3 / 10
アレグレット
しおりを挟む
ホールの照明がゆっくりと明るさを取り戻すころ、亜希子は拍手を止めるのが誰よりも遅れていた。
名残惜しさというよりは、まだ気持ちのどこかが現実に戻ってこれずにいた。あんな音を出せるようになったかつての教え子に対して、このレベルに至るまでどれだけの研鑽を重ねてきたのか、それを考えて素直に感動したからだ。
客席を立ち、流れに身を任せるようにロビーへと歩き出す。
周囲のざわめきが次第に広がっていく。
誰もが余韻の中にいて、それぞれの言葉で音楽をつかまえようとしていた。
亜希子は何を言うこともできず、ただ手すりに寄りかかりながら立ち止まっていた。
耳の奥には、まだ彼のピアノの余韻が残っている。
まさか、彼があんなふうに舞台に立っているなんて。
あんな音を出すようになっていたなんて。
ふと、目の前を通りかかった黒い影に視線が引かれた。
黒のスーツ。楽屋から戻ってきたばかりのような青年。
髪は舞台上で見たときよりわずかに乱れていた。
すらりとした姿。まっすぐな瞳。
目が合った瞬間、彼の歩みが止まった。
「……亜希子先生だよね?」
低く落ち着いた声。けれど、どこか驚きの色が混ざっていた。
成沢奏の表情が、一瞬で少年の頃の面影に戻った気がした。
亜希子は思わず小さく笑った。
言葉にするより先に、体が反応していた。
「……覚えててくれたのね」
声が震えるかと思ったが、意外なほどまっすぐに出た。
奏はすぐにうなずいた。
「もちろんです!亜希子先生のレッスン、今でも覚えてます。スケール練習で何度も泣かされましたけどね。」
ふっと笑って、少しだけ照れくさそうに眉尻を下げた。
「そんなこともあったかしら」
亜希子も微笑んだ。
舞台で見たあの真剣な顔とは違う、年相応の柔らかさが彼にあった。
しばらく言葉が見つからなかった。
こんな偶然が、ほんとうにあるのかと思うほど、心が追いついていなかった。
「……今日の演奏、とても素敵だったわ。、胸がいっぱいになった」
「ありがとうございます」
奏は頭を下げた。その仕草にも、どこか丁寧な“育ち”のようなものが感じられた。
「偶然、来てくれてたんですか?」
「ええ。友人からチケットをもらって。あなたが出るなんて知らなくて……びっくりした」
「僕もです。まさか先生が客席にいるなんて、想像もしてませんでした。」
二人の間に、ふわりと沈黙が落ちた。
けれどそれは重いものではなく、柔らかな空気が流れるような沈黙だった。
奏がふと周囲を見渡し、小さく声を落とす。
「よかったら……このあと、少しだけお話しできませんか」
「……ええ」
亜希子は迷わずうなずいていた。
外はまだ雨が降っていた。
でも、もう寒くは感じなかった。
名残惜しさというよりは、まだ気持ちのどこかが現実に戻ってこれずにいた。あんな音を出せるようになったかつての教え子に対して、このレベルに至るまでどれだけの研鑽を重ねてきたのか、それを考えて素直に感動したからだ。
客席を立ち、流れに身を任せるようにロビーへと歩き出す。
周囲のざわめきが次第に広がっていく。
誰もが余韻の中にいて、それぞれの言葉で音楽をつかまえようとしていた。
亜希子は何を言うこともできず、ただ手すりに寄りかかりながら立ち止まっていた。
耳の奥には、まだ彼のピアノの余韻が残っている。
まさか、彼があんなふうに舞台に立っているなんて。
あんな音を出すようになっていたなんて。
ふと、目の前を通りかかった黒い影に視線が引かれた。
黒のスーツ。楽屋から戻ってきたばかりのような青年。
髪は舞台上で見たときよりわずかに乱れていた。
すらりとした姿。まっすぐな瞳。
目が合った瞬間、彼の歩みが止まった。
「……亜希子先生だよね?」
低く落ち着いた声。けれど、どこか驚きの色が混ざっていた。
成沢奏の表情が、一瞬で少年の頃の面影に戻った気がした。
亜希子は思わず小さく笑った。
言葉にするより先に、体が反応していた。
「……覚えててくれたのね」
声が震えるかと思ったが、意外なほどまっすぐに出た。
奏はすぐにうなずいた。
