天使がくれた259日の時間

野々さくら

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9話 天使になった日(2)

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「……あ!」
 昼休憩の号令後にバラバラと落としたのは、車の整備に使う器具だった。

「おい、大丈夫か?」
 樹と同じグレーの作業用続服つなぎを着た骨格の良い男性が、陽気に笑い声を上げながら道具箱に落とした器具を戻していく。

「……悪い」
 樹はまた道具箱を持ち上げようとするが蓋が閉まっておらず、また同じことを繰り返してしまう。

「あー!」
「……お前、大丈夫か?」
 それを見ていた数人に大笑いされるが、「業務は問題なく施した!」と車を指差す。
 この季節は板金だけでなく車のタイヤを冬用に交換する依頼が多く、特に今日明日で雪が降るからと朝より総出でタイヤ交換を行っていた。
 雪の日は、車の事故が起こりやすい。
 それを知っている樹はどんな時でも平常心で業務を行い、決して気を抜かない。例え、妻の出産予定日でも。

「おい。休憩室に道具箱持って行って、どうするんだ?」
「……あ!」
 同僚の言葉に、道具保管庫に駆けて行く。
 ……彼が気を抜かないのは、業務中だけのようだ。

 休憩時間の為に手洗いをして敷地内に入ると、そこは十畳ほどの広さで畳みが敷かれ、長テーブルが配置された部屋。
 暖かな空気に満たされておりストーブ特有の匂いに、カタカタと鳴るやかんの音がしており、皆で「暖かい」と言いながら作業靴を脱いで上がって行く。
 備え付けられている冷蔵庫から各々と持参した弁当を出し広げると、「お疲れ様でした」の言葉と共に湯呑みに入った緑茶を差し出してくれるのは女性社員達だった。

「ありがとう」
「いえ」
 樹も素直に礼を言い、冷え切った手を湯呑みの熱で温める。
 ふっと顔を上げれば時計の針は、十二と一を差していた。診察は九時半だと言っていたから、もう終わっているだろう。
 今日は出産予定日。小春は、予定通り生まれて来ることは珍しく初産は遅れやすいと話していたが、樹からしたら気が気ではなかった。
 ── 一度、電話をしてくるか。
 そう思った瞬間。

 バシャ。
「熱!」
 樹は湯呑みを握っていたことを忘れ不意に手を動かしてしまい、倒してしまった。

「大丈夫ですか!」
 女性社員が慌てて給湯室にふきんを取りに行き、テーブルを拭いてくれる。
「す、すまないね」
「奥様が心配なら、お電話されては?」
「いやいやいや! 予定日通りなんて、生まれてこんから」
 手をパタパタと振り、考えとは正反対のことを呟く。そうだ、そんな早くない。
 そう自身に言い聞かせながら新しく入れ直してもらった緑茶を飲み、弁当を無理矢理流し込む。その眉間の皺は、いつも以上に深かった。


 プルルルル……、プルルルル……。
 弁当箱を片付けていると、隣の事務室より鳴り響く呼び出し音。
 電話対応は雇い主や事務で雇われている女性社員が対応してくれる為に、作業員として雇われている樹は対応しなくて良い。しかし今日は電話の呼び出し音にピクっと反応して、事務室に続く襖に駆け寄り耳を寄せる。
 それを見ていた同僚達は笑い、樹は「うるさい」と小言で返す。

「近藤さん……!」
 襖を開けた女性社員は想定外の場所に佇んでいた樹に明らかにビクつくが、「お電話です」と続ける。
「妻か!」
 血走った樹の目に女性社員は怯みつつ、総合病院だと話す。
「……病院? まさか……」
 体を震わす樹に。
「生まれたんじゃないか!」
 休憩室が賑わった。

「いやいやいや、早過ぎるだろう!」
 そう自身にも言い聞かせながら、事務室に向かい受話器を取る。

「もしもし! もしもし! ……あれ?」
 樹は、いつも自然と押している保留ボタンの解除を忘れて呼びかけていた。見かねた女性社員はふふっと笑いながら、保留解除ボタンを押す。

『総合病院、産婦人科看護部長の橘です。遠藤樹さんでよろしいでしょうか?』
「はい!」
 相手の声色に気に留めることもなく、樹は昂った感情のまま返答をする。

『奥様が今、来院されていまして……。大切なお話がありますので、今から来てもらえませんか?』
 看護師長を名乗る相手の口調は暗く、明らかに何かあったと察せられる。
 数々の悲しみを経験してきた樹は、過度な程に身構える性格。しかし、今は……。

「もしかして、生まれました?」
 いつもの寡黙な様子とは違い、声を弾ませ口角を上げる姿に、その場で業務をこなしていた女性社員数人はただ唖然とした表情を見せていた。

『……あ、いや……。とにかく来て下さい。お話は病院でしますので……』
「はい」
 そう返事をすると、電話は切れた。
 何とも歯切れの悪い相手の対応に、樹の表情はやや強張る。
 何か、あったのか? と。


 樹が受話器を持ち立ち尽くしていると女性社員達が雇い主を呼びに行ってくれ、早退の話をしてくれていた。

「とうとうか、早く行ってやれ!」
 作業をしていたのを中断して、わざわざ来てくれた。
 以前より妻が妊娠中であることを報告しており、その際は休ませて欲しいと頼んでいた為、職場の理解はあった。
 特に結婚して十年での待望の子供であることから、周囲の祝福ムードはいつも以上だった。
 この時代は立ち会い出産どころか、妻の出産中でも夫は仕事をしていることも珍しくなく、この対応は破格だった。

「すみません! よろしくお願いします!」
 続服のまま駆け出しそうになり、さすがに着替えるように止められ。コートを忘れて。鞄を忘れて。平常心を心掛けるように諭された樹はようやく冷静になり、会社の敷地に停めてある車に乗り込む。
 そうだ、平常心。
 深呼吸して逸る気持ちを落ち着かせて、エンジンをかける。こうゆう時こそ事故を起こしやすいのだと、自身に言い聞かせながらサイドブレーキを外した。
 職場から総合病院へは二十分ほどの距離にあり、強風で荒ぶる琵琶湖を横目に湖岸道路沿いを車で駆け抜ける。
 二つ目の信号が赤に変わり、逸る気持ちを抑えてブレーキを踏む。平常心を心掛ける為に空を見上げると、仕事中は黒ずんでいた雲がいつの間にか白に変わっており妙に明るかった。
 そんな雲の流れを眺めていると、空からチラチラと舞う小さな結晶。初雪だった。

 樹の父親が亡くなったのは、初雪が降ったこの季節だった。だからこそ彼は同じ季節が巡って来ると身構え、運転が怖くなる。
 もう二十七年も前のことだがあの日も雲が白く、降りゆく雪花せっかは今だに瞼の奥に浮かび、思い出したくないあの日を彷彿させてくる。
 しかし今日は美しく見え、まさに雪の花が舞い落ちてくる錯覚を起こす。
 信号が青になりまた車を走らせると、いつもの橋が見えてきてガタンと車中が揺れる。不意に左横に目をやると、流れてゆく川が琵琶湖に繋がっていっていた。いつも目にしている光景、しかし。
 このまま車を走らせて行くと見えてくる道路端に植えてある葉が散った木々、いつも見ている寂しい町並み、遠くに見える雪色に染まった伊吹山。それら全てが、幻想的で美しく見えた。

 この季節も、町も、世界も、全てが美しい。
 そんな当たり前のことに、今ようやく気付いた。
 小春にも、生まれてくる我が子にも伝えたい。 
 こんな美しい雪が降った日に、生まれてきたのだと。

 樹は逸る気持ちを必死に抑え、病院の駐車場に車を停めて駆け出す。
 自分を待っているであろう、二人の元へ。


 総合病院に立ち入るのは、何度目だろうか。
 最初に来たのは、十八歳の冬。
 何の因果か母親もこの季節に亡くなっており、異変に気付いた樹は救急車を呼んだが、病院に運ばれた時には手遅れだった。

 患者用駐車場から病院玄関に通じる歩行者通路を駆けていると、その横の車道に並走するのはサイレンが鳴った救急車。
 救急車専用入口が丁度目の前だった為、当然ながら道を譲り停車されるのを他の通行人と待つ。
 しばらくして車両が停車し、通行を待っていた人達と共に樹も駆け出そうとすると、背後より「母さん」と声が聞こえた。
 声に導かれるように振り向くと、車両後部が開きストレッチャーから降ろされたのは髪の長い、おそらく女性。寄り添っているのも、おそらく患者の息子だろう。
 その光景に思わず目を背け、自動ドアが備え付けられてある玄関から院内に入って行く。するとそこは外来患者と見舞いに来たであろう人が行き交う、待ち合い室だった。
 樹はそんな人々からも目を逸らし、ただ案内標識だけを確認してエレベーターを使用し、産婦人科がある二階に向かう。ただ二人に会いたかった。
 案内標識通りに突き当たりまで行き受付で名前と電話をもらった旨を伝えると、六階の産婦人科病棟に来て欲しいと伝えられた。
 相手がこちらに向けてくる何とも言えない表情に、こちらも上手く言い表せない感情が湧き出る。しかし勘違いだと自身に言い聞かせて、指定された六階にエレベーターで向かう。
 受付で再度、名前と外来でここに来るように伝えられたと説明すると、やはり相手は同じ表情を向けてくる。
 一体、何なのか?
 そう思いながら案内された場所に付いて行くとそこは病室ではなく、四畳ほどの広さにテーブルと椅子が向かい合うように二つずつ置いてある面談室だった。

