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友達と称するものの正体

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 図書室で行っていた課題を終えると、二人は共に帰り支度を始めた。別に合わせようと思っていたわけではないものの自然とそうなった。
 目を合わせるでもなく声を掛けるでもなく、一緒に図書室を出て校舎を出ていく。
 馴れ馴れしくするわけではないが、こうしていても居心地は悪くない。だから一緒にいられた。
『楽し気に談笑しながら朗らかな空気を作れる相手こそが友達だ』
 みたいな<神話>を、二人は信用していない。そういうのは結局、どちらか一方に相手に合わせることを強いているか、もしくは互いに調子を合わせているだけだろうと考えていた。決して本心からそうしたいからそうしてるのではなく、
『そうしないと友達でいられないから仕方なくそうしている』
 だけでしかないと思っていた。実際に、そういう事例しか見たことがなかった。ついさっきまで楽し気に談笑していたのに、一人がその場からいなくなると、いなくなった一人を残った者達で嘲笑っているという光景を何度も見た。それが人間の<本性>であると、<友達と称するものの正体>であると、二人は実感していた。だから友達なんて欲しいとも思わなかった。
『上辺だけを取り繕い、本当は好きでもない相手と調子を合わせ、仲がいいふりをする』
 まったくもって『反吐が出る!』とさえ思っていた。
 だから、琴美も煌輝ふぁんたじあも、何一つ相手に合わせるつもりもなかった。ただ同時に、不快にさせるような振る舞いを意図的にしようとは思っていない。相手を腐し貶めるようなことをは言わないように、乱暴で横暴な態度は取らないように、心掛けているだけだ。
『慣れ合わない』ことと『攻撃的でいる』こととは違う。二人はそれをわきまえていた。
 ここで何か分かりやすく<イベント>を起こして話を盛り上げるような、
『自分の人生を他人を楽しませるためのエンターテイメントとして供する』
 ことを、共によしとはしないがゆえに。
 そうだ。どこの誰とも知れない人間の<慰みもの>になど、なぜわざわざ自ら進んでならなければいけないのか?
 <社会に虐げられている可哀想な弱者>を演じることで見る者に『自分はここまで可哀想じゃない』と優越感を覚えさせなければならない義理など、欠片もない。
 だからこそ、<可哀想な自分>を演じようとは思わないし、いちいち周囲の同情を引きたいとも思わない。
 冷淡にも見える二人の様子は、そういう信念の現れてもあっただろう。
 そういう信念に付き合っていられない者は離れて行き、その果てに残ったのがお互いなのだった。

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