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四章
三、履物を喰う鬼
しおりを挟むそして翌日。向かう先はより南の、前線に近い宛陵県近くの小さな集落である。
およそ十余りの家が集まっており、周囲には痩せた畑と水牛。防壁とも呼べない低い竹垣で辺りは囲われていた。
既に人はいない。諸葛恪はこうした前線近くの集落から民衆をごっそり北へ移しているためだ。
だがここへ辿り着くまでにいくつもの関所や見張り台が建っているのを楊甜は見た。
諸葛恪はどんな未来を構想しているのだろうかと、ふと、なんとなくそう思った。
「よ、よかったんですか?護衛兵をつけなくて」
「付けたら驚いてあっちも逃げる。だからこうやって隠れて抜けて来たんだろ。顧承や陳表にも言うなよ」
言ったら絶対自分まで何か叱責をくらうのは目に見えている。
楊甜は目の下が暗く痩せている諸葛恪に睨まれ、何度も何度も頷いてみせた。
「とりあえず日が沈む前には宛陵県に戻るぞ」
「えっと、それで、僕たちだけで怪異の討伐を?」
「違う。あー、だからお前、朝にあんな変な格好でいたのか」
出立前、楊甜は前に着た巫女の衣装の上に支給された鎧を着用し、首から酒の入ったヒョウタンを下げ、薪割り用の斧を手に持っていたのだ。
目立つだろと諸葛恪に蹴り倒され、全て屋敷に置いてきたため不安で不安でしょうがなかったらしい。
「昨日話してなかったか?この辺りに出たっていう怪異について」
「えっと、口から血を滴らせている大男でしたよね?何故か草履を盗んでいったとか。でもこれは、もう既に人を食べた後で草履しか残ってなかったという…」
「お前は馬鹿なんだから変な推測するな。全部違う」
「へ?」
「そいつが食ってたのは"草履"の方だ」
「ふぇ??」
「呼称は"厠鬼(しき)"、黒ずんだ肌に虎のような獣の頭、その手足には鋭利な爪を持つ大男との記録がある。しかし不思議なことに彼らは争いを好まず、厠にこそこそと隠れているらしく、そして人の履物を好んで食うらしい」
なんだそれ。説明を聞いた楊甜の感想はその一言に尽きる。
風貌だけ聞けば世にも恐ろしい怪物なのだが、その生態があまりにも無害すぎる。そういう性癖の変態なのではないかとさえ思う。
「無害さで言えばお前達"落頭民"と同じくらいだ。人を傷つけた話は一切聞かない。あと厠鬼が履物を喰うと、その履物がまるで生き物であったかのように血を滴らせるんだと」
「頑張って理解しようとしてるんですけど、まだよくわかんないです。えっと、それでその厠鬼と会ってどうするつもりで?」
「話を聞く。最悪の事態が起き得るのかどうか、怪異の事件が急増している理由、それらを探っておきたい」
「最悪の事態?」
そのまま二人は集落にずけずけと踏み入り、小川の側の厠の前に立つ。
周囲には特に変な気配はないが、楊甜にはこの戸の向こう側から何やら瘴気を感じていた。
諸葛恪はその戸を乱雑に蹴破る。すると野太くも情けない「うぎゃあ」という声が聞こえた。
「なるほど、確かに厠鬼だな」
「ナ、ナンダお前らっ!」
「えっと、安心してくださいっ、危害を加えるつもりじゃないので、ほらっ!」
その気になればどんな相手であろうとひとひねりで殺してしまいそうな異形の怪人が、厠の隅で身を屈めて怯えていた。
僅かに震えるその厠鬼を前に、楊甜は慌てて首を外して見せ、仲間であることをとりあえずアピールしようとする。
「首が、お前"落頭民"ダナ!ジャアお前もか!」
「この馬鹿と一緒にするな、俺は人間だ。それで、なんでお前はここに居る。山から下りればこうして人に見つかるだろ」
「グヌヌ」
すると厠鬼の腹から大きな音が鳴った。
人が居ないということは、彼らの食料となる「人の履物」も消えるということ。
もう随分と何も食べていないのだろう。それでも襲い掛かって来ないあたり、厠鬼という怪異の温厚さがよく分かる。
「ハラヘッタ…」
「そうだろうと思って、お前のために履物を買ってきた。楊甜」
「は、はい!」
楊甜は背負っていた籠からいくつかの草履を取り出した。
草履は一般の民衆にも手の届く値段の履物であり、量を買い揃えるのは諸葛恪にとって容易な話である。
しかし厠鬼はその籠の中の草履をまじまじと見ては、残念そうに首を振った。
「俺、人の履いたモノがスキ。新品はイヤだ」
「贅沢な奴だな」
「長く履いてレバ履いてるだけイイ」
「ひぃ」
鼻息荒く興奮するかのように笑みを浮かべる厠鬼に、思わず楊甜は後ずさる。
すると厠鬼は諸葛恪と楊甜を何度か見比べて、そして楊甜の履いている下駄を指さした。
「おい落頭民の女、お前の美味ソウダナ」
「あの、僕男ですぅ」
「美人の男!最高じゃナイカ!!」
「ご主人様!帰りましょう!こんな変態はお腹空かせとけばいいんです!!」
「楊甜、わがままを言うな」
「嫌だぁああ、この下駄高かったんだぞぉお!」
南方の湿潤な土地では、下駄が特に重宝されたという。そして下駄は草履よりも高価だった。
前まではずっと裸足で過ごしていた楊甜が、給料を貰って買った思い入れのある下駄。
それをこんな変態野郎に。楊甜はびえびえと泣きながら、よだれを垂らす厠鬼に下駄を差し出したのであった。
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