「あの、家内は?」
 この異質な空気に、さすがの樹も不安を声に出した。
「……まずは医師の方から、説明がありますので……」
 そう話し椅子に座るように促すのは、五十代ぐらいの看護師。電話をくれた看護部長だと気付く。

「……はい」
 樹はそれ以上口を開かず、ただ腰を下ろしその時を待つ。
 以前、経験したことがある。母親の容体を看護師に聞くが、医師より話があるから待って欲しいと告げられたことが。
 患者の家族に軽はずみな発言をしてはいけないという、病院側の規則があるからだという認識はある。だがそれは、容体が悪い時に多い印象を持っていた。

 たった五分ほどだったが樹も永遠と感じる時を過ごしていると、小柄な女性医師と先程の看護師長が軽く息を切らせて面談室に入室してきた。
 挨拶を聞いた樹は立ち上がり頭を下げ、相手の顔をチラッと見ると。
 その目には光がなく、下がった口角から小さく溜息を漏らしている。
 悪い話だと、そう直感した。

「……何かありました? 家内は……? 子供は……?」
 激しく鼓動する心臓を抑えることは出来ず、震える声でそう尋ねた。


「……落ち着いて聞いて下さい。残念ながら、赤ちゃんの心拍停止を確認しました。死産です……」
 その言葉に息を呑む。
 樹も、小春と同様に何を言われているのか分からなかった。

 昨日まで、変わりなかった。
 丈夫なだけが取り柄だと、いつも笑っていた。
 母親が突然亡くなった時に、頭の中を巡った言葉。

 毎日、元気に腹を蹴っていた。
 こちらが言っていることを分かっているかのような、反応を示してきていた。
 少し小さいが、順調だと聞いていた。

 まただ。そんな否定の言葉が、脳内を巡る。

 目を見開き息をすることを忘れた樹の姿に、同席していた看護師長に肩を軽く叩かれて大丈夫か問われる。

「あ……、はい」
 返答をしようとしたことにより、ようやく呼吸を取り戻した樹だったが、その触れられた手の感覚により、目の前で起きていることは現実だと知らされる。

「……経過に問題なくても、急に心拍停止状態になることはあります……。残念ながら赤ちゃんは最後の診察をした一週間の間に、何らかの理由で心臓が止まってしまいました……」
「この……、一週間の間に……」
 残酷な事実に、ただ打ちひしがれる。
 元気に動いていたではないかと、我が子に問いたかった。

「奥様は二日前より、胎動を感じなかったと話されていました。おそらく、その頃だと思われます」
「二日前……」
 二十三日の日曜日。一体、何をしていた?
 あまりにも穏やかな日常に溶け込んでおり、どのように過ごしていたのか覚えていなかった。
 ……ただ、これだけは覚えている。
 小春が仕切りに、腹の子に話しかけていたことを。あれは、反応がなかったからだったのか。
 寝ているのかと話し合っていたが、あの時にはもう。
 異変に気付いた時、病院に連れて来ていれば運命は変わっていたのか?
 いや、三日前に病院に連れて来ていれば命は助かっていたのか?
 答えのない問いが、どんどん脳内を駆け巡っていく。

 次に過ったのは、この十ヶ月間だった。
『信じられないけど妊娠してた……』
 その言葉から始まった妊娠生活は、良いことばかりではなかった。

『……悪阻だから仕方がないの……。赤ちゃんの為だから我慢しないとね』
 そう言いトマトしか食べなくなった小春は一日に何度も吐き、不健康なぐらいに痩せていった。
 不妊治療時のホルモン治療と比較すると明らかに辛そうだったが、赤ちゃんの為だからと笑っていた。

『……冬生まれだから、お宮参りは春だね。暖かくなる時期……。桜が咲く時期にゆっくり来たいね。あの桜のトンネルを見て欲しいの。……それだけじゃない、この子には色々な事を知って欲しい、色々な物を見て欲しい……』
 安産祈願の帰り、神社の石垣で出来た階段を下っていた時にポツリと呟いていた。
 珍しく手を繋ぎ見上げた先には、青々とした木々。キラキラとした太陽が、ただ美しかった。

『ふぅ……』
 溜息を吐きながら腰をポンポンと叩くのは、腹部の重さを体が支えている為だった。

『また、眠れなかったのか?』
『うん。チビちゃん元気過ぎて……』
 昼夜関係なく腹の中を動く胎児に、こちらが寝ているから静かにしてと言っても、聞いてくれるはずもない。
 あくびをしながら、「生まれたらもっと大変だからね」と、ただ笑っていた。

『チビちゃん、チビちゃん。……また、寝てるの?』
 そう声をかけていたのは、一体いつの出来事だっただろうか?


