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現実感のない架空の存在

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 そんなこんなで、琴美と結人ゆうとには先に新しい部屋に向かってもらって、一真は結人が琴美にと買ってくれた電動アシスト自転車に乗って帰ることになった。その途中、結人の突飛な行動に苦笑いしながらも、彼が言った、
『俺も浮かれ過ぎた』
 というのはすごく分かる気がする。一真自身、寒々しい部屋の様子を見た時には少し冷静になってしまったものの、こうして一人で自転車に乗ってるとなんだか顔がにやけてしまうのだ。
 あの両親がいない新しい生活がまさに始まる実感が湧いてきてしまって。

 一方、顔がにやけてしまうのは、一真だけではなかった。さっきは一真が助手席に座っていたので後席に座すことになってしまったが、その一真が自転車で帰ることになり、琴美が助手席に座れて、結人の隣にというのが嬉しくて。
 もちろん、一真と同じく両親のいない生活が始まるのも嬉しいものの、それ以上に結人とこうして二人きりで自動車に乗っているというのがたまらなかった。
 なるほど助手席からだとどうしても彼の左手薬指に光る指輪が目に入ってしまう。それを目にするたびに、自分が生まれるのが遅かったからこうなったのだと思えて、結人の左手薬指に光る指輪と同じものをやはり左手薬指に付けている人間と彼が出逢う前に自分が出逢えていたらとこれまでにも何度も考えてしまったりもした。けれど同時に、
『どう頑張ったって私じゃ勝てないもんな……』
 と納得させられてしまう相手なので、ここまで来るともはや『悔しい』という感情さえ湧いてこなかった。それほどまでに素敵な相手なのだ。結人のパートナーは。同じ女性としても憧れさえ抱いてしまったりもする。
 美しくて、思慮深くて、凛としていて。
 だから、結人を奪いたいとか自分を選んでもらいたいとか、そんなことまでは考えていない。ただ、自分がこうして誰かを好きになれるということが嬉しかった。それまでは、何もかもを諦めていたから。
『私もどうせこいつらと同じになるんだろうな……』
 小学校の高学年の頃にはもう、両親を見てそんなことを考えていたりもした。子供の目から見て、一ミリも、一分の隙も無く、
 <尊敬できない信頼できないどうしようもなくクズな大人>
 という両親と同じような人間に。
 それ以外に想像ができなかったのだ。自分が<普通のまともな大人>になれる道筋など、どこにも見当たらなかった。何をどうすれば<まともな大人>になれるのか、分からなかったのだ。
 漫画やアニメに出てくる<カッコいい大人>なんて、嘘としか思えなかった。こんな大人、漫画やアニメの中にしかいないと思ってた。
 彼女にとって<まともな大人>や<カッコいい大人>は、魔法少女や変身ヒーローのように、現実感のない架空の存在にしか思えなかったのである。

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