旋律は君の鼓動

財前法一

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フォルテ

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 開演のベルが静かにホールを満たした。客席には、沈黙と期待がぎゅっと詰め込まれている。舞台袖から歩み出た成沢奏は、ゆっくりと一礼し、ピアノの前に腰を下ろした。

 最初の一音が鍵盤から零れると、その瞬間から空気が変わった。
 ラヴェル《亡き王女のためのパヴァーヌ》。
 柔らかく、儚げで、それでいてどこか芯のある音。旋律は花びらのように舞い、ホールの隅々にまで沁み渡った。技巧をひけらかすのではなく、繊細な抑揚で感情を紡いでいく。

 二曲目、サティの《ジムノペディ第1番》では、まるで時が止まったかのようだった。奏の指は必要最低限の動きで、音符の行間にある「沈黙の美」を描いていた。まるで一つひとつの音に呼吸があるかのように、音は浮かび、消えていく。

 三曲目は意外性のある選曲――《フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン》。
 ジャズの香りを纏わせた即興アレンジが、クラシックホールを一瞬で変えた。遊び心に満ちたリズム。情熱と知性がせめぎあうアドリブ。会場のどこかから、思わず感嘆の声が漏れた。

 ショパンの《ノクターン第20番》では、感傷的な旋律に内省的な深みが加えられ、聴く者の記憶をそっとなぞっていくようだった。

 そして、ラフマニノフ《鐘》。
 圧倒的な音の奔流。指が鍵盤を駆け抜けるたびに、ピアノという楽器が限界まで鳴り響き、地響きのような低音が床を揺らす。強靭な打鍵、絶妙なペダルワーク。まさに鬼気迫る迫力だった。

 観客が息を飲んで迎えたラストは、ラヴェル《夜のガスパール》から「スカルボ」。
 最難関曲として知られる狂気のような技巧に、観客は目を見張った。不規則に跳ねる音、繰り返される不安定なモチーフ、それらすべてを奏は制御し、支配していた。会場に、呆然とした静寂が降りた。

 そして、拍手の嵐。
 何度目かのカーテンコールの後、奏は再び席に戻る。

 月明かりが照らすように静かに始まった、ベートーヴェン《月光》第1楽章。
 繊細なアルペジオに導かれ、優しく、切なく、どこか懐かしい響きがホールを満たした。亜希子は、その音に胸を突かれた。何かが遠い記憶の扉をノックしているようだった。

 やがて切れ目なく第3楽章へ。
 激情が爆発するような主題、強烈なタッチで叩き出される鋭い旋律。けれどそこに宿っていたのは、ただの情熱ではない。十指のすべてが想いに染まり、ピアノそのものが奏の心を語っていた。

 《月光》が終わった時、会場はしばらく静まり返っていた。

 拍手ではなく、まず沈黙が訪れる。
 そして、誰かが立ち上がり、やがて鳴り止まぬスタンディングオベーションが会場を包んだ。

 亜希子の目には、なぜか涙が滲んでいた。
 まだ理由は分からなかった。ただ、胸の奥に、忘れていた何かが確かに触れた気がした。
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