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6話 胎動
しおりを挟む妊娠二十週目。
紺のワンピースに身を包んだ小春は膨らんだ腹を抱えて、青々と茂る木々の下を白いハンカチで汗を拭いながら一人歩く。
昼時の空を見上げれば厚い入道雲が広がり、葉がサワサワと揺れ、聞こえてくるのは葉が知らせてくれる風の音と蝉時雨だった。
そんな夏の日に十五分ほどで行き着いた先に見えたのは、白いコンクリートが外観の六階建ての建物。
出入り口付近は人の入れ替えが激しく、そこには松葉杖を付いたり、車椅子を押してもらう人の姿が目に入る。
小春はそんな人々に先に行くように譲り最後に中に入ると、天井が高く広々とした建物内が見えた。
混み合う空間を階段で抜けると人は減り、三方向で別れた場所を真っ直ぐに進む。すると乳児や幼児を抱えた大人と、白衣に看護帽を被った女性達が今日もあくせくと勤めに励んでいた。
その姿を横目にひたすら真っ直ぐに歩くと、そこは行き止まり。だが周囲には先程と同じく白衣に身を包んだ女性と、今度は小春と同じくお腹が膨らんだ女性がおり、ようやく目的地に辿り着いた。
本日は、月に一度の妊婦健診だった。
不妊治療専門病院は懐妊後に心拍が確認されたら他の病院に転院と、初めより定められている。
それに出産する産院としては遠方すぎであり、自宅近くの総合病院を紹介してもらうことにした。
付近には個人産院もあったが、高年齢出産ということもあり総合病院一択だった。
混み合った産婦人科は待ち時間が二時間以上かかることもある。しかし不妊治療専門病院で慣れていた小春は動じることもなく、持参した文庫本を出し黙々と呼ばれることを待った。
二時間後。名前を呼ばれた小春が診察室に入ると、そこにはいつもと同じ柔らかな笑顔を向けてくれる二十代後半ぐらいの女性医師。
小柄でショートヘアの可愛らしい女性は初対面の時に斉藤だと名乗りながらにっこり笑いかけてくれ、長年に渡った不妊治療の苦しみを労ってくれた。
1990年は三十歳以上を高年齢出産と定めており、三十五歳の小春はより慎重に経過を診ていかなければならないとされていた。
しかし持病もなく、痩せ型だが出産に適した体型だったことから通常の診察で問題ないとされ、異常が見つかれば通院回数を増やしたり、入院などの対応を考えていくということで話はまとまった。
問診が始まり、異常がなければ超音波へと移行していく。腹部に検査用のゼリーを塗り超音波プローブという器具を当てられ、医師は胎児の成長を診ていく。
映像に映る我が子の姿は今日も愛らしいが、医師は眉を顰めていた。
「うーん、赤ちゃん少し小さいですね……」
「え?」
想定していなかった言葉に、一気に不安な感情に支配される。
「あ、ごめんなさいね。少しです! 今回たまたま小さく結果が出ただけかもしれませんし、この後急に大きくなる子もいますから!」
早口で援護するその姿は、いつもの屈折のない笑顔と違っていた。
「……はい」
当時は今程の超音波検査の技術もなく、現在からしたら不透明なことも幾分かあった。
だが腹囲や子宮底長も測定しており、それは確実な情報だと思われていた。その結果も踏まえ、二十週にしては小さめと判断された。
「……ごめんなさいね。えーと。あら? ……性別分かったかもしれません。どうします、聞きます? 多分、間違いないと思いますけど……」
「え! もう?」
またしても想定していなかった言葉に、今度は声が弾んでしまう。
「出産までのお楽しみにしておくことも出来ますよ?」
「……あ、考えておきます」
こうして診察を終え、次回の診察予約を取り会計に進む。
