい……」
ディオンと目が合ったのは一瞬だけで、すぐにディオンはフランツィスカを支えるようにして自分の船へと戻って行く。
二人がリヴィエールの船に乗り込むのと入れ替わりに、セヴランがヴァンガード号へ乗り移り、メルリーナの姿を見つけると微笑んでくれた。
「メルっ!」
一気に、懐かしい気持ちが沸き上がり、じわりと熱いものが目の縁に込み上げた時、ゲイリーの声が間近に聞こえて驚いた。
「あっちへ戻ろう。懐かしい顔に会いたいだろう?」
いつの間にかこちらの船へ飛び移っていたらしいゲイリーが差し出した手を取ろうとしたメルリーナは、自分の手が――手だけでなく全身が血塗れであることに気付き、つい後退りした。
「で、でも……あの、エメリヒさんのお手伝いを……」
こんな格好で、ディオンやフランツィスカと並びたくないと思ってしまった。
恥ずかしいとは思わないけれど、ディオンとフランツィスカは、ヴァンガード号に乗っている人たちとは違う。
ブラッドフォードは伯爵で、ゲイリーも本物の王子様だけれど、船の上の日常を分かち合って来た人たちの前では平気でも、そうではない人たちの前では平気だとは思えなかった。
第一、怪我人の手当は終わっても、世話をしなくてはならない。
傷口が化膿しないようこまめに包帯を替えて綺麗にしたり、水を飲ませてやったりと、むしろこれから先の方が手が必要になる。だから行けないと言い訳しようとした。
ゲイリーは、そんなメルリーナの心の内などお見通しだとばかりに血塗れの手をさっと握ってしまう。
「代わりはいるから大丈夫だよ。この先、リヴィエール側の船医がエメリヒを手伝ってくれる。メルも、色々と聞きたいことがあるだろう?」
フランツィスカのこと、リーフラントのこと、エナレスのこと……そして、ディオンのこと。
確かに聞きたいことはたくさんあった。
どれから聞けばいいかわからないほど、色んなことがぐちゃぐちゃに頭の中で交じり合っていた。
「メルの王子様は船へ一旦戻ったけれど、お付きの者が代わりに説明してくれるってさ」
お付きの者、と聞いてメルリーナは目を瞬いた。
セヴランのことならば、お付きの者というより、お目付け役と言った方が正しいかもしれないと思った。
セヴランは、ディオンにとって部下というより、厳しい兄のような存在だ。
「メル、行け。メルが乗ってりゃ、あいつらもいきなり船を沈めるなんてことはしねぇだろう」
しかし、クルトのそんな発言に、ゲイリーは肩を竦めた。
「逆に、沈める理由にするかもしれない。メルを手にするためにね」
「それじゃあ、海賊じゃねぇか!」
呆れたように叫ぶクルトに、ゲイリーはその通りだと苦笑しながら、メルリーナの背を押して促す。
「取り敢えず、行き先はリヴィエールだ。何とか置いて行かれないように付いて来てくれ、航海長」
クルトはぐるりと目を回して天を仰いだ。
「おいおい……あのご立派な軍艦で曳いてってくれねぇのかよ」
「王女様を陸へ送り届けるのが最優先だそうだ。ヴァンガード号やこの船が海賊に襲われても、足手まといになるようだったら、拿捕されないよう先回りして沈めるときっぱり言われたよ」
つまり、邪魔になったら海賊たちに拿捕されて捕虜の交換などといった面倒な交渉に持ち込まれないよう、手ずから攻撃して沈めてしまうということかと理解して、メルリーナは目を見開いた。
「そりゃあ…………海賊よりひでぇ」
クルトがぼそっと呟いた。
◇◆
「まずは……メルリーナ様。お久しぶりです。愚問かもしれませんが、お元気にしていらっしゃいましたか?」
取り敢えず、血塗れの手だけを拭わせてもらってから、船長室でブラッドフォード、ゲイリーと一緒にセヴランと向き合ったメルリーナは、懐かしい顔に浮かべられた懐かしい笑みを見て、ほっとした。
「はい。セヴランさんもお元気でしたか?」
一年前より更に精悍な容貌になっているセヴランだが、ブラッドフォードや砕けすぎた格好をしているゲイリーと比べると、落ち着きと品がある。
貴族とか、紳士とかいうものの見本のようだ。
ただし、口を開くとなかなか辛辣で面白い言葉が飛び出してくるのは、やはりセヴランらしかった。
「ええ。子守りで忙しくしていましたが、元気です」
「子守り……?」
一体何のことだとメルリーナは首を傾げたが「ぐふっ」と背後で妙な音がし、振り返ればゲイリーが手で顔を覆い、俯きながら肩を震わせていた。
どこに笑いのツボがあったのか、全然わからない。
「こうして無事にお会い出来て、何よりです。スタンリー伯爵と……ゲルハルト殿下のお陰ですね。前リヴィエール公爵にとって、メルリーナ様は孫娘のようなもの。無傷で連れ帰ってくださったこと、前公爵に代わってお礼申し上げます」
律儀に礼を述べるセヴランに、ブラッドフォードは「言葉じゃなく物で、礼をたっぷりもらいたいものだ」と要求し、さっさと本題へ入るよう促した。
「リーフラントの船が王女様を乗せているのを知っていたということは、いよいよカーディナルはエナレスと一戦交える気になったということか?」
ズバリと尋ねられたセヴランは、ふっと笑みをこぼした。
「そうだとは言えませんが、その可能性はあると言っておきましょう」
「ふん。でもって、皇帝はリヴィエールとリーフラントをくっ付けるつもりか」
「カーディナルとしては、それが一番手っ取り早い理由付けになると考えていることは、確かですね。噂もありますし」
「で、カーディナルの犬になったリヴィエールは、ご主人様の命令に従うために、尻尾を振って王女様を迎えに来たと?」
ブラッドフォードの辛辣な言葉に、セヴランの眼差しにほんの少しだけ冷気が増した。
「フランツィスカ王女がリーフラントを出たのは、こちらの意図したところではありません。一年前からリーフラントとリヴィエールの間で婚約話が進んでいるという噂があることは否定しませんが、正式な申し込みもしておりませんし、されてもおりません。何の約束もないままです。それに……」
セヴランは、メルリーナに安心していいと言うように微笑みかけた後、その表情をふてぶてしいものに変えた。
「我が国は、カーディナルの犬ではない。カーディナル皇帝の要望は考慮しますが、服従することはしませんよ。リヴィエール公国の統治者は、あくまでリヴィエール公爵家ですからね」
かつて、アンテメール海の制海権を握り、どんどんのし上がるディエゴの力を欲したのはカーディナル皇帝の方だった。
表向きは皇帝が爵位を与え、町を与えて公国として治めることを認めたことになっているが、実際のところ敵対されてはかなわないと思ったからこそ、破格の待遇となったのだ。
一方のディエゴは、リヴィエールを自分のものにする代わり、私掠船で稼いだ金銀財宝の一部をカーディナルに上納することで、「爵位」は買ったものにすぎない、皇帝は「主」ではないと暗に主張し続けた。
現在は、アランが妻に皇帝の娘であるグレースを迎えたことから、だいぶカーディナル皇帝寄りと思われているが、そもそもリヴィエールはカーディナルの要求を一応は聞くものの、服従はしない。
リヴィエールにとって、何の益にもならない話であれば、受け入れない。
カーディナルとしても、武力で押さえつければ逆効果となり、無敵を誇る軍艦ごとエナレスにでも降られたらおしまいだということはわかっている。
「だが、実際手助けすることになるだろう」
「偶然、助けただけですよ」
セヴランは涼しい顔で言ってのけるが、この広い海原で偶然出会うという確率は、そう高くはないはずだ。
「それは……」
ブラッドフォードは、そんな戯言が通用するはずがないと馬鹿にしたような態度で言いかけ、セヴランが上乗せした言葉に声を失った。
「偶然、リーフラントの船を助けに来たウィスバーデンの船に加勢しただけです」
「加勢どころか、沈めようとしただろうがっ!」
ブラッドフォードがこめかみに青筋を立てて怒鳴りつけると、セヴランは片方の眉だけを引き上げて何か言おうと口を開いたところで止まった。
「それは、貴船が停船命令に従わなかったからだ。こちらは、停船を要求する旗を掲げていた」
