天使がくれた259日の時間

野々さくら

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1話 夫婦の元に宿った天使

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 ── 子供が欲しい。
 そんなささやかな願いは、容易に叶うと思っていた。
 しかし、それは簡単ではなかったと夫婦は思い知る。
 何故なら十年間、不妊治療に励んできたからだ。
 もしかして? と喜んでは、期待した通りにならず泣き。
 次こそは、と意気込んで泣き。
 意識しないように努めても、結局意識をしてしまって泣き。
 休んだら逆に授かるかも? と、結局意識をしてしまい泣き。
 こうする間に気付けば十年。そんな不毛な日々を本日で、終わらせると決めていた。


 1990年(平成2年)、四月中旬。日本列車の中央付近に存在する、滋賀県しがけん長浜市ながはまし
 何よりの象徴は、県の1/6の面積を占めている琵琶湖びわこだった。
 そんな美しい湖付近に築数が幾度と経った古民家が集結しており、その一角に一組の夫婦が住んでいた。

「病院は……、いつだった?」
 夫は仕事に行く為に玄関で靴べらを使用しながら妻に背を向け、さも関心ないように問う。
 本当は、本日だと知っているのだが。

「今日だよ。行ってくるね」
 そう返事をする妻の口角は上がっているが、眉は下がり目に光はない。
 その笑顔を、夫は何度となく見てきたことか。

「……電車で行けよ」
「分かってるよ」
 その後に続く言葉はなくしばらくの沈黙後に妻より鞄を受け取った夫は、結局その後に続く言葉を見つけられずに出勤して行く。
 本日は、前回受けた不妊治療の結果が分かる判定日。……つまり、懐妊に至っているか否かが分かる運命の日。
 普通なら力が入るが、二人は期待などしていない。何度となく落胆を経験をした夫婦は、予防線をしっかり張っていた。
 不妊治療の病院は遠い為、電車で行くようにしている。家には車があり妻は免許を保持しているが気持ちが沈むと危ないからと、不妊治療の病院には電車で行くと夫婦で決めていた。

 玄関の引き戸を開けると目の前には琵琶湖が広がっており、今日の波も穏やか。
 そんな中、黒の軽自動車で出勤する夫を送り出した妻は、庭先に出て外に備え付けられている水やり用のホースを手に取り、蛇口を捻る。
 自身が庭で育てている色とりどりのチューリップ、紅いナデシコ、鮮やかな黄色や橙色のマリゴールドなどの園芸。にんじん、ほうれん草、トマト、かぼちゃなどの菜園に恵みの雨を降らせる。
 すると草花たちは太陽の光に照らされてより美しく輝き、そんな姿に妻の表情は自然と朗らかになっていた。

「……私には、あなた達がいるものね……」
 そう言い残し家に戻って行った妻は、身支度を済ませ徒歩十分先にある駅に向かい歩いて行く。


 家前の湖岸沿いを抜けると、そこは並木道に繋がっている。
 季節は春。暖かくなった為か桜の木々より花が咲いており、たんぽぽ、菜の花、シロツメクサなどの野草もよく見られた。

 ──野花を慈しんで鑑賞出来るのは、いつ振りかな?

 それ思えるぐらい気持ちは平穏を取り戻しているのだと、そんな自身に安堵する。
 次は電車が下を通る陸橋を登り、真っ直ぐ歩いた後に降りていく。電車が通過する時はゴーと音がする為、初めは心臓がギュッとなる思いだったが現在はとっくに慣れていた。
 こうして駅に着き、慣れた手付きで切符を購入して改札を抜け、快速電車に乗り込む。目的地は京都に近く、県庁所在地となる大津市おおつし
 片道一時間の距離を、いつもは持ち込んだ文庫本を読み意識的に窓からの景色を見下ろさないように心掛けているが、今日はこの情景をしっかり眺めている。

 ──今日で、電車に乗るのも最後だろうな……。

 そんな思いで。

 この夫婦は普段より車に乗るから、よほどの理由がない限り電車は利用しない。
 長浜市は田舎の地域で電車やバスの本数が少なく、また時代背景からも車を所持している家庭が増加してきており、仕事や買い物などに車を足とする市民も都会に比べて多かった。

 ガタンゴトンと揺れる音と振動を感じながら流れる景色をぼんやり眺めていると、どうしても保育園や幼稚園、公園で遊んでいる幼児が目に入る。
 思わず反対側の座席に座るが、次は散り始めている桜を多数見てしまい、思わず俯いてしまう。
 ……その景色が、玉砕するであろう自身の運命と重なってしまったような気がして。
 そう心付いた彼女は、自身はまだまだだと溜息を吐くのだった。