少し小さめだが経過観察となり、母体は悪阻で減少した体重も無事に戻っていた。……まあ、胎児の成長分もあるのだが……。
昼過ぎに行った診察は終わる頃には日が傾き初めており、照り付ける暑さは軽減して空は夕焼け色に染まっていた。琵琶湖の波は今日も穏やかで、なんでもない一日を過ごせたのだと優しく知らせてくれる。
病院から帰宅して台所で一息吐くと、黒色のリュックより母子手帳を取り出す。
今日の記録を見た後に、妊婦が自由に記載して良いページを開き本日の成長を書き残す。
そして今日もらってきたエコー写真を眺めると、そこには丸い顔と三頭身ぐらいの体が写っており、大きさ的に両手の平に乗るぐらいだそうだ。
「ふう……」
小春は立ち上がり、やかんに水を入れ火に掛けようとガスコンロのつまみを捻る。次に慣れた手付きで木製の棚に手を伸ばすがいつもの瓶に当たらず、ようやく今はしてはいけないことだと思い出し、溜息を吐きながらコンロのつまみを戻す。
……小春は、コーヒーを我慢していた。
悪阻中は飲みたいなど微塵も思わなかったのだが、体調が落ち着く頃には味覚が戻りやたら飲みたくなったのだ。
当時はカフェインレスなどが今ほど普及しておらず、味も現在と比較すると良質な物ではなかった。
その他の代用品はなく、ただ我慢するしかなかった。
「……コーヒー飲みたいよ」
椅子に座り、テーブルに頬を付けて一言。
長年、コーヒーを愛飲していた小春にとってそれを口に出来ないことがこれほど辛いと思わなかった。
しかも、授乳期間を含めると二年近くになる。
その現実に、溜息はより一層大きくなり止まることを知らなかった。
台所の窓より入ってきていた、赤い夕日が見えなくなる頃。ようやく長い昼が終わり、夜を迎える。
網戸より涼しい風が入り、その度に水色の風鈴がリンリンと心地良い音色を奏でている。
しかしそれは荒々しく車を停める音と、玄関の引き戸を開閉する音により掻き消されることとなった。
「おい! 今日はどうだった!」から始まる、仕事から帰宅した樹の騒音だった。
小春は鞄を受け取りながら少し小さめだと伝えると、樹の眉が一瞬ピクリと動くが、すぐに「大丈夫」だと根拠もなく言い切ってしまう。
小春はその姿に、不思議と口元が緩んでしまう。気負っていたものが自然と軽くなる。いつもそうだった。
「あとね。性別分かったかもしれないけど、次回の診察の時に聞く? どうする?」
先程とは違いにこやかに話し、場の空気が柔らかくなるのを感じた。
「……え? もう分かるのか? 普通生まれてからだろ?」
「どうやら分かるみたい。すごいよね」
「……へぇ」
樹は、小春の膨らんだ腹部を凝視したかと思えば、どんどんと険しい表情へと変わっていく。
苛立ちを感じているのではなく、物事に対して一途過ぎる性格故に正解のない問いがくるとこのように思い詰めてしまう性格なのだ。
「まあ、次までに決めたら良いから」
「……あ、そうだな」
ようやく眉間の皺を伸ばし、コホンと咳払いをしてテレビのリモコンに手を伸ばす。
夏の季節に付けるのは野球中継であり、樹は贔屓にしている球団が5-0で負けている現状に肩を落とす。
そうゆうこともあると小春は宥めつつ、夕食のおかずを並べ、冷蔵庫に仕舞ってあった瓶ビールを取り出して栓を抜く。
樹はグラスにビールを注ぎ泡立つ金色の喉越しを味わうが、出てきたのは溜息だった。
テーブルに並ぶのは、冷しゃぶ、卵とトマトの炒め物、ピーマンとにんじんのナムル、キャベツときゅうりの塩揉みサラダ、なすの柚子ポン酢和え、などのさっぱりとした晩酌に合う食事。
これらの野菜のほとんどは家庭菜園で収穫した野菜達であり、今年は樹も世話に加わり二人で育てたものだ。
それらはしっかり成長を遂げ艶や張りがあり、何より野菜本来の味がしっかりしており、毎日採れたての新鮮さを堪能できた。
今年も、花と野菜が無事に育ってくれたのだった。
星光る夜。いつものように和室に布団を引き、小春は寝ようと布団で横になると、この変化に気付いた。
お腹の中で、ウニョウニョと何かが動いている。
「え?」
小春はそっと下腹部に触れる。……これは胎動だった……。
「動いた!」
「え!」
横になりながら新聞を読んでいた樹はその声に飛び上がり、小春の膨らんだ腹部を触りどこらへんか仕切りに問う。
「ここ! ……あ、また動いた! 分かる?」
「え? ん?」
触れた場所には何の変哲もなく、全く何も感じ取ることは出来なかった。
「あ。なんか魚が動いているぐらいな感じだし、まだ触っても分からないかも……」
「ああ。そうか、なら仕方がな……。あ、悪い!」
言葉を告げる前に手を引っ込めたかと思えば、タオルケットをガパッと被り、背を向けてきた。
「……悪い? 何が?」
小春はクスクス笑うが樹は返事をせず、狸寝入りしてしまう。
その様子に灯りを消し、寝ることにする。
「……蹴るもんじゃないのか?」
ボソッと聞こえた言葉に小春は笑うのを必死に堪え、真摯に返答を始める。
「……うーん、もっと大きくなってからなのかなー? ね、チビちゃーん」
「チビ?」
声がする方に顔を向けると暗闇で目が合い、樹はまたプイッと顔を逸らせてくる。
「小さいから、おチビちゃんと名前を付けたの。単調過ぎるんだけどね」
「良いんじゃないのか? ……可愛いし」
「うん」
いつの間にか贔屓の球団が負けて落ち込んでいたことを忘れ、樹の表情は綻んでいた。
こうしていく間に、季節はまた巡り秋になっていた。空は高く、透き通った秋空はまた美しく。
庭には季節の花の秋桜や、昔から植えてある金木犀の木に花が綺麗に咲き、甘い香りが漂っていた。
その中でお腹の子はすくすくと育ち、妊娠三十週を迎えた。変わらず平均より小さめだが許容範囲内だと、経過観察を継続していた。
その頃には。
「お腹触ってて」
「ああ」
樹が小春の膨らんだ腹部に手を当てると、そこからの振動を確かに感じた。
「うわ、すごいな。こりゃ元気な男だ」
「やんちゃな女の子かもしれないよ? ……どっちが良いの?」
小春の問いに渋い表情を見せた樹は、ポコポコなる腹を見て一言。
「……まあ、男だな。女は何を話して良いか分からんし」
眉を顰めて小春を見つめてくる姿から、自身の口下手を憂いているように心付いた。
「女の子は話を聞いてあげたら良いの。パパ大好きって来てくれるから」
その言葉にいつも下がりっぱなしである樹の口角がピクピクと動き出し、その姿を小春がじっと見つめていた。
「……あ、パパなんて呼ばさん!」
声を荒らげ、プイッと顔を背ける姿に。
「はいはい」
屈託のない笑顔を浮かべる。
「……お前はどっちが良い?」
こちらに顔を向けずに話を続ける樹の様子に、まだ話が続いていたと驚きつつ話を続けていく。
「うーん、私はどちらでも良いかな? ……どっちにしても一人しか望めないしね……」
「あ……、まあな」
小春の言葉に、樹は思わず膨らんだ腹に目をやる。
「一人っ子にしてしまうのが申し訳ないのだけどね……」
「……ああ」
どうしようもない現実に、小春はその腹をそっと撫でる。
樹も小春も一人っ子であり、その何とも言えぬ孤独を二人は知っている。
小春は結婚した後に両親を亡くしているが、樹は幼少の頃に父を十八歳の時に母を亡くしている。
親戚は県外で交流もなく、支え合う兄弟は元より居ない。
樹は小春が居なかったら、十八歳で独りぼっちになる所だった。
樹が眉を顰め肩を震わす姿に気付いた小春は「ごめんなさい」と呟きつつ、その体を抱き寄せる。
「別に」と言いつつ、樹は小春を強く抱きしめ離さなかった。
結局二人は性別を聞かないと結論を出し、生まれてからの楽しみにした。
無事に生まれて来てくれたらそれで良い。
我が子を将来的に一人にしない為に、長生きをしよう。そう決意しながら。
妊娠三十五週目。
紅葉やイチョウの葉が色付き、その美しさを放つ頃。小春は土曜日にも関わらず、総合病院の裏門より敷地内に入っていく。
いつも通っている時とは違い、照明はなく薄暗い。その雰囲気に一抹の不安を抱えつつ指定されていた一室まで歩くと、そこは窓からの光りが当たって明るく、全面畳の部屋だった。
部屋には小春同様にお腹が大きな女性が数十人居り、本日は病院主催の母親学級が行われる予定だ。
そこでは出産を間近に控えた妊婦が助産師より、出産の心構え、出産の流れ、乳児の世話などの指導受ける。
周囲を見渡せば若く身綺麗にした女性が多く、自身のみが年齢層高めだという現実に胸が締め付けられる。
分かっていたが、不妊治療にあてた十年は戻ってこないのだと。
そんな思いを抱えつつ始まった母親学級は、陣痛が始まった時の段取り説明から始まり、実際の出産映像をビデオで視聴する流れになった。
テレビに映る顰めた表情と叫び声に皆ざわつくが、小春は顔色を変えずに眺めていた。
……不妊治療で痛い思いを数え切れないぐらい経験し、しかもそれらは毎回実らなかった。
その苦しみを知っている小春は、我が子に逢えるならいくらでも我慢する気でいた。
確かにこの十年間は取り戻せないが、不妊治療の経験は彼女を強くしていた。
最後は、産後を想定しての乳児の世話を習う。抱っこの仕方、あやし方、ミルクの飲ませ方、お風呂の入れ方などを、乳児を模した人形を使用して実践していく。
若い妊婦達は軽々とこなしていたが、小春には三キロの人形が重く腰に痛みを覚える。
十歳近く年齢が違えばここまで体は違うのかと、高年齢出産の現実を思い知った。
でも楽しかった。あと一ヶ月ぐらいで、あの人形ほど小さくて可愛い我が子が生まれて来る。
急に実感が湧き上がり、この胸に抱く日を夢見てその日を指より待ち望むようになった。
見上げた空は淡い青色で、雲も少なく太陽の光がこちらを明るく照らしてくれる。そんな優しい昼下がりだった。
「……どうだった?」
仕事より帰宅した樹は、珍しく声をかけてくる。
こちらに一切目をやらず無関心を装っているが、なかなか返事しない小春にもう一度聞こうとしているのか口をモゴモゴさせている。
「……うーん。やっぱり三十五の体に、赤ちゃんはキツくてねえ……。お風呂、手伝ってもらって良い?」
「はあー!」
目と口を開いたまま、静止画のように止まってしまった。
ミルクを飲ます、おむつ替え、着替え、あやすのは想定していたが、風呂や抱っこは小春に任せる気だった。
樹は自動車整備会社に勤めているが元々不器用な方であり、柔らかな小さな存在を抱き抱えたり支えたりするのが怖いのだ。
「大丈夫よ、頭持ってくれていたら良いんだから」
「あ、あ、頭ー!! そんなの落としたら桶にドボンだぞ! 溺れるじゃないかー!」
脳内でイメージしてしまったのか、手がカタカタと震えていた。
「赤ちゃんは元々羊水の中で浮かんでいるから、万が一の時でもすぐに上げれば大丈夫らしいから」
「……か、考えておく!」
すっかり威勢のなくなった樹はテレビを付けるのも忘れ、ただ出される夕飯を呆然と眺めていた。
見かねた小春がリモコンを手に取りテレビを付けると、丁度生まれたての赤ん坊が紹介されていた。
小さくて、弱くて、ふにゃふにゃで、キラキラとした瞳をしている。
今まで目を逸らしてきた存在を、今日は二人でしっかり眺めていた。
「あら、今日生まれたのね。可愛い」
「本当だな。……これが赤ん坊か……」
放心状態だった先程とは打って変わり、赤ん坊の頭ぐらい持ってやると息巻き始めた樹は、寒くなったからとビールから熱燗に変えたアルコールを一気に飲み干す。
「本当、ありがとう! あとね、立ち会い出産はしてくれるよね?」
その勢いに便乗し、小春はもう一つの難題に切り込み始める。
「ああ、会社には頼んである。産気づいたら連絡しろよ。早退させてもらう予定だ」
「……ところで、立ち会い出産の意味知ってる?」
「生まれるまで、待ってることだろう? 病院の廊下で待たせてもらうつもりだ」
「ブブー! 立ち会い出産は、お父さんが出産に立ち会うことを言ってまーす」
小春は、小心者の樹がひっくり返らないように、おどけて話を進める。
「……え? お義父さん? いや……、お義父さんは……」
小春を見つめて眉を下げる樹は、何かを勘違いしているようだ。
「お父さんは、あなたよ?」
「俺ー! ……あ、俺か」
腹の子を眺め、自分が父親だとようやく自覚するのだった。
「出産の立ち会い……。何するんだ?」
恐る恐る問う、樹に。
「陣痛が来てから生まれるまで側にいるの。大事なお仕事よ」
小春は軽く返答する。
現在通っている病院は、当時では珍しい立ち会い出産を推進していた。
「う、生まれるまで! ……あ! ……あ、あ、いや!」
首を激しく横に振り、口をパクパクさせる。硬派な男は、顔に似合わず臆病な性格だった。
「妊娠中は、何でも言うこと聞いてくれるんだよね?」
切り札を出し、にっこり笑う小春。その笑顔が、逆に怖かった。
「か、考えておく!」
声の威勢だけは良いが、徳利を持つ手は明らかにガタガタと震えていた。
そんな姿に小春の口角は下がることを知らず、「……もしかして怖いの?」と容赦なく突き詰めてくる。
「知らん! 酒足らんぞ! 酒!」
「はいはい。今日は特別だからね」
いつもは健康を考え徳利に一杯の日本酒と決めているが、今日は特別にもう一本準備をする。
小春は本気で立ち会って欲しい訳ではなく、ただ樹に考えて欲しいだけだった。
妊娠三十六週目。
臨月を迎えた小春の腹部は風船を膨らませたかのように膨らんでおり、細身の体がはち切れそうになるぐらいの大きさだった。
胎児はとにかく活発でよく動き、お腹を蹴ってくる。あまりの元気の良さに、小春は睡眠不足になるぐらいだった。
秋から冬に季節が変わる頃。空は昼時に関わらず薄暗く、空気が冷たく吐息が白く染まる日曜日に二人は車に乗り出かける。
もう時期生まれてくる我が子のベビー用品を買いに行く為であり、行き着いた先は小規模の専門店だった。
不妊治療で長年の出費があり、また子供は一人と分かっているので、出来るだけ出費を減らしたい二人はベビーベッドやベビーカーは樹の会社の人から譲ってもらっていた。
また、ベビーバスは代用可能とのことなので、家にあるプラスチックのタンスを用意した。
その為に購入予定はベビー服、ガーゼハンカチ、哺乳瓶などの少数の物で済んだ。
しかし当時は現在のような安価を売りにした販売の仕方ではなく、ベビー用品は高額だった。
現に小春の目は点になってしまい、その場に立ち尽くしてしまう。下見をしておくべきだった……。
ベビー用品を見ると楽しみで夜寝られなくなる心配があったから来ないようにしていたが、やはりその予感は的中した。
「可愛い! こんなに小さいのね!」
「本当にな。……こんなのが、腹の中に居るのか」
「不思議だよね? もう少しで生まれてくるなんて」
二人はポコポコ動く腹を見て、思わず顔を合わせて目元を緩ませる。
しかし一向に物を選ばずに小春は商品を手にしたかと思えば棚に戻すことを繰り返し、そんな姿を目にした樹は一人どこかに歩き出してしまう。
時間をかけ過ぎたから煙草でも吸いに行ったのかと一人店内をうろついていると、樹は商品を入れたカゴを持参して戻ってきた。
「……え?」
やはり何も言わない男はそれをこちらに突き出すが、その考えも気持ちも言わない。
「あ、でも」と小春が言おうとし、ようやく口を開いた。
「金のことばかり考えるな。一生に一度のことだ、好きな物を買え」
小春の方を見ずに、ボソッと呟く。
「……うーん。今しか使わないし……」
「だったら尚更だろう?」
そう言い、先程より手に取ってきた服や哺乳瓶を入れたカゴを差し出してきた。
「……ありがとう」
中を見ると欲しいと思っていたのをしっかり当てており小春は樹に笑いかけるが、「たまたまだと」そっぽ向いてしまう。
シンプルな哺乳瓶二つ、ガーゼハンカチ一セット。そして選んでいた三種類の服は性別がどちらか分からない為、黄色のキリンやヒヨコなどの可愛い絵がプリントされている物を選んでいた。
「やっぱり、こうゆうのか?」
「……うん、可愛いじゃない?」
自身は地味目の服を好んで着ているが幼少期より可愛い物が好きであり、小物は現在でもキャラ物を使用し、部屋にはぬいぐるみが多数配置されてあった。
だからシンプルなデザインの服より、このような可愛い服を選んでいく。
こうして会計に並ぼうとした時、小春は一つの物に目を奪われる。それは手のひらサイズの「おきあがりこぼし」と、赤ん坊が握れるように設計された「ガラガラ」だった。
どちらも目をクリクリさせたゆるい熊の絵が描かれており、小春はその可愛さに虜になってしまった。
樹は黙ってカゴに入れようとするが、小春は全力で止める。家にぬいぐるみは沢山あると、自身を嗜めた。
支払いを終わらせ店を後にすると、一組の家族と思われる男女とベビーカーに乗っている小さな乳児とすれ違う。
その美しい小さな瞳はこちらを映してきて、ふにゃと笑いかけてくる。その姿に小春は当然だが、樹までもが口角をゆるゆるに緩まってしまった。
小春の視線に気付いた樹はまた顔を背け、「帰るぞ」と息巻く。
我が子が生まれたらそんな余裕もないだろうと、小春はただ笑った。
行きの時から暗かった空は、帰りには天気が崩れ雨がポツポツと降り出した。
この天候の崩れにより気温はぐっと下がり、冬本番の気候へと変貌していった。
妊娠三十八週目、十二月上旬を過ぎた頃。
二人が住むのは湖岸付近であり、冷たい風が容赦なく吹き付ける冬がやってきた。
吐息の色がより濃い白色になり、気温は一層に下がる中。二人は近所のスーパーで仏花を二種類ずつ購入し、徒歩である場所に向かう。
湖岸道路を歩くこと五分。空全体が雲で覆われている為に昼間でも薄暗く、波打つ琵琶湖もどこか寂しく見えるが、その場所には多くの墓石が二人を迎えてくれた。
ここは、墓地だった。二人の先祖はかねてよりこの地に居住しており、琵琶湖が好きだからと墓地までも湖岸付近にしたと、以前聞かされていた。
元々より二人は近隣に在住していたが、まさか墓場まで近隣だったとは。
小春が、初めて樹の父に手を合わせる為に墓地に訪れた時。自分の先祖代々の墓と同じ敷地だったことに驚愕したのは、二十年以上前のことだった。
「お義父さん、お義母さん……、もう少しで生まれてきます」
小春は腹が大きく立ったままだが樹は墓地にしゃがみ込み、二人は樹の両親に手を合わせて報告をする。
しかし樹はその後も立ち上がることもせず、両親の墓を力無く見つめていた。
