Gの愉悦

京衛武百十

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「ぬ…!? またか…! 殺虫剤も撒いたというのに…!」

部屋の隅に私の姿を見付け、男は忌々し気に呻いた。

「……!」

小娘は怯えた目で私を見ている。それがまた男には癇に障るようだ。

くくく、いい傾向だ。



男と小娘の関係が僅かな進展を見せた翌日、ようやく男との決着をつける機会が巡ってきた。

せっかくのいいムードがぶち壊しになったのは申し訳ないが、私とておそらくこれが最後のチャンスなのだ。

男が言うようにまた殺虫剤が散布されたのだろう、濃度は薄まっていたとはいえ、長時間留まれば確実に命に関わるレベルなのは間違いないのを感じる。

が、今の私にはもう関係ない。

私は、この命が尽きる前に満足を得たいだけだ。

十分にエネルギーも補充できた。正直なところ、今日明日中にも機能を停止するであろう体ではあるにせよ、その中でも万全といっていい

私の勝利条件? それは、男の顔に飛びついて、転倒させてやることか。

ゴキブリの私が真っ向勝負で人間をどうにかできるわけがないからな。



男との決着に拘りつつも、それが非常にくだらないことであることも、私は同時に承知している。

だが、世界を救うことと、ゴキブリとして男との決着をつけることがさほど変わらぬ価値しかない私にとっては、どちらもくだらないことであると同時に、拘る時にはとことん拘るべきものでもあるのだ。

故に、私はこの時点で自らが出せるすべてを出して、勝負に臨んだ。もとより、出し惜しみする理由もない。

明らかに最初の頃よりは動きが鈍っているものの、それでも普通のゴキブリに比べれば圧倒的な速さで男を翻弄する。

その様子に、小娘などは、

「やだ! やだ! いやぁあああぁっっ!!」

などと、半狂乱になって怯えている。ははは、その様子もじっくり堪能していたいところではあるが、残念ながらもうその時間もないのでな。今は二の次よ!

そうして私は、最後の命を燃やし尽くすために男に挑む。床を駆け、壁を奔り、翻弄する。

男の方も、よほど腹に据えかねたのか、これまで以上に強い殺意でもって望んでいるようだ。ナイフやフォークを私に投げつけ、しかし躱されると、落ちたそれらを拾い上げては再び私目掛けて投げつけた。ナイフやフォークそのものに男の殺意が乗っているのさえ感じるな。

いい、いいぞ! もっとだ! もっと!

そんな攻撃を躱しつつも、男の方へ目掛けと飛び掛かろうとする。

が、そのためには、一瞬、動きを止めて羽を広げる動作に移らないといけないことで、私は男に飛び掛かることができずにいた。そのわずかな隙が命取りになるほどの相手ということだ。

男が、落ちたナイフやフォークに手を伸ばす。

『今か!?』

当然のことながらそれが男の側一番の<隙>ではあるものの、一方で、<飛ぶ>という行為は、ゴキブリにとっては必ずしも得意なそれではなく、走るよりも確実に速度が落ち、しかも空中では運動性も低下するので、あくまで非常時の緊急避難用の手段でしかないこともあり、飛び掛かろうとした私が男の振るったナイフに真っ二つにされるというビジョンが何度も見えてしまう。

にも拘らず私は、

「ははは! 楽しいな!!」

と、音声おとにはならないが声を上げて、愉悦していた。

楽しいのだ。本当に。

己のすべてをつぎ込んでギリギリの死地を駆け抜ける。

これだけでもこの<生>は意味があったな。

まったく。最初からこうしておけばよかったとも思うぞ。そうすればたとえ死んでも悔いはなかっただろうな。

いや、それだと卵を産まずに死んでいたか。さすがにそれはこのゴキブリに申し訳が立たんかもな。

などと、そんなことを考えながらも私は死力を振り絞っていた。

ああ、なんと満ち足りた瞬間であることか……!



だが、時間が経てば経つほど、部屋に残留した殺虫剤が私の体に染み込み、蝕んでいくのも分かる。それでなくても油が切れたかのように全身がきしんでいる。

ダメージを視覚的に表示できれば、既に真っ赤だろう。残された時間はもう僅かだというのがびりびりと伝わってきた。

このままではいずれタイムオーバーで私は死ぬ。

瞬間、男の投げたナイフが私の体をかすめる。

「む……!?」

右の中足がちぎれ飛ぶのが見えた。それと同時に走る速度が急激に落ちる。途端に、体の方も悲鳴を上げた。バランスを欠いたことでそれこそ無理が利かなくなったのだろう。

「くかか! これでもういよいよ後がなくなったか…! ならば……!!」

私にとって最大の<武器>である機動性運動性を大きく損ない、残された時間ももはや尽きたことを悟った私は、最後の賭けに出た。

できることはもうない。文字通りこれで終わりだ。

故に、勝つか負けるかではなく、己に残されたすべてをぶつけることとしたのだ。

ここまで勝つことを目指して男の隙を探ってきたがそれを見せなかったことには素直に敬服する。

貴様は大した奴だよ。

ただの人間のクセにな。

だが、それだからこそ私も悔いはない。勝てる可能性があったにも拘わらずそれをモノにできなくて追い詰められたのであれば悔いしか残らんが、そうではなかったからな。

これで心置きなく『一か八か』に出られるというものだ。

ここまでも十分、過剰な負荷を強いてきたが、それでも自壊することだけは避けてきたものを、一切の手加減を本当にやめて、この体で出しうる本当の全力を一瞬にぶつけた。

体の中が爆発したかのような力を迸らせて壁を蹴って自身を打ち出した瞬間、後ろ足が両方とももげる。

そして羽を広げ、ちぎれ飛ぶことも厭わずに羽ばたき、男の顔面目掛けて突貫した。

「おおおおおおおおおおっっ!!」

しかし、それでも―――――

それでも、届かなかった。

男の顔を捉えると見えた刹那、私の体の下から上へと何かが奔り抜け、胸と腹のところから真っ二つに切り裂かれるのが自分でも分かった。

『くはは…! 見事だ…! お前の勝ちだよ……!!』

男が手にしたナイフで私を仕留めてみせたのだ。

私の負けである。

羽も足も弾けてバラバラに宙を舞い、普通なら体がちぎれてもすぐには死なないゴキブリの生命力さえ殺虫剤の毒によって削り取られ、命が潰えていくのが分かる。



楽しかったぞ、人間……



こうして私は、得も言われぬ満足感の中、何もない闇の中へと自らが溶けていくのを感じたのだった。

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