「……家内は?」
 樹は、また自分の感情より相手の感情を優先した。

「精神的にかなりショックを受けられたみたいで、このままお返しするのはと思い病室で休んでもらっています」
 樹は案内されるまま、ただ前に進む。
 頭は殴られたように痛く、胃の奥から酷い吐き気を感じ、すぐにでも倒れそうな状態だったが、必死に自分の体を支え向かうと、そこは病室だった。
 開けられた室内にはベッドに座り俯いている小春と、その場に寄り添い背中を摩る看護師が居た。
 その姿に樹は、思わず立ち尽くしてしまう。
 小春は大声で泣き、その声は枯れ、嗚咽を漏らしていた。

 ……夫婦として共に生きて十年。色々なことがあった。
 小春の両親が順番に亡くなり、不妊治療が身を結ばすに絶望し、やっと命が宿った。
 その時も啜り泣いていたが、ここまで感情のまま泣き叫ぶことはなかった。

「……すみません……。落ち着かせて、連れて帰ります……」
「いえ、あの……」
 樹はその声に気付かず病室に入って行き、小春が座っているベッド前に立つ。

「ご迷惑をおかけして、すみません……」
 寄り添ってくれた看護師に声をかけるとその声に気付いたのか、小春は抑えていた目元から手を離しこちらに目をやってくる。
 泣き腫らした目と鼻は赤いが顔全体は真っ青で、上手く呼吸が出来ていないのではないかと案じるほどだった。

「ごめんなさい……。私のせいで、チビちゃんが……し、しん……」
 掠れた声で、その言葉を口にしようとする姿に。
「違う。気付かなかったのは、俺だ。俺が全て悪かったんだ……」
 樹はその震える体を抱きしめ、そう諭す。
 まるで、自分自身にも言い聞かせるように。


 ……どれほどの時間が経ったのだろうか?
 窓から見えるのは白い空と、美しく降る雪の花。
 体を寄せ合いその景色を眺めていた樹は、一言呟く。
「三人で家に帰ろう」と。
 小春は小さく頷き、樹は看護師に話してくると病室を出て行く。
 その目は凛々しく、我が子を亡くした父親の姿には見えなかった。


「お騒がせして、すみませんでした。とりあえず今日は連れて帰ります。年が明けて落ち着いた頃に、……処置について相談に来ていいですか?」
 その申し出を聞いた看護師長により、話があると先程の面談室に通される。
 その内容は、このまま入院して出産した方が良いというものだった。

 まず聞いた話は、胎児は長期間そのままにしておけないということだった。
 亡くなった胎児は異物となり、母体に負担をかけることがある。だから早めに、出産をしなければならない。
 次に聞いたのは、出産方法だった。
 樹は手術で胎児を取り出すと思っていたが、実際は通常分娩と同じく出産をすると説明を受けた。
 その事実に衝撃を受けたのと同時に、現在の精神状態では陣痛に耐えられないと数日時間が欲しいと頼んだ。
 常時なら分娩予約をした三、四日後に処置にて出産となるが、今回は事情が違う。
 本日は十二月二十四日、年末であり二十九日以降は病院は人手が少なくなる。そうなると当然出産の補助や、緊急時の対応が遅くなる場合がある。幸いなのか明日は分娩予約はなく、このまま入院したら明日対応出来る。そんな話だった。
 それにこれは病院だけの都合ではない。年末年始に入ると……。

「……分かりました。明日、処置をお願いします。家内には、私から話しますので……」
 分娩予約と入院手続きして、樹は病室に戻って行く。
 このまま入院をして、明日出産する。なんとしても小春を説得し、納得させないといけない。
 口下手な自分が、しっかり話が出来るか。そんな憂いを抱えて、病室をそっと開ける。
 そこには、ドアの開閉音にも反応しない小さな背中がガクッと頭を下げている。声をかけても、ピクリとも動かない。
 その姿に、心臓の鼓動が一気に速く脈打った。