……樹の父親は早くに事故で亡くなり、母親が女手一つで育ててくれた。その母も樹を十八歳まで育て上げ、今までの無理が災いしたのか突然亡くなった。
彼は母の苦労は知っている。男性社会の中を仕事を掛け持ちして育ててくれ、その為に趣味だったガーデニングも止め母親として生きてくれたことを。
その長年の無理が、母の寿命を縮めてしまったことさえも。
「あなた?」
そんな樹の姿に、小春は思わず声をかけていた。
「俺達は、この子が成人するまで絶対死んではいけないな……」
樹が立ち上がり、真っ直ぐな瞳で墓を見つめる姿に。
「うん、そうだね」
小春はそっと寄り添い、その大きくカサついた手を両手で包み込む。
見下ろせば自分より小さな妻と、そこには自分と血の繋がりがある我が子。母親が亡くなった時にひとりぼっちになってしまったと思ったが小春がそうはさせず、新たな家族を産んでくれる。そして。
自分が早々に先立てば、間違いなく小春と我が子に苦労かけるだろう。
朝から晩まで働き詰めだった母と、そんな母を支える為に我慢ばかりだった子供の自分。
それだけは嫌だった。母と自分の苦労を、小春と我が子にさせるのは……。
「次は、お義父さんお義母さんの方だな」
「うん」
二人はその手を離さず同じ敷地内に眠っている、小春の両親の元に歩いて行く。
……煙草止めます。
小春の両親に手を合わせて、そう誓った。
樹は以前より一日一箱以上を吸うぐらいのベビースモーカーだったが、不妊治療を初めてその半分の十本まで本数を減らしていた。
そして今回小春の妊娠が発覚し、八本、六本、四本と自然と減少している。
そのことは以前より小春も気付いており、減っていく灰皿上の吸い殻に目頭が熱くなることが何度となくあった。
何故なら、小春の父親は……。
「帰ろっか?」
また墓石を力無く眺めていた樹に、小春は努めて明るく声をかける。
「……ああ」
そっと立ち上がり、コートのポケットに入っていた煙草をグッと奥に押し込んだ。
「……そろそろ、名前を決めないとな」
「ね。あと二週間ぐらいだし、急がないと!」
自然と手を繋ぎ、二人は湖岸沿いを歩きながら自宅に向かって歩いていく。
生後五ヶ月頃より命名の本を読んで候補を挙げようとしていたが、どうにもしっくりくる名前が浮かばず、困り果てていた。
顔を見てから決定するにしても、何個かの候補は上げておきたい。分かっているが、一向に進まなかった。
見上げた空は先程までの薄暗さから淡い水色に変貌しており、雲に隠れていた太陽が二人を照らしてくる。
テレビなどで見たことのある天使が空より降臨してくる一場面のように、その光は柔らかく美しかった。
その光景に小春はお腹を摩り声をかけると、今日も元気に返事をしてくれる。
生きている。今日も我が子は、お腹の中で。
増えていくエコー写真に、母子手帳の記録。部屋に用意されたベビーベッドに布団、服に哺乳瓶にガーゼハンカチ。
いつ生まれて来てくれても良いように、準備万全だった。
小さな命は、蕾を付け美しい花を咲かせようとしていた。
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🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇
☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
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2025.4.19☑~
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