5 / 10
モデラート
しおりを挟む
バー《Angela》の前で、ふたりは言葉を探していた。
「……今日は、ありがとうございました。久しぶりに先生に会えて嬉しかった。」
先に口を開いたのは奏だった。
黒のスーツのまま、少し猫背になっている。彼はもう少年ではないのに、目だけは、あの頃と変わらなかった。
亜希子はゆっくりとうなずいた。
「こちらこそ。こんな偶然……ううん、奇跡みたいな夜だったわ。」
言い終えてから少し恥ずかしくなり、目をそらす。
亜希子の手元には、小さなクラッチバッグだけ。彼は傘を持っていたが、開く気配はない。
空を見上げると、雨はほとんど止んでいて、雲の切れ間から、ぼんやりと月が浮かんでいた。
「先生」
「……うん?」
「また、会えたらうれしいです」
そのひと言が、夜気に溶けた。
すぐに返事はせず、けれど拒まなかった。ふたりの間に、静かな約束のようなものが残った。
別れ際、亜希子は少しだけ振り返って彼を見た。
街灯の下、彼は何も言わず、小さく手を挙げた。
⸻
翌朝。
亜希子は、カーテン越しの光で目を覚ました。
思ったよりよく眠れたのは、疲れていたからか、あるいは——。
ベッドのもう半分は空っぽだった。夫は今も大阪での出張中だ。
リビングに降り、キッチンでコーヒーを淹れる。
その香りと音のなかで、昨夜の会話がゆっくりとよみがえってくる。
奏の笑顔。低い声。グラスの向こうにあった、温かい記憶。
そのまま朝食の準備に取りかかると、階段を下りる足音が聞こえた。
娘の沙織が、制服姿で現れる。
「おはよ。……あれ、いつもより早いじゃん。」
「おはよう。ちょっと目が覚めちゃって」
「ふーん。」
パンを焼きながら短い会話をする。こういう朝は、案外久しぶりかもしれない。
テーブルに座った沙織が、不意に顔を上げて言った。
「昨日、どこ行ってたの?」
「……コンサート。クラシックの、オーケストラ」
「え、すご。なんか意外」
「たまたまチケットもらって。気晴らしね」
「ふーん。でも、帰ってきたときちょっと……なんか、雰囲気違った」
「そうかしら」
トーストが焼ける音が、ちょうど会話を切った。
皿を置きながら、沙織がもう一度ちらりと母を見た。
「なんかあった?」
「別に……ちょっと、いい演奏だっただけよ。久しぶりに、音楽ってすごいなって思った」
「へぇ」
沙織はそれ以上何も言わなかった。
ただ、黙ってトーストをかじった。
ふたりの間に流れる空気は、穏やかで、それでいて微かに変化をはらんでいた。
⸻
沙織を送り出したあと、亜希子はひとり、リビングの隅に目をやった。
そこには、古びたアップライトピアノが置かれている。
娘が幼いころは、よく一緒に歌っていた。けれど今はもう、布をかけたままになっていた。
そっと蓋を開ける。
白鍵に指を乗せる。冷たい。けれど、懐かしい。
ゆっくり、音をひとつだけ鳴らす。
昨日の夜に戻るような、あるいはずっと前の自分に戻るような、そんな一音。
そのとき、スマートフォンが震えた。
テーブルの上で画面が光り、“成沢奏”という名前が表示されていた。
《昨日は、ありがとうございました。また、聴いてもらえる日が来たら嬉しいです。》
短いメッセージ。
けれど、ピアノの音よりもまっすぐに心に響いた。
「……今日は、ありがとうございました。久しぶりに先生に会えて嬉しかった。」
先に口を開いたのは奏だった。
黒のスーツのまま、少し猫背になっている。彼はもう少年ではないのに、目だけは、あの頃と変わらなかった。
亜希子はゆっくりとうなずいた。
「こちらこそ。こんな偶然……ううん、奇跡みたいな夜だったわ。」
言い終えてから少し恥ずかしくなり、目をそらす。
亜希子の手元には、小さなクラッチバッグだけ。彼は傘を持っていたが、開く気配はない。
空を見上げると、雨はほとんど止んでいて、雲の切れ間から、ぼんやりと月が浮かんでいた。
「先生」
「……うん?」
「また、会えたらうれしいです」
そのひと言が、夜気に溶けた。
すぐに返事はせず、けれど拒まなかった。ふたりの間に、静かな約束のようなものが残った。
別れ際、亜希子は少しだけ振り返って彼を見た。
街灯の下、彼は何も言わず、小さく手を挙げた。
⸻
翌朝。
亜希子は、カーテン越しの光で目を覚ました。
思ったよりよく眠れたのは、疲れていたからか、あるいは——。
ベッドのもう半分は空っぽだった。夫は今も大阪での出張中だ。
リビングに降り、キッチンでコーヒーを淹れる。
その香りと音のなかで、昨夜の会話がゆっくりとよみがえってくる。
奏の笑顔。低い声。グラスの向こうにあった、温かい記憶。
