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ルバート
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コンサートホールの正面玄関を出たとき、雨はまだ降り続いていた。
だが、開演前よりも粒は細かく、冷たさも和らいでいた。
亜希子は折りたたみ傘を開きながら、少しだけ顔を上げた。
雲の切れ間から、ぼんやりと月が透けて見える。さっきまで舞台で響いていた旋律が、今も胸の奥で鳴っている気がした。
傍らには成沢奏がいた。
黒のスーツに身を包み、手にはケースも何も持たず、ただまっすぐ亜希子を見ていた。
「近くに、落ち着けるバーがあるんです。よかったら少しだけ」
彼はそう言って、小さく首を傾けた。
まるで、あの日ピアノの前で難しい譜読みを前に「ここ、先生と一緒に見てもいいですか」と言ってきたときと同じような、遠慮がちな眼差しだった。
亜希子はうなずいた。
特別な理由はなかった。ただ、「断る理由」が思いつかなかった。
店の名前は《Angela》という。
細い路地の奥にあるそのバーは、街の喧騒から外れたところにひっそりと存在していた。
看板は控えめで、外からは中の様子が見えない。けれど、一歩入ると木の温もりと静かなジャズが迎えてくれる。
「昔、リハーサル終わりによく来てたんです。演奏がうまくいった日は、ここでひとり祝杯。うまくいかなかった日は、まあ……もう一杯って感じで。」
奏はそう言って、店の奥のテーブル席に案内してくれた。
ふたりの前に置かれたのは、彼が頼んだウィスキーと、亜希子のジンバック。
氷がグラスに触れる音だけが、しばらくふたりの間を満たしていた。
「……本当に、大人になったのね。お酒、飲めるなんてね。」
「あはは、27歳なんだし当然ですよ。まぁ実はお酒よりもコーラが好きだったりするんですが、今日は先生の前だからちょっとかっこつけてます。」
奏は子どものような目で、亜希子を見つめながら言った。
「今日のあなたを見て、もう私の知らない“あなた”が、こんなに遠くまで行ってたんだって…ちょっと、驚いた」亜希子がぽつりとこぼした。
奏はグラスを少し回してから、静かに目を伏せた。
「でも、先生が教えてくれたこと、僕の中ではまだちゃんと生きてます。というか僕の基礎は先生が教えてくれたもので成り立ってますからね!」
奏はえっへんと言わんばかりに自慢気にそう言った。
「そんなふうに言われると、なんだか、嬉しいような、気恥ずかしいような……」
「僕、あの頃、ピアノが好きだったっていうより、先生に会うのが好きだったんだと思います。」
「……」
「先生の前では、うまくできなくても、責められることがなかった。間違えても、もう一回、って言ってくれた。……あの安心感がなかったら、続けられなかったと思いますよ。だからピアノを好きになれたのも亜希子先生がいたからです。」
亜希子は返す言葉が見つからず、指先でグラスを軽く撫でた。
そんなふうに思っていてくれたことを、今になって知るとは思わなかった。
今の自分にはもうない“誰かの原点になれた日々”が、確かにそこにあったのだと気づかされた。
「先生は……今もピアノ、弾いてますか?」
その問いに、彼女は少しだけ目を伏せた。
「もう、ほとんど触ってないわ…」
「えー!もったいない!」
「そうね。弾けない言い訳ばっかり、うまくなった気がする…」
「……でも、今日、聴いてくれてたんですよね」
「ええ」
「だったら、少しでも……何か、思い出してもらえたり、先生にとってプラスアルファになれたなら、僕はよかったなって思います。」
ジャズの音が、小さく転調した。
彼は静かにグラスを置いて、彼女の方を見つめた。
「先生に……もう一度だけ、ちゃんと聴いてもらえて、よかったです」
「……こちらこそ、こんな夜に出会えて良かったわ。ありがとう。」
ふたりは言葉少なに、けれど穏やかに笑い合った。
