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ピアニッシモ
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スマートフォンの画面に浮かぶメッセージを、亜希子は指先でなぞるように読み返した。
「今度のリサイタルで、ぜひ聴いてほしい曲があります。あの時、ちゃんと弾けなかった“あの曲”、演奏できるようになったので、もしよかったら、来てください。」
“あの曲”?
亜希子は目を細めた。心当たりはない。たしかに彼が小さかった頃、教室で一緒に譜面を広げた時間は確かに何度もあった。けれど、特別に弾けなかった曲が何だったのか、今となっては思い出せない。
だが、「あの曲」と呼ぶからには、奏にとって何か思い入れのある一曲なのだろう。まるで暗号のように添えられたその言葉に、胸のどこかが微かにざわついた。
それにしても、「来てほしい」と書かれた短い文面、なんだか小さい頃の彼の表情が浮かんできて少し微笑ましく感じる。
夫は今日も帰りが遅くなるらしい。リビングには、使いかけのペンとメモ、誰も手をつけていない家族分のゼリーが置き去りになっていた。
台所の蛍光灯がブーンと小さく唸っている。冷蔵庫の中にあるプリンと、今日の気温と、誰もいない家の不必要な広さ。こんなにも静かな夜に、自分の居場所がどこにもないような気がした。
亜希子は、立ち上がって寝室のクローゼットを開いた。
何年か前に買った紺のワンピースが、ビニールに包まれたまま、奥のほうに吊るされていた。着ていく場所がないまま、季節だけが何度も巡った。
「別に……行ってもいいわよね」
誰に言うでもなく、つぶやいてみる。部屋の中には応える声もない。だがその無音の中で、何かが少し、揺らいだような気がした。
開場時間の十五分ほど前に、亜希子はホールのロビーに立っていた。
空調の効いた静かな空間。壁際には小さなカフェスタンドが設けられ、いくつかのテーブルが並ぶ。白いシャツの年配の男性や、パンフレットを読み込む若い女性たち。そのなかに混じって立つ自分が、どこか場違いな気がして、思わずハンドバッグの持ち手を強く握った。
手には、郵送されてきたチケットが握られている。「関係者席」と記されたその文字が、なんだか重たかった。
関係者、ってほどのものでもないのに。
自嘲のような吐息が、喉の奥でかすかに揺れた。
ワンピースは少し張りがあり、背筋が自然と伸びる。自分の姿がガラス窓に映るたび、少しだけ視線を逸らした。
こんなふうに、ひとりで音楽会に来るのはまだ慣れない。子育てが始まってからは、夜の街に出ることすらほとんどなかった。夫は最近、会話のない晩酌と無音のテレビを好むようになったし、最近じゃ家にいないことの方が多い。娘はバイトとスマホに夢中だ。
“私”は、どこに行ってしまったんだろう?
思考を振り払うように、パンフレットを開く。
そこには、「成沢奏ピアノ・リサイタル」と大きく記されていた。撮りおろしのポートレートの下に、彼の経歴と演奏曲目が列挙されている。
ああ、これは。
最後に記された一曲のタイトルが、目を引いた。
月光 第三楽章、ベートーヴェンだ。
かすかな引っかかりが、胸の奥に生まれた。どこか、自分の記憶のなかの、遠いほこりをかぶった引き出しのようなところに、それはある気がした。
会場の扉が開き、ホール係員の声が響いた。
「開場いたします。関係者席の方もご案内可能です」
「今度のリサイタルで、ぜひ聴いてほしい曲があります。あの時、ちゃんと弾けなかった“あの曲”、演奏できるようになったので、もしよかったら、来てください。」
“あの曲”?
亜希子は目を細めた。心当たりはない。たしかに彼が小さかった頃、教室で一緒に譜面を広げた時間は確かに何度もあった。けれど、特別に弾けなかった曲が何だったのか、今となっては思い出せない。
だが、「あの曲」と呼ぶからには、奏にとって何か思い入れのある一曲なのだろう。まるで暗号のように添えられたその言葉に、胸のどこかが微かにざわついた。
それにしても、「来てほしい」と書かれた短い文面、なんだか小さい頃の彼の表情が浮かんできて少し微笑ましく感じる。
夫は今日も帰りが遅くなるらしい。リビングには、使いかけのペンとメモ、誰も手をつけていない家族分のゼリーが置き去りになっていた。
台所の蛍光灯がブーンと小さく唸っている。冷蔵庫の中にあるプリンと、今日の気温と、誰もいない家の不必要な広さ。こんなにも静かな夜に、自分の居場所がどこにもないような気がした。
亜希子は、立ち上がって寝室のクローゼットを開いた。
何年か前に買った紺のワンピースが、ビニールに包まれたまま、奥のほうに吊るされていた。着ていく場所がないまま、季節だけが何度も巡った。
「別に……行ってもいいわよね」
誰に言うでもなく、つぶやいてみる。部屋の中には応える声もない。だがその無音の中で、何かが少し、揺らいだような気がした。
開場時間の十五分ほど前に、亜希子はホールのロビーに立っていた。
空調の効いた静かな空間。壁際には小さなカフェスタンドが設けられ、いくつかのテーブルが並ぶ。白いシャツの年配の男性や、パンフレットを読み込む若い女性たち。そのなかに混じって立つ自分が、どこか場違いな気がして、思わずハンドバッグの持ち手を強く握った。
手には、郵送されてきたチケットが握られている。「関係者席」と記されたその文字が、なんだか重たかった。
関係者、ってほどのものでもないのに。
自嘲のような吐息が、喉の奥でかすかに揺れた。
ワンピースは少し張りがあり、背筋が自然と伸びる。自分の姿がガラス窓に映るたび、少しだけ視線を逸らした。
こんなふうに、ひとりで音楽会に来るのはまだ慣れない。子育てが始まってからは、夜の街に出ることすらほとんどなかった。夫は最近、会話のない晩酌と無音のテレビを好むようになったし、最近じゃ家にいないことの方が多い。娘はバイトとスマホに夢中だ。
“私”は、どこに行ってしまったんだろう?
思考を振り払うように、パンフレットを開く。
そこには、「成沢奏ピアノ・リサイタル」と大きく記されていた。撮りおろしのポートレートの下に、彼の経歴と演奏曲目が列挙されている。
ああ、これは。
最後に記された一曲のタイトルが、目を引いた。
月光 第三楽章、ベートーヴェンだ。
かすかな引っかかりが、胸の奥に生まれた。どこか、自分の記憶のなかの、遠いほこりをかぶった引き出しのようなところに、それはある気がした。
会場の扉が開き、ホール係員の声が響いた。
「開場いたします。関係者席の方もご案内可能です」
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