そのまま朝食の準備に取りかかると、階段を下りる足音が聞こえた。
娘の沙織が、制服姿で現れる。
「おはよ。……あれ、いつもより早いじゃん。」
「おはよう。ちょっと目が覚めちゃって」
「ふーん。」
パンを焼きながら短い会話をする。こういう朝は、案外久しぶりかもしれない。
テーブルに座った沙織が、不意に顔を上げて言った。
「昨日、どこ行ってたの?」
「……コンサート。クラシックの、オーケストラ」
「え、すご。なんか意外」
「たまたまチケットもらって。気晴らしね」
「ふーん。でも、帰ってきたときちょっと……なんか、雰囲気違った」
「そうかしら」
トーストが焼ける音が、ちょうど会話を切った。
皿を置きながら、沙織がもう一度ちらりと母を見た。
「なんかあった?」
「別に……ちょっと、いい演奏だっただけよ。久しぶりに、音楽ってすごいなって思った」
「へぇ」
沙織はそれ以上何も言わなかった。
ただ、黙ってトーストをかじった。
ふたりの間に流れる空気は、穏やかで、それでいて微かに変化をはらんでいた。
⸻
沙織を送り出したあと、亜希子はひとり、リビングの隅に目をやった。
そこには、古びたアップライトピアノが置かれている。
娘が幼いころは、よく一緒に歌っていた。けれど今はもう、布をかけたままになっていた。
そっと蓋を開ける。
白鍵に指を乗せる。冷たい。けれど、懐かしい。
ゆっくり、音をひとつだけ鳴らす。
昨日の夜に戻るような、あるいはずっと前の自分に戻るような、そんな一音。
そのとき、スマートフォンが震えた。
テーブルの上で画面が光り、“成沢奏”という名前が表示されていた。
《昨日は、ありがとうございました。また、聴いてもらえる日が来たら嬉しいです。》
短いメッセージ。
けれど、ピアノの音よりもまっすぐに心に響いた。
0
あなたにおすすめの小説
課長のケーキは甘い包囲網
花里 美佐
恋愛
田崎すみれ 二十二歳 料亭の娘だが、自分は料理が全くできない負い目がある。
えくぼの見える笑顔が可愛い、ケーキが大好きな女子。
×
沢島 誠司 三十三歳 洋菓子メーカー人事総務課長。笑わない鬼課長だった。
実は四年前まで商品開発担当パティシエだった。
大好きな洋菓子メーカーに就職したすみれ。
面接官だった彼が上司となった。
しかも、彼は面接に来る前からすみれを知っていた。
彼女のいつも買うケーキは、彼にとって重要な意味を持っていたからだ。
心に傷を持つヒーローとコンプレックス持ちのヒロインの恋(。・ω・。)ノ♡
ヤクザのお嬢は25人の婚約者に迫られてるけど若頭が好き!
タタミ
恋愛
関東最大の極道組織・大蛇組組長の一人娘である大蛇姫子は、18歳の誕生日に父から「今年中に必ず結婚しろ」と命じられる。
姫子の抵抗虚しく、次から次へと夫候補の婚約者(仮)が現れては姫子と見合いをしていくことに。
しかし、姫子には子どもの頃からお目付け役として世話をしてくれている組員・望月大和に淡い恋心を抱き続けていて──?
全25人の婚約者から真実の愛を見つけることはできるのか!?今、抗争より熱い戦いの幕が上がる……!!
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
一条さん結婚したんですか⁉︎
あさとよる
恋愛
みんなの憧れハイスペックエリートサラリーマン『一条 美郷(※超イケメン)』が、結婚してしまった⁉︎
嫁ラブの旦那様と毒舌地味嫁(花ちゃん)....とっ!その他大勢でお送りしますっ♡
((残念なイケメンの一途過ぎる溺愛♡))のはじまりはじまり〜
⭐︎本編は完結しております⭐︎
⭐︎番外編更新中⭐︎
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ヤンデレ王子を闇落ちから救ったら愛執まみれの独占欲に囚われました
大江戸ウメコ
恋愛
幼い頃に精霊の祝福である未来視の力が開花し、「夫である第二王子ナハルドに殺される」という己の運命を知った伯爵令嬢ツィーラ。この悲惨な未来を変えるべく、ツィーラは彼を避けようとしたが、ひょんなことから婚約者に選ばれてしまった! ならば、ナハルドが将来闇落ちしないよう、側で彼を支えることを決意する。そんな努力の甲斐あって、ツィーラへの好意を隠さず伝えてくるほど、ナハルドとの関係は良好になった。だけど、彼の並々ならぬ執着心のすべてを、ツィーラはまだ知らなくて――
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる