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第一章 今日から三年生
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裕子は膝を立て、膝に手を置き、ゆっくりと、立ち上がった。
全身を襲う疲労に息を切らせ、関節をへらでほじくられるような激痛に、顔を歪めている。
顔を歪めながら、胸に思う。
自分は、一体なんだって、こんなことをしているのだろう。
決まっている。
好きだからだ。
みんなと、喜び合いたいからだ。
ひょこひょこと、片足を庇うようにして、裕子は歩いている。
ただ立っていることすら辛い。
限界を越えて酷使しているそんな肉体を、気力が支えている。ともすれば萎えかけるその気力を、執念が支えている。
きりきりと、錆びたブリキ人形のように首を動かし、周囲を見回した。
みんな、へとへとだ。
この連戦だ。当然だろう。
自分たちだけではない。
境東学館の選手たちも、息があがってきている。
辛い時には相手だって自分と同じくらい辛い。こういう時に、よく使われる台詞である。
しかし……
仲間たちの顔を見る。
武田直子、
久慈要、
生山里子、
武田晶、
ここに立つ仲間たちの表情、誰一人として諦めていない。
既に限界まで肉体を酷使しているというのに。
リードを許している状況だというのに。
もう、時間が残り少ないというのに。
誰も、諦めていない。
嬉しくなってくる。
もう尽き果てたと思っていた力、まだまだ、湧き上がってくる。
ピッチの中だけではない。
「これからこれから!」
「相手もばててるよ!」
衣笠春奈や、星田育美、篠亜由美らベンチメンバー、そして梶尾花香や深山ほのかといった登録外の部員たちが、思い思いに力一杯叫び、全力で応援をしている。
裕子は霞む視界にふらふらとしながらも、わずかに、目を細めた。
わずかに、口元に笑みを浮かべた。
ベンチにいる西村奈々の顔を見る。
ぽーっとした表情の奈々であったが、裕子の視線に気づくと、まるで幼児のように破顔した。
裕子は奈々の顔を見ながら自分の胸を拳で強く叩くと、次いで小さくガッツポーズを作った。
武田晶のゴールクリアランスで試合再開。
晶は、軽く助走を付け、右手に持ったボールを強く放り投げた。
ボールの落下地点へ走り寄り、腿を上げてトラップする裕子。
足首の筋が切れそうだ。
いまこの瞬間に、ぶつっと嫌な音が聞こえてきたとしても、なんら不思議ではない。
自分の身体に祈った。
足、もうちょっとだけもってくれ。これが、最後の試合なんだ。だから。
境東学館の矢島彰子が詰め寄ってくる。
彼女も相当に疲労しているはずだが、主将としての意地があるのか、表情からはまったく分からない。だが、試合開始時よりも明らかに動きが鈍くなっている。
裕子は里子へとパス、と見せかけ反対方向へちょんと蹴り、矢島彰子を抜き去った。
この連戦、向こうだって疲れている。足が止まってきている。ここで踏ん張らなかったら、一生後悔する。
だから、頑張れ、自分、頑張れ、足。
裕子はスペースを見つけて、大きなタッチでボールを転がす。そして、全力疾走に入った。
かつて経験したことのないような凄まじい激痛に襲われた。
しかし裕子は、そんなくだらないことを気にしている暇はないと一蹴。むしろ、この痛みすらも前への推進力へと変換し、走る、走る。
連動し、里子たちもぐんぐんと上がって行く。
「逆転するぞ!」
裕子は吼えた。
第一章 今日から三年生
1
山野裕子の朝の様子を一言で表すならば、多忙。
ただ、何故に多忙かを客観的冷淡に一言で表すならば、自業自得。
今日もそんな、裕子にとっての普段通りの朝を迎えていた。
「やべ、遅刻する! ったく、あのクソ目覚まし!」
裕子は、母である静江の目の前を、ほとんど裸に近いような格好で、ブラウスに袖を通しながら走り過ぎ、洗面所へと姿を消す。
「どたどた走りながら着替えるんじゃないよ! はしたない。お前は女の子なんだよ! それに目覚ましはちゃんと鳴っていたし、お母さんだって起こしたよ」
「起きなきゃ意味ねえ!」
洗面所から、裕子の叫び声。
「クソガキが」
静江は、両手にフライパンと鍋のフタをそれぞれ持ったまま、いかり肩で洗面所の方へと小走りで向かって行った。
数秒後、洗面所から、
ガン、
と金属でなにかをぶん殴ったような音が聞こえてきた。
ちょっとスッキリしたような顔で、静江が戻ってきた。
「お父さんも注意してよね。本当にあの子、お行儀が悪いんだから」
父は一番に食卓に着いており、新聞に隠れるように顔をぴったりくっつけている。
近眼のため普段からこんな読み方だが、妻の怖いところを見てしまうと、このようにさらに顔と新聞の距離が狭まるのである。
「ああ、忙しい忙しい」
裕子は洗面所から戻ってくると、朝食の並べられている食卓へと着いた。
「あと十分早く起きればいいところを、自分で勝手に忙しくしてんでしょ」
「はいはい。以後気をつけまーす」
「今夜は早く寝んだよ」
「はいはーい」
裕子は毎夜毎夜、母からは早く寝なさいと小言をいわれているのだが、いうことを聞いたためしがない。
早く寝ようが遅く寝ようが、どうせ朝は眠いのだから、と。
「今日も朝から騒々しいなあ」
あくびを噛み殺しながら、裕子の兄である孝が入って来た。
「兄貴オッス」
「はい。オッス」
パン、と二人は手の平を打ち合わせた。
せかせかしている裕子と比べて、口調からも態度からもいかにものんびりとした様子の孝である。
もう一度あくびをすると、裕子に続いて席に着いた。
「そんじゃあ、いっただきまーす!」
裕子は、食卓に並べられたご飯に手をつけた。
朝は米。
母のポリシーにより、山野家の朝は平日休日和食洋食を問わず、ご飯が必ず出る。
今日は和食である。
テーブルの上には、ご飯に味噌汁、焼き魚、玉子焼き、海苔に筑前煮、納豆、お新香。と、緑茶。
裕子は、驚異的な速度で食べ進めていく。
ろくに咀嚼をせずに、次から次へと飲み込んでいく。
ぐおっ、と唸り、苦しそうな表情で、お茶や味噌汁を口に流し込み、胸をどんどんと叩く。と、もう速度全開で食事を再開している。
「朝ご飯食べてかない方が、よっぽど健康的なんじゃないの?」
寝起きに凄まじい光景を見せられて、げんなり顔の兄貴である。
「兄貴、知らないの? 朝はちゃんと食べた方が成績がいいんだよ」
「あんたは、これ以上悪くなりようないでしょ!」
静江が横槍を入れた。
「三者面談では、お母さん思ってることきっちりと先生に相談して、びしびしやってもらうようお願いしますからね。日にちが決まったら教えなさいよ。この間みたく内緒にして、ウチの親来られなくなりましたなんて先生にも嘘ついてたりしたら承知しないよ」
「ごちそうさまでしたあ! おいしかったでーす! ババうるせっ。もう行かないと電車間に合わないや。よいしょっと」
裕子は立ち上がると、足元のカバンを手に取った。
「歯磨きは? あと、どさくさに紛れてなんかいわなかった?」
「別になんも。ほんとに時間ないから、歯磨きパス。それに、育ち盛りの裕子ちゃんはまだ食い足りないのでーす」
と、電子レンジの上に置いてある平たいバスケットから、食パン一枚を抜き取った。
「だからお母さん、早く起こしたのに。もう。あんたは今日から三年生なんだからね」
「はーい」
裕子はのろのろ玄関に行き、靴を履いた。
「最上級生があんなんでいいのかしらねえ」
「髪の毛伸ばし始めて、見た目が随分かわいらしくなったと思ったけど、やっぱり裕子は裕子か。まあ、パンが二枚でパンツーなんて下品な駄洒落をあまりいわなくなっただけ、進歩か」
ダイニングから、母と兄の会話が聞こえて来る。
好き勝手いいやがって、あいつら。
「そんなセンスのない駄洒落いったこと一度もねーよ! それじゃ、行ってきまーす!」
裕子は玄関のドアを開けた。
2
風が吹き抜ける。
青い稲穂の海が、視界一杯に広がる。
ここは、千葉県香取市にある四階建てマンションの四階だ。
周辺は今後発展予定とのことだが、現在のところ、全方位広大な田園地帯に囲まれている。
見晴らしは抜群によいけれど、田んぼばかりなのはどうにも味気ない。
電車が一時間に一本か二本という、辺鄙なところなのでどうしようもないのであるが。
裕子は制服のスカート翻し、階段を降り始める。
マンションにエレベーターはあるが、呼んで待っている時間諸々を考えると階段を駆け降りた方がよっぽど早いのだ。
一階エントランスに到着。
オートロックのドアを通り抜け、外へと出る。
パンを口にくわえると、走り出した。
ショートカットにしたさらさらの髪の毛が、風になびく。
つい最近までは、男子の野球部員か柔道部員かというくらいに髪の毛を短くしていたのだが、「就職面接に響くかもよ」と兄貴にいわれて、ちょっと試しに伸ばしているのである。
もうちょっと伸ばしてみる予定だけど、それがしっくりこなかったら、採用試験を待たずして元に戻すつもりだ。
元どころか、スキンヘッドにしてもいいくらいだ。
長い髪の毛は、どうにも鬱陶しいばかりで好きじゃないのだ。
でもまあ、最近は学校のトイレに入っても女子が驚かなくなったので、それは嬉しいけど。
裕子は、高校を卒業したらすぐに就職するつもりでいる。
勉強するつもりがなくても高校は出ておくべきだと思うけど、勉強するつもりがないなら大学は意味がない、と考えているから。
大学で勉強以外の色々を学ぶことも大切かも知れないけど、そのためだけに親から学費を出してもらうのは忍びないし、自分で払うくらいなら、そもそも興味がないのだから行く必要はないだろう、という考えだ。
広大な田んぼを突っ切り終え、小さな住宅街へと入った。ここを抜ければ、もう香取駅が見えてくる。
非常に見晴らしのよい道なので、裕子はいささかもスローダウンすることなく爆走を続けている。
見晴らし云々よりもなによりも、目を見張るべきは裕子の驚異的な体力であろうか。
カバンとバッグをそれぞれ手にして、十分近くも速度を落とさず走り続けているのだから。
しかも器用なことに、手をまったく使わずに、口にしたパンを食べながら。
駅までの、いつもの道を走り抜けていく裕子。
いつもとなんの変化もない通学風景。
変わったのは、わたしの方。
裕子は思った。
今日から、高校三年生になったのだから。
春、
桜、
クラス替え、
そして、素敵な出会い。……あると、いいな。恋愛の出会いだけでなく、色々とさ。
といいつつも、恋愛比重の方が圧倒的に高いけど。いいじゃん、単なる願望だ。
食パンをかじりながら全力疾走の裕子。妄想に、顔がちょっとニヤけている。
あと二度ほど角を曲がると、住宅街を抜けて、ロータリーや駅舎が見えてくる。
野生味たっぷりなフォームで爆走しながらも、裕子はまだ乙女チックな想像を続けていた。食パンくわえながら。
少女漫画の一話目なんかだとさあ、こういうさあ、かわいい主人公の女の子が新しい気持ちで爽やかに登校してるシーンって、角を曲がったところで素敵ななにかが起きちゃったりなんかするよね。
あたしいま第一話!
心に叫びつつ、裕子は角を曲がった。
バキュームカーが爆走してきた。
ひき殺されそうになり「ぎゃー」と絶叫しつつ、なんとか横っ飛びでかわし、バレーボールの回転レシーブのように転がった。
慣性の法則で自分と一緒に横っ飛びして落下する食べかけの食パンを、しっかり掴んだのはいいが、さらにそこへ老人の乗った自転車が突っ込んで来た。
老人は裕子を避けようと急ハンドルを切ったため、転倒しかける。
裕子は素早く起き上がると、カゴとハンドルを掴んで倒れかけた自転車を持ち前の怪力でなんとか支えた。
過ぎ去りてみれば、すべて事もなし。
裕子と老人、安堵のため息。
「飛び出しちゃってごめんね吉田さん、大丈夫? じゃ、急ぐから」
吉田さんはこの辺りに夫婦二人で暮らしている老人で、この時間によく散歩をしているため、いつの間にか顔を見れば挨拶する仲なのである。
走りながら、不意にガクッと崩折れる裕子。頭に激痛を感じた。
もしかしたら、さっき車にかすったかな。
いいや、あとあと。
と、カバンを拾い、また走り出した。
「元気だな裕子ちゃんは」
吉田さんが、後ろから声をかけた。
「だって、それしか取り柄ないもん」
裕子は、住宅街を走り抜けた。
香取駅のホームに、成田方面への電車が入って来るのが見えた。
「やば。加速装置!」
裕子は叫んだ。
足の回転にターボエンジンのごとき急加速がかかり、爆音が空気をつんざき、一瞬にしてロータリーを突っ切った。
もう十分早く起きればいいのに。
毎日進歩のない裕子の慌てっぷりに、きっと駅員さんも、いや駅舎も電車も、空にぽっかり浮かんだ白い雲さえも、そう思っていることだろう。
3
始業式を終えた佐原南高校の生徒たちが、次々と体育館から出て来る。
新二年生と、新三年生だ。
通路を通り、校舎へと入り、それぞれの、これから一年間を過ごすことになる新たな教室へと向う。
騒々しいが、しかし爽やかな熱気に溢れた、そんな光景。
笑顔で冗談をかわし合う者、
よい一年にしようと内面に闘志を抱く者、
なんだか新鮮さが嬉しくて、とにかく我を忘れて騒ぎまくる者。
それぞれに、思い思いのことを胸に描く生徒たち。そんな者たちでぎっちりぎっちり溢れかえっている廊下を、山野裕子は、同じ部活の仲間である武田晶と並んで歩いている。
武田晶。
真ん丸顔が印象的で、裕子によくジャガイモ顔などといわれてからかわれている女生徒である。
「晶ちゃ~ん、一緒のクラスになれてよかったねー」
裕子は晶に肩を寄せ、可愛らしく小首を傾げた。
「どうでもいい」
晶は裕子にちらりと視線をやることすらもせず、真正面。無表情のままぼそりと呟いた。
裕子の表情が、一瞬、ぴくりと変化する。
無言のまま歩き続ける二人。
数秒後、
「ネクラ女!」
裕子は叫び声をあげると、晶の身体へ真横から容赦のないショルダータックルを食らわせていた。
まったく予想もしていなかった事態に、受け身すら取れずに、ぶざまに壁に激突する晶。顔面を強打してしまう。
「なにすんだよ、王子! こういうわけの分からないことしてくるから、一緒のクラスになるの嫌だったんだ!」
さすがにムカっ腹が立ったか、晶は、裕子にまったく同じことをやり返す。
いや、攻撃失敗。
反撃を予期していた裕子は、闘牛士よろしくひらりとかわすと、晶の肩に両手を置いて、攻撃の勢いを利用して弾き飛ばした。
晶は、斜め前方を歩いていた教頭先生の背中に体当たりしてしまった。
「こら! 武田、ふざけてるんじゃない!」
「すみません……」
晶はちょっと不満顔で、肩を縮め謝った。
なんでわたしが謝らないといけないんだよ。と、そんな表情で、裕子の顔を睨みつけた。
「そこの君ぃ、先生に乱暴はいけないよ」
しらじらしい真顔で注意をする裕子。
晶はため息。前を向いた。なにもしないのが一番いい、と諦めたのだろう。
仲の良いのか悪いのか、よく分からない二人である。
しかし、たとえ晶が嫌がろうとも駄々をこねようとも、当面は縁の切れることはないのだが。何故なら二人は、同じ部の部長と副部長という関係だからだ。
「早く王子と無関係になりたいよ。部活でも散々な目にあわされているのに、なんでクラスまで……」
晶は、なおも小声でぶつぶつと不満の言葉を並べている。
なお、王子というのは裕子のあだ名である。
以前の裕子は、とにかく髪の毛が短かった。顔立ちそのものは女の子として整っている方なので、美少年みたいということで、いつしか王子と呼ばれることになったのである。
この冬から髪の毛を伸ばし始めており、まだまだ短めな方ではあるものの、スポーツをやっている女子としては特に珍しくもない長さになってきている。
伸ばし始めた理由は、就職を考えて兄の助言に従ったものである。
鬱陶しくて鬱陶しくて、就職なんかどうでもいいからバッサリ切ってしまいたいと思うこと度々であるが、我慢している理由がもう一つある。
髪が多少伸びてメンズヘアから脱却してきた頃に、生まれて初めて男子から告白されたのである。
しかし、まったく好みでないタイプだったので、「髪伸びたら寄ってきやがって。外側しか見てないんか!」と、怒って蹴飛ばして、断ってしまったのだが。
好みの顔だったら絶対OKしてたのにな。
と、自分も外見でしか判断していないことに気付いていない裕子であった。
その後、これはストライクゾーンだという男子と学校のイベントを通して、良い雰囲気になりそうという兆しがあったのだが、兆しのうちに相手に逃げられてしまった。
裕子がいくら頑張ろうとも急には自分を変えられず、可愛らしい会話が出来ず、それどころか無意識にお下劣な話ばかりがお下品な口調でぽんぽん出てきてしまって、ドン引きされてしまったのである。
とにかく、髪の毛普通にしていれば、色々ときっかけが増えることは実感した。
いつかはきっと良い相手と巡り会える。巡り会えたらとっとと髪の毛を切ろう、鬱陶しいから。
というわけで、伸ばし続けている。
本来の目的は就職活動なのに、そんなことすっかり忘れてしまっている裕子である。
「そうだ、あとで入部届、職員室に取りに行かないとな。部員、入って来るかなあ。どんな子が来るんだろうな」
裕子の頭の中は、これから一年を過ごすクラスのことよりも、部活のことの方で一杯であった。
「さあ」
そっけない、晶の返事。
「里子みたいのばっかりだったら、困っちゃうね~」
裕子は、自分の言葉に受けて、がははと笑った。生山里子、生意気な後輩だ。
晶は口を閉ざし、正面を向いたままだ。
その態度を、ちょっといぶかしむ裕子。
いつもなら「王子みたいなのばかりより、ずっとましだよ」、くらいいってきそうなものなのに。普段無口なくせに、こういう時だけちくりと刺してくるくせに。
「なんだよ晶、一年が入って来るの嫌なんかよ」
裕子のその言葉に、晶は、はっとしたように目を開いて、慌てたように、
「いや、違う違う、そういうわけじゃなくて!」
「なんだよ。なにムキになってんだ?」
「別に……ムキになんか、なってないよ……」
「変なのー」
それから教室に着くまで、晶はずっと無言のままであった。
どうしたんだろう、晶。
どんなのが来るか、緊張してんのかな。
まあいいけど。
4
「バカ部長まだ来てないから、それまで普段通りに練習!」
「はい!」
武田晶の指示に、整列している部員のほぼ全員が元気良く返事をした。
全員といっても例外が三人。
二年、九頭葉月、おどおどしていて声が小さい。
二年、梨本咲、ぶすくれたような態度で気のない返事。
三年、真砂茂美、そもそもまったく口を開いていない。悪気はないようであるが。
彼女らの小声や無口は今日始まったことではなく、とにかく晴れ渡る気持ちの良い空の下で、新三年生と新二年生は練習を開始した。
普段は体育館を使うのだが、今日は他の部の都合により使用が出来ないため、用具をグラウンドに持ち出しての屋外練習だ。
二チームに分かれて、サッカーボールでパス回しの練習を始めた。
いや、子供用なのか、よく見るとボールが少しだけ小さい。
しかも、高いところから地面に落ちてもほとんど弾まない。
実は、彼女たちの行なっているのは、サッカーではなく、フットサルというスポーツの練習、そもそもボールが違うのだ。
フットサルというのは、主に室内で行われる、サッカーから派生した球技だ。
細かいルールは色々と異なるが、なにより目に見えて違うのがプレーヤー人数。
サッカーは一チーム十一人だが、それに対してフットサルは五人。だから戦術面でも、サッカーとは根本的に理論が異なる競技なのだ。
武田晶は、佐原南高校女子フットサル部の副部長である。
部長補佐が役割だが、しかし、今期の部長が部長なので、もしかしたら部長以上に忙しいかも知れない。
王子の奴、どこほっつき歩いてんだか。しっかりしろよ、もう三年生なんだから……
晶は、心の中で愚痴をこぼした。
今年度から顧問の先生が変わるのだが、部長である山野裕子が、その新たな顧問を呼びに出たっきり、戻って来ないのだ。
宿題を忘れて居残り勉強させられるなど、いつもいつも部活に遅刻してくる部長だが、今日は初日だけあって珍しくちゃんと来たと思ったら、結局この通りだ。
みんなで用具を準備して、校庭をジョギングして、ストレッチして、軽く筋トレして、それからボール使った練習を開始して、と、もうかなりの時間が経っているというのに。
王子の中身が急に変わるはずもないし、引退までこれが続くのだろうな、と半ば諦めてはいるけど。
部長不在のまま練習メニューは進む。
三人組を作って、ボール保持奪取の練習に入った。
ゴレイロ --サッカーでいうゴールキーパー-- である武田晶と梨本咲の二人は、ここからは他の部員たちと分かれて、キーパーグローブをはめて専用の練習に入る。……はずであったが、しかし肝心の咲がいない。
「咲、やるよ! どこ?」
晶は視線きょろきょろ、咲を探した。
見つけた……
「なにやってんの、咲、里子!」
集団の中に咲の姿が見えないと思ったら、端に置かれているゴール前で、梨本咲と生山里子とがPK勝負をしていたのだ。
咲がゴレイロ、里子がキッカーで。
「里子!」
いつも無表情で、寡黙で、感情を表に出すことの少ない晶だが、微妙に語気が荒くなっている。
大事な初日だというのに部長が行ったきり戻って来ないので、少しイラついているのだ。
「だってあたし、あぶれちゃったし」
里子は助走をつけ、ゴールへとボールを蹴った。
守る咲が瞬間的に軌道を見切り、右手ですくい上げるように弾いた。
「ああ、惜っしい」
里子は残念そうに腕を振り下ろした。
「惜っしいじゃないよ。あぶれたんなら、四人組になりゃいいだろ! PK練習が悪いとはいわないけど、好き勝手やられちゃ困るんだよ。これから先輩になるんだという自覚はないのか、もう」
しかし、注意しても、二人ともいっこうににやめる気配がない。
ほんとに始末におえないな、この二人は。
心に愚痴を呟く晶。
晶は感情をほとんど表情に出さないタイプであり、いまだってそうだ。しかし、ただ表情に出さないというだけであり、心の中ではしっかり愚痴もいえば、ため息だって連発している。並の連発速度ではない、一秒間十六連射だ。
こんな問題児がいれば、誰だってそうなるだろう。
生山里子は自分勝手で、梨本咲は集団に逆らう性格だ。
これまで、二人のアウトローはいがみあっては喧嘩ばかりしていた。
いわゆる犬猿の仲。ボールを顔面にぶつけ合ったこともあるくらいだ。
最近それが改善され、少しは仲が良くなってきたなと思っていたら、こんな有様である。
ゲリラを各個撃破するのと、反乱軍との紛争と、どっちが楽かという話だ。手のかかること、いささかも変化がない。
ぎすぎすとしていないだけ、現在の方がまだましではあるが。
いやいや、騙されてはいけない。こいつらの好き勝手を放っておいたら、他の者に示しもつかない。
「咲! 里子!」
先輩舐めるなよ。
いつまでも甘い態度ばかりしていないからな。
「はいはい。じゃ、あと五本やったらね」
咲は、面倒くさそうに晶を一瞥した。
「……五本だけだよ。里子も、あぶれたなんていってないで、ハナたちに混ぜてもらいなよ」
甘過ぎだ、わたしは。
強がるすまし顔の奥底で、晶はまたも心の中でため息の十六連射。武田連射名人だ。
「よっし、今度こそ絶対決める!」
悩む副部長の存在などもう眼中になく、里子はゆっくりと助走をつけ、ボールを蹴った。
助走速度や蹴り足を上げるゆっくりさからはとても想像の出来ない、速度のあるキックだ。
弾道角度もどんぴしゃりで、里子は蹴った瞬間にこれは決まったと確信を持ったか、ガッツポーズを作った。
右上隅を見事抜いて決まったかに見えたが、しかしボールは、伸びた咲の手によって弾かれていた。
咲は、またもやシュートを阻止したのである。
晶が見ているだけでも、もう六、七本ほどこの勝負を続けているが、里子が決めたのはたったの一本だけだ。
咲、とても反応がよくなってきているな。
ライバルの成長を目の当たりにした晶は、素直に感心していた。
里子相手だと咲は二倍の力を発揮するので、その分は差し引かないといけないのだろうが、それでもこの読みや反射神経は素晴らしい。
もともと得意としていたハイボールの処理も最近さらに良くなってきたし(サッカーほどには、役立つ機会は少ないが)、もう自分が引退しても安心して任せられる経験と技術力を持っている。
ただ一つの懸念材料は、下級生に教えられるかだな。能力的にではなく、性格的に。
ま、それはどの二年生にもいえることだけどね。
晶は、咲たちに背を向け、他の部員たちを見た。
なんかみんな頼りないけど、一番後輩との付き合いが上手そうなのは花香かなあ。
と、その時であった。
「おい、みんな、集まれ!」
ボールに乗って飛び交っていた黄色い声を、低く野太い男性の声がかき消したのは。
体育教師のゴリ先生こと、高村広大先生が、校舎の方からゆっくりと近付いてきた。
5
「えー、まさかあ」
「うわあ」
篠亜由美と梶尾花香は、嫌そうな態度を隠しもせず、心底げんなりした表情になっていた。
オジイ、いや北岡先生が茶道部の顧問に変わること、部員たちは知っていたが、後任が誰になるかまでは聞かされてなかったのだ。
それがよりにもよって、熱血体育教師の高村先生だとは。
ぽっかり雲の浮かぶ空の下で、集合した部員たちと高村先生とは向かい合った。
「山野は? あいつがここの部長だよな」
「先生を呼びに行ったんですが……随分と前に」
副部長の武田晶が、受け答えをする。
はて、と高村先生が怪訝そうな顔をしていると、
「あーーっ、ゴリ先生! なんでここにいんの!」
山野裕子が叫びながら、校舎の方から走ってくる。
「お前こそ、なにやってんだよ!」
ゴリ、高村先生の怒鳴り声に、空がばりばりと震えた。
「だってだって、四時半に職員室行ったのに先生いないんだもん!」
裕子は泣きそうな顔で、身体をふにゃふにゃと左右に揺すった。
「そんな遅い時間に、いるわけねーだろ。三十分遅いんだよ」
「だって、あっちのグラウンドでソフトやってて、近藤がちょっと代打やってっていうから」
「あのなあ、それ理由になると本気で思ってんか。お前、部長だという自覚はあるのか。それに、今日から三年生だろうが。もっとしっかりしろ、しっかり。バカタレが!」
「分かりました! いわれた通りしっかりと鍛えて、ひっぱたかれても平気な体になります!」
「ひっぱたかないから……ひっぱたいたりなんか、しないから……そういうことされないように、気をつけろよ。な。お願いだから。お前さあ、この部活でも、いつもいつも遅刻してるそうじゃないかよ」
高村先生は、喋る言葉にどんどん力がなくなってきていた。
登校時に閉じた校門を乗り越えようとしたり、門を無理矢理に開こうとしているところを見つけては、よく叱っているため、裕子の生活態度は充分によく分かっているはずであるが、一向に慣れないのはどうしたことか。
「だってよく、ひっぱたくぞって怒鳴ってるじゃないですかあ。怒るでしかしぃ、とかさあ」
「怒るでしかしなんていってねえよ! つうかよく知ってるな、それ。ひっぱたくといってるのはな、生徒のことを思えば例え自分がどうなろうと辞さない、そういった教育者としての覚悟の問題をいってる訳だ。おれが子供の頃はビンタ当たり前だったのに、現在は、ちょっとしたことですぐに親が飛んできて、PTAが騒ぎ立て、校長教頭平謝り、って、その甘さは子供をダメにする以外のなにものでもない。子供にだけでなく、バカ親に対しても毅然とした態度をとれなくては、この日本という国の未来は……って、聞けえ!」
先生の怒鳴り声もごもっとも。裕子は、生山里子と尻取リフティングを始めていたのである。
「り、り、りだから、リンゴ」
「没収!」
高村先生は、里子からボールを引ったくった。
「いいとこだったのに、邪魔すんだからあ。あれ、晶、そういえばさ、新入部員は?」
裕子は、ふと疑問に思い、きょろきょろと周囲を見回した。
「知らないよ。ここに呼んであるからって、王子がいってたじゃん。そうそう、それさっきから気になってたんだよ。なんで王子だけが来るのって」
「……体育館って、いっちゃったような気がする。……癖で」
むむ、としかめっ面の王子。
「じゃ、気がするじゃなくてそうなんだよ! なにやってんだか。だからそこは、あたしが仕切るっていったんだよ。いいからいいからなんて、全然よくないじゃん。そんな程度もちゃんと出来なくてどうすんだよ部長のくせに! バカじゃないの」
東京大空襲並みの爆弾連続投下に、裕子はたじろいだ。
「いまここでそんなにあたしを責めたてて、この部にとってなんかいいことありますかあ?」
「開き直るなよ。もういいよ、あたしが連れてくるから」
晶が踵を返そうとすると、
「体育館ですよね。あたしが行ってきますよ」
二年生の、梶尾花香が元気良く走り出した。
「ありがとね、ハナ!」ぶんぶん手を振る裕子。「……ほんっとハナは気がきくし、親切だよなあ。愛嬌あるしさあ。ちっこくて可愛いよなあ。いいお嫁さんになるんだろうなあ」
と、これみよがしに生山里子へとちらちら視線を向ける。
花香と里子、大親友同士なのにこうも違うものかな、と、からかっているのだ。
「あたし、自分のこと気がきかなくて不親切むしろ意地悪って分かってますから、チクチクやられても全然気にならないんですが。一人の部員が無神経で気がきかないことよりも、一人の部長が部長としても人間としてもだらしないことの方が早急に対処すべきよほど重大な問題だと思いますが、あたしだけですかね、そう思っているのは」
里子にまで爆弾連続投下を食らい、うわあああん、と裕子は情けない泣き声をあげて逃げ出そうとする。
「逃げんな山野」
高村先生が、ガッと襟首を引っつかんだ。
「だって里子ちゃんがいじめるうううう」
「るううう、じゃねえよ。もうすぐ一年生が来んだから。お前がいなくてどうすんだ」
「おう、そうだった。すっかり忘れてた。今度こそ可愛い後輩ちゃんたちならいいなあ。去年は里子と咲が、まあ態度最悪だったもんな」
仮に可愛い後輩ちゃんが来たとしても、まだ入部確定ではないが。
二週間は体験期間であり、簡単に退部して他の部を試すことが出来るからだ。
とはいえ、入部届に記述された経験の有無や中学での所属部を見たところフットサルの経験者は多いので、辞められる可能性は低そうであるが。
フットサルがどんな競技か知っていて入部希望しているのだから、部の雰囲気が最悪とか、酷い先輩がいるとか、そういうことでもない限りは……多分……
「というわけで、里子、咲! お前ら、先輩になるんだから、後輩に示しつかないようなことばっかりすんなよ。少なくとも体験期間終わるまでは 変 態 封 印!」
腕でバツ印をつくり、腰をひねってお尻を前に突き出した。
「封印するのはお前だ」
ゴリ先生は、裕子のほっぺたを思い切り左右に引っ張った。
「いへへ、伸びてナマズのヒゲみたくなったらどうすんですかあ」
「そしたら地震予知で役に立て」
などと二人がじゃれあっていると、体育館の方から梶尾花香の声が聞こえてきた。
「こっちこっち」
彼女を先頭に、あどけない顔をしたジャージ姿の女生徒らが、ぞろぞろと歩いて来る。
「とうとう新入部員があ、キターーーー!」
お笑い芸人の物まねで、腕を突き上げる裕子。
あれ?
裕子の視線は、一年生の一人にフォーカスロック。
あの子の顔、なんだか……
ちらりと、隣に立つ武田晶の顔を見る。
「ほんとに、来ちゃったよ」
晶が、ちょっと青ざめたような顔で、ぼそりと呟いた。
ひょっとして……
梶尾花香に連れられた一年生たちが、どんどんと近付いて来る。
「あ、お姉ちゃあん、うおっす!」
晶に似た真ん丸顔の新入部員は、跳びはねながら両手をぶんぶんと振り回した。
「うわ、やっぱり晶の!」
裕子は思わず叫んでいた。
妹がいることは、話に聞いたことはあったけれど、この学校に入学するとは、ましてやフットサル部に入って来るなどとは、考えたこともなかった。
確かに入部届に名前が書いてあったかも知れないが、苗字が武田じゃ平凡過ぎて分かるはずもない。
しかししかし、姉妹とはいえここまで顔が似ているとは。コロコロ丸くて、幼い感じで。
「そう、妹の直子だよ。本当にフットサル部に入って来るとは……悪夢だ。……あたし、退部しようかな」
晶は、がっくりとうなだれた。
同じ顔をしている妹、武田直子は集団から抜け出ると、足取り軽く晶の方へと小走りで近寄った。
「はい、お姉ちゃん、忘れ物。もう遅いかも知れないけど、でも教室が分からなくて朝渡せなかったから」
武田直子はそういうと、姉にカードだか写真だかを手渡した。
「なにそれ?」
覗き込む裕子。
「大谷君のブロマイドです」
はきはきと、直子は答えた。
「え? ジャミーズの? なに、晶、疾風のファンなの?」
事の意外に、裕子の目がキラキラ輝いた。
「そうなんですよ、先輩。一緒にね、コンサートに行ったこともありますよ。お姉ちゃん大はしゃぎで、もうほんっと恥ずかしかったです。うおお、タッくーん、って両手振り回しちゃって。今朝ね、テレビの占いで、てんびん座の人は運気最悪、急上昇させるラッキーアイテムは好きなアイドルの写真です、なんていってましてね。それを見てたお姉ちゃんがあたしに、『ナオ確か大谷君のブロマイド持ってたよね、ちょうだい』、ってせがんできましてね。まあ、今日に限らず前々から大谷君アイテムを、せがまれてはいたんですけどね。あたし、興味が星野君に移っているから、あげてもいいかなって。でも、朝、渡し忘れちゃって。家を出た後に渡そうとも思ったんですが、お姉ちゃん、『先に行っててやっぱりトイレ行っとくわ』、なんて青ざめている恐ろしく必死な形相でお腹抱えて家に戻っちゃったから。仕方ないから学校で渡そうと探したんだけど、教室が分からなくてなかなかお姉ちゃんと会えなくて、で、いま渡せたというわけです」
べらべらべらべらベラベラベラベラべらべらべらべらベラベラベラベラ、言葉のマシンガンの弾層がようやく撃ち尽くして空になったか、直子は口を閉ざし、にっこり微笑んだ。
「晶が、占い? ラッキーアイテム? 大谷君? コンサート? ブロマイド? 大はしゃぎ? ほんと、それ? タッくんうおお、って」
裕子は真顔を保とうとするが、目が完全に笑ってしまっている。
「はい」
直子の返事がトリガーになって、裕子は、ぶーーーーっと吹き出した。
最初から我慢出来るはずがなかったのに、ここまで耐えたのは、友人と思えばこそか、それとも人類としての憐憫の情か。
「だからって、なんでいま渡して来るんだよ! あと、トイレがどうこうって、それ、いう必要あるか? いわなくたって通じるだろ!」
晶は妹の顔を睨みつけた。
「だってえ……」
もじもじとした態度をとる直子。
銀河を駆けるクールな一匹狼、武田晶の意外な趣味の判明に、堪え切れなかったのは裕子だけではない。他の二年生三年生たちも、誰からとなく声が洩れて一瞬にして大爆笑の渦となっていた。
「ね、ほか、ほかになんかない? 晶のこと。えっと、なにが好きなの? どんなテレビ見てる?」
裕子は嬉々とした表情で、直子の両肩をばんばん叩き、情報をせがんだ。
「えーっと、日曜の朝にやってる少女アニメかかさず見てますね。あたしよく分からないですけど、なんとかフォルテシモーなんてキャラと一緒に叫んでますよ」
直子の言葉に、裕子はまた手をばっしばっし打って大爆笑だ。
「それ、あたしも好きだから見てるけど、晶がってのが笑える! ノーザンライトフォルテシモー! 叫んでんのか! あおいちゃんの台詞! 晶が! ノーザンライトーー、ぶはっ、腹痛えええ!」
ぐはははは、と笑い転げる裕子の尻が、バツんと爆発した。
武田晶が、渾身の力で回し蹴りを叩き込んだのだ。過去に空手を習っていたのはもしかしたら今日この日のためだったのかも知れない、というほどに強烈な蹴りを。
しかし笑いが麻酔か、真剣に怒る晶の姿に裕子はさらに笑いのツボを刺激され、お腹を抱えて地面をごろりごろりと転がり始めたのだった。
「バカ王子! ナオも、なんでそういうことペラペラ喋るんだよ!」
晶は直子から受け取ったブロマイドに目をやった。
疾風のメンバーである大谷恭平君が、魅力的な白い歯を見せて爽やかに笑っている。
「大谷君のバカ。何がラッキーアイテムだよ。運気、最悪なままじゃん……」
晶は、ため息をつくと、がくりと肩を落とした。
いつも無愛想な梨本咲が、なんだか珍しく嬉々とした表情で直子の横にならぶと、なれなれしく肩に腕を回して引き寄せた。
「なんだか君とは、仲良くなれそうな気がするよ」
6
体験入部生も交えての、今年度の練習初日が終了した。
全員で用具の後片付けを終え、終わりの挨拶、解散。
その後、山野裕子と武田晶は、体育館の裏にあるプレハブの部室で、今後数ヶ月間のおおまかな予定を打ち合わせた。
なにかあれば臨機応変に修正するとして、とりあえずは前年度の流れを踏襲、ということで、それほど時間のかかることもなく終了。
二人は、部室から出た。
裕子は、すぐ目の前にある体育館通路の出っ張りに、新入部員であり武田晶の妹である武田直子が腰を下ろしているのに気付いた。
「あれ、どうした?」
裕子は尋ねた。
直子はすっと軽やかに立ち上がった。
「はい。お姉ちゃんと一緒に帰ろうと思いまして。……お姉ちゃん、さっきのこと、まだ怒ってる?」
直子はうつむきがちに、首を横に傾げた。
晶は直子へ近寄ると、
「そんないつまでも、怒ってるわけないだろ。ナオがわざわざ持って来てくれたんだし」
そういうと、直子の脇腹に肘をぐりぐりと押し付けた。
「くすぐったい、やめて」
直子は身をよじりながら、子供のような無邪気な表情で笑った。
三人は、体育館通路を歩き出した。
体育館の外周を半分ほど進んで北校舎、裏口から入り、突っ切って昇降口へ抜け、外、そして校門へ、と運動部員のほとんどが帰宅時に利用するルートだ。
「直子ちゃん、練習、きつくなかった?」
裕子が尋ねる。
「さすがに高校だからなのか、やっぱりハードですね。中学の時にずっとやっていたというのに、筋肉痛になりそうですよ」
「すぐ慣れるから大丈夫。……しっかし今更だけど、晶の妹が入ってくるとは、まさかの展開だよなあ。……他の子も、なんだか個性的なのばかり集まったな、今年は」
「王子がいうかな。個性的とか。でもまあ、確かにそうかも」
晶が、さして面白くなさそうな表情でぼそりと呟く。面白くないからというよりも、普段からこんな顔をしているだけであるが。
「でしょでしょ。自己紹介からして、なんか凄かったもんなあ」
裕子は、二時間半ほど前の記憶を回想した。
7
梨本咲は、武田直子の隣にならぶと、肩に腕を回してぐいと引き寄せた。
「なんだか君とは、仲良くなれそうな気がするよ」
ぽんぽん、と肩を軽く叩いた。
長身の咲に、小柄な直子。まるで大人と子供だ。
直子は、ちょっとうろたえたように、
「あ、は、はい、よろしくお願いします」
咲のなんだか不良少女みたいな顔に態度に、どう接すればいいのか戸惑っているのだろう。
「無駄話はそこまで。集合!」
新顧問である高村先生の、太い声が響いた。
「え、あれ、ゴリ先生、いつからここに」
山野裕子は、心底びっくりしたような表情を浮かべた。
「お前が遅れて来た時、もうおれはここにいただろうが! おれとお前とで、つい今さっきまで会話をしてただろうが! 鶏の頭か、お前は。……それじゃ、自己紹介な。まずは先生のおれから。北岡先生に変わって今年からこの部の顧問になった、高村だ」
「はああ、やっぱりそうなんだー」
「オジイの方が楽でよかったなあ」
「ねー」
先生の前だというのに、こんなこといっている篠亜由美と梶尾花香。
「篠と梶尾、堂々とうるさいぞ。では、今度は上級生から新入部員への挨拶」
「仕切るなあ、オジイと違って。えーと、あたしはこのフットサル部の部長の……」
と、山野裕子を先頭に上級生たちは、向き合って立っている一年生たちに次々と名乗っていった。
上級生全員が終わると、最後に、新入部員から先輩たちへ自己紹介だ。
「辻美香菜です」
彼女が軽く頭を下げると、裕子を筆頭に何人かから「おーっ」と下品な声が上がった。
顔立ちがかわいらしい上に、微笑の仕方、お辞儀の仕草まで、引き込まれるくらいに魅力的だったからだ。
「小五からフットサルをやってます。ここのフットサル部は強いと聞いていて、だから、ここに入りたくて、佐原南を受験しました。ニックネームなんですけど、小学生のいつからだか、ずっと、デンって呼ばれてます」
「何故デン?」
顔とのあまりのギャップに、裕子は漫画のいわゆるズッコケシーンのように前のめりに倒れそうになった。
「頑張りますので、よろしくご指導お願いします」
辻美香菜は、またお辞儀をした。
上級生、拍手。
「しっかり挨拶も出来て、里子とは大違いだなあ。酷かったもんな里子は。もしあたしがその時に部長だったら、往復ビンタ食らわせてたね。顔が二倍に膨れあがるくらい」
裕子は一年前を回想した。
当時の部長、ぐっと堪えてはいたけど、やっぱりブチ切れそうな顔してたよな。
「しっかり挨拶するなんて、百万円積まれても嫌ですね」
まるで悪びれることのない里子であった。
続いての挨拶は、デンこと辻美香菜の隣、
「岸田森です。よろしくお願いします。以上」
彼女はなんだかそそくさとした態度で挨拶を終わらせると、一礼し、手振りで次へ譲った。
「なんかおばさんぽいっ」
裕子は、無意識のうちに独り言を呟いていた。
彼女、顔立ちは若いというか幼く見えるくらいなのに、声が少しかすれていて、滲み出る物腰もどことなくせかせかした庶民的な主婦のようで……
岸田森は、つかつかと足早に裕子の元へと歩み寄って来た。
「あたし、その言葉には敏感なんですよね。だらだら喋ると絶対そう思われるから、ささっと喋って終らせようとしてたのに」
唇をきゅっと噛んで、裕子を睨み付けた。
「ごめんちょ」
裕子が謝ると、岸田森は「もういわないで下さいね」といい残して、元の場所に戻った。
アホじゃなかろか。もういわなかろうがなんだろうが、いまので、みんなの頭の中に完全にインプットされたぞ。
わざわざ文句いいに来なきゃ、気付かない者もいたかも知れないのに。
裕子はそう思ったが、口には出さなかった。
また舞い戻って来られそうで怖かったから。
顔だけ見ると小学生みたいなのに、なんだか貫禄が凄いんだもん。
「佐奈夏樹です」
言葉や態度は非常に流暢だが、しかし、なんだか……
裕子や里子が、彼女の顔をじーっと見ていると、それに気付いたのか、
「ハーフではありません! 外国人でもない! 完全な日本人!」
「なんもいってないんだけど。まだ」
しかし佐奈夏樹本人が先回りしようとするのも無理はないのかも知れない。
日に焼けたような彼女の黒い顔は、堀が深く、悪くいえばくどく、とにかく中東だか北アフリカを思わせる、エキゾチックな外国人顔なのだから。
「結構この顔気にしてるんで、からかうにしてもお手柔らかにお願いします。ま、気に入ってもいるんですけどね」
と、ちょっと笑いを誘って、本人も真っ白な歯を見せた。
「フットサルの経験は中二からです。それでは、よろしくお願いします!」
頭を下げた。
上級生、拍手。
次。
「永田三水です。名前の漢字がちょっと変わってまして、三つの水と書いてみみと読みます。両親は色々意味合いを考えてつけてくれたらしいんですけど、どんなんだったかごちゃごちゃしてて忘れちゃいました。そんな話はどうでもよくて、えっと、中学に入った時からフットサルやっています。人数少なかったからFPもよくやってましたけど、だいたいはゴレイロでした」
百五十センチくらいと、身長は低い。その分というべきか、非常に俊敏そうに見える。
ゴレイロ経験者かあ。いよいよ、咲のライバルが入って来たなあ。
裕子は、咲とこの後輩がどんな化学変化を生むか、楽しみになった。
どれほどのレベルなのかは分からないけど、FPも出来るっていうから咲ちょっと焦るだろうな。
あいつ足元てんでダメだし。
競い合う、いい関係になってくれればいいな。
現在の正ゴレイロである武田晶は、今年の夏で引退。それからは、咲に頑張ってもらわないとならないのだから。
「武田直子です。中学の時からフットサルをやってます。足を引っ張らないよう頑張ります。先輩方、それとお姉ちゃん、よろしくお願いします!」
直子は屈託のない笑顔で、元気よく大声を出すと、深く頭を下げた。
「あたしだって先輩だ。なんで分ける」
仏頂面の晶。
周囲に軽く笑いが起きた。
「星田育美です」
非常に野太い声。身体もそれに負けていない。
いや、むしろ勝っているかも知れない。
身長は、百七十台半ばはあるだろう。
すらりとしてはいるものの、がっちりした印象を見る者に与える。
骨太なのか、筋肉質なのか、どちらか、あるいは両方なのだろう。
小柄な武田直子の隣に立っているため、彼女の大きさが際立っている。
なすびのようにやたらと面長な顔立ちも特徴的だ。
