旋律は君の鼓動

財前法一

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 あの頃の私は、鍵盤の上では誰にも負けないつもりだった。

 まだ二十代の私。黒のノースリーブに身を包み、ステージに立つ自分の姿を、少しだけ客観視する余裕があった。スポットライトを浴びてピアノの前に座る瞬間、観客の存在はすべて霞み、世界には音と私だけが残った。

 何を弾いていたのか、今ではもうはっきりと思い出せない。けれど、指が覚えている。鍵盤に触れたときの重さ、響き、緊張と開放の呼吸。そのすべてが、私の心臓と繋がっていた。

 演奏後、拍手の中で深く一礼し、舞台袖へと引っ込む。汗ばんだ背中をスタッフにタオルで押さえられながら、「素晴らしい演奏でした」と言われるたびに、どう返していいか分からず笑っていた。まだ未熟だったし、自信なんてなかったけれど、「あの瞬間」は確かにあった。

 結婚するまでは、演奏が私の人生そのものだった。

 あの頃の私は、明るかったとよく言われた。どんな無茶な日程も笑ってこなし、地方公演でも小さなホールでも、どこへでも行った。子どもにピアノを教えるのも好きだった。指導することで、自分自身も育てられていた気がする。

 そんなある日、まだ本当に幼い男の子がレッスン室にやってきた。

 名前は成沢奏。

 線の細い子だった。おしゃべりでもなく、騒ぎもしない。ただ静かに鍵盤を見つめ、指先で音を探るように弾いていた。

 「どうしてピアノを弾きたいの?」と訊いたとき、彼はまっすぐ目を見て答えた。

 「音が出るとね、たくさん楽しいから。それにね、いっぱい色んな色が見えるの。だから僕はピアノが好きなの。」

 彼がうまくなっていく過程を見るのは楽しかった。幼いながら、教えたことをすぐに吸収し、自分なりに工夫してくる。あの頃の私は、彼に教えながら、自分も成長していた気がする。
 
 あと、彼は質問をよくする子どもだった。その質問も独特で、他の子がする質問とは明らかに違っていた。
 他の子はどうやって弾くか、オタマジャクシを追いかける方法を聞いてくる子が殆どだった。でも、彼は違った。彼は、この曲はどうやって作られたのかとか、この曲を書いた人はその時どんな気持ちだったのかとか、曲を弾くだけでなく、曲の背景を理解しようとしていたのだ。
 
 私も知らないことを聞かれることが多くなり、図書館に行って調べたり、大変ではあったが充実した日々だったと思う。

 そんなある日、彼は弱音を吐き、ぐずりながらピアノと悪戦苦闘していた。普段から意外と負けず嫌いで、ちょっと演奏中に躓くと、泣きそうな顔で必死にピアノと向き合っていた。しかし、今回は何度やっても難しいらしい。
 
 それもそのはずで、彼が今練習している曲が無理難題なのだ。彼の今の年齢で弾ける子はおそらくいないだろう。
 
 彼がそれを練習したいと言い出したのは、私がこの曲を弾いているのを聴いてしまったことに原因がある。他の曲をやろうと言っても、彼は与えられた課題はすぐにクリアしてしまうので、仕方なく空いた時間はこの曲を教えることにしていたのだ。

 「こんなの弾けないよ。僕、ピアノに嫌われてるんだ。だから僕もピアノなんか嫌い!」

 今日の彼はいつもよりご機嫌ななめだった。

 「本当にそう?本当に嫌いになったの?」
 
 「……嫌いじゃない。でもうまく弾けないのやだ。」

   「先生ね、奏くんが本当はピアノ大好きだって知ってるよ。でも本当に大好きだから、ちゃんと弾けないと嫌な気持ちになっちゃうんだよね?」

 「うん。すごくね、もわもわーってする。」
 
 「奏くんがもわもわするのは、ピアノのことが本当に好きだからなの。好きじゃなかったら、もわもわってならないよ。」
 
 「本当?先生ももわもわする?」

 「します。というかいつもしてるよ。だからいっぱい練習して、もわもわしなくなるようにするの。あとね、そんなすぐに簡単に弾けるようになったら、ピアノと一緒にいる時間が少なくなっちゃう気がしない?だから奏くんはたくさんもわもわして、たくさんピアノを練習しましょう!」
 
 「先生でももわもわするの知らなかった。でもわかった、僕いっぱい練習する。」

 機嫌が治ったみたいでよかった。いつもの彼だ。

 「…あの、先生?」彼は些かもじもじしながら言った。

 「なーに?」

 「この曲が弾けるようになったら、先生、僕のお嫁さんになってくれる?」

 無邪気な冗談。私は笑って答えた。

 「いいよ。弾けたらね。先生ね、奏くんがかっこいいピアニストになって迎えに来てくれるのを待ってるから。」

 

 その後まもなく、私は親が薦める縁談で半ば強制的に結婚させられ、東京への転居までセッティングされた。

 「音楽よりも安定が大事よ」親のそんな言葉に、私は逆らえなかった。それが“大人になる”ということだと、どこかで自分に言い聞かせていた。それが、親の会社経営の為に結婚させられたとしても。

 そして、娘を妊娠して、いつの間にかピアノを封印するようにして、主婦としての日常を受け入れた。

 でも、彼の音を聴いたとき、私の中で蓋をしていた記憶が、ピアノの音が、ありとあらゆる感情が、ゆっくりと開いていくのを感じた。
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