外の雨は止んでいた。
窓の向こうには、また少し月が顔を出している。
だが、開演前よりも粒は細かく、冷たさも和らいでいた。
亜希子は折りたたみ傘を開きながら、少しだけ顔を上げた。
雲の切れ間から、ぼんやりと月が透けて見える。さっきまで舞台で響いていた旋律が、今も胸の奥で鳴っている気がした。
傍らには成沢奏がいた。
黒のスーツに身を包み、手にはケースも何も持たず、ただまっすぐ亜希子を見ていた。
「近くに、落ち着けるバーがあるんです。よかったら少しだけ」
彼はそう言って、小さく首を傾けた。
まるで、あの日ピアノの前で難しい譜読みを前に「ここ、先生と一緒に見てもいいですか」と言ってきたときと同じような、遠慮がちな眼差しだった。
亜希子はうなずいた。
特別な理由はなかった。ただ、「断る理由」が思いつかなかった。
店の名前は《Angela》という。
細い路地の奥にあるそのバーは、街の喧騒から外れたところにひっそりと存在していた。
看板は控えめで、外からは中の様子が見えない。けれど、一歩入ると木の温もりと静かなジャズが迎えてくれる。
「昔、リハーサル終わりによく来てたんです。演奏がうまくいった日は、ここでひとり祝杯。うまくいかなかった日は、まあ……もう一杯って感じで。」
奏はそう言って、店の奥のテーブル席に案内してくれた。
ふたりの前に置かれたのは、彼が頼んだウィスキーと、亜希子のジンバック。
氷がグラスに触れる音だけが、しばらくふたりの間を満たしていた。
「……本当に、大人になったのね。お酒、飲めるなんてね。」
「あはは、27歳なんだし当然ですよ。まぁ実はお酒よりもコーラが好きだったりするんですが、今日は先生の前だからちょっとかっこつけてます。」
奏は子どものような目で、亜希子を見つめながら言った。
「今日のあなたを見て、もう私の知らない“あなた”が、こんなに遠くまで行ってたんだって…ちょっと、驚いた」亜希子がぽつりとこぼした。
奏はグラスを少し回してから、静かに目を伏せた。
「でも、先生が教えてくれたこと、僕の中ではまだちゃんと生きてます。というか僕の基礎は先生が教えてくれたもので成り立ってますからね!」
奏はえっへんと言わんばかりに自慢気にそう言った。
「そんなふうに言われると、なんだか、嬉しいような、気恥ずかしいような……」
「僕、あの頃、ピアノが好きだったっていうより、先生に会うのが好きだったんだと思います。」
「……」
「先生の前では、うまくできなくても、責められることがなかった。間違えても、もう一回、って言ってくれた。……あの安心感がなかったら、続けられなかったと思いますよ。だからピアノを好きになれたのも亜希子先生がいたからです。」
亜希子は返す言葉が見つからず、指先でグラスを軽く撫でた。
そんなふうに思っていてくれたことを、今になって知るとは思わなかった。
今の自分にはもうない“誰かの原点になれた日々”が、確かにそこにあったのだと気づかされた。
「先生は……今もピアノ、弾いてますか?」
その問いに、彼女は少しだけ目を伏せた。
「もう、ほとんど触ってないわ…」
「えー!もったいない!」
「そうね。弾けない言い訳ばっかり、うまくなった気がする…」
「……でも、今日、聴いてくれてたんですよね」
「ええ」
「だったら、少しでも……何か、思い出してもらえたり、先生にとってプラスアルファになれたなら、僕はよかったなって思います。」
ジャズの音が、小さく転調した。
彼は静かにグラスを置いて、彼女の方を見つめた。
「先生に……もう一度だけ、ちゃんと聴いてもらえて、よかったです」
「……こちらこそ、こんな夜に出会えて良かったわ。ありがとう。」
ふたりは言葉少なに、けれど穏やかに笑い合った。
外の雨は止んでいた。
窓の向こうには、また少し月が顔を出している。
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