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四章
四、厠鬼
しおりを挟むつい今の今まで楊甜が履いていた下駄をほくほくの笑顔で受け取り、よだれを滴らせる厠鬼。
涙を流す楊甜を傍目に、虎のような大口を開いて両足の下駄に同時に噛り付く。
するとその下駄がまるで生き物であったかのように、鮮血が噴き出してバリボリと音を立てながら厠鬼の口の中に吸い込まれていった。
「いざ目の前にすると興味深いな。なぜ下駄から血が流れるのか」
「ン?そもそもソウイウものじゃないのカ?」
「お前達"厠鬼"だけが草履や下駄を"生き物"として捕食できる。逆に鳥や虫などは食わないのか?」
「アンナの食うの頭オカシイ」
頭がおかしいのはお前だい!
涙を拭いながら持ってきた草履に履きなおしつつ、楊甜は心でそう叫んだ。
「オマエの下駄、美味かった!匂いが濃いのは特にウマイ!!」
「臭くないやい!殺してやるぅう!!」
「落ち着け馬鹿」
腰の帯を引っ張られて前に進めない楊甜。
ずっと厠で話すのもなんだからと、諸葛格は厠鬼を連れて空き家に入り、土間のムシロの上に腰を下ろした。
「厠鬼、俺達はお前と話をしに来た。まぁ、座れ」
「お前変なヤツだな。オレが怖くないノカ」
「厠鬼がどういう怪異なのかを知ってるからな。知らないものは怖いが、知ってるなら怖くはない」
「変なヤツダ」
諸葛恪の倍はありそうな巨躯。しかし本当に諸葛恪は一切の怯えや動揺を見せなかった。
厠鬼はその光景に首を傾げながら、渋々といった様子で腰を下ろした。
「最近このあたりで急に怪異の被害を受けたという人間が多いと聞いている。それが不思議でな。お前にしてもそうだ、なぜ山を下りた」
「今、山は怖い。オレみたいな弱いヤツは逃げるシカナイ。強いヤツも瘴気に充てられて、人を好んで襲おうとしてイル」
「山が怖いというと、どういう意味だ」
「ワカラナイ。でも怖い」
「強い奴が山の奥に居る。だから色んな怪異が逃げるように、もしくは血気盛んに山を下りてきた、ということか?」
「それもワカラナイ。でも、そう思う。落頭民、お前もソレを感じるだろ?」
確かに。この濃い瘴気の漂う山中深くに入ろうとは、とてもじゃないが思えなかった。
でもこの瘴気が何なのか。怪異によるものなのか、人の手に拠るものなのか、そこまでは分からない。
ただ何となく気味が悪いのだ。故に厠鬼の問いに楊甜も思わず頷く他無かった。
「これから戦が始まる。戦が起きるとき、怪異もまた活発になる」
「オレには迷惑な話ダナ。オレはただ静かに人の履物を食ってタイだけナノニ」
「それもそれで迷惑なんですけど…」
「美女の履物…」
「やっぱりコイツ変態ですご主人様!」
うるさい馬鹿黙れ。
短い罵倒でしゅんとしょげ返る楊甜。
「怪異の目撃例も今までにない多さだ。何かがおかしい。俺はそれがずっと気になってる」
「生憎ダガ、背景は分からナイ。実際に、山の深くに入ってミナイことにはな」
「そうか。それで、お前はどうする。この辺りにはもう人はいないぞ、兵士ばかりで警戒されてるしな。その図体じゃ目立つだろ」
それが目下一番の悩みであると、腕を組んで怪訝そうに唸る厠鬼。
危害を加えるような類の悪さをするわけではない。しかしこの見た目だ。落頭民とはやはりそこが大きく異なる。
「まぁ、何とかなる。逃げタリ隠れタリするのは得意ダ」
「困ったら宛陵県付近に居て良い。人に害をなさない限り、あの近辺においては見逃してやる」
「…見逃ス?お前、何者ダ?」
「諸葛恪。この戦を終わらせて、いずれは天下全ての戦を終わらせる男だ」
目を丸くし、そして厠鬼は鼻で笑う。絵空事にもほどがある夢である。
それに本当に今回の戦の総大将が単身でこんな辺鄙な村に来ているとは到底思えなかったからだ。
「諸葛恪、怪異の中でその名を知らんモノは居ない。アイツに会ったら皆、殺されルと恐れてイルゾ」
「怪異には怪異の領分が、人には人の領分がある。それを無暗に犯すのであれば手を下すが、そうでないなら何もしない」
「ならば何故、山の者達を苦シメル。領分を犯し、土地を奪ウノダ」
「人が増えたからだ。その上で、殺し合いたくはない。そこを諦めれば殺し合いをするしかなくなる。だったら俺は苦しんででもお前達を生かす」
「本当に変なヤツだ、オマエは」
「よく言われるよ」
「下駄の恩もアル、ひとつ教えてやる。お前、死相が見エルぞ。用心するんダナ」
「忠告感謝する」
そう言うと厠鬼はのっそりと立ち上がり、外へと出て行った。
楊甜が少し遅れて追いかけると、もう既にそこに厠鬼の姿はなく、その気配も感じなかった。
ただ下駄を喰われたという事実だけが、厠鬼がここに居たことを示すものになっているようで。
「おい馬鹿、帰るぞ」
「あ、はい!」
「そういえば厠鬼は、怪異の中で俺の名を知らん奴は居ないとか言ってたな」
「流石ご主人様ですね」
「お前、俺の名前知ってたか?」
「え?いや、あー、も、勿論です!」
「正直に言えば下駄を買ってやる」
「申し訳御座いませんでした。僕が無知なばっかりに、存じ上げませんでした」
「ふん」
護衛も連れずに抜け出したことに対する口止め料でもあるのか、楊甜は下駄を買い直してもらえました。
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