旋律は君の鼓動

財前法一

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アンダンテ

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 午後三時過ぎ、宮田亜希子は家の鍵をかけ、傘を開いた。
 冷たい雨粒がトレンチコートの肩を静かに濡らし、アスファルトには細かな波紋が絶え間なく揺れていた。
 マンションのエントランスを出てから、駅前のホールまでは徒歩でおよそ十五分。
 いつもならスーパーかクリーニング屋に寄るだけの道のりを、今日はゆっくりと歩いていた。


 《都響 特別演奏会》
 指揮者は外国人の若手で、後半はブラームスのピアノ協奏曲第2番が演奏されるらしい。
 プログラムを見て、「ああ、あの曲」とすぐに旋律が思い出せるほど、今の亜希子はもう音楽に近しくなかった。
 かつては、音楽と一緒に暮らしていた。
 朝も夜も、鍵盤に触れない日はなかった。
 今では、その指先でスマホをいじる時間の方が、長い。

 ホールに着くと、ロビーには人の波ができていた。
 年配の夫婦、親子、カップル、それからひとりで訪れている人もちらほら。
 亜希子は受付に名前を書き、プログラムを受け取って入場列に並んだ。

 折りたたみ傘を畳みながら、ふと紙面に目を落とす。
 ——ピアノ・ソリスト:成沢奏

 目が留まった。
 成沢奏。
 “かなで”という名前の響きに、胸の奥がぴくりと反応した。

 そんな子が、いたような気がする。
 まだ亜希子がピアノ教室を開いていた頃。
 名札の文字と、泣きながらも鍵盤に向き合っていた小さな後ろ姿。

 ホールに足を踏み入れると、あの独特の空気が全身を包んだ。
 高い天井。緩やかな傾斜の座席。足音すら吸い込むような絨毯の感触。
 亜希子は中段より少し前の右寄りの席に腰を下ろした。

 舞台にはすでに椅子や譜面台が並び、奏者たちが少しずつ定位置に着いていく。
 誰もが静かに待っている。音が始まるのを。

 第一部のモーツァルトは、軽やかで整った演奏だった。
 昔よく弾いた曲だった。
 娘が小さかった頃、昼寝の横でそっと小さな音で弾いた記憶もある。
 今の生活のどこにもない時間だった。
 音楽に身を委ねていると、自分が誰なのか、少しだけ思い出せる気がした。

 休憩を挟み、舞台が再び照明を落とした頃、静かに一人の青年が現れた。シンプルな黒のスーツに、襟元はシャツの第一ボタンだけを外したまま――それが彼なりの舞台衣装だった。
燕尾服のような仰々しさはなかったが、立ち姿には不思議と品があった。

 指揮者と軽く視線を交わし、彼はピアノの前へと歩み、すっと頭を下げて腰を下ろす。

 その姿を見た瞬間、亜希子の鼓動が一拍、強く鳴った。

 成沢奏。

 舞台に座っている青年の横顔には、確かにあの泣き虫の子どもの面影があった。
 あの頃、レッスンのたびに眉間に皺を寄せて、何度も何度も同じフレーズを弾いていた。
 上達は早くなかったけれど、弾けるようになったときの笑顔は、どの子よりも明るかった。

 そんな彼が、今。
 満員のホールで、ピアノ協奏曲を弾こうとしている。
 信じられないような気持ちで、亜希子は思わず両手を組み、胸の前で軽く握った。

 ブラームスの厚い音が、オーケストラの低音部からじわじわと広がっていく。
 やがてピアノが重なる。
 まるで語りかけるように、けれど情熱を秘めた芯のある音。

 亜希子はただ、目を離せなかった。
 音楽がこんなにも瑞々しく、そして胸に迫るものだということを、どれだけ長く忘れていただろう。
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