ノックもなしに扉が開き、入ってくるなりそう言い放ったのはディオンだった。
また身長が伸びたらしく、間近で見ればゲイリーとほぼ同じ高さだった。
細身でありながらも鍛えた身体には、緩みのないぴたりとした軍服が素晴らしくよく似合う。
しかも、ただ黙って鋭い視線を向けられただけでも、その圧力を感じるほどの覇気がある。
船長として、船のすべてを取り仕切っているからこその、自信が滲み出ているのだろう。
一年前にはあった少年らしさは影も形もなくなって、その表情も物言いも、侮ってはいけない人物だと、相手に思わせるに十分な迫力がある。
狭い船室の空気が更に薄くなった気がして、メルリーナは息苦しさを覚え、胸元を押さえた。
「逃亡を図る海賊に手加減する馬鹿はいない」
ディオンのひと言に、ブラッドフォードがキレた。
「てめぇ、こっちは通信を求めていただろうがっ!」
「砲門を閉じて船を止め、戦意がないことを示さない相手とは、話し合う必要はない」
冷ややかな眼差しでブラッドフォードを見据えるディオンの台詞に、メルリーナは目を瞬いた。
ディオンは、こと船のことになるとものすごく記憶力がいい。
一度見た船は忘れることなどないし、その船の特性なども外観などから大体予想出来ているはずだ。
ブラッドフォードの船は、間違いなく一年前には見たことがあるはずだし、遠眼鏡で覗けば甲板にいたブラッドフォードの顔だってわかったはずだ。
それを知らないと言うということは……。
「おまえ……喧嘩売ってんのか?」
「そんなものを売り買いするような面倒なことはしない。基本的にリヴィエールは海賊との交渉には応じない。こちらの要求に応じない場合は、沈めるだけだ。もしも次に、いかなる理由であれ停船命令に従わなければ、容赦はしない。それだけだ」
事情を聞こうが聞くまいが、命令に従わない場合は攻撃する。
顔見知りだからとか、知っている船だからといった感情とは無関係に対応するだけだと言うディオンは、虚勢を張っているでもなく、かと言ってブラッドフォードを嫌っているでもなく、どの船に対しても迷いなく同じことをするのだろう。
どちらかというと、感情的だったかつてのディオンからは想像もつかない言動に、メルリーナは旅をしていたのは一年ではなくて、もっと長い期間だったのではないかと思ってしまった。
「話は終わったのか? セヴラン。日が暮れる前に距離を稼がなくては、余計なハエが寄って来るかもしれない」
「言えるところまでは。あとは、ディオン様から直接お話された方がよいかと」
「部外者に話すべきことは何もない」
「部外者というのは、当てはまらないんじゃないかな? 僕らが先に辿り着いていなければ、君の大事な王女様は海の藻屑となって消えていたよ」
ゲイリーの言葉に、ピクリと眉を引き上げたディオンは、低い声で反論した。
「フランツィスカ王女は友人ではあるが、リーフラントの王女であって、自分個人のものではないし、リヴィエールが保護すべき相手でもない。今回の件は、あくまでも偶然で、あくまでも単なる善意だ」
「ふうん? 単なる友人が胸に飛び込んだりするのかなぁ? こうやって抱きしめたり?」
メルリーナは、印象の違い過ぎるディオンに落ち着かない気持ちでいたが、いきなり逞しい腕が腰に回されたかと思うとぐるりと回転するように引き寄せられた。
広い胸板が眼前に迫り、慌ててはみたものの避けられるはずもなく、そのまま思い切りはだけたシャツの合間から覗く、ゲイリーの素晴らしい左右の胸筋の境目に顔を埋めることになった。
「……っ!」
温かい肌が鼻先に触れ、腰に回されたものとは違う手で後頭部を支えるように押さえつけられて、今度は唇が触れる。
汗の匂いとゲイリーの匂いが入り混じったものが鼻腔を満たし、くらりと眩暈を覚えて思わずその背に回した手でしがみついてしまった。
ギリギリと言う聞き慣れない何かが軋む音が聞こえたが、拘束されていて音の出所を確かめられなかった。
