天使がくれた259日の時間

野々さくら

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最終話 命を繋ぐ

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 電車の窓から見える景色は、故郷の町並み。
 二車線の車道に、低層ビルに、一面に広がる琵琶湖。南の空より光る太陽に照らされた湖は、今日も美しく輝いている。
 桜の花びらが散り、若葉が茂る初夏。いつもは車で帰ってくるけど、今回は久しぶりに電車に乗ってこの町に帰って来た。たくさんの荷物を携えて。

 終点である長浜駅で下車すると共に降りていくのは、観光客と思われる若者から高齢者世代の人々。昔は観光に来る人なんてあまりいなかったらしいけど、黒壁くろかべガラス館とか、オルゴール館とか、琵琶湖からの遊覧船に乗り竹生島ちくぶしまに行けるのが人気らしく今日みたいな平日でも観光客が多い。
 長浜って、住みやすいランキングとかで上位なんだって。確かに京都に住んでる私からしたら田舎だけど、まあまあってところかな?
 そう思いながら改札を抜けると観光を終えたと思われる年配の男女が「良いところだったね」と話している声が聞こえ、分かってるなーと心の中でニヤけてしまう。

 建て替えられて立派になった駅舎を出て、電車が下を通る陸橋を登り真っ直ぐ歩く。
 ここは電車が通過する時にゴーとした音と振動が強く、幼い頃はどうしても怖く両親に泣きつき手を繋いでもらったこともあった。
 過去の恥を忘れようと陸橋の階段を下ると、広がるのは若葉が茂る並木道。
 ここは変わらないな。
 故郷はいつもと同じ、優しい町並みだった。

 葉が揺れる音があまりにも心地良くて、私は目的地に着く前に寄り道をする。
 そこは琵琶湖が一望出来る浜辺。
 雲一つない透き通った青空。太陽の反射により美しく輝いている一面に広がる大きな湖。桜の花びらは残念ながら散ってしまったが、若葉が生い茂り優しい風の音を私の耳に響かせてくれる。そして、そんな優しい風になびく多数の野花。
 ここは家族三人の思い出の場所で、その美しい景色はまるで私を激励してくれているような気がした。

「ふう……」
 太陽がオレンジ色に変わる頃。疲れたと聞こえたような気がした私は「はいはい」と返事し、琵琶湖と太陽に「またね」と伝え家に向けて歩き出す。
 さすがの私も疲れ、体全身が重くてダルい。リュックを背負い両手に手提げ鞄を携えて歩き回るなんて、さすがに無謀過ぎたと反省したけど後の祭り。ようやく目的地である家の外観が見え、はぁーと安堵の溜息が漏れる。
 色とりどりのチューリップ、紅いナデシコ、黄色や橙色のマリーゴールド、家庭菜園。変わらず手入れが行き届いているな。

 車庫に車は一台もなく間に合ったと心の中でガッツポーズを決め込み、雑貨屋で買ったキーケースに付いてある鍵を取り出し慣れた手付きで鍵を開ける。
 玄関の引き戸を開けようとすると鳥の囀りが聞こえ顔を上げると、燕が巣を作り雛が孵り親鳥が運んだ餌を突っついていた。
 今年も帰ってきてくれたのだと、その姿に私は頬を緩ます。

「ただいま!」
 二台ある車が両方ないのだから返事をしてくれる人なんて居ないと分かっているけど、聞いている人はいる。だから私は両親が不在時でも大きな声で「ただいま」と必ず言うようにしている。

「重かったわー!」
 リュックと手提げ鞄二つを和室にポイポイと投げ置き、洗面所で手を洗う。
 こうして一番に向かうのは、和室の奥に置かれてあるミニテーブル。そこには手の平の半分にも満たない小さな骨壷と、木製の写真立てに入った目を閉じている赤ちゃんの写真。そこに手を合わせ、一言。

「……帰ってきたよ、お兄ちゃん」
 横に供えられているのは目がクリクリとした熊のぬいぐるみと、がらがら。起き上がりこぼしの熊をツンと指で押せば押し戻ってきて、がらがらを鳴らせば優しい音がする。
 これはずっと兄の元に供えられた大切なおもちゃで、色褪せていた様子から時代の流れを感じさせる物だった。

 ふっと昔の写真が見たいと思った私は、和室の三段ラックに片付けてある厚いアルバムを中指で摘んでそっと取り出す。
 その場に座って一ページ目を巡るとそこには目を閉じ口をポカンと開けて眠っている赤ちゃんが居て、目を開けてこっちを見ていたり、顔を真っ赤にして泣いていたり、寝ながら沐浴していたり、余裕の表情を浮かべた母の抱っこと、ぎこちなく強張った表情をした父の抱っこ。
 乳児の私はそんな父にも動じずポケーとしていて、なかなかの根性だなと思いつつページを捲り続けるとそんなものがしばらく続いた。

 新生児相手に何枚撮ってるの? 全部同じ顔してるようにしか見えないんだけど?
 半分呆れつつどんどんとページを捲るとベビードレスに身を包んだ私に、綺麗に着飾る母とスーツに着せられているの表現が似合う父。
 近所の神社でお宮参りに行った時の写真らしく、既に首がすわった私は父に抱かれておりその手付きは手慣れたもの。よく世話をしてくれていたのだと、察せられるほどに。
 そんな私達を囲んでくれるのは、美しい彩りを放っている桜。冬生まれの私は暖かくなる春にお宮参りをしたと聞いていた。
 初めて笑った日として残ってある満面の笑みに、お食い初め、寝返り出来た日、お座り、父に離乳食を食べさせてもらっている姿、はいはい、父の鞄を漁っている姿、掴まり立ち、一歳の誕生日。初めて歩いた日。
 その後も続く私の成長を逐一書き留め、写真を撮り、お祝いをする。
 アルバムと成長記録があまりにも多く見るのも大変なぐらいなのに、それを写真に撮り、記録に残し、アルバムに残した両親。年齢が上がれば当然私が嫌がり写真は極端に減ったけど、三段ラックがアルバムと成長記録でビッチリになるとは。
 子供に熱が入り過ぎだと思っていたけど、今ならその気持ちが分かる。

