宿角玲那の生涯

京衛武百十

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伊藤玲那編

愚かな選択

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来支間久美きしまひさみは、あるクラスメイトのことが気になっていた。そのクラスメイトは、ひどく無口で大人しくて、いつも一人だった。名前は確か伊藤玲那。他のクラスメイトは彼女のことを避けようとするけれども、久美は何故か気が付くと彼女の姿を目で追ってしまっていた。

それが何故なのかは、久美にも分からなかった。ただ、彼女が好きな人形に通じる何かがあったのかもしれない。

久美の趣味は、人形集めだった。もっと幼い頃はいわゆる着せ替え人形をいくつも集めた。父親が時々、思い付いたみたいに一万円とか二万円とかまとまった小遣いをくれるので、それで人形を買い集めた。

無計画にポンと小遣いを渡す父親にも、そんな父親にもらった小遣いで愚にもつかない人形を買ってくる娘にも、母親はいい顔をしなかったが、久美は自分のことをあまり好きそうではない母親よりも、人形を買う為の小遣いを気前よくくれる父親のことが好きだった。

久美が人形に入れ込むようになったのも、そんな歪な親子関係が影響していたのかもしれない。親の愛情を実感できないのを、自らが人形を愛でることで埋め合わせようとしていた可能性はあったようだ。

六年生になる頃には久美の人形集めは、いかにも女児向け玩具の着せ替え人形ではなく、それよりも高価で造形がよりリアルな六分の一サイズのドールに移っていた。比較的安いものでも一体一万円を超えるような人形である。着せ替え用の衣装だけでも、彼女自身が着ている服よりも下手をすると高いかもしれない。

そんな人形を、久美は既に数体持っていた。その人形に触れながらいろいろと空想するのが彼女の遊び方だった。最近はもっぱら、その人形がアイドルとしてデビューして人気者になっていくというシチュエーションを楽しんでいるようだ。

それは、父親がタレント事務所を経営しているということも影響していたのだろうか。

久美自身は、自分がタレントになれるとは思っていなかった。引っ込み思案で地味なタイプの自分がタレントに向いているとも思えない。だからこうやって人形を使って空想しているだけで十分だった。

それに、彼女が<トシにい>と呼んでいる来支間敏文きしまとしふみが優しくしてくれるから、それ以上は望んでなかった。望んでなかった筈だった。

なのに、クラスメイトの伊藤玲那のことが気になって仕方ない。

そしていつしか彼女は、何となく伊藤玲那の傍にいるようになっていた。そんなに親し気に話し掛ける訳でも、一緒に遊んだりする訳でもない。ただ何となく傍にいるだけだ。でも彼女にはそれで十分だった。

一方の玲那の方も、距離は近いがはっきりと絡んでくる訳でもない彼女のことは、必ずしも好意的に捉えているとは言い難かったものの強く拒むでもなく、玲那が十二歳の誕生日を迎える頃には勝手にさせている状態になっていた。それは、他人から見れば友達のようにも見えたのだろう。

しかし、久美は、学校以外での玲那のことを何も知らない。ましてや自分の父親が彼女に対して何をしたのかも知らない。だがそれは玲那の方も同じだった。久美の父親が自分の客の一人だったということを知らなかった。そもそも来支間克光きしまかつあきの名前も知らなかった。名前を知っていたら、それほど多いとも思えない名字が一致するということでその関係性に気付くこともあったかもしれないが、客の名前は基本的に本人が教えでもしない限りは玲那達には明かされていなかったのである。

その辺りは、店側と客側、お互いの安全の為という判断だったと思われる。そしてそれは、功を奏していたと言える。こうして客の娘がすぐ傍にいても、それとは知れなかったのだから。

だが、その関係に気付いてしまう者が全くいない訳でもなかった。

久美と玲那の学校の運動会で、そのことに気付いてしまった人間がいた。

『な…に……?』

信じられないものを目の当たりにした驚きに、その人物は顔が強張り青褪めていた。

来支間敏文きしまとしふみだった。妹のように可愛がっている久美の運動会を見る為に学校に来て、久美のすぐ傍にいた玲那の姿を見て、いつぞやの、伯父の家から母親らしき女に引きずられるように出てきた少女だと気付いてしまったのである。

伯父と少女の間で何があったかまでは知らないが、どうせロクでもないことだったのは間違いない筈だ。そんな少女と久美が同級生という事実に、彼は、眩暈に襲われそうにさえなった。

運動会の後、敏文は久美に声を掛けた。

「久美。今日、一緒にいた女の子は友達なのか…?」

「…伊藤さんのこと…? うん。私は友達だと思ってるけど…」

その言葉に、彼は頭にカッとした熱いものが奔り抜けるのを感じた。だからつい、強い口調になってしまった。

「ダメだ! その子と付き合っちゃダメだ!」

掴みかからんばかりの勢いでそんなことを口走った敏文に、久美は怯えた。そしてそのすぐ後で、自分が友達だと思ってる相手を悪く言われたと感じて思わず敏文を睨み返していた。

「なんでそんなこと言うの!? トシにい。私の友達ことを悪く言わないで!」

それは、久美が敏文の前で初めて見せた姿だった。大人しくて従順で、いつも自分の言うことには素直に従ってきた妹のような少女の思わぬ反撃に、彼は戸惑いを隠すことができなかった。それが彼の感情を更に昂らせた。

「バカッ、あいつはとにかくダメなんだよ! お前は俺の言う通りにしてればいいんだ!!」

そのただならぬ雰囲気に、周囲の生徒達や保護者達が何事かと振り返る。そこでようやく我に返った敏文は、声を潜めてなおも言った。

「久美、これは本当に大事なことなんだ…! 俺はお前の為を思って言ってるんだよ…!」

『お前の為を思って言ってる』。そんな恩着せがましい言い方が果たして相手に届くことなどあるのだろうか。少なくともこの時、敏文の言葉は久美に届くどころか、決して小さくない溝を生む結果にしかならなかった。

「トシにいのバカ! キライ!!」

久美はそう声を上げて敏文の手を振りほどいて走り去ってしまったのだった。

「お…、おい…!」

呼び止めようとしたがもう既に手遅れだった。久美の姿は角を曲がってすぐに見えなくなってしまった。慌てて後を追うが、彼女が曲がった角からその先を見た時にはもう、久美の姿はどこにもなかった。

適切な態度、適切な言葉を選ばなかったことで相手を怒らせてしまったのなら、それは言った側の責任だ。自分の意図したとおりに受け取ってくれなかった相手を責めるのは、甘えでしかないだろう。自分の未熟さを棚に上げて相手を責める人間が認められるほど、この世は甘くない。

だがこの時、敏文は未熟な自分を反省するのではなく、自分の言葉を理解しようとしなかった久美を責めていた。

『なんで…、こんな…。バカか、久美……!』

結局、そういうことなのだろう。自分に甘く他人に厳しいその姿勢は、彼が嫌っている伯父の来支間克光きしまかつあきによく似ていると言えた。自分を甘やかし、自分の都合を優先し、苦しみは他人に押し付けるその姿が。

つまりそれが、彼の望む結果を得ることを邪魔している一番の原因なのだと思われる。効果的な手段をとる努力をせず、自分のやりたい手段をとるというのなら、それに見合った結末にしか辿り着けない。当たり前の話だった。

この後、彼はそういう自分の失敗を活かすことができなかったことにより、取り返しのつかない結果を生むことになる。だがそのことに彼が気付くことは、生涯なかったのだった。

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