旋律は君の鼓動

財前法一

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モデラート

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 バー《Angela》の前で、ふたりは言葉を探していた。

 「……今日は、ありがとうございました。久しぶりに先生に会えて嬉しかった。」

 先に口を開いたのは奏だった。
 黒のスーツのまま、少し猫背になっている。彼はもう少年ではないのに、目だけは、あの頃と変わらなかった。

 亜希子はゆっくりとうなずいた。
 「こちらこそ。こんな偶然……ううん、奇跡みたいな夜だったわ。」

 言い終えてから少し恥ずかしくなり、目をそらす。
 亜希子の手元には、小さなクラッチバッグだけ。彼は傘を持っていたが、開く気配はない。
 空を見上げると、雨はほとんど止んでいて、雲の切れ間から、ぼんやりと月が浮かんでいた。

 「先生」

 「……うん?」

 「また、会えたらうれしいです」

 そのひと言が、夜気に溶けた。
 すぐに返事はせず、けれど拒まなかった。ふたりの間に、静かな約束のようなものが残った。

 別れ際、亜希子は少しだけ振り返って彼を見た。
 街灯の下、彼は何も言わず、小さく手を挙げた。



 翌朝。
 亜希子は、カーテン越しの光で目を覚ました。

 思ったよりよく眠れたのは、疲れていたからか、あるいは——。
 ベッドのもう半分は空っぽだった。夫は今も大阪での出張中だ。

 リビングに降り、キッチンでコーヒーを淹れる。
 その香りと音のなかで、昨夜の会話がゆっくりとよみがえってくる。
 奏の笑顔。低い声。グラスの向こうにあった、温かい記憶。

 そのまま朝食の準備に取りかかると、階段を下りる足音が聞こえた。
 娘の沙織が、制服姿で現れる。

 「おはよ。……あれ、いつもより早いじゃん。」

 「おはよう。ちょっと目が覚めちゃって」
 「ふーん。」

 パンを焼きながら短い会話をする。こういう朝は、案外久しぶりかもしれない。
 テーブルに座った沙織が、不意に顔を上げて言った。

 「昨日、どこ行ってたの?」

 「……コンサート。クラシックの、オーケストラ」

 「え、すご。なんか意外」
 「たまたまチケットもらって。気晴らしね」
 「ふーん。でも、帰ってきたときちょっと……なんか、雰囲気違った」

 「そうかしら」

 トーストが焼ける音が、ちょうど会話を切った。
 皿を置きながら、沙織がもう一度ちらりと母を見た。

 「なんかあった?」

 「別に……ちょっと、いい演奏だっただけよ。久しぶりに、音楽ってすごいなって思った」

 「へぇ」

 沙織はそれ以上何も言わなかった。
 ただ、黙ってトーストをかじった。

 ふたりの間に流れる空気は、穏やかで、それでいて微かに変化をはらんでいた。



 沙織を送り出したあと、亜希子はひとり、リビングの隅に目をやった。

 そこには、古びたアップライトピアノが置かれている。
 娘が幼いころは、よく一緒に歌っていた。けれど今はもう、布をかけたままになっていた。

 そっと蓋を開ける。
 白鍵に指を乗せる。冷たい。けれど、懐かしい。

 ゆっくり、音をひとつだけ鳴らす。
 昨日の夜に戻るような、あるいはずっと前の自分に戻るような、そんな一音。

 そのとき、スマートフォンが震えた。
 テーブルの上で画面が光り、“成沢奏”という名前が表示されていた。

 《昨日は、ありがとうございました。また、聴いてもらえる日が来たら嬉しいです。》

 短いメッセージ。
 けれど、ピアノの音よりもまっすぐに心に響いた。
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