「おい!」
 咄嗟に前方へ回り込み、顔を覗き込む。
 するとそこには、しゃくりながら目を閉じている小春の姿。腹を抱えて泣き明かし、そのまま眠ってしまったようだった。

「はぁ」
 思わず大きな溜息を吐き、入院になった為に起こす必要もないと、そのままベッドに寝かせる。
 そして小春のリュックを漁り、水色の化粧ポーチを自分のリュックに押し込んだ。
 病室を見回すと洗面所には鏡があり取り外せないかと思考するが、さすがに割れる音がしたら誰かが来てくれるだろうと思い直す。
 また大きな溜息を吐いた樹は、小春が眠っているベッドの端で腰を下ろす。
 目に入ったのは、膨らんでいる腹部だった。
 そっと手を伸ばし撫でるが、いつも返ってきていた胎動はなく静かだった。
 我が子は亡くなった。その現実を、ただ思い知らされた。

 思わず窓に視線を逸らすと、いつの間にか空は暗くなっており、それを照らすかのように白色の雪がひらひらと舞い落ちる。
 なんて美しい雪なのだろう……。

 今頃レストランに行き、店の看板商品であり小春の好きな生クリームたっぷりのカルボナーラを食べ、生まれて来る子供の話をしながら笑っていただろう。

 それなのに、何故病院に居る?
 何故、亡くなった子供を産まなければならない?
 何故急に、心臓が止まってしまった?

 ぶつけようのない悲しみを抱え、樹はただ空を見上げていた。


 瞼を開けると、奥の方がヒリヒリと痛む。
 目だけでなく、鼻も、喉も。
 自分が横になっていたベッドの端に目をやると、そこにはこちらを見つめる樹の姿。
 その力ない瞳に一連のことは夢ではなかったのだと悟った小春は、一筋の涙を伝わせる。

「……ごめんなさい。確か、今日は帰ると話していたよね? 病院にも迷惑かけてしまったし、帰る準備を……」
 涙を手の甲でゴシゴシと拭い、身重な体をゆっくり起こす。その声は変わらず掠れており、発する度に喉がキリキリと痛んだ。

「……小春」
 樹は小春の前で中腰になり、ベッドより立ちあがろうとしたその肩に手を添える。
「え?」
 ぼやける視界を遮ろうとまた乱暴に目を擦り、声がした方を見上げる。そこには自分を名前で呼び、いつもみたいに目を逸らさず真っ直ぐに見つめてくる樹の姿。
 途端に、胸が詰まる思いがする。
 名前で呼ばれるのは、特別な時だけだから。

「……このまま入院して、明日出産しよう」
 あまりにも真っ直ぐで、あまりにもためらいがなくて、躊躇もない瞳。
 そんな樹に声が出ず、ただ力無く俯く。
 目の前に広がるのは、臨月を迎えた大きなお腹。この中には我が子が居て、臍の緒で繋がっている。たとえ、死んでしまっていても。

「……いや。ずっと側にいるの。私はこの子を離さない。ずっと……」
 両手で腹を抱え、ギュッと握り締める。

 樹は冷静に、このままでは母体に負担がかかること。安全に産む為に、明日が適していること。そして、生まれた後のことを話そうとし思わず口を噤む。
 俯いたまま首を横に振る小春に、顔を上げて窓からの景色を眺めるように伝える。

 小春が涙を拭い空を見上げると、変わらず雪が舞い落ちていた。美しい結晶がちらちらと。ただ、ひたすらに。

「……この子に、外の世界を見せてあげよう。お前、言っていたじゃないか。この子に色々なことを知って欲しい、色々な物を見て欲しいと。ずっと腹の中では何も見れない、何も知れない。だから外に出してあげよう」
「……外に?」
 小春は手を引かれて立ち上がると、窓の外には美しく降り注ぐ雪だけでなく、純白の雪に覆われている幻想的な世界が広がっていた。
 なんと美しいのだろう……。

「頼む。お前にしか出来ないことだ。チビに、外の世界の美しさを見せてあげよう」
 樹はそのまま、小春の手を強く握り締めた。

 この世界を我が子に見せたい。
 美しい雪が降った季節に、生まれてきたのだと伝えたい。
 それが最後に、愛する我が子の為に出来ること。それなら。

「……側に居てくれる?」
「ああ。立ち会い出産は、子供が生まれるまで父親が側にいることなんだろ?」
 樹の言葉に。
「分かった」
 小春は握られていた手を、強く握り返した。

 明日、亡くなった我が子を出産する。二人は、そう決意した。
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