 遠藤小春、三十五歳。痩せ型で腰まである黒髪のストレートに、細面で綺麗な二重を持ち合わせている彼女は気立てがよく控えめな性格。
 病院に行く為に暗めの黒のカーデガンと紺のスカートを選んでいるが、元より落ち着いた色合いの服を好んでいる。普段より流行など気にしてしない、どこにでも居る一般的な女性だった。
 専業主婦の彼女は、仕事を退職して五年。ずっと、一喜一憂する日々に疲れを感じてしまっていた。

 ──また仕事でも始めようかな……? 三十五の私には、さすがにもう言ってこないだろうし……。

 適齢期を過ぎたことに、少し気が楽になっていた。


 こうして電車に揺られて一時間。目的地である大津市に着き改札を抜けると街並みはガラリと変わり、四車線の道路に人が行き交う交差点。
 あちこちに佇む高層ビルの下を人の流れに乗って歩くこと十分。ビルの一角にて診察している、不妊治療専門クリニックに到着する。
 いつものように受付を済ませて血液検査を受け、長い待ち時間を過ごす。精神的に一番辛い時だったが、ようやく今日で終わりを迎える。

──今日はお酒とケーキを買って帰ろう。十年間お疲れ様と互いを労おう。そしてこの先を二人でどう暮らしていくかを……。

「遠藤小春さん」
「あ、はい!」
 若い女性看護師の声に小春は現実に戻り、診察室に向かう。
 この待ち時間で子供のことを思い浮かべなかったのは初めてで、彼女は期待も何もしていなかった。
 ……考えはただ一つ。この先子供がいない人生を、どのように夫婦で生きていくか。

「こんにちは、お座り下さい」
「お願いします」
 診察室には五十代の女性医師が座っており、今日も柔らかな笑顔をこちらに向けてくれる。
 しかし一呼吸を置いた後にその表情は歪み、「残念ながら……」と懐妊には至っていないと告げられ、今後も治療を継続するかを問われる。
 だが、そんなやり取りも今日で終わりで、今回で治療は終了すると事前に告げていた。
 十年間共に闘ってくれた礼を告げ、笑顔で卒業する。それが夫婦で出した結論だった。

 しかし──。
 医師は表情を変えず、優しく微笑んだまま小春に語りかける。
「おめでとうございます。妊娠されてますよ!」

「……え?」
 十年間、待ち望んだ言葉。
 しかし小春の思考は追いつかず瞬きを忘れ、呼吸すら忘れ、ただ医師の潤んだ瞳をただ眺めていた。

「妊娠です。待望の赤ちゃんですよ!」

 ──信じられない……。十年待っても来てくれなかったのに?

 その気持ちを言葉にして言い表せないが、心に沁みた途端、涙が頬を伝っていた。

「血液検査の結果です。陽性の判定が出ました。本当に良かったですね」
 医師は声を弾ませ、検査結果の紙を指差し丁寧に説明してくれる。しかし大きく深呼吸をしたかと思えばいつもの声色に戻り、冷静な面持ちで一言添える。

「……ただ、あまり喜び過ぎないで下さいね。まだ分からない時期だからね……」

「あ、はい……」
 小春は、涙をハンカチで拭きながら頷く。
 そうだ。これで終わりではない。むしろ──。

「赤ちゃんを信じましょう。それで、この先のことですが 」
 今後についての話を聞き、病院を後にする。


 自分の体に、我が子が存在する。
 初めて味わうこの何とも言い表せない感覚に、どうして良いのか分からない。
 妊婦用雑誌などをぬか喜びを避ける為に手に取らず、当時はネットなどの気軽な媒体もなく知識に乏しい状態だった。
 ふわふわとする足に力を入れて駅に向かい快速電車に揺られて帰って来た小春は、そのまま家には戻らず思い出の地に赴いていた。

 そこは盛大な琵琶湖が一望出来る砂浜。桜の木花や野花が多数咲いており、丁度見頃だった。
 雲一つない透き通った青空。太陽の反射により美しく輝いている、大きな湖。そして、それらを華やかに彩る桜の花びらに多数の野花。
 あまりの美しさに、一人涙を流す。
 この桜が舞い散る景色は玉砕を告げるものではなく祝福だったと小春は気付き、より涙が溢れてくる。

 ──この美しい景色を、一生忘れることはないだろう。我が子が生まれてきてくれたら、それほど嬉しかったのだと伝えよう。

 そう心に決めた、小春は思う。

 ──あの人は、どんな反応するのかな?
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