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第3章 高平陵の変

第16話 防衛の名手

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 郭淮が前軍の指揮官を解任され、その代わりに夏侯覇に指揮が委ねられたことは、既に蜀軍にも伝わっていた。
 更に魏軍は本軍のほとんどを戦線に投じ、その攻勢を一層強めている。
 昼夜を問わない物量戦に、流石の王平も疲労を隠せないでいた。

「夏侯覇は、愚直なまでの将だな。攻める事しか考えておらん。こんな戦では、ああいうのが最も手強い」
「将軍、防衛の砦の二割が既に崩されております。このまま昼夜を問わない攻勢が繰り返されれば、数日の内に興勢山は陥落いたします」

 全体の戦況を分析し、人員の配置を統括している胡済もまた、王平以上の疲労を抱えているようだ。
 魏軍が思い切った攻勢に出てきた背景は、やはり、成都からの援軍、これが大きく起因しているように思う。

 成都からの援軍は、王平の見立てでは一か月以上はかかるものだと思っていたが、これが意外に早く到着しそうなのだ。
 時間の掛かる一番の要因であった徴兵を行う必要がある為だが、呉の方面の軍事を管轄している「鄧芝(とうし)」都督が、兵を割き自ら成都へ駆けつけた。
 これにより徴兵の必要が解消され、援軍をすぐに出立できるようになったらしい。


 呉は同盟国でありながらも油断はできない。
 謀略を好み、同盟国であろうと絶えずその隙を狙う、狡猾で老獪な政策を取ってきたからだ。

 しかしこの鄧芝は、そんな曲者である呉との外交を長年務め、常に二国間の橋渡しを担ってきた傑物であった。
 剛毅で派手好き、しかも弁舌に優れていた鄧芝は、その才気を孫権に痛く気に入られている。
 孫権が自ら、臣下になって欲しいと何度も請う程の惚れ込みようなのだ。

 此度は、漢中の危うきを知り、孫権との不可侵の条約をまとめ、救援へ駆けつけた。
 ただ、蜀の臣下の間では不安の声が上がった。
 いざ乱世においては、条約など役には立たないからだ。
 鄧芝は、そんな世論に向かって、豪快に笑いながらこう答えた。

「自分も呉帝も、互いに相手から罵倒されるのを酷く嫌っていると言って良い。他の誰からの罵倒でも聞き流せるが、奴にだけはという思いがある。だからこそ、直接交わした約束は破らん。そんなことをすれば、馬鹿にする権利を与えるも同然だからな」

 例え領土を広げられる好機であろうと、孫権は鄧芝から非難されることが耐えられない為、裏切ることは無い。
 そして、その逆もまた然りと。

 まるで互いが同列であるかのような、腐れ縁の友人のような感覚で、鄧芝はその間柄を語った。
 一歩間違えば、同盟関係に亀裂が入る、不遜な発言である。
 しかし、孫権はあえて答えなかった。孫権もまた、鄧芝と同じ感情を抱いていたのだろう。
 それに鄧芝にはどこか、老いた身でありながらも、その態度が許されてしまうような無邪気さを備えていた。


 費褘、馬忠、鄧芝の率いる八万の援軍が到着すれば、魏軍の勝機は完全に断たれると言って良い。
 到着するよりも前に、興勢山の防衛線を突破するか、撤退をするかを選ばなくてはならない。

 曹爽が選んだのは、総攻撃であった。
 何が何でも漢中を取ると、その必死の覚悟が見える怒涛の攻勢を繰り出したのだ。
 前線の指揮官を、経験豊富で慎重な郭淮から、勇猛果敢な猛将である夏侯覇に替えたのが、その決意の確固たる表れであった。

「まぁ、胡済。そこまで不安になることも無いだろう。曹爽はまだ、全てを捨てて戦ってない。そんな傲慢な男に、この興勢山は抜けん」
「その様な悠長な事を言っている場合では……」
「曹爽が補給線を捨て、郭淮の指揮する後方の二万ですら全て前線にまわして初めて、この興勢山の防衛は揺らぐ」

 しかし現状はそんな王平の言葉とは逆方向に動いている。
 防衛線は大分押し込まれている状態で、小さな砦は軒並み打ち壊されていた。
 更に昼夜を問わない怒涛の攻撃に対応するべく、大量の落石や丸太を用意しなければならず、この供給が特に遅れている。
 漢中の民を動員してまで、岩の切り出しや運搬を行うべきかと、胡済は真剣に考え始めていた。

「そこまで仰るならば、何か、胸の内に良策がおありで……?」

 防衛の名手として天下に名高い王平に、まるで縋る様な声である。
 王平はそれを聞いて、不思議そうに首を傾げた後、大いに笑う。

「未だかつて、儂の戦に策などあった試しは無い」
 そう断言した後、具足を結び、鎧を絞めた。

「将軍、どちらへ」
「全体の指揮はこれよりお前がするのだ。いちいち報告せずとも良い、今まで通りにやれ」
「なっ……冗談でしょう!?」
「儂は前線の砦の全てを周ってくる。剣を抜くこともあるだろうが、不測の時あれば、援軍が駆けつけるまでお前が主将だ」

 意味が分からなかった。
 病的なまでに慎重であることで知られる王平が、自ら前線に立ち、剣を振るうというのだ。
 主将が討たれれば、それこそ漢中の防衛どころではない。
 あっというまに兵は瓦解する。その時、胡済は軍を保てる自信が無かった。

 幕舎を出て側近の兵を集める王平に、胡済は慌てて飛びついた。
 まるで毒虫を追い払うがごとく、その浅黒く堀の深い顔を歪ませ、王平はその飛びついてきた手を叩き落とす。

「良いか、守りに策はいらん。防衛の指揮なぞ、椅子に腰を下ろしているだけでいい。赤子でも出来る、ならばお前にも出来る」
「私には重すぎる任で御座いますっ」
「軍命に逆らうならば斬る」

 王平の側近の兵士達は、一斉にその恐ろしく鋭い長剣をぬらりと抜いた。
 漢中における軍令は極めて厳格である。胡済は肝を冷やし、困惑の面持ちのまま幕舎へと戻った。

「行くぞ」
 数十人の壮士に囲まれ、王平は馬を駆けさせた。
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