この体型だからしっくりくるものがあるが、そうでなかったら、違和感どころの騒ぎではないだろう。
「さて、先輩方にクイズです。わたしの中学の時のあだ名はなんでしょう。第一ヒーント! この、肉体的特徴に関係があります」
星田育美はそういうと、手を突き出し人差し指を立てた。
「はい」
山野裕子が手を上げた。
「ジャンボ」
「違います。じゃ、第二ヒント。顔に関係があります」
「ペリカン。シャクレ。闘魂。三日月。アゴ」
裕子は思うままに連発していく。
「最後の正解! アゴでーす」
「しゃーーっ!」
裕子、勝利のガッツポーズ。
どう考えても失礼極まりない裕子の言葉であるが、星田育美は全然気にしていないどころか、当てて貰えたことを喜んでいるようであった。
そのあだ名の通り、星田育美の顔は面長なだけでなく、アゴがとにかく長く、そして若干しゃくれ気味であった。高身長という大きな特徴が霞んでしまうくらいに。
「過去を分析するに、慣れてくるとみんな絶対にこの顎をからかってくるんで、自分からネタにしてさっさと部に溶け込んでしまおうという作戦でした。チャンチャン。というわけで、先輩方、とお姉ちゃん、よろしくお願いします!」
星田育美はぶっとい声で一同に頭を下げ、次いで武田晶に向かって頭を下げた。
「あたし、あんたのお姉ちゃんじゃないよ」
冗談なのを理解出来ていないのか、真顔で受け応えている武田晶。
裕子は思わず、ぷっと吹き出してしまった。
星田育美、面白い。
さて、次だ。
「深山ほのかです。ええと、わたしは星田さんと違って目立った特徴はなにもない、ごくごく平凡な者ですが、それにフットサルは初めてではありますが、先輩方、どうかよろしくお願いします」
どことなくのんびりしたような、甲高い声で挨拶すると、軽くお辞儀をした。
「特徴の塊で悪かったな!」
星田育美は低い声を一層低くして、深山ほのかの首に両手を回し、締め上げた。
「アゴ、やめて、苦しい、死ぬ、嘘、さっきの嘘、育美ちゃん可愛い!」
「この顔が可愛いわけあるかあ!」
ぎりぎりと、手に力を込める。
「おーいアゴ、いい加減にしないと本当に死んじゃうから」
裕子は早速、星田育美のことをあだ名で呼んでみた。
「冗談でーす」
育美とほのかは二人揃って、パーにした両手を小さく広げておどけてみせた。
「かなり真剣な顔してたけどな。締め殺すんなら学校と関係ない所でお願いします。じゃ、次。最後」
「村上史子です。家が成田にあり、一昨年たまたま成田の会場で佐原南の試合を見て、こんなチームでプレーしてみたいなって思ってました。練習頑張って、早く役立てるようになりたいです。よろしくお願いします」
頭を下げた。
こういう雰囲気が苦手なのか、少し表情が固い。
上級生、拍手。
他、もう三名ほど一年生がいたのだが、結局、残らなかったため、紹介は割愛する。
ともかくこうして、上級生と新入部員との挨拶は無事に終了した。
以上、裕子の回想である。
8
体育館の通路を歩いている山野裕子、武田晶、武田直子の三人。
「ま、佐原南を受験するといい出した時も、ああやっぱりなって思ったし、きっとフットサル部に入るんだろうなとも思っていたけどね。こいつね、昔からあたしの真似ばかりするんだよね」
「違うよ! 真似じゃない! えっと……血が繋がってるから、たまたま同じの選んじゃうんだよ」
武田直子は、必死になって姉の言葉に抗議した。
「空手とハンドボールをやめて、中学からフットサル始めて、って、たまたまでそこまで同じなわけないだろ」
「たまたまです! 絶対!」
直子はほっぺたを膨らませた。
餌をぎっちり詰め込んだハムスターみたいだ。
「分かった分かった」
こいつ、こういうのは、絶対に折れないんだからな。あたしが他の学校に転校でもしたら、絶対に、たまたま転校してくるくせにさあ。
と、聞こえないような小声をぽそぽそ発しながら、晶は顎をぽりぽりと掻いた。
「どうかしました?」
直子が、裕子の顔を見ていた。
というよりも、裕子が直子の顔をじーっと見ていて、それに直子が気付いたのだ。
「いや、顔はとっても似ているのに、妹の方はなんでこんな可愛いんだろ、って考えててさあ。ほんと、なにが違うんだろう」
腕組みをして、首を傾げる裕子。
「悪かったな、可愛くなくて」
晶は、不満そうにぶすくれる。
「悪いと思ってんなら反省しろよ」
「ほんとに悪いと思ってるわけないだろ、バカ! バカ王子!」
「お前だってあたしよかちょっといい程度の成績だろ、このデンプン顔!」
「どんな顔だよそれ!」
「家に帰ったら鏡見てくださあい」
二人のそのやりとりを聞いていて、笑い出す直子。
「お姉ちゃんって学校では無口なのかと思っていたら、意外とよく喋るね。変わったね」
「変わってない。こいつが、人を怒らせるようなことばかりいってるだけだ」
晶は、どんと裕子の肩を押した。
「え、学校では無口って? 家ではどうなの?」
裕子は、直子の言葉の細かな部分を聞き逃さなかった。
学校の授業でもこれくらいの集中力があればいいのだが、と先生たちがここにいたならばこぼさずにいられなかったことだろう。
「お喋りってわけでもないですけど、たまに口が止まらないことがありますね。疾風の大谷君の話している時とか」
「ナオ、うるさい!」
遮ろうとする晶。
しかし、裕子は追求の手を緩めない。
「晶ってさ、お笑い番組なんかも見るの?」
「見ないよそんなの!」
「大好きですよ。一昨日も、両足をぱしぱし打って大笑いしてました」
それを聞いた裕子は堪え切れずに、ぶははーと大声で笑い出した。
「ナオ!」
「そんな、怒らないでよ」
直子は、弱々しげな視線を姉へと向けた。
「別に怒っては……いないよ」
晶は困ったように頭を掻いた。
「なんだか、甘いのか辛いのか分からないお姉ちゃんだな」
ぽそり突っ込む裕子であった。
三人はいま、校舎に向かうため体育館通路を歩いているのだが、窓からは、中の様子が見えている。
男女バスケットボール部がまだ練習をしているようだ。
ダンダン、とボールを床につくドリブルの音がここまで響いてくる。
そう、今日はバスケットボール部が、体験入部生のための練習試合でコートを広く使いたい、という事情があり、フットサル部はグラウンドの片隅で練習をやることになったのだ。
おかげでフットサル入部希望の一年生たちは、先ほどこの体育館で待ちぼうけを食らうことになったのである。
おかげでというよりは、単に裕子がボケていただけであるが。
体育館は現在、複数のコートを使って練習試合が行われており、さながらバスケ大会だ。
もう日も暮れているというのに、随分と賑わっている。
「もうこんな時間なのに。初日だというのに頑張るなあ」
裕子はもっとよく見てみようと、窓枠へと近寄った。
9
「あたしは逆に、初日だから今日は頑張れましたけど。毎日ここまで張り切るのは、きついかなあ」
直子も足を止めて、裕子の隣に立った。
晶は、一分でも早く帰宅して疾風のライブDVDを見たいところであろうが、二人がこうでは仕方がない。一緒に窓枠の前に立った。
「一年生と上級生、なのかな。ビブス付けてる方が一年っぽいな。素人目にも実力差を感じるけど、でも、結構試合になってるね」
裕子たちの見ているすぐ目の前では、女子バスケ部員が試合を行なっている。
白熱している練習試合を、裕子は楽しそうな目で眺めている。
「みんな、中学の時にもやってたんだろうね。連係面では当然ちぐはぐだけど、個人技ではそれほど遜色ない感じだ」
晶のコメント。
なんだかんだ、裕子と直子の間に体を割り込ませて、しっかりと見物している。
試合形式の練習であるため、見れば見たでそれなりに面白いのであろう。
「だから、こっちに投げてっていったでしょう!」
ビブス女子の一人が、声を荒らげている。
なんだろ。と、裕子は思ったが、すぐにその理由が分かった。
一人、てんでルールを知らなさそうな子が混じっているのである。
ボールを持ったと思ったら、敵である上級生にパスしてしまう。
ボールを持ったと思ったら、すぐにダブルドリブルで注意を受ける。
注意されたのにプレーを止めない。
ボールを取り上げられても、近くに転がっている別のボールを勝手に拾って、プレーを始めてしまう。
珍しくドリブルしたと思ったら、ラインを越えて隣のコートの試合に入り込んでしまう。
「ひゃあ。なんか、無茶苦茶だなあ。ひっでえわ、ありゃあ。普通、バスケ未経験だって、もう少しルール知ってるぞ。最悪だな」
しかし言葉とは裏腹に、裕子の表情はなんだか微笑ましい。
他人事だからというよりも、その子が、無茶苦茶ながらも笑顔でプレーしているのが、見ていて気持ちいいのだ。
とはいえ、やっぱり、酷いもんだね。あたしの方がよっぽど上手なんじゃないか。
などと思っている裕子の、まさにドギモを抜くようなことが、目の前で起こった。
背後から二人のディフェンスにつかれたその子が、一瞬にして反転し、軽やかなステップで、二人の間を稲妻のようにドリブル突破したのだ。
「すげえ!」
裕子は叫んでいた。
一瞬の集中力が、半端なく高い。でなければ、あんな抜き方は出来ない。
いや、凄いもの見たぞ、ほんと。
結局、またラインを越えて隣のコートまでドリブルしてしまい、ファールになってしまったのだが。
「競技違うけど、ああいうのがうちにいたら面白そうだなあ。何年だろ。ビブス組だから、やっぱり一年生かな」
と呟く裕子の独り言に、直子が答えた。
「西村さん。一年生で、あたしと同じクラスです。でも、あの子……」
10
西村奈々は、今日も山田秀美たちに取り囲まれて、からかわれている。
入学式の翌日に早速からかわれ、その翌日から授業が開始したら、案の定というべきか色々と難癖をつけられ、今日でもう三日連続だ。
「じゃあさ、この問題は分かんの?」
と、山田秀美は英語の教科書を開いて、指を差した。
一緒に取り囲む他の二人の女子が、ニヤニヤと笑みを浮かべている。
西村奈々はニコニコとした表情で、まず問題から読み始めた。
「…の…になる…えなさい。……あとの部分、難しくて分からん」
問題文は、「次の中から当てはまる英単語を選びなさい」漢字の部分が全然読めていない。
「答えるどころか、問題が読めてねえじゃん、バーカ! 脳味噌入ってんのかよ」
山田秀美は、奈々のおでこをつついた。
「うん。あたしバカだよー」
奈々は無邪気に顔をほころばせて、笑い出した。
「脳味噌も、あんまり入ってないんだろねえ」
虚勢を張っているというより、そもそも、からかわれていることに気が付いていないかのようだ。
千葉県立佐原南高校が、福祉活動の一環として本年度から試験的に実施することになった、知的障害者受け入れ制度。
今年はまず、二人の生徒を迎え入れることになっており、そのうちの一人が西村奈々だ。
彼女は、中度の発達障害を抱えている。
簡単に表現すると、脳がある年齢までしか成長しないのだ。
もちろん、周囲のサポートや、本人が経験を積むことで、色々と出来ることは増える。
知識はどんどん増やすことが可能だが、知能、知性は、幼児レベルのまま、これ以上の発達は望めない。
実際にそうかは神のみぞ知ることだが、とにかく医者からはそう断言されている。
これは受け入れる側として、生徒たちも知らされていることである。
だからこそ、普通は面と向かってからかうことなど出来ないものであるが……
「脳の足りないバカはさあ、勉強しなくていいんだってさ。ノート破り捨てちゃえだって、先生がいってたよ」
世の中、通例が十割ではない。
山田秀美のような者もいるのである。
他の生徒たちは眉をしかめているが、おかまいなしだ。
「やったー」
奈々は喜び、ノートを両手で掴んで引き裂こうとするが、厚みがあって簡単には破けない。
「あ、でも破いちゃたらお絵かき出来なくなっちゃうねえ」
どうしたものか、と奈々は渋い顔を作った。
「そんなのは、教科書に書けばいいんだよ。ほら、こうして」
山田秀美はボールペンで、奈々の教科書に悪戯書きを始めた。
彼女の取り巻きである、小出恵子や安東正江も面白がって落書きに参加した。
「おお、しゅごい」
教科書がどんどんカラフルに、ごちゃごちゃ賑やかになって行くのを見て、奈々は喜んでいる。
五時限目の授業が終わったばかり。六時限目を控えて、ほとんどの生徒が、教室内にいる。
ここにいる生徒の誰もが、いまこの教室で何が行われているのか、理解していた。
正確には、被害を受けている本人だけが理解していない。
これは、明らかないじめであるということを。
いじめと知っていながら、誰もが見て見ぬふりをしていた。
居心地の悪さを感じながらも、やはり自分まで被害者にはなりたくないのだ。
その縮こまっている生徒の中には、武田直子もいる。
縮こまるのは仕方ない。と、直子は思う。
だって、山田秀美にはガラの悪い連中と繋がりのある兄がおり、その兄はこの学校の三年生とのことだから。
真偽のほどは分からないが、入学式の日に山田秀美本人が大声で喋っていたし、まず間違いはないのだろう。
普通の子に対してだって、いじめを注意することの難しい時代だというのに、ましてやそんな……
とはいえ、やっぱり他人の教科書に落書きするなんて、ひど過ぎるよ……
だったら……そう思うのなら……自分が、注意すればいいんだ。
でも……
直子は、胸を押さえた。
心臓、どきどきしている。
結局、直子はうつむいて葛藤しているだけで、なにもすることが出来なかった。
山田秀美らは飽きたのか、下品な笑い声をあげながら教室を出て行った。
教室が静まり返った。
気まずい空気が教室の中を支配していた。
その張り詰めた静寂に、耐え切ることの出来なかった直子は、自分の席を立ち、そっと奈々の座る席へと近寄った。
「大丈夫、だった?」
なんだ、この質問は?
直子は胸の中に不快な違和感を覚えていた。
もっと他に、気のきいた言葉はないのか。
殴られたわけじゃない上に、本人はいじめられていると認識していないというのに。なにに対して、なにがどう大丈夫だというのか。
だいたい、気のきいた言葉を探すくらいなら、もっと前に、庇ってやればいいのではないか。そんなことも出来ないくせに、今更……
「なにが?」
やっぱりだ。本当に、いじめられていたことに気が付いていないんだ。
「教科書、落書きされてグチャグチャになっちゃったね。授業でこの辺のページをやる時には、あたしの教科書見せてあげるから」
「ありがとう」
ふにゃっ、と笑みを浮かべる奈々ではあるが、どうも事情をよく分かっていない様子だ。
「なにが貸してあげるだって?」
すぐ背後から、山田秀美の声。
いつの間にか、後ろのドアから戻って来ていたのだ。
直子は、落雷に打たれたかのように背をぴーんと真っ直ぐ伸ばすと、ぐるん、と踵を軸に百八十度回転して振り返った。
「あ、え、えっと、違う、というか、あの、財布ないならお金貸すよー、みたいなあ」
しどろもどろ。
「ふーん。ま、調子に乗ってなきゃいいよ」
「は、はい、乗ってません断じて乗ってません!」
直子はほとんどへっぴり腰といった前傾姿勢で、ぺこぺこ頭を下げながら、天敵から逃げる海老のように後ろに進んで自分の席へと戻り、腰を降ろした。
周囲に聞こえないよう、小さくため息をついた。
お姉ちゃんみたいに、強くなりたい。
常々思っていることを、改めて、胸の奥で呟いた。
直子は、机に突っ伏し、両腕で頭を抱えた。
嫌われたくないから、いつも明るくふるまって、嫌われたくないから、自分もいじめられたくないから、いじめを見て見ぬふりして、自分の心が傷つかないように仮面をいつもかぶっていて、人に本音をぶつける勇気もない……
高校に入ることをきっかけに、そんな上っ面だけの自分から変わろうと思っていたのに、結局、全然変われていない。
わたし、ダメだ。
全身を襲う疲労に息を切らせ、関節をへらでほじくられるような激痛に、顔を歪めている。
顔を歪めながら、胸に思う。
自分は、一体なんだって、こんなことをしているのだろう。
決まっている。
好きだからだ。
みんなと、喜び合いたいからだ。
ひょこひょこと、片足を庇うようにして、裕子は歩いている。
ただ立っていることすら辛い。
限界を越えて酷使しているそんな肉体を、気力が支えている。ともすれば萎えかけるその気力を、執念が支えている。
きりきりと、錆びたブリキ人形のように首を動かし、周囲を見回した。
みんな、へとへとだ。
この連戦だ。当然だろう。
自分たちだけではない。
境東学館の選手たちも、息があがってきている。
辛い時には相手だって自分と同じくらい辛い。こういう時に、よく使われる台詞である。
しかし……
仲間たちの顔を見る。
武田直子、
久慈要、
生山里子、
武田晶、
ここに立つ仲間たちの表情、誰一人として諦めていない。
既に限界まで肉体を酷使しているというのに。
リードを許している状況だというのに。
もう、時間が残り少ないというのに。
誰も、諦めていない。
嬉しくなってくる。
もう尽き果てたと思っていた力、まだまだ、湧き上がってくる。
ピッチの中だけではない。
「これからこれから!」
「相手もばててるよ!」
衣笠春奈や、星田育美、篠亜由美らベンチメンバー、そして梶尾花香や深山ほのかといった登録外の部員たちが、思い思いに力一杯叫び、全力で応援をしている。
裕子は霞む視界にふらふらとしながらも、わずかに、目を細めた。
わずかに、口元に笑みを浮かべた。
ベンチにいる西村奈々の顔を見る。
ぽーっとした表情の奈々であったが、裕子の視線に気づくと、まるで幼児のように破顔した。
裕子は奈々の顔を見ながら自分の胸を拳で強く叩くと、次いで小さくガッツポーズを作った。
武田晶のゴールクリアランスで試合再開。
晶は、軽く助走を付け、右手に持ったボールを強く放り投げた。
ボールの落下地点へ走り寄り、腿を上げてトラップする裕子。
足首の筋が切れそうだ。
いまこの瞬間に、ぶつっと嫌な音が聞こえてきたとしても、なんら不思議ではない。
自分の身体に祈った。
足、もうちょっとだけもってくれ。これが、最後の試合なんだ。だから。
境東学館の矢島彰子が詰め寄ってくる。
彼女も相当に疲労しているはずだが、主将としての意地があるのか、表情からはまったく分からない。だが、試合開始時よりも明らかに動きが鈍くなっている。
裕子は里子へとパス、と見せかけ反対方向へちょんと蹴り、矢島彰子を抜き去った。
この連戦、向こうだって疲れている。足が止まってきている。ここで踏ん張らなかったら、一生後悔する。
だから、頑張れ、自分、頑張れ、足。
裕子はスペースを見つけて、大きなタッチでボールを転がす。そして、全力疾走に入った。
かつて経験したことのないような凄まじい激痛に襲われた。
しかし裕子は、そんなくだらないことを気にしている暇はないと一蹴。むしろ、この痛みすらも前への推進力へと変換し、走る、走る。
連動し、里子たちもぐんぐんと上がって行く。
「逆転するぞ!」
裕子は吼えた。
第一章 今日から三年生
1
山野裕子の朝の様子を一言で表すならば、多忙。
ただ、何故に多忙かを客観的冷淡に一言で表すならば、自業自得。
今日もそんな、裕子にとっての普段通りの朝を迎えていた。
「やべ、遅刻する! ったく、あのクソ目覚まし!」
裕子は、母である静江の目の前を、ほとんど裸に近いような格好で、ブラウスに袖を通しながら走り過ぎ、洗面所へと姿を消す。
「どたどた走りながら着替えるんじゃないよ! はしたない。お前は女の子なんだよ! それに目覚ましはちゃんと鳴っていたし、お母さんだって起こしたよ」
「起きなきゃ意味ねえ!」
洗面所から、裕子の叫び声。
「クソガキが」
静江は、両手にフライパンと鍋のフタをそれぞれ持ったまま、いかり肩で洗面所の方へと小走りで向かって行った。
数秒後、洗面所から、
ガン、
と金属でなにかをぶん殴ったような音が聞こえてきた。
ちょっとスッキリしたような顔で、静江が戻ってきた。
「お父さんも注意してよね。本当にあの子、お行儀が悪いんだから」
父は一番に食卓に着いており、新聞に隠れるように顔をぴったりくっつけている。
近眼のため普段からこんな読み方だが、妻の怖いところを見てしまうと、このようにさらに顔と新聞の距離が狭まるのである。
「ああ、忙しい忙しい」
裕子は洗面所から戻ってくると、朝食の並べられている食卓へと着いた。
「あと十分早く起きればいいところを、自分で勝手に忙しくしてんでしょ」
「はいはい。以後気をつけまーす」
「今夜は早く寝んだよ」
「はいはーい」
裕子は毎夜毎夜、母からは早く寝なさいと小言をいわれているのだが、いうことを聞いたためしがない。
早く寝ようが遅く寝ようが、どうせ朝は眠いのだから、と。
「今日も朝から騒々しいなあ」
あくびを噛み殺しながら、裕子の兄である孝が入って来た。
「兄貴オッス」
「はい。オッス」
パン、と二人は手の平を打ち合わせた。
せかせかしている裕子と比べて、口調からも態度からもいかにものんびりとした様子の孝である。
もう一度あくびをすると、裕子に続いて席に着いた。
「そんじゃあ、いっただきまーす!」
裕子は、食卓に並べられたご飯に手をつけた。
朝は米。
母のポリシーにより、山野家の朝は平日休日和食洋食を問わず、ご飯が必ず出る。
今日は和食である。
テーブルの上には、ご飯に味噌汁、焼き魚、玉子焼き、海苔に筑前煮、納豆、お新香。と、緑茶。
裕子は、驚異的な速度で食べ進めていく。
ろくに咀嚼をせずに、次から次へと飲み込んでいく。
ぐおっ、と唸り、苦しそうな表情で、お茶や味噌汁を口に流し込み、胸をどんどんと叩く。と、もう速度全開で食事を再開している。
「朝ご飯食べてかない方が、よっぽど健康的なんじゃないの?」
寝起きに凄まじい光景を見せられて、げんなり顔の兄貴である。
「兄貴、知らないの? 朝はちゃんと食べた方が成績がいいんだよ」
「あんたは、これ以上悪くなりようないでしょ!」
静江が横槍を入れた。
「三者面談では、お母さん思ってることきっちりと先生に相談して、びしびしやってもらうようお願いしますからね。日にちが決まったら教えなさいよ。この間みたく内緒にして、ウチの親来られなくなりましたなんて先生にも嘘ついてたりしたら承知しないよ」
「ごちそうさまでしたあ! おいしかったでーす! ババうるせっ。もう行かないと電車間に合わないや。よいしょっと」
裕子は立ち上がると、足元のカバンを手に取った。
「歯磨きは? あと、どさくさに紛れてなんかいわなかった?」
「別になんも。ほんとに時間ないから、歯磨きパス。それに、育ち盛りの裕子ちゃんはまだ食い足りないのでーす」
と、電子レンジの上に置いてある平たいバスケットから、食パン一枚を抜き取った。
「だからお母さん、早く起こしたのに。もう。あんたは今日から三年生なんだからね」
「はーい」
裕子はのろのろ玄関に行き、靴を履いた。
「最上級生があんなんでいいのかしらねえ」
「髪の毛伸ばし始めて、見た目が随分かわいらしくなったと思ったけど、やっぱり裕子は裕子か。まあ、パンが二枚でパンツーなんて下品な駄洒落をあまりいわなくなっただけ、進歩か」
ダイニングから、母と兄の会話が聞こえて来る。
好き勝手いいやがって、あいつら。
「そんなセンスのない駄洒落いったこと一度もねーよ! それじゃ、行ってきまーす!」
裕子は玄関のドアを開けた。
2
風が吹き抜ける。
青い稲穂の海が、視界一杯に広がる。
ここは、千葉県香取市にある四階建てマンションの四階だ。
周辺は今後発展予定とのことだが、現在のところ、全方位広大な田園地帯に囲まれている。
見晴らしは抜群によいけれど、田んぼばかりなのはどうにも味気ない。
電車が一時間に一本か二本という、辺鄙なところなのでどうしようもないのであるが。
裕子は制服のスカート翻し、階段を降り始める。
マンションにエレベーターはあるが、呼んで待っている時間諸々を考えると階段を駆け降りた方がよっぽど早いのだ。
一階エントランスに到着。
オートロックのドアを通り抜け、外へと出る。
パンを口にくわえると、走り出した。
ショートカットにしたさらさらの髪の毛が、風になびく。
つい最近までは、男子の野球部員か柔道部員かというくらいに髪の毛を短くしていたのだが、「就職面接に響くかもよ」と兄貴にいわれて、ちょっと試しに伸ばしているのである。
もうちょっと伸ばしてみる予定だけど、それがしっくりこなかったら、採用試験を待たずして元に戻すつもりだ。
元どころか、スキンヘッドにしてもいいくらいだ。
長い髪の毛は、どうにも鬱陶しいばかりで好きじゃないのだ。
でもまあ、最近は学校のトイレに入っても女子が驚かなくなったので、それは嬉しいけど。
裕子は、高校を卒業したらすぐに就職するつもりでいる。
勉強するつもりがなくても高校は出ておくべきだと思うけど、勉強するつもりがないなら大学は意味がない、と考えているから。
大学で勉強以外の色々を学ぶことも大切かも知れないけど、そのためだけに親から学費を出してもらうのは忍びないし、自分で払うくらいなら、そもそも興味がないのだから行く必要はないだろう、という考えだ。
広大な田んぼを突っ切り終え、小さな住宅街へと入った。ここを抜ければ、もう香取駅が見えてくる。
非常に見晴らしのよい道なので、裕子はいささかもスローダウンすることなく爆走を続けている。
見晴らし云々よりもなによりも、目を見張るべきは裕子の驚異的な体力であろうか。
カバンとバッグをそれぞれ手にして、十分近くも速度を落とさず走り続けているのだから。
しかも器用なことに、手をまったく使わずに、口にしたパンを食べながら。
駅までの、いつもの道を走り抜けていく裕子。
いつもとなんの変化もない通学風景。
変わったのは、わたしの方。
裕子は思った。
今日から、高校三年生になったのだから。
春、
桜、
クラス替え、
そして、素敵な出会い。……あると、いいな。恋愛の出会いだけでなく、色々とさ。
といいつつも、恋愛比重の方が圧倒的に高いけど。いいじゃん、単なる願望だ。
食パンをかじりながら全力疾走の裕子。妄想に、顔がちょっとニヤけている。
あと二度ほど角を曲がると、住宅街を抜けて、ロータリーや駅舎が見えてくる。
野生味たっぷりなフォームで爆走しながらも、裕子はまだ乙女チックな想像を続けていた。食パンくわえながら。
少女漫画の一話目なんかだとさあ、こういうさあ、かわいい主人公の女の子が新しい気持ちで爽やかに登校してるシーンって、角を曲がったところで素敵ななにかが起きちゃったりなんかするよね。
あたしいま第一話!
心に叫びつつ、裕子は角を曲がった。
バキュームカーが爆走してきた。
ひき殺されそうになり「ぎゃー」と絶叫しつつ、なんとか横っ飛びでかわし、バレーボールの回転レシーブのように転がった。
慣性の法則で自分と一緒に横っ飛びして落下する食べかけの食パンを、しっかり掴んだのはいいが、さらにそこへ老人の乗った自転車が突っ込んで来た。
老人は裕子を避けようと急ハンドルを切ったため、転倒しかける。
裕子は素早く起き上がると、カゴとハンドルを掴んで倒れかけた自転車を持ち前の怪力でなんとか支えた。
過ぎ去りてみれば、すべて事もなし。
裕子と老人、安堵のため息。
「飛び出しちゃってごめんね吉田さん、大丈夫? じゃ、急ぐから」
吉田さんはこの辺りに夫婦二人で暮らしている老人で、この時間によく散歩をしているため、いつの間にか顔を見れば挨拶する仲なのである。
走りながら、不意にガクッと崩折れる裕子。頭に激痛を感じた。
もしかしたら、さっき車にかすったかな。
いいや、あとあと。
と、カバンを拾い、また走り出した。
「元気だな裕子ちゃんは」
吉田さんが、後ろから声をかけた。
「だって、それしか取り柄ないもん」
裕子は、住宅街を走り抜けた。
香取駅のホームに、成田方面への電車が入って来るのが見えた。
「やば。加速装置!」
裕子は叫んだ。
足の回転にターボエンジンのごとき急加速がかかり、爆音が空気をつんざき、一瞬にしてロータリーを突っ切った。
もう十分早く起きればいいのに。
毎日進歩のない裕子の慌てっぷりに、きっと駅員さんも、いや駅舎も電車も、空にぽっかり浮かんだ白い雲さえも、そう思っていることだろう。
3
始業式を終えた佐原南高校の生徒たちが、次々と体育館から出て来る。
新二年生と、新三年生だ。
通路を通り、校舎へと入り、それぞれの、これから一年間を過ごすことになる新たな教室へと向う。
騒々しいが、しかし爽やかな熱気に溢れた、そんな光景。
笑顔で冗談をかわし合う者、
よい一年にしようと内面に闘志を抱く者、
なんだか新鮮さが嬉しくて、とにかく我を忘れて騒ぎまくる者。
それぞれに、思い思いのことを胸に描く生徒たち。そんな者たちでぎっちりぎっちり溢れかえっている廊下を、山野裕子は、同じ部活の仲間である武田晶と並んで歩いている。
武田晶。
真ん丸顔が印象的で、裕子によくジャガイモ顔などといわれてからかわれている女生徒である。
「晶ちゃ~ん、一緒のクラスになれてよかったねー」
裕子は晶に肩を寄せ、可愛らしく小首を傾げた。
「どうでもいい」
晶は裕子にちらりと視線をやることすらもせず、真正面。無表情のままぼそりと呟いた。
裕子の表情が、一瞬、ぴくりと変化する。
無言のまま歩き続ける二人。
数秒後、
「ネクラ女!」
裕子は叫び声をあげると、晶の身体へ真横から容赦のないショルダータックルを食らわせていた。
まったく予想もしていなかった事態に、受け身すら取れずに、ぶざまに壁に激突する晶。顔面を強打してしまう。
「なにすんだよ、王子! こういうわけの分からないことしてくるから、一緒のクラスになるの嫌だったんだ!」
さすがにムカっ腹が立ったか、晶は、裕子にまったく同じことをやり返す。
いや、攻撃失敗。
反撃を予期していた裕子は、闘牛士よろしくひらりとかわすと、晶の肩に両手を置いて、攻撃の勢いを利用して弾き飛ばした。
晶は、斜め前方を歩いていた教頭先生の背中に体当たりしてしまった。
「こら! 武田、ふざけてるんじゃない!」
「すみません……」
晶はちょっと不満顔で、肩を縮め謝った。
なんでわたしが謝らないといけないんだよ。と、そんな表情で、裕子の顔を睨みつけた。
「そこの君ぃ、先生に乱暴はいけないよ」
しらじらしい真顔で注意をする裕子。
晶はため息。前を向いた。なにもしないのが一番いい、と諦めたのだろう。
仲の良いのか悪いのか、よく分からない二人である。
しかし、たとえ晶が嫌がろうとも駄々をこねようとも、当面は縁の切れることはないのだが。何故なら二人は、同じ部の部長と副部長という関係だからだ。
「早く王子と無関係になりたいよ。部活でも散々な目にあわされているのに、なんでクラスまで……」
晶は、なおも小声でぶつぶつと不満の言葉を並べている。
なお、王子というのは裕子のあだ名である。
以前の裕子は、とにかく髪の毛が短かった。顔立ちそのものは女の子として整っている方なので、美少年みたいということで、いつしか王子と呼ばれることになったのである。
この冬から髪の毛を伸ばし始めており、まだまだ短めな方ではあるものの、スポーツをやっている女子としては特に珍しくもない長さになってきている。
伸ばし始めた理由は、就職を考えて兄の助言に従ったものである。
鬱陶しくて鬱陶しくて、就職なんかどうでもいいからバッサリ切ってしまいたいと思うこと度々であるが、我慢している理由がもう一つある。
髪が多少伸びてメンズヘアから脱却してきた頃に、生まれて初めて男子から告白されたのである。
しかし、まったく好みでないタイプだったので、「髪伸びたら寄ってきやがって。外側しか見てないんか!」と、怒って蹴飛ばして、断ってしまったのだが。
好みの顔だったら絶対OKしてたのにな。
と、自分も外見でしか判断していないことに気付いていない裕子であった。
その後、これはストライクゾーンだという男子と学校のイベントを通して、良い雰囲気になりそうという兆しがあったのだが、兆しのうちに相手に逃げられてしまった。
裕子がいくら頑張ろうとも急には自分を変えられず、可愛らしい会話が出来ず、それどころか無意識にお下劣な話ばかりがお下品な口調でぽんぽん出てきてしまって、ドン引きされてしまったのである。
とにかく、髪の毛普通にしていれば、色々ときっかけが増えることは実感した。
いつかはきっと良い相手と巡り会える。巡り会えたらとっとと髪の毛を切ろう、鬱陶しいから。
というわけで、伸ばし続けている。
本来の目的は就職活動なのに、そんなことすっかり忘れてしまっている裕子である。
「そうだ、あとで入部届、職員室に取りに行かないとな。部員、入って来るかなあ。どんな子が来るんだろうな」
裕子の頭の中は、これから一年を過ごすクラスのことよりも、部活のことの方で一杯であった。
「さあ」
そっけない、晶の返事。
「里子みたいのばっかりだったら、困っちゃうね~」
裕子は、自分の言葉に受けて、がははと笑った。生山里子、生意気な後輩だ。
晶は口を閉ざし、正面を向いたままだ。
その態度を、ちょっといぶかしむ裕子。
いつもなら「王子みたいなのばかりより、ずっとましだよ」、くらいいってきそうなものなのに。普段無口なくせに、こういう時だけちくりと刺してくるくせに。
「なんだよ晶、一年が入って来るの嫌なんかよ」
裕子のその言葉に、晶は、はっとしたように目を開いて、慌てたように、
「いや、違う違う、そういうわけじゃなくて!」
「なんだよ。なにムキになってんだ?」
「別に……ムキになんか、なってないよ……」
「変なのー」
それから教室に着くまで、晶はずっと無言のままであった。
どうしたんだろう、晶。
どんなのが来るか、緊張してんのかな。
まあいいけど。
4
「バカ部長まだ来てないから、それまで普段通りに練習!」
「はい!」
武田晶の指示に、整列している部員のほぼ全員が元気良く返事をした。
全員といっても例外が三人。
二年、九頭葉月、おどおどしていて声が小さい。
二年、梨本咲、ぶすくれたような態度で気のない返事。
三年、真砂茂美、そもそもまったく口を開いていない。悪気はないようであるが。
彼女らの小声や無口は今日始まったことではなく、とにかく晴れ渡る気持ちの良い空の下で、新三年生と新二年生は練習を開始した。
普段は体育館を使うのだが、今日は他の部の都合により使用が出来ないため、用具をグラウンドに持ち出しての屋外練習だ。
二チームに分かれて、サッカーボールでパス回しの練習を始めた。
いや、子供用なのか、よく見るとボールが少しだけ小さい。
しかも、高いところから地面に落ちてもほとんど弾まない。
実は、彼女たちの行なっているのは、サッカーではなく、フットサルというスポーツの練習、そもそもボールが違うのだ。
フットサルというのは、主に室内で行われる、サッカーから派生した球技だ。
細かいルールは色々と異なるが、なにより目に見えて違うのがプレーヤー人数。
サッカーは一チーム十一人だが、それに対してフットサルは五人。だから戦術面でも、サッカーとは根本的に理論が異なる競技なのだ。
武田晶は、佐原南高校女子フットサル部の副部長である。
部長補佐が役割だが、しかし、今期の部長が部長なので、もしかしたら部長以上に忙しいかも知れない。
王子の奴、どこほっつき歩いてんだか。しっかりしろよ、もう三年生なんだから……
晶は、心の中で愚痴をこぼした。
今年度から顧問の先生が変わるのだが、部長である山野裕子が、その新たな顧問を呼びに出たっきり、戻って来ないのだ。
宿題を忘れて居残り勉強させられるなど、いつもいつも部活に遅刻してくる部長だが、今日は初日だけあって珍しくちゃんと来たと思ったら、結局この通りだ。
みんなで用具を準備して、校庭をジョギングして、ストレッチして、軽く筋トレして、それからボール使った練習を開始して、と、もうかなりの時間が経っているというのに。
王子の中身が急に変わるはずもないし、引退までこれが続くのだろうな、と半ば諦めてはいるけど。
部長不在のまま練習メニューは進む。
三人組を作って、ボール保持奪取の練習に入った。
ゴレイロ --サッカーでいうゴールキーパー-- である武田晶と梨本咲の二人は、ここからは他の部員たちと分かれて、キーパーグローブをはめて専用の練習に入る。……はずであったが、しかし肝心の咲がいない。
「咲、やるよ! どこ?」
晶は視線きょろきょろ、咲を探した。
見つけた……
「なにやってんの、咲、里子!」
集団の中に咲の姿が見えないと思ったら、端に置かれているゴール前で、梨本咲と生山里子とがPK勝負をしていたのだ。
咲がゴレイロ、里子がキッカーで。
「里子!」
いつも無表情で、寡黙で、感情を表に出すことの少ない晶だが、微妙に語気が荒くなっている。
大事な初日だというのに部長が行ったきり戻って来ないので、少しイラついているのだ。
「だってあたし、あぶれちゃったし」
里子は助走をつけ、ゴールへとボールを蹴った。
守る咲が瞬間的に軌道を見切り、右手ですくい上げるように弾いた。
「ああ、惜っしい」
里子は残念そうに腕を振り下ろした。
「惜っしいじゃないよ。あぶれたんなら、四人組になりゃいいだろ! PK練習が悪いとはいわないけど、好き勝手やられちゃ困るんだよ。これから先輩になるんだという自覚はないのか、もう」
しかし、注意しても、二人ともいっこうににやめる気配がない。
ほんとに始末におえないな、この二人は。
心に愚痴を呟く晶。
晶は感情をほとんど表情に出さないタイプであり、いまだってそうだ。しかし、ただ表情に出さないというだけであり、心の中ではしっかり愚痴もいえば、ため息だって連発している。並の連発速度ではない、一秒間十六連射だ。
こんな問題児がいれば、誰だってそうなるだろう。
生山里子は自分勝手で、梨本咲は集団に逆らう性格だ。
これまで、二人のアウトローはいがみあっては喧嘩ばかりしていた。
いわゆる犬猿の仲。ボールを顔面にぶつけ合ったこともあるくらいだ。
最近それが改善され、少しは仲が良くなってきたなと思っていたら、こんな有様である。
ゲリラを各個撃破するのと、反乱軍との紛争と、どっちが楽かという話だ。手のかかること、いささかも変化がない。
ぎすぎすとしていないだけ、現在の方がまだましではあるが。
いやいや、騙されてはいけない。こいつらの好き勝手を放っておいたら、他の者に示しもつかない。
「咲! 里子!」
先輩舐めるなよ。
いつまでも甘い態度ばかりしていないからな。
「はいはい。じゃ、あと五本やったらね」
咲は、面倒くさそうに晶を一瞥した。
「……五本だけだよ。里子も、あぶれたなんていってないで、ハナたちに混ぜてもらいなよ」
甘過ぎだ、わたしは。
強がるすまし顔の奥底で、晶はまたも心の中でため息の十六連射。武田連射名人だ。
「よっし、今度こそ絶対決める!」
悩む副部長の存在などもう眼中になく、里子はゆっくりと助走をつけ、ボールを蹴った。
助走速度や蹴り足を上げるゆっくりさからはとても想像の出来ない、速度のあるキックだ。
弾道角度もどんぴしゃりで、里子は蹴った瞬間にこれは決まったと確信を持ったか、ガッツポーズを作った。
右上隅を見事抜いて決まったかに見えたが、しかしボールは、伸びた咲の手によって弾かれていた。
咲は、またもやシュートを阻止したのである。
晶が見ているだけでも、もう六、七本ほどこの勝負を続けているが、里子が決めたのはたったの一本だけだ。
咲、とても反応がよくなってきているな。
ライバルの成長を目の当たりにした晶は、素直に感心していた。
里子相手だと咲は二倍の力を発揮するので、その分は差し引かないといけないのだろうが、それでもこの読みや反射神経は素晴らしい。
もともと得意としていたハイボールの処理も最近さらに良くなってきたし(サッカーほどには、役立つ機会は少ないが)、もう自分が引退しても安心して任せられる経験と技術力を持っている。
ただ一つの懸念材料は、下級生に教えられるかだな。能力的にではなく、性格的に。
ま、それはどの二年生にもいえることだけどね。
晶は、咲たちに背を向け、他の部員たちを見た。
なんかみんな頼りないけど、一番後輩との付き合いが上手そうなのは花香かなあ。
と、その時であった。
「おい、みんな、集まれ!」
ボールに乗って飛び交っていた黄色い声を、低く野太い男性の声がかき消したのは。
体育教師のゴリ先生こと、高村広大先生が、校舎の方からゆっくりと近付いてきた。
5
「えー、まさかあ」
「うわあ」
篠亜由美と梶尾花香は、嫌そうな態度を隠しもせず、心底げんなりした表情になっていた。
オジイ、いや北岡先生が茶道部の顧問に変わること、部員たちは知っていたが、後任が誰になるかまでは聞かされてなかったのだ。
それがよりにもよって、熱血体育教師の高村先生だとは。
ぽっかり雲の浮かぶ空の下で、集合した部員たちと高村先生とは向かい合った。
「山野は? あいつがここの部長だよな」
「先生を呼びに行ったんですが……随分と前に」
副部長の武田晶が、受け答えをする。
はて、と高村先生が怪訝そうな顔をしていると、
「あーーっ、ゴリ先生! なんでここにいんの!」
山野裕子が叫びながら、校舎の方から走ってくる。
「お前こそ、なにやってんだよ!」
ゴリ、高村先生の怒鳴り声に、空がばりばりと震えた。
「だってだって、四時半に職員室行ったのに先生いないんだもん!」
裕子は泣きそうな顔で、身体をふにゃふにゃと左右に揺すった。
「そんな遅い時間に、いるわけねーだろ。三十分遅いんだよ」
「だって、あっちのグラウンドでソフトやってて、近藤がちょっと代打やってっていうから」
「あのなあ、それ理由になると本気で思ってんか。お前、部長だという自覚はあるのか。それに、今日から三年生だろうが。もっとしっかりしろ、しっかり。バカタレが!」
「分かりました! いわれた通りしっかりと鍛えて、ひっぱたかれても平気な体になります!」
「ひっぱたかないから……ひっぱたいたりなんか、しないから……そういうことされないように、気をつけろよ。な。お願いだから。お前さあ、この部活でも、いつもいつも遅刻してるそうじゃないかよ」
高村先生は、喋る言葉にどんどん力がなくなってきていた。
登校時に閉じた校門を乗り越えようとしたり、門を無理矢理に開こうとしているところを見つけては、よく叱っているため、裕子の生活態度は充分によく分かっているはずであるが、一向に慣れないのはどうしたことか。
「だってよく、ひっぱたくぞって怒鳴ってるじゃないですかあ。怒るでしかしぃ、とかさあ」
「怒るでしかしなんていってねえよ! つうかよく知ってるな、それ。ひっぱたくといってるのはな、生徒のことを思えば例え自分がどうなろうと辞さない、そういった教育者としての覚悟の問題をいってる訳だ。おれが子供の頃はビンタ当たり前だったのに、現在は、ちょっとしたことですぐに親が飛んできて、PTAが騒ぎ立て、校長教頭平謝り、って、その甘さは子供をダメにする以外のなにものでもない。子供にだけでなく、バカ親に対しても毅然とした態度をとれなくては、この日本という国の未来は……って、聞けえ!」
先生の怒鳴り声もごもっとも。裕子は、生山里子と尻取リフティングを始めていたのである。
「り、り、りだから、リンゴ」
「没収!」
高村先生は、里子からボールを引ったくった。
「いいとこだったのに、邪魔すんだからあ。あれ、晶、そういえばさ、新入部員は?」
裕子は、ふと疑問に思い、きょろきょろと周囲を見回した。
「知らないよ。ここに呼んであるからって、王子がいってたじゃん。そうそう、それさっきから気になってたんだよ。なんで王子だけが来るのって」
「……体育館って、いっちゃったような気がする。……癖で」
むむ、としかめっ面の王子。
「じゃ、気がするじゃなくてそうなんだよ! なにやってんだか。だからそこは、あたしが仕切るっていったんだよ。いいからいいからなんて、全然よくないじゃん。そんな程度もちゃんと出来なくてどうすんだよ部長のくせに! バカじゃないの」
東京大空襲並みの爆弾連続投下に、裕子はたじろいだ。
「いまここでそんなにあたしを責めたてて、この部にとってなんかいいことありますかあ?」
「開き直るなよ。もういいよ、あたしが連れてくるから」
晶が踵を返そうとすると、
「体育館ですよね。あたしが行ってきますよ」
二年生の、梶尾花香が元気良く走り出した。
「ありがとね、ハナ!」ぶんぶん手を振る裕子。「……ほんっとハナは気がきくし、親切だよなあ。愛嬌あるしさあ。ちっこくて可愛いよなあ。いいお嫁さんになるんだろうなあ」
と、これみよがしに生山里子へとちらちら視線を向ける。
花香と里子、大親友同士なのにこうも違うものかな、と、からかっているのだ。
「あたし、自分のこと気がきかなくて不親切むしろ意地悪って分かってますから、チクチクやられても全然気にならないんですが。一人の部員が無神経で気がきかないことよりも、一人の部長が部長としても人間としてもだらしないことの方が早急に対処すべきよほど重大な問題だと思いますが、あたしだけですかね、そう思っているのは」
里子にまで爆弾連続投下を食らい、うわあああん、と裕子は情けない泣き声をあげて逃げ出そうとする。
「逃げんな山野」
高村先生が、ガッと襟首を引っつかんだ。
「だって里子ちゃんがいじめるうううう」
「るううう、じゃねえよ。もうすぐ一年生が来んだから。お前がいなくてどうすんだ」
「おう、そうだった。すっかり忘れてた。今度こそ可愛い後輩ちゃんたちならいいなあ。去年は里子と咲が、まあ態度最悪だったもんな」
仮に可愛い後輩ちゃんが来たとしても、まだ入部確定ではないが。
二週間は体験期間であり、簡単に退部して他の部を試すことが出来るからだ。
とはいえ、入部届に記述された経験の有無や中学での所属部を見たところフットサルの経験者は多いので、辞められる可能性は低そうであるが。
フットサルがどんな競技か知っていて入部希望しているのだから、部の雰囲気が最悪とか、酷い先輩がいるとか、そういうことでもない限りは……多分……
「というわけで、里子、咲! お前ら、先輩になるんだから、後輩に示しつかないようなことばっかりすんなよ。少なくとも体験期間終わるまでは 変 態 封 印!」
腕でバツ印をつくり、腰をひねってお尻を前に突き出した。
「封印するのはお前だ」
ゴリ先生は、裕子のほっぺたを思い切り左右に引っ張った。
「いへへ、伸びてナマズのヒゲみたくなったらどうすんですかあ」
「そしたら地震予知で役に立て」
などと二人がじゃれあっていると、体育館の方から梶尾花香の声が聞こえてきた。
「こっちこっち」
彼女を先頭に、あどけない顔をしたジャージ姿の女生徒らが、ぞろぞろと歩いて来る。
「とうとう新入部員があ、キターーーー!」
お笑い芸人の物まねで、腕を突き上げる裕子。
あれ?
裕子の視線は、一年生の一人にフォーカスロック。
あの子の顔、なんだか……
ちらりと、隣に立つ武田晶の顔を見る。
「ほんとに、来ちゃったよ」
晶が、ちょっと青ざめたような顔で、ぼそりと呟いた。
ひょっとして……
梶尾花香に連れられた一年生たちが、どんどんと近付いて来る。
「あ、お姉ちゃあん、うおっす!」
晶に似た真ん丸顔の新入部員は、跳びはねながら両手をぶんぶんと振り回した。
「うわ、やっぱり晶の!」
裕子は思わず叫んでいた。
妹がいることは、話に聞いたことはあったけれど、この学校に入学するとは、ましてやフットサル部に入って来るなどとは、考えたこともなかった。
確かに入部届に名前が書いてあったかも知れないが、苗字が武田じゃ平凡過ぎて分かるはずもない。
しかししかし、姉妹とはいえここまで顔が似ているとは。コロコロ丸くて、幼い感じで。
「そう、妹の直子だよ。本当にフットサル部に入って来るとは……悪夢だ。……あたし、退部しようかな」
晶は、がっくりとうなだれた。
同じ顔をしている妹、武田直子は集団から抜け出ると、足取り軽く晶の方へと小走りで近寄った。
「はい、お姉ちゃん、忘れ物。もう遅いかも知れないけど、でも教室が分からなくて朝渡せなかったから」
武田直子はそういうと、姉にカードだか写真だかを手渡した。
「なにそれ?」
覗き込む裕子。
「大谷君のブロマイドです」
はきはきと、直子は答えた。
「え? ジャミーズの? なに、晶、疾風のファンなの?」
事の意外に、裕子の目がキラキラ輝いた。
「そうなんですよ、先輩。一緒にね、コンサートに行ったこともありますよ。お姉ちゃん大はしゃぎで、もうほんっと恥ずかしかったです。うおお、タッくーん、って両手振り回しちゃって。今朝ね、テレビの占いで、てんびん座の人は運気最悪、急上昇させるラッキーアイテムは好きなアイドルの写真です、なんていってましてね。それを見てたお姉ちゃんがあたしに、『ナオ確か大谷君のブロマイド持ってたよね、ちょうだい』、ってせがんできましてね。まあ、今日に限らず前々から大谷君アイテムを、せがまれてはいたんですけどね。あたし、興味が星野君に移っているから、あげてもいいかなって。でも、朝、渡し忘れちゃって。家を出た後に渡そうとも思ったんですが、お姉ちゃん、『先に行っててやっぱりトイレ行っとくわ』、なんて青ざめている恐ろしく必死な形相でお腹抱えて家に戻っちゃったから。仕方ないから学校で渡そうと探したんだけど、教室が分からなくてなかなかお姉ちゃんと会えなくて、で、いま渡せたというわけです」
べらべらべらべらベラベラベラベラべらべらべらべらベラベラベラベラ、言葉のマシンガンの弾層がようやく撃ち尽くして空になったか、直子は口を閉ざし、にっこり微笑んだ。
「晶が、占い? ラッキーアイテム? 大谷君? コンサート? ブロマイド? 大はしゃぎ? ほんと、それ? タッくんうおお、って」
裕子は真顔を保とうとするが、目が完全に笑ってしまっている。
「はい」
直子の返事がトリガーになって、裕子は、ぶーーーーっと吹き出した。
最初から我慢出来るはずがなかったのに、ここまで耐えたのは、友人と思えばこそか、それとも人類としての憐憫の情か。
「だからって、なんでいま渡して来るんだよ! あと、トイレがどうこうって、それ、いう必要あるか? いわなくたって通じるだろ!」
晶は妹の顔を睨みつけた。
「だってえ……」
もじもじとした態度をとる直子。
銀河を駆けるクールな一匹狼、武田晶の意外な趣味の判明に、堪え切れなかったのは裕子だけではない。他の二年生三年生たちも、誰からとなく声が洩れて一瞬にして大爆笑の渦となっていた。
「ね、ほか、ほかになんかない? 晶のこと。えっと、なにが好きなの? どんなテレビ見てる?」
裕子は嬉々とした表情で、直子の両肩をばんばん叩き、情報をせがんだ。
「えーっと、日曜の朝にやってる少女アニメかかさず見てますね。あたしよく分からないですけど、なんとかフォルテシモーなんてキャラと一緒に叫んでますよ」
直子の言葉に、裕子はまた手をばっしばっし打って大爆笑だ。
「それ、あたしも好きだから見てるけど、晶がってのが笑える! ノーザンライトフォルテシモー! 叫んでんのか! あおいちゃんの台詞! 晶が! ノーザンライトーー、ぶはっ、腹痛えええ!」
ぐはははは、と笑い転げる裕子の尻が、バツんと爆発した。
武田晶が、渾身の力で回し蹴りを叩き込んだのだ。過去に空手を習っていたのはもしかしたら今日この日のためだったのかも知れない、というほどに強烈な蹴りを。
しかし笑いが麻酔か、真剣に怒る晶の姿に裕子はさらに笑いのツボを刺激され、お腹を抱えて地面をごろりごろりと転がり始めたのだった。
「バカ王子! ナオも、なんでそういうことペラペラ喋るんだよ!」
晶は直子から受け取ったブロマイドに目をやった。
疾風のメンバーである大谷恭平君が、魅力的な白い歯を見せて爽やかに笑っている。
「大谷君のバカ。何がラッキーアイテムだよ。運気、最悪なままじゃん……」
晶は、ため息をつくと、がくりと肩を落とした。
いつも無愛想な梨本咲が、なんだか珍しく嬉々とした表情で直子の横にならぶと、なれなれしく肩に腕を回して引き寄せた。
「なんだか君とは、仲良くなれそうな気がするよ」
6
体験入部生も交えての、今年度の練習初日が終了した。
全員で用具の後片付けを終え、終わりの挨拶、解散。
その後、山野裕子と武田晶は、体育館の裏にあるプレハブの部室で、今後数ヶ月間のおおまかな予定を打ち合わせた。
なにかあれば臨機応変に修正するとして、とりあえずは前年度の流れを踏襲、ということで、それほど時間のかかることもなく終了。
二人は、部室から出た。
裕子は、すぐ目の前にある体育館通路の出っ張りに、新入部員であり武田晶の妹である武田直子が腰を下ろしているのに気付いた。
「あれ、どうした?」
裕子は尋ねた。
直子はすっと軽やかに立ち上がった。
「はい。お姉ちゃんと一緒に帰ろうと思いまして。……お姉ちゃん、さっきのこと、まだ怒ってる?」
直子はうつむきがちに、首を横に傾げた。
晶は直子へ近寄ると、
「そんないつまでも、怒ってるわけないだろ。ナオがわざわざ持って来てくれたんだし」
そういうと、直子の脇腹に肘をぐりぐりと押し付けた。
「くすぐったい、やめて」
直子は身をよじりながら、子供のような無邪気な表情で笑った。
三人は、体育館通路を歩き出した。
体育館の外周を半分ほど進んで北校舎、裏口から入り、突っ切って昇降口へ抜け、外、そして校門へ、と運動部員のほとんどが帰宅時に利用するルートだ。
「直子ちゃん、練習、きつくなかった?」
裕子が尋ねる。
「さすがに高校だからなのか、やっぱりハードですね。中学の時にずっとやっていたというのに、筋肉痛になりそうですよ」
「すぐ慣れるから大丈夫。……しっかし今更だけど、晶の妹が入ってくるとは、まさかの展開だよなあ。……他の子も、なんだか個性的なのばかり集まったな、今年は」
「王子がいうかな。個性的とか。でもまあ、確かにそうかも」
晶が、さして面白くなさそうな表情でぼそりと呟く。面白くないからというよりも、普段からこんな顔をしているだけであるが。
「でしょでしょ。自己紹介からして、なんか凄かったもんなあ」
裕子は、二時間半ほど前の記憶を回想した。
7
梨本咲は、武田直子の隣にならぶと、肩に腕を回してぐいと引き寄せた。
「なんだか君とは、仲良くなれそうな気がするよ」
ぽんぽん、と肩を軽く叩いた。
長身の咲に、小柄な直子。まるで大人と子供だ。
直子は、ちょっとうろたえたように、
「あ、は、はい、よろしくお願いします」
咲のなんだか不良少女みたいな顔に態度に、どう接すればいいのか戸惑っているのだろう。
「無駄話はそこまで。集合!」
新顧問である高村先生の、太い声が響いた。
「え、あれ、ゴリ先生、いつからここに」
山野裕子は、心底びっくりしたような表情を浮かべた。
「お前が遅れて来た時、もうおれはここにいただろうが! おれとお前とで、つい今さっきまで会話をしてただろうが! 鶏の頭か、お前は。……それじゃ、自己紹介な。まずは先生のおれから。北岡先生に変わって今年からこの部の顧問になった、高村だ」
「はああ、やっぱりそうなんだー」
「オジイの方が楽でよかったなあ」
「ねー」
先生の前だというのに、こんなこといっている篠亜由美と梶尾花香。
「篠と梶尾、堂々とうるさいぞ。では、今度は上級生から新入部員への挨拶」
「仕切るなあ、オジイと違って。えーと、あたしはこのフットサル部の部長の……」
と、山野裕子を先頭に上級生たちは、向き合って立っている一年生たちに次々と名乗っていった。
上級生全員が終わると、最後に、新入部員から先輩たちへ自己紹介だ。
「辻美香菜です」
彼女が軽く頭を下げると、裕子を筆頭に何人かから「おーっ」と下品な声が上がった。
顔立ちがかわいらしい上に、微笑の仕方、お辞儀の仕草まで、引き込まれるくらいに魅力的だったからだ。
「小五からフットサルをやってます。ここのフットサル部は強いと聞いていて、だから、ここに入りたくて、佐原南を受験しました。ニックネームなんですけど、小学生のいつからだか、ずっと、デンって呼ばれてます」
「何故デン?」
顔とのあまりのギャップに、裕子は漫画のいわゆるズッコケシーンのように前のめりに倒れそうになった。
「頑張りますので、よろしくご指導お願いします」
辻美香菜は、またお辞儀をした。
上級生、拍手。
「しっかり挨拶も出来て、里子とは大違いだなあ。酷かったもんな里子は。もしあたしがその時に部長だったら、往復ビンタ食らわせてたね。顔が二倍に膨れあがるくらい」
裕子は一年前を回想した。
当時の部長、ぐっと堪えてはいたけど、やっぱりブチ切れそうな顔してたよな。
「しっかり挨拶するなんて、百万円積まれても嫌ですね」
まるで悪びれることのない里子であった。
続いての挨拶は、デンこと辻美香菜の隣、
「岸田森です。よろしくお願いします。以上」
彼女はなんだかそそくさとした態度で挨拶を終わらせると、一礼し、手振りで次へ譲った。
「なんかおばさんぽいっ」
裕子は、無意識のうちに独り言を呟いていた。
彼女、顔立ちは若いというか幼く見えるくらいなのに、声が少しかすれていて、滲み出る物腰もどことなくせかせかした庶民的な主婦のようで……
岸田森は、つかつかと足早に裕子の元へと歩み寄って来た。
「あたし、その言葉には敏感なんですよね。だらだら喋ると絶対そう思われるから、ささっと喋って終らせようとしてたのに」
唇をきゅっと噛んで、裕子を睨み付けた。
「ごめんちょ」
裕子が謝ると、岸田森は「もういわないで下さいね」といい残して、元の場所に戻った。
アホじゃなかろか。もういわなかろうがなんだろうが、いまので、みんなの頭の中に完全にインプットされたぞ。
わざわざ文句いいに来なきゃ、気付かない者もいたかも知れないのに。
裕子はそう思ったが、口には出さなかった。
また舞い戻って来られそうで怖かったから。
顔だけ見ると小学生みたいなのに、なんだか貫禄が凄いんだもん。
「佐奈夏樹です」
言葉や態度は非常に流暢だが、しかし、なんだか……
裕子や里子が、彼女の顔をじーっと見ていると、それに気付いたのか、
「ハーフではありません! 外国人でもない! 完全な日本人!」
「なんもいってないんだけど。まだ」
しかし佐奈夏樹本人が先回りしようとするのも無理はないのかも知れない。
日に焼けたような彼女の黒い顔は、堀が深く、悪くいえばくどく、とにかく中東だか北アフリカを思わせる、エキゾチックな外国人顔なのだから。
「結構この顔気にしてるんで、からかうにしてもお手柔らかにお願いします。ま、気に入ってもいるんですけどね」
と、ちょっと笑いを誘って、本人も真っ白な歯を見せた。
「フットサルの経験は中二からです。それでは、よろしくお願いします!」
頭を下げた。
上級生、拍手。
次。
「永田三水です。名前の漢字がちょっと変わってまして、三つの水と書いてみみと読みます。両親は色々意味合いを考えてつけてくれたらしいんですけど、どんなんだったかごちゃごちゃしてて忘れちゃいました。そんな話はどうでもよくて、えっと、中学に入った時からフットサルやっています。人数少なかったからFPもよくやってましたけど、だいたいはゴレイロでした」
百五十センチくらいと、身長は低い。その分というべきか、非常に俊敏そうに見える。
ゴレイロ経験者かあ。いよいよ、咲のライバルが入って来たなあ。
裕子は、咲とこの後輩がどんな化学変化を生むか、楽しみになった。
どれほどのレベルなのかは分からないけど、FPも出来るっていうから咲ちょっと焦るだろうな。
あいつ足元てんでダメだし。
競い合う、いい関係になってくれればいいな。
現在の正ゴレイロである武田晶は、今年の夏で引退。それからは、咲に頑張ってもらわないとならないのだから。
「武田直子です。中学の時からフットサルをやってます。足を引っ張らないよう頑張ります。先輩方、それとお姉ちゃん、よろしくお願いします!」
直子は屈託のない笑顔で、元気よく大声を出すと、深く頭を下げた。
「あたしだって先輩だ。なんで分ける」
仏頂面の晶。
周囲に軽く笑いが起きた。
「星田育美です」
非常に野太い声。身体もそれに負けていない。
いや、むしろ勝っているかも知れない。
身長は、百七十台半ばはあるだろう。
すらりとしてはいるものの、がっちりした印象を見る者に与える。
骨太なのか、筋肉質なのか、どちらか、あるいは両方なのだろう。
小柄な武田直子の隣に立っているため、彼女の大きさが際立っている。
なすびのようにやたらと面長な顔立ちも特徴的だ。
この体型だからしっくりくるものがあるが、そうでなかったら、違和感どころの騒ぎではないだろう。
「さて、先輩方にクイズです。わたしの中学の時のあだ名はなんでしょう。第一ヒーント! この、肉体的特徴に関係があります」
星田育美はそういうと、手を突き出し人差し指を立てた。
「はい」
山野裕子が手を上げた。
「ジャンボ」
「違います。じゃ、第二ヒント。顔に関係があります」
「ペリカン。シャクレ。闘魂。三日月。アゴ」
裕子は思うままに連発していく。
「最後の正解! アゴでーす」
「しゃーーっ!」
裕子、勝利のガッツポーズ。
どう考えても失礼極まりない裕子の言葉であるが、星田育美は全然気にしていないどころか、当てて貰えたことを喜んでいるようであった。
そのあだ名の通り、星田育美の顔は面長なだけでなく、アゴがとにかく長く、そして若干しゃくれ気味であった。高身長という大きな特徴が霞んでしまうくらいに。
「過去を分析するに、慣れてくるとみんな絶対にこの顎をからかってくるんで、自分からネタにしてさっさと部に溶け込んでしまおうという作戦でした。チャンチャン。というわけで、先輩方、とお姉ちゃん、よろしくお願いします!」
星田育美はぶっとい声で一同に頭を下げ、次いで武田晶に向かって頭を下げた。
「あたし、あんたのお姉ちゃんじゃないよ」
冗談なのを理解出来ていないのか、真顔で受け応えている武田晶。
裕子は思わず、ぷっと吹き出してしまった。
星田育美、面白い。
さて、次だ。
「深山ほのかです。ええと、わたしは星田さんと違って目立った特徴はなにもない、ごくごく平凡な者ですが、それにフットサルは初めてではありますが、先輩方、どうかよろしくお願いします」
どことなくのんびりしたような、甲高い声で挨拶すると、軽くお辞儀をした。
「特徴の塊で悪かったな!」
星田育美は低い声を一層低くして、深山ほのかの首に両手を回し、締め上げた。
「アゴ、やめて、苦しい、死ぬ、嘘、さっきの嘘、育美ちゃん可愛い!」
「この顔が可愛いわけあるかあ!」
ぎりぎりと、手に力を込める。
「おーいアゴ、いい加減にしないと本当に死んじゃうから」
裕子は早速、星田育美のことをあだ名で呼んでみた。
「冗談でーす」
育美とほのかは二人揃って、パーにした両手を小さく広げておどけてみせた。
「かなり真剣な顔してたけどな。締め殺すんなら学校と関係ない所でお願いします。じゃ、次。最後」
「村上史子です。家が成田にあり、一昨年たまたま成田の会場で佐原南の試合を見て、こんなチームでプレーしてみたいなって思ってました。練習頑張って、早く役立てるようになりたいです。よろしくお願いします」
頭を下げた。
こういう雰囲気が苦手なのか、少し表情が固い。
上級生、拍手。
他、もう三名ほど一年生がいたのだが、結局、残らなかったため、紹介は割愛する。
