旋律は君の鼓動

財前法一

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グラーヴェ

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 「ただいま」

 その声は、鍵の開く音とほとんど同時だった。
 玄関のドアが閉まり、湿った冬の空気が一瞬だけリビングに流れ込んでくる。

 亜希子はソファに広げていた雑誌を閉じ、立ち上がった。
 「おかえりなさい。出張、お疲れさま」

 夫は無言で頷いただけだった。
 スーツのままコートを脱ぎ、慣れた手つきでハンガーに掛けると、鞄をソファの横に置く。
 長年連れ添った人間の仕草は、見なくてもわかるほどに馴染んでいるはずなのに、
 今日は妙に他人のように見えた。

 「ごはん、すぐに出せるけど……お風呂、先にする?」

 「……いや、先に食う」

 その言い方には、どこか苛立ちがにじんでいた。
 理由を尋ねるほどの仲でも、今はもうない。

 食卓には、豚汁と鰆の西京焼き、それに炊きたてのごはん。
 出張明けの夜を気遣ったつもりだったが、夫は何も言わなかった。
 いただきますも、箸を持つ音も、どこか機械的だ。

 「……大阪は寒かった?」

 「まぁな」

 「新幹線、混んでた?」

 「指定席取ってたから。」

 会話は、糸が切れた凧のようにすぐにしぼんでしまう。
 どう繋いでも、空中でぷつりと切れてしまう。

 「……豚汁、どうかな?生姜入れてみたんだけど」

 「……ああ」

 それが肯定なのかどうか、わからなかった。

 夫の目はテレビの方を向いているが、画面は消えたままだ。
 反射で映るキッチンの明かりが、淡く揺れているだけ。

 この無言の時間が、いつから日常になってしまったのか。
 亜希子は箸を持ちながら、記憶のなかを手探りでさかのぼってみた。
 最後に「美味しい」と言われたのは、いつだっただろう。
 それとも最初から、そんな言葉はなかったのかもしれない。


 食後、食器を片づけていると、夫が無造作に言った。

 「来週もまた行くから、大阪」

 「そう……」

 「たぶんまた三泊くらいになる」

 「わかったわ。気をつけてね」

 「……ああ」


 夫が風呂に入っている間、亜希子はリビングの照明を落とし、ピアノの前に立った。

 暗がりの中、わずかな光が鍵盤に落ちている。
 手を伸ばし、そっと、ひとつだけ音を鳴らす。

 Eの音。
 昨日の夜、《Angela》で流れていたジャズの最後のコードと同じ。
 その一音が部屋に静かに満ちて、やがてゆっくりと消えていく。
 まるで、今夜の会話のように。

 風呂上がりの夫は、パジャマのまま寝室へ向かう。
 「明日、早いから、先に寝る。」

 それだけ言って、ベッドに横になった。
 互いに背を向けて眠るのは、もう慣れている。

 けれど今夜の亜希子は、目を閉じることができなかった。
 隣にいる夫の存在が、どうしても“風景”にしか感じられなかった。

 昨日の奏の声、奏のまなざし、指先の確かさ。
 心に残っているのは、そればかりだった。
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