「もちろんです!亜希子先生のレッスン、今でも覚えてます。スケール練習で何度も泣かされましたけどね。」
ふっと笑って、少しだけ照れくさそうに眉尻を下げた。
「そんなこともあったかしら」
亜希子も微笑んだ。
舞台で見たあの真剣な顔とは違う、年相応の柔らかさが彼にあった。
しばらく言葉が見つからなかった。
こんな偶然が、ほんとうにあるのかと思うほど、心が追いついていなかった。
「……今日の演奏、とても素敵だったわ。、胸がいっぱいになった」
「ありがとうございます」
奏は頭を下げた。その仕草にも、どこか丁寧な“育ち”のようなものが感じられた。
「偶然、来てくれてたんですか?」
「ええ。友人からチケットをもらって。あなたが出るなんて知らなくて……びっくりした」
「僕もです。まさか先生が客席にいるなんて、想像もしてませんでした。」
二人の間に、ふわりと沈黙が落ちた。
けれどそれは重いものではなく、柔らかな空気が流れるような沈黙だった。
奏がふと周囲を見渡し、小さく声を落とす。
「よかったら……このあと、少しだけお話しできませんか」
「……ええ」
亜希子は迷わずうなずいていた。
外はまだ雨が降っていた。
でも、もう寒くは感じなかった。
0
あなたにおすすめの小説
W-score
フロイライン
恋愛
男に負けじと人生を仕事に捧げてきた山本 香菜子は、ゆとり世代の代表格のような新入社員である新開 優斗とペアを組まされる。
優斗のあまりのだらしなさと考えの甘さに、閉口する香菜子だったが…
課長のケーキは甘い包囲網
花里 美佐
恋愛
田崎すみれ 二十二歳 料亭の娘だが、自分は料理が全くできない負い目がある。
えくぼの見える笑顔が可愛い、ケーキが大好きな女子。
×
沢島 誠司 三十三歳 洋菓子メーカー人事総務課長。笑わない鬼課長だった。
実は四年前まで商品開発担当パティシエだった。
大好きな洋菓子メーカーに就職したすみれ。
面接官だった彼が上司となった。
しかも、彼は面接に来る前からすみれを知っていた。
彼女のいつも買うケーキは、彼にとって重要な意味を持っていたからだ。
心に傷を持つヒーローとコンプレックス持ちのヒロインの恋(。・ω・。)ノ♡
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
ヤクザのお嬢は25人の婚約者に迫られてるけど若頭が好き!
タタミ
恋愛
関東最大の極道組織・大蛇組組長の一人娘である大蛇姫子は、18歳の誕生日に父から「今年中に必ず結婚しろ」と命じられる。
姫子の抵抗虚しく、次から次へと夫候補の婚約者(仮)が現れては姫子と見合いをしていくことに。
しかし、姫子には子どもの頃からお目付け役として世話をしてくれている組員・望月大和に淡い恋心を抱き続けていて──?
全25人の婚約者から真実の愛を見つけることはできるのか!?今、抗争より熱い戦いの幕が上がる……!!
一条さん結婚したんですか⁉︎
あさとよる
恋愛
みんなの憧れハイスペックエリートサラリーマン『一条 美郷(※超イケメン)』が、結婚してしまった⁉︎
嫁ラブの旦那様と毒舌地味嫁(花ちゃん)....とっ!その他大勢でお送りしますっ♡
((残念なイケメンの一途過ぎる溺愛♡))のはじまりはじまり〜
⭐︎本編は完結しております⭐︎
⭐︎番外編更新中⭐︎
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
悪役令嬢の心変わり
ナナスケ
恋愛
不慮の事故によって20代で命を落としてしまった雨月 夕は乙女ゲーム[聖女の涙]の悪役令嬢に転生してしまっていた。
7歳の誕生日10日前に前世の記憶を取り戻した夕は悪役令嬢、ダリア・クロウリーとして最悪の結末 処刑エンドを回避すべく手始めに婚約者の第2王子との婚約を破棄。
そして、処刑エンドに繋がりそうなルートを回避すべく奮闘する勘違いラブロマンス!
カッコイイ系主人公が男社会と自分に仇なす者たちを斬るっ!
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる