[完結] 偽装不倫

野々さくら

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45話 偽装不倫の行方(4)

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佐和子の手首を掴んでいる大輔の手を力尽くで引き剥がし、大輔の頬を思い切り殴る人物が現れる。

その人物は身長は160センチもない小柄、180センチある大輔に比べ身長も体格もまるで違う。しかし無謀にも、相手を殴り一緒に倒れ込む。


「……けい……すけ?」

佐和子は唖然とする。目の前に居たのは自身の夫。いつも穏やかで優しい夫が目の前で人を殴り、馬乗りになっていた。


「人の妻に何してるんだ!」

圭介は大輔に掴み掛かり大声で叫ぶ。しかし大輔は怯む事はなかった。


「……やっと来たか?ヘタレ野郎!待ち疲れたよ。取り返すとどの口が言っていたんだ?」

その言葉に圭介は黙り込む。言い返す言葉がなかった。


圭介が怯んだ隙に、大輔が圭介を押し退け馬乗りになり形勢逆転となる。体の大きさも腕力も大輔の方が圧倒的に上だった。


「圭介!あ、あ、どうしよう……。」

佐和子はその姿にただ傍観している。……自分の信じていた人達が目の前で揉み合っている。こうゆう時、どうして良いのか分からなかった。


そうしている間に大輔が圭介の胸ぐらを掴む。

圭介は幼少期から母親からの暴力を受けていた。よって、この状況は人一倍恐怖を感じた。しかし……。


「佐和子!逃げて!」

「え!でも……!」


「いいから早く!」

圭介は佐和子を逃す事を選んだ。圭介は恐怖から目を強く閉じる。


「やめて!」

佐和子は大輔の振り上げた腕を掴む。


「お願いやめて!私が悪いの!私が……!私が勝手に浮ついたから!圭介は何も悪くない!だからやめて!……私、やっぱり圭介が好きなの!だから酷い事しないで!」


佐和子は大声で泣いてしまう。自身の軽率な行動のせいで大輔は圭介に殴られ、圭介も大輔に殴り返されそうになっている。

自分が浮つかなければ……、悔やんでも悔やみきれない。


「……そんなに旦那さんの事が好きなの?」

「……うん。」


「可愛いとか、好きとか言ってくれず、結婚記念日も大事な約束忘れてしまっても?『うん』と『ごめん』しか言わず、構ってくれなくても?」

「うん……、好きなの……。」


大輔はその姿に大きく溜息を吐く。

「……分かったよ……。」


大輔は圭介の胸ぐら掴んでいた手を離し、圭介からそっと離れる。そしてポケットからハンカチを出し佐和子の涙を優しく拭く。

その顔は先程とは違い、いつもの優しい顔だった……。


「……大輔さん……。」

「……佐和子ちゃんよく見ておきな、君の為に身を挺した男の姿を。……今後不安になったらこの姿を思い出したら良いよ。自分の旦那は言葉より態度で示してくれる人だと……。」

佐和子はその言葉に圭介を見る。その表情は震えながらも、佐和子を守ろうとする強く優しい目をしていた。


「圭介!」

佐和子は慌てて圭介の体を起こし大丈夫か聞く。……圭介は大丈夫だと答えるが、声も同様に震えていた。


「……情けないな……、言葉や魅力だけでなく力でも勝てない……。簡単にひっくり返されてしまった……。」

「ごめんなさい!私が……、私が……。」


圭介は佐和子を抱きしめる。


「佐和子!約束忘れていてごめん!結婚記念日もイルミネーションも洋食屋に行く事も……子供の約束も!それだけじゃない!ずっと放っておいて!佐和子が別の男性にいっても当然だった!佐和子が居なくなってどれほど心の支えだったか、かけがいのない存在だったか気付いた!今更だし勝手な言い分だと分かっている!でも頼む、戻って来てくれ!」


「……圭介……。私の事好き?愛してくれている?」 

佐和子は圭介から離れ、顔をしっかり見る。


「勿論だよ!……す、す、す……き……だから!」

「……え?」

佐和子は俯く。こんな時でも言ってくれないのだと……。


一部始終見ていた大輔は何となく「川口圭介」という人間の一部分が分かったような気がした。


「……佐和子ちゃん、愛を言葉で言い表せない男性は一定数居るよ?」

「え?……夫婦なのに?」


「うちの親父がそうゆうタイプだったから分かるよ。プロポーズに青のアネモネの花を渡したと言っていただろう?でも肝心な言葉はなかったらしい。お袋が花言葉知らなかったらどうすんだよって話だったらしいからね。」


圭介は思わず目を逸らす。その頬は赤くなっていた。


「圭介……、私の事好き?」

「……うん。」

圭介はしっかり頷く。そこにはしっかりとした意志が見られた。


二人は見つめ合い抱きしめ合い、完全に二人の世界に入ってしまう。……しかし、しばらくし第三者の目線があると気付く。


「ってごめんなさい!」

二人は慌てて離れる。大輔が居る事も、人のお店の中だという事も完全に忘れていた。


「……いやいや、なかなか良いものを見せてもらえたかな?」

そう大輔は言うが、圭介の目には無理に笑っているように見えた。


「ご主人、無礼な言動申し訳ありませんでした。私は『バー アネモネ』のマスターの川越大輔と申します。試すような事をしてすみませんでした。私が勝手に嗾けただけで、佐和子ちゃんは悪くないです。」


そんな大輔の発言を佐和子は慌てて訂正する。

「違うの!大輔さんは私の為に言ってくれたの!私が酔って『不倫して欲しい』なんてバカな事言ったから……。それなら『当てつけ不倫』より『偽装不倫』をして圭介の反応見た方が良いからって言ってくれていただけなの!だから大輔さんは何も悪くない!」


「……偽装……不倫?」

圭介は二人の顔を見る。以前、佐和子が酒に酔い『偽装』だと騒いでいた事を思い出す。


「ほら、私指輪していないでしょう?指輪しなかったら気付いてくれるか?とか……。」

「……え?それは指が浮腫んだからだろう?」

「……何でそう思うの……?」

「だって佐和子がそう言っていたじゃないか?」


「私!?言ったっけ?」

「うん、ずっとしてないからそんなんだと思ってた……。」

お互いを見つめ、黙り込む。


「ご主人、誓って申し上げます。佐和子ちゃん……、奥さんと私は不倫関係ではありません。奥さんはご主人の事しか見ていません。それだけは信じて下さい。」

大輔は頭を下げる。


「そうなの大輔さんは私を可哀想に思って付き合ってくれただけ!……大輔さんごめんなさい!」

佐和子はまた泣き出してしまう。


「……大輔じゃなくてマスターだろ?身をもって知っただろう?人を信じ過ぎたらだめだと……。」

「……え?あれって……。」


「演技に決まってるだろう?さすがにそこまでの事はしないよ。そこまで落ちぶれる気はなかったしね……。」

その発言に佐和子以上に青ざめたのは、大輔を殴った圭介の方だった。


「……え?佐和子の為……。す、すみません!そんな風に思ってくれていたのに!な、な、殴るなんて非人道な事を……!」

圭介は必死に謝る。圭介側から見たら、妻が無理矢理連れ込まれそうに見えていた。


「いやいや、一回痛い目に遭わないと分からないと思ったので。……それにそう見えるように仕組んだので……、すみません……。」

圭介が必死に謝っている側で、佐和子は店の手洗い場でハンカチを濡らし大輔の頬に当てる。


「ごめんなさい……。」

「……いやおかげで目が醒めたよ。暴走気味だったからね……。」

「え?」


「……あ、いや。……殴られる覚悟はしていると言っていただろう?分かっていたから謝らなくていいよ。」


「どうしてここまで?」


「……これも前に言っていた。自分自身の為……、そうゆう事だから気にしなくて良いよ。……これが俺の『偽装不倫』だった……。」

「……さっきから意味分からないんだけど……。」

「分からなくて良いよ。……分からなくて……。」

大輔は優しい眼差しで佐和子を見る。


圭介は床に落ちている花束を見る。それは大輔が佐和子に贈った花束だった。


「……この花アネモネですよね……?」

「そうですけど、意味分かります?」


「……確か赤い花は……。」

圭介は、はっとなり大輔の頬を冷やしていた佐和子を引き離す。


「……あなた佐和子の事……!」

「……知っているんですね?珍しい。」


「調べましたよ、店名ですからね!」


圭介と大輔は互い睨み合う。先程までの穏やかな空気は一気になくなった。


「え?何?何?」

佐和子一人意味が分からず、今の現状が分かっていない。


「……佐和子ちゃん、最後に一つ謝らせて欲しい。君のスマホ勝手に触ってしまった。本当にごめん。」

「え!!いつ!」


「スケートしてる時に鞄預かっただろう?あの時に……。」

「……え?でも私、パスコード設定していたけど……!」

「心当たりないの?」

「うん……。」

大輔は溜息を吐く。


「スマホのパスコードは人前で外したらいけないよ。旦那さんの誕生日と結婚記念日を合わせた番号だろう?それに鞄は家族以外に預けてもいけない。財布も預けてくるから驚いたよ。」

佐和子は気付いていなかったが、以前このバーで話した時、佐和子の登録したSNSの退会手続きを大輔にしてもらう際に大輔の目の前でパスコードを解除していた。

大輔は悪気なく見てしまい、覚えてしまっていた。それを今回の計画に利用していた。ズボラな佐和子がいちいちパスコードを変えていないだろうと計算しながら……。


「でも大輔さんは友達だし……。」


「マスターだろ?だから信じ過ぎたらダメだって!さっき引きずり込まれそうになった事忘れたらダメだからね!」

「……あ、うん……。」

目を泳がした佐和子に不安を覚えた大輔は、あの話をすると決める。


「旦那さん、佐和子ちゃんは無防備過ぎる。相手を疑う事しないし、20歳の時は知らない男にホテルをシェアしようと言われたらしいし。去年は知らない人に酒を飲もうと言われてうちのバーに連れて来られた挙句、酒を飲まされ連れて行かれそうになったし。夜でも家の鍵をかけていないし。旦那に用事がないのに、しきりに予定を聞いてくる男を一切警戒しない、非常に危なっかしい性格ですからね。」

「え?何それ……?」

圭介はその話に、ただ青ざめる。


「佐和子?本当なのか?」

「大輔さん!何で言っちゃうの!」

「……黙っておいてなんて言われてないからね……。」


圭介は一人震える。

「佐和子!何考えているんだよ!何かあったらどうするの!もう怒った!夜の外出禁止!どこか行くなら俺も一緒に付いて行くから!」

圭介は強い剣幕で佐和子を叱りつける。


「怒ってくれるの?心配してくれるの?」

「当たり前じゃないか!」


「……ありがとう……。」

「いや、俺は怒ってるんだよ!」

「分かってるよ。」

佐和子は怒っている圭介の姿に逆に喜ぶ。……怒ってくれる事なんてなかったから……。


「……あと、電車やバスに乗れない事も言っておいた方が良いよ。20歳の時に乗り換え失敗してトラウマになったって……。」

大輔はとことん話す。佐和子は絶対自分から話さないと分かっているから。

「え?」

圭介はただ驚く。ずっと知らなかった。


「……20歳?……もしかして俺が熱を出して送れなかった時?だからあれから電車を怖がって……。なんで言ってくれなかったんだよ!」

「……だ、だって単身赴任にしようと言ってたし、『電車に乗れない』なんて知ったら、足手まといになるから来たらだめだと言うと思って……。」


「あれは佐和子が東京で萎縮したらと思ったから!前みたいに家に引き篭もったらと思ったからだよ!」

「そうなの?」


圭介と佐和子は顔を見合わせる。


「……お互いに誤解やすれ違いがあったみたいだし話し合ったら?夫婦の事は分からないけど、どんな関係でも話し合わないと分かり合えないだろうし。」

大輔の言葉に二人は頷く。


大輔は、二人の息のあった頷く動作に苦笑いしながら佐和子が落としてしまったアネモネの花を拾う。


「……佐和子ちゃん、ここにはもう来たらいけないよ。」

「……え?」


「旦那さんがさっき言っていたじゃないか?夜一人で出歩いたらいけないって。それに、ここは君の居場所ではなくなる……。だから旦那さんに本音をぶつけな。……でもね、男は共感性がないからオチがない話を永遠とは聞けないんだよ。そこらへんは許容してくれないかな?旦那さんだって仕事で疲れているからね。」

「大輔さん……、やっぱりお店辞めるんだ……。ここを売るって話でしょう?」


大輔は、佐和子が珍しく鋭い指摘をしてくるから何も言えない。

「……今はまだマスターだからマスターと呼んでくれ。」

大輔は佐和子を突き放す言い方をし、次は圭介に話しかける。


「……旦那さん、ですからここはなくなります。仕事も大変でしょうし、忙しいでしょうが出来るだけ佐和子ちゃんはあなたが連れ出してあげて下さい。……佐和子ちゃんいつも淋しがっていましたから。あなたが守っていって下さい。」

「……はい。」

圭介は分かる。どれほど大輔が佐和子の心の支えになってくれていたのかを……。


「大輔さん……、大輔さん……。」

佐和子は泣き続ける。これ以上会ってはいけないと分かっていたから余計に涙は止まらない。


「……君は幸せに笑っている姿の方が似合ってるよ。だから俺は『偽装不倫』を手伝ったのだから……。』

「……え?」

大輔は佐和子の涙をハンカチで拭き、持っていたアネモネの花を渡す。そして跪き、佐和子の薬指に預かっていた結婚指輪をはめる。


「偽装不倫は終わりだから証はもういらない。だから返したよ。」

佐和子は大輔を見つめる。……そんな事、圭介にもしてもらった事がない。

一部始終を見ていた圭介は狼狽えるが、大輔に耳元に囁かれた言葉に、より狼狽える。


「……分かったか……?」

大輔はいつもの柔らかな表情から、威嚇する目になる。


「そうはさせない!絶対に!」

圭介も大輔を睨みつける。


「何?なに?」

佐和子は一人状況が理解出来ていない。そこに……。


大輔が佐和子に近付き、耳元で囁く。

「……え!あ、うん……。」

佐和子は明らかに頬を赤らめる。


「分かった?」

「……うん。分かった……。」

佐和子は頷く。


「じゃあ元気でね。」

「だい……、マスターも……。」


「……うん。」

大輔と佐和子は握手をして別れる。何度も手を繋いできた二人だったが、一線は越えず良き友人としていく為に別れを決意した。


こうして偽装不倫は終わった。



大輔は二人を見送り、一人広すぎるバーに立ち尽くす。


「……あ、水やらないと、ごめんな……。」

大輔はカウンターに置きっぱなしだった花を花瓶に入れ水を入れる。


── 全て仕組んでいた事だった……。これが俺の『偽装不倫』だった……。


「笑っていて欲しかったなんて……、惚れた弱みだね……。」

大輔はいつものように自分のウイスキーを取り出そうとする。しかし……。

「……あ、こないだ飲み干したの忘れてた……。今からコンビニ行くか?……この顔で?いや行けないだろ?この顔で……。」

大輔はスマホを触り、佐和子のメッセージ履歴を眺める。


「……あ!旦那さんの電話番号とメッセージアプリブロックした事言うの忘れてた!」

大輔は佐和子に慌てて連絡しようとする。しかし……。

大輔は電話ボタンを押すのを止めブロックボタンを押す。


……これぐらいしないと踏ん切りつかないからだ……。



次に写真を見る。以前えみにより隠し撮りされた、二人がイルミネーションが輝く中で手を繋いで歩いている写真だ。

佐和子は大輔を見て笑っており、大輔も優しい表情で佐和子を見下ろしていた。

「……締まりのない顔だな……。情けない……。」


その顔は大輔自身も知らないぐらいの柔らかい笑顔で……、愛した女性に向ける眼差しだった。


花瓶に入れた花を見る。ピンク、白、紫、オレンジ、黄、そして赤があった。

青の花を手に取る。


── 本当はこれを渡したかった……。しかし俺は赤しか渡せない……。

── いや、今は黄色とオレンジか……。それがピッタリだな……。


大輔は圭介に殴られた頬を触る。ジンジンと痛んだ。

「あんなの歯が折れた時に比べたら子供が殴って来たぐらいだ!全然大したもんじゃない!……なのになんで痛いんだよ?今までで一番……。本当に不毛だな……。分かっていたくせに……。」

大輔はそう言い、カウンターに突っ伏す。人生初の胸が張り裂けそうな感覚にただ苦しむ。



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