ともかくこうして、上級生と新入部員との挨拶は無事に終了した。
以上、裕子の回想である。
8
体育館の通路を歩いている山野裕子、武田晶、武田直子の三人。
「ま、佐原南を受験するといい出した時も、ああやっぱりなって思ったし、きっとフットサル部に入るんだろうなとも思っていたけどね。こいつね、昔からあたしの真似ばかりするんだよね」
「違うよ! 真似じゃない! えっと……血が繋がってるから、たまたま同じの選んじゃうんだよ」
武田直子は、必死になって姉の言葉に抗議した。
「空手とハンドボールをやめて、中学からフットサル始めて、って、たまたまでそこまで同じなわけないだろ」
「たまたまです! 絶対!」
直子はほっぺたを膨らませた。
餌をぎっちり詰め込んだハムスターみたいだ。
「分かった分かった」
こいつ、こういうのは、絶対に折れないんだからな。あたしが他の学校に転校でもしたら、絶対に、たまたま転校してくるくせにさあ。
と、聞こえないような小声をぽそぽそ発しながら、晶は顎をぽりぽりと掻いた。
「どうかしました?」
直子が、裕子の顔を見ていた。
というよりも、裕子が直子の顔をじーっと見ていて、それに直子が気付いたのだ。
「いや、顔はとっても似ているのに、妹の方はなんでこんな可愛いんだろ、って考えててさあ。ほんと、なにが違うんだろう」
腕組みをして、首を傾げる裕子。
「悪かったな、可愛くなくて」
晶は、不満そうにぶすくれる。
「悪いと思ってんなら反省しろよ」
「ほんとに悪いと思ってるわけないだろ、バカ! バカ王子!」
「お前だってあたしよかちょっといい程度の成績だろ、このデンプン顔!」
「どんな顔だよそれ!」
「家に帰ったら鏡見てくださあい」
二人のそのやりとりを聞いていて、笑い出す直子。
「お姉ちゃんって学校では無口なのかと思っていたら、意外とよく喋るね。変わったね」
「変わってない。こいつが、人を怒らせるようなことばかりいってるだけだ」
晶は、どんと裕子の肩を押した。
「え、学校では無口って? 家ではどうなの?」
裕子は、直子の言葉の細かな部分を聞き逃さなかった。
学校の授業でもこれくらいの集中力があればいいのだが、と先生たちがここにいたならばこぼさずにいられなかったことだろう。
「お喋りってわけでもないですけど、たまに口が止まらないことがありますね。疾風の大谷君の話している時とか」
「ナオ、うるさい!」
遮ろうとする晶。
しかし、裕子は追求の手を緩めない。
「晶ってさ、お笑い番組なんかも見るの?」
「見ないよそんなの!」
「大好きですよ。一昨日も、両足をぱしぱし打って大笑いしてました」
それを聞いた裕子は堪え切れずに、ぶははーと大声で笑い出した。
「ナオ!」
「そんな、怒らないでよ」
直子は、弱々しげな視線を姉へと向けた。
「別に怒っては……いないよ」
晶は困ったように頭を掻いた。
「なんだか、甘いのか辛いのか分からないお姉ちゃんだな」
ぽそり突っ込む裕子であった。
三人はいま、校舎に向かうため体育館通路を歩いているのだが、窓からは、中の様子が見えている。
男女バスケットボール部がまだ練習をしているようだ。
ダンダン、とボールを床につくドリブルの音がここまで響いてくる。
そう、今日はバスケットボール部が、体験入部生のための練習試合でコートを広く使いたい、という事情があり、フットサル部はグラウンドの片隅で練習をやることになったのだ。
おかげでフットサル入部希望の一年生たちは、先ほどこの体育館で待ちぼうけを食らうことになったのである。
おかげでというよりは、単に裕子がボケていただけであるが。
体育館は現在、複数のコートを使って練習試合が行われており、さながらバスケ大会だ。
もう日も暮れているというのに、随分と賑わっている。
「もうこんな時間なのに。初日だというのに頑張るなあ」
裕子はもっとよく見てみようと、窓枠へと近寄った。
9
「あたしは逆に、初日だから今日は頑張れましたけど。毎日ここまで張り切るのは、きついかなあ」
直子も足を止めて、裕子の隣に立った。
晶は、一分でも早く帰宅して疾風のライブDVDを見たいところであろうが、二人がこうでは仕方がない。一緒に窓枠の前に立った。
「一年生と上級生、なのかな。ビブス付けてる方が一年っぽいな。素人目にも実力差を感じるけど、でも、結構試合になってるね」
裕子たちの見ているすぐ目の前では、女子バスケ部員が試合を行なっている。
白熱している練習試合を、裕子は楽しそうな目で眺めている。
「みんな、中学の時にもやってたんだろうね。連係面では当然ちぐはぐだけど、個人技ではそれほど遜色ない感じだ」
晶のコメント。
なんだかんだ、裕子と直子の間に体を割り込ませて、しっかりと見物している。
試合形式の練習であるため、見れば見たでそれなりに面白いのであろう。
「だから、こっちに投げてっていったでしょう!」
ビブス女子の一人が、声を荒らげている。
なんだろ。と、裕子は思ったが、すぐにその理由が分かった。
一人、てんでルールを知らなさそうな子が混じっているのである。
ボールを持ったと思ったら、敵である上級生にパスしてしまう。
ボールを持ったと思ったら、すぐにダブルドリブルで注意を受ける。
注意されたのにプレーを止めない。
ボールを取り上げられても、近くに転がっている別のボールを勝手に拾って、プレーを始めてしまう。
珍しくドリブルしたと思ったら、ラインを越えて隣のコートの試合に入り込んでしまう。
「ひゃあ。なんか、無茶苦茶だなあ。ひっでえわ、ありゃあ。普通、バスケ未経験だって、もう少しルール知ってるぞ。最悪だな」
しかし言葉とは裏腹に、裕子の表情はなんだか微笑ましい。
他人事だからというよりも、その子が、無茶苦茶ながらも笑顔でプレーしているのが、見ていて気持ちいいのだ。
とはいえ、やっぱり、酷いもんだね。あたしの方がよっぽど上手なんじゃないか。
などと思っている裕子の、まさにドギモを抜くようなことが、目の前で起こった。
背後から二人のディフェンスにつかれたその子が、一瞬にして反転し、軽やかなステップで、二人の間を稲妻のようにドリブル突破したのだ。
「すげえ!」
裕子は叫んでいた。
一瞬の集中力が、半端なく高い。でなければ、あんな抜き方は出来ない。
いや、凄いもの見たぞ、ほんと。
結局、またラインを越えて隣のコートまでドリブルしてしまい、ファールになってしまったのだが。
「競技違うけど、ああいうのがうちにいたら面白そうだなあ。何年だろ。ビブス組だから、やっぱり一年生かな」
と呟く裕子の独り言に、直子が答えた。
「西村さん。一年生で、あたしと同じクラスです。でも、あの子……」
10
西村奈々は、今日も山田秀美たちに取り囲まれて、からかわれている。
入学式の翌日に早速からかわれ、その翌日から授業が開始したら、案の定というべきか色々と難癖をつけられ、今日でもう三日連続だ。
「じゃあさ、この問題は分かんの?」
と、山田秀美は英語の教科書を開いて、指を差した。
一緒に取り囲む他の二人の女子が、ニヤニヤと笑みを浮かべている。
西村奈々はニコニコとした表情で、まず問題から読み始めた。
「…の…になる…えなさい。……あとの部分、難しくて分からん」
問題文は、「次の中から当てはまる英単語を選びなさい」漢字の部分が全然読めていない。
「答えるどころか、問題が読めてねえじゃん、バーカ! 脳味噌入ってんのかよ」
山田秀美は、奈々のおでこをつついた。
「うん。あたしバカだよー」
奈々は無邪気に顔をほころばせて、笑い出した。
「脳味噌も、あんまり入ってないんだろねえ」
虚勢を張っているというより、そもそも、からかわれていることに気が付いていないかのようだ。
千葉県立佐原南高校が、福祉活動の一環として本年度から試験的に実施することになった、知的障害者受け入れ制度。
今年はまず、二人の生徒を迎え入れることになっており、そのうちの一人が西村奈々だ。
彼女は、中度の発達障害を抱えている。
簡単に表現すると、脳がある年齢までしか成長しないのだ。
もちろん、周囲のサポートや、本人が経験を積むことで、色々と出来ることは増える。
知識はどんどん増やすことが可能だが、知能、知性は、幼児レベルのまま、これ以上の発達は望めない。
実際にそうかは神のみぞ知ることだが、とにかく医者からはそう断言されている。
これは受け入れる側として、生徒たちも知らされていることである。
だからこそ、普通は面と向かってからかうことなど出来ないものであるが……
「脳の足りないバカはさあ、勉強しなくていいんだってさ。ノート破り捨てちゃえだって、先生がいってたよ」
世の中、通例が十割ではない。
山田秀美のような者もいるのである。
他の生徒たちは眉をしかめているが、おかまいなしだ。
「やったー」
奈々は喜び、ノートを両手で掴んで引き裂こうとするが、厚みがあって簡単には破けない。
「あ、でも破いちゃたらお絵かき出来なくなっちゃうねえ」
どうしたものか、と奈々は渋い顔を作った。
「そんなのは、教科書に書けばいいんだよ。ほら、こうして」
山田秀美はボールペンで、奈々の教科書に悪戯書きを始めた。
彼女の取り巻きである、小出恵子や安東正江も面白がって落書きに参加した。
「おお、しゅごい」
教科書がどんどんカラフルに、ごちゃごちゃ賑やかになって行くのを見て、奈々は喜んでいる。
五時限目の授業が終わったばかり。六時限目を控えて、ほとんどの生徒が、教室内にいる。
ここにいる生徒の誰もが、いまこの教室で何が行われているのか、理解していた。
正確には、被害を受けている本人だけが理解していない。
これは、明らかないじめであるということを。
いじめと知っていながら、誰もが見て見ぬふりをしていた。
居心地の悪さを感じながらも、やはり自分まで被害者にはなりたくないのだ。
その縮こまっている生徒の中には、武田直子もいる。
縮こまるのは仕方ない。と、直子は思う。
だって、山田秀美にはガラの悪い連中と繋がりのある兄がおり、その兄はこの学校の三年生とのことだから。
真偽のほどは分からないが、入学式の日に山田秀美本人が大声で喋っていたし、まず間違いはないのだろう。
普通の子に対してだって、いじめを注意することの難しい時代だというのに、ましてやそんな……
とはいえ、やっぱり他人の教科書に落書きするなんて、ひど過ぎるよ……
だったら……そう思うのなら……自分が、注意すればいいんだ。
でも……
直子は、胸を押さえた。
心臓、どきどきしている。
結局、直子はうつむいて葛藤しているだけで、なにもすることが出来なかった。
山田秀美らは飽きたのか、下品な笑い声をあげながら教室を出て行った。
教室が静まり返った。
気まずい空気が教室の中を支配していた。
その張り詰めた静寂に、耐え切ることの出来なかった直子は、自分の席を立ち、そっと奈々の座る席へと近寄った。
「大丈夫、だった?」
なんだ、この質問は?
直子は胸の中に不快な違和感を覚えていた。
もっと他に、気のきいた言葉はないのか。
殴られたわけじゃない上に、本人はいじめられていると認識していないというのに。なにに対して、なにがどう大丈夫だというのか。
だいたい、気のきいた言葉を探すくらいなら、もっと前に、庇ってやればいいのではないか。そんなことも出来ないくせに、今更……
「なにが?」
やっぱりだ。本当に、いじめられていたことに気が付いていないんだ。
「教科書、落書きされてグチャグチャになっちゃったね。授業でこの辺のページをやる時には、あたしの教科書見せてあげるから」
「ありがとう」
ふにゃっ、と笑みを浮かべる奈々ではあるが、どうも事情をよく分かっていない様子だ。
「なにが貸してあげるだって?」
すぐ背後から、山田秀美の声。
いつの間にか、後ろのドアから戻って来ていたのだ。
直子は、落雷に打たれたかのように背をぴーんと真っ直ぐ伸ばすと、ぐるん、と踵を軸に百八十度回転して振り返った。
「あ、え、えっと、違う、というか、あの、財布ないならお金貸すよー、みたいなあ」
しどろもどろ。
「ふーん。ま、調子に乗ってなきゃいいよ」
「は、はい、乗ってません断じて乗ってません!」
直子はほとんどへっぴり腰といった前傾姿勢で、ぺこぺこ頭を下げながら、天敵から逃げる海老のように後ろに進んで自分の席へと戻り、腰を降ろした。
周囲に聞こえないよう、小さくため息をついた。
お姉ちゃんみたいに、強くなりたい。
常々思っていることを、改めて、胸の奥で呟いた。
直子は、机に突っ伏し、両腕で頭を抱えた。
嫌われたくないから、いつも明るくふるまって、嫌われたくないから、自分もいじめられたくないから、いじめを見て見ぬふりして、自分の心が傷つかないように仮面をいつもかぶっていて、人に本音をぶつける勇気もない……
高校に入ることをきっかけに、そんな上っ面だけの自分から変わろうと思っていたのに、結局、全然変われていない。
わたし、ダメだ。
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頭脳明晰、容姿端麗、誰に対しても優しい聖女のような性格に、誰もが憧れる生徒会長と、天は二物を与えずという言葉に真正面から喧嘩を売って完膚なきまでに完勝している完全無敵の双子姉妹。
その名も『古羊姉妹』
本来であれば彼女の視界にすら入らないはずの少年Bである大神士狼のようなロマンティックゲス野郎とは、縁もゆかりもない女の子のはずだった。
――士狼が彼女たちを不審者から助ける、その日までは。
そして『その日』は突然やってきた。
ある日、夜遊びで帰りが遅くなった士狼が急いで家へ帰ろうとすると、古羊姉妹がナイフを持った不審者に襲われている場面に遭遇したのだ。
助け出そうと駆け出すも、古羊姉妹の妹君である『古羊洋子』は助けることに成功したが、姉君であり『古羊芽衣』は不審者に胸元をザックリ斬りつけられてしまう。
何とか不審者を撃退し、急いで応急処置をしようと士狼は芽衣の身体を抱き上げた……その時だった!
――彼女の胸元から冗談みたいにバカデカい胸パッドが転げ落ちたのは。
そう、彼女は嘘で塗り固められた虚乳(きょにゅう)の持ち主だったのだ!
意識を取り戻した芽衣(Aカップ)は【乙女の秘密】を知られたことに発狂し、士狼を亡き者にするべく、その場で士狼に襲い掛かる。
士狼は洋子の協力もあり、何とか逃げることには成功するが翌日、芽衣の策略にハマり生徒会に強制入部させられる事に。
こうして古羊芽衣の無理難題を解決する大神士狼の受難の日々が始まった。
が、この時の古羊姉妹はまだ知らなかったのだ。
彼の蜂蜜のように甘い優しさが自分たち姉妹をどんどん狂わせていくことに。
※【カクヨム】にて編掲載中。【ネオページ】にて序盤のみお試し掲載中。【Nolaノベル】【Tales】にて完全版を公開中。
イラスト担当:さんさん
キャバ嬢(ハイスペック)との同棲が、僕の高校生活を色々と変えていく。
たかなしポン太
青春
僕のアパートの前で、巨乳美人のお姉さんが倒れていた。
助けたそのお姉さんは一流大卒だが内定取り消しとなり、就職浪人中のキャバ嬢だった。
でもまさかそのお姉さんと、同棲することになるとは…。
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「ちょっと、確認しなくていいですから!」
「これ、可愛いでしょ? 色違いでピンクもあるんだけどね。綿なんだけど生地がサラサラで、この上の部分のリボンが」
「もういいです! いいですから、パンツの説明は!」
天然高学歴キャバ嬢と、心優しいDT高校生。
異色の2人が繰り広げる、水色パンツから始まる日常系ラブコメディー!
※小説家になろうとカクヨムにも同時掲載中です。
※本作品はフィクションであり、実在の人物や団体、製品とは一切関係ありません。
プール終わり、自分のバッグにクラスメイトのパンツが入っていたらどうする?
九拾七
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プールの授業が午前中のときは水着を着こんでいく。
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ママと中学生の僕
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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