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アダージョ
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その日、雨は朝から降り続いていた。
午前十時を過ぎても空は明るくならず、薄暗いリビングの窓には、細く長い水の筋がいくつも流れていた。
宮田亜希子はダイニングテーブルにマグカップを置いて、ふうと静かに息を吐いた。
飲みかけのコーヒーはすっかり冷めていて、口に含んでも味はしなかった。
夫は昨晩から出張だった。出発前、玄関先で「じゃあ、行ってくる」と言いかけて、それきり振り返りもせずドアを閉めた。
別に珍しいことではない。
会話は必要最低限。喧嘩もなければ、笑い声もない。
娘は高校二年生。最近はアルバイトに夢中で、夜遅く帰ってくる。話しかければスマホ越しに「うん」と答える程度。
「私、何してるんだろう」
そう思う瞬間が、ここ数年で急に増えた。
結婚して二十年。
誰かのために料理を作り、洗濯物を干し、掃除をし、スケジュールを管理してきた。
気づけば、自分の好きなことを思い出す時間さえなくなっていた。
昔は音楽があった。
ピアノに触れている時間は、自分が「自分」として存在できた。でももう、それも遠い記憶になっていた。
冷蔵庫の中に残っていた卵とキャベツで簡単に昼食を済ませ、洗い物を終えた頃、玄関の棚に差し込んでいたチケットの封筒がふと目に入った。
「たまには音楽でもどう?」
数日前、近所に住む旧友・麻子が言ってくれた言葉が蘇る。
「オーケストラのコンサート、行けなくなっちゃって。譲るから、よかったら気晴らしに行ってきなよ。」
コンサートなんて何年ぶりだろう。
コンサートホールの椅子や、オーケストラの生音、拍手の波、思い出せる感触がどれも遠い。
それでもなぜか、その日は少しだけ外の空気を吸いたくなった。
自由な一日を、何かの音で埋めたかった。
亜希子はベージュのトレンチコートを羽織り、タンスの奥にしまい込んでいた黒のパンプスを引っ張り出した。
鏡の前で一度だけ髪を整える。
“別に誰に会うわけでもない”
そう思いながら、ほんの少しだけマスカラを塗った。
午前十時を過ぎても空は明るくならず、薄暗いリビングの窓には、細く長い水の筋がいくつも流れていた。
宮田亜希子はダイニングテーブルにマグカップを置いて、ふうと静かに息を吐いた。
飲みかけのコーヒーはすっかり冷めていて、口に含んでも味はしなかった。
夫は昨晩から出張だった。出発前、玄関先で「じゃあ、行ってくる」と言いかけて、それきり振り返りもせずドアを閉めた。
別に珍しいことではない。
会話は必要最低限。喧嘩もなければ、笑い声もない。
娘は高校二年生。最近はアルバイトに夢中で、夜遅く帰ってくる。話しかければスマホ越しに「うん」と答える程度。
「私、何してるんだろう」
そう思う瞬間が、ここ数年で急に増えた。
結婚して二十年。
誰かのために料理を作り、洗濯物を干し、掃除をし、スケジュールを管理してきた。
気づけば、自分の好きなことを思い出す時間さえなくなっていた。
昔は音楽があった。
ピアノに触れている時間は、自分が「自分」として存在できた。でももう、それも遠い記憶になっていた。
冷蔵庫の中に残っていた卵とキャベツで簡単に昼食を済ませ、洗い物を終えた頃、玄関の棚に差し込んでいたチケットの封筒がふと目に入った。
「たまには音楽でもどう?」
数日前、近所に住む旧友・麻子が言ってくれた言葉が蘇る。
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それでもなぜか、その日は少しだけ外の空気を吸いたくなった。
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亜希子はベージュのトレンチコートを羽織り、タンスの奥にしまい込んでいた黒のパンプスを引っ張り出した。
鏡の前で一度だけ髪を整える。
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そう思いながら、ほんの少しだけマスカラを塗った。
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