「抱きしめてなどいない。抱き止めただけだ。それに、フランツィスカ王女は恐ろしい思いをしていたせいで、精神的に参っていた。知った顔を見て安堵するのは当然だろう」
「へぇ? あんな鋼鉄の仮面を被った王女様の内心がよくわかるくらいに、親密なんだねぇ」
頭上から聞こえるゲイリーの言葉は、明らかにディオンを煽っていた。
「ゲイリー、さん、あの……」
メルリーナが、どうにか逃れようとジタバタしても、ゲイリーの腕はますます強く抱き竦めてくる。
「友人だからだ」
「恋人より友人の気持ちの方がわかるのなら、いっそのこと、友人を恋人にしたらどうかな? 別に違和感もないんだろうし」
「友人と恋人は、同じじゃない。友人だからと言って、恋人になれるというわけではない」
「心狭いねぇ。どちらでもいいんじゃない? 好きなことに変わりはないんだからさ」
「どちらも変わらないと言うことは、誰でもいいと言うことと同じだ。おまえがからかって玩具にするのは、別にメルじゃなくてもいいと言うことだろう」
「……言ってくれるね」
ゲイリーの声の温度がいきなり下がるのを感じ、必死でもぞもぞと動いたメルリーナは何とか顔を上げることに成功した。
「メル」
ディオンの声に視線を巡らせれば、先ほどまで見せていた険しい表情ではなく、どちらかというと少し困ったような、情けないような顔をしていた。
「少しだけ、話したい」
断る理由もないので頷けば、ほっとしたように微かに口元を綻ばせた。
「別室には行かせない。ここで話してもらう」
ゲイリーは、諦めと苛立ちを交えた溜息を吐くと、メルリーナをぐるりと回転させ、ディオンに向き直らせた。
しかし、腰に回した腕はそのまま。背後から抱きかかえようとするので、さすがに邪魔だと振り仰いで抗議の眼差しで睨めば、渋々解放する。
「強引な真似をしたら、即刻海へ叩き落とす」
ゲイリーの宣戦布告に、ディオンは「ふん」と鼻で笑いながらもきちんと説明した。
「返り討ちにしてやるよ。でも……今は、ただ話したいだけだ。約束の勝負はまだしていないから、無理に船から下ろすことはしない」
「だったらいいけど」
それでも信用出来ないと言うゲイリーにブラッドフォードの方が呆れた。
「いい加減、鬱陶しいぞ。自分を置いて出かける主人を不安そうに見送る犬にしか見えない。大人しくしていろ。ゲイリー」
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___あの日までは
その日、私は連に私の手作りのお弁当を届けに行く時だった
連を見つけたとき、連は私が知らない女の子と一緒だった
連はモテるからいつも、周りに女の子がいるのは慣れいてたがもやもやした気持ちになった
女の子は、薄い緑色の髪、ピンク色の瞳、ピンクのフリルのついたワンピース
誰が見ても、愛らしいと思う子だった。
それに比べて、自分は濃い藍色の髪に、水色の瞳、目には大きな黒色の眼鏡
どうみても、女の子よりも女子力が低そうな黄土色の入ったお洋服
どちらが可愛いかなんて100人中100人が女の子のほうが、かわいいというだろう
「こっちを見ている人がいるよ、知り合い?」
可愛い声で連に私のことを聞いているのが聞こえる
「ああ、あれが例の許嫁、氷瀬 美鈴(こおりせ みすず)だ。」
例のってことは、前から私のことを話していたのか。
それだけでも、ショックだった。
その時、連はよしっと覚悟を決めた顔をした
「美鈴、許嫁をやめてくれないか。」
頭を殴られた感覚だった。
いや、それ以上だったかもしれない。
「結婚や恋愛は、好きな子としたいんだ。」
受け入れたくない。
けど、これが連の本心なんだ。
受け入れるしかない
一つだけ、わかったことがある
私は、連に
「許嫁、やめますっ」
選ばれなかったんだ…
八つ当たりの感覚で連に向かって、そして女の子に向かって言った。
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