 三段ラックの上に置かれてある、蓋付きの箱。
 子供の頃に一度だけ見せてもらった、お兄ちゃんの写真や思い出の物。
 閉ざされている箱を開けるとそこには、黄ばんだ母子手帳、一枚の紙切れ、臍の緒が入った手の平ほどもない小さな箱、安産祈願のお守り、戌の日の白い腹巻き、そしてクマの絵が書かれた薄いアルバムが入っていて私はそれを捲る。
 亡くなった兄は、可愛い赤ちゃんだった。

 子供の頃。見知らぬ赤ちゃんの写真に毎日手を合わせる両親の姿に何をしているのかを軽く聞いた私は、生まれる前に消えた命があったと知った。
 友達の弟妹は普通に生まれてきていたからそれを当たり前だと信じて疑わなかった私は、自分には兄が居て母のお腹の中で亡くなってしまったという事実にただ衝撃を受けた。

 母子手帳を捲れば「妊娠40週0日」と記入されており、特別な所見の欄には「死産」に丸がされていた。医師より発行されたのは出生証明書ではなく、死産証書。母子手帳の下にあった紙は死産届をコピーしたと思われる物で、母子手帳同様に黄ばんでいる。
 中身を開けると死因は『縊死』と記入されており、おそらく臍の緒が首に絡まって息が出来なくなったのか、臍の緒の先端が捻れてしまって母体から酸素を充分に送られてこなくなり窒息してしまった可能性が高い。どちらにしても防ぎようのない悲しい事故で、当然ながら誰も悪くない。

 両親は生きれなかったその子の分まで生きて欲しいと言っていた。当時はなんとなくでしか分からなかったけど、今ならよく分かる。

 私が膨らんだお腹を撫でると、それに返事するかのように蹴ってくる。今日も元気に暴れていて、一体誰に似たのだろう?

 そんな考えに浸っていると、外より聞こえる車をバックさせる音。
 ヤバいと思った私は思い出の物を置いてあった順に片付けていき、そっと蓋をする。


あかねー! 帰って来てるの?」
 玄関の引き戸がガラガラと開いたと同時に聞こえる母の声。その姿は未来の私を見ているかのように似ていて、背中までの髪に、黒いカーデガンに、紺のスカート。昔から流行りとかに興味ないと言い同じような格好をしているけど、今年で六十八歳になると思えないぐらいに若々しい。
 私が小学校に入学したのと同時に事務のパートに出た母は、中学の時に正社員になり、定年後の再雇用制度を利用し今もバリバリと働いている。

「うん、早く着いちゃって。歩いて帰ってきたー」
「えー! こんな大きい荷物を持って歩き回るなんて、何かあったらどうするのー!」
 和室に放り出された鞄を見てこっちに駆け寄ってきた母は、鬼の形相をして私のお腹に手を当ててくる。するとポコポコと大丈夫だと代弁してくれる存在が居て、私はこれ以上の大目玉を喰らわずに済んだ。
 心配性の父に比べ母はドンとした人だったけど、その立場が入れ替わったのは八ヶ月前。私が両親に妊娠したと言った時だった。
 母は一瞬表情を強張らせ、体を大切にするようにと再三言ってきて、何か違和感を覚えたらすぐに病院に行くようにと念を押された。
 妊娠する前は、何があってもそれは運命だから仕方がないと思っていた。だけど実際に心拍を確認した途端、この子を失う事なんて想像しただけで胸が張り裂けそうになった。
 私はその時に両親が経験した苦しみを本当の意味で理解し、母が私の妊娠を知り表情を変えた姿から悟った。何十年経っても兄は両親の子供で、終わったことではない。
 そして亡くなった子供を産んだ母だからこそ、娘まで自分と同じ苦しみを経験するのではないかと一瞬過ってしまったのだろうと。
 だから私は、毎日無事な経過をメッセージアプリで送っていた。おかけで体重管理がはかどり、オーバーせずに済んだ。

「大丈夫だからー! 重いのはのぶくんが週末に持ってきてくれる予定だし、パジャマぐらいしか入ってないし」
「せめて駅に着いたなら電話しなさいよー。あー、やっぱり家まで迎えに行けば良かったわ……」
「良いよ、お母さんだって仕事あるんだし! って言うか、子供じゃないんだからー!」

 子供じゃないんだから。
 その言葉は本来母が父に言ってきたことで、父はあらゆる場面で私を子供扱いしていた。

 友達と卒業旅行に行くと言った時も。
 車の免許を取る時も。
 私が今の旦那と付き合い始めたと知り、動揺し  ていた時も。
 ……夫が挨拶に来たいと言った時も。

 まあ、そんな母も、小さい頃から短いスカートを履くなら腹巻とスパッツを履きなさいとか。
 夏場出かけようとしたら、もう一枚着なさいとか。
 ちょっと帰りが遅くなったら車で駅まで迎えに来てくれたりとか、超過保護なんだけどね。

 二十一で就職して看護士として働き始め、忙しさからご飯食べなくていっかと思っていたらお弁当渡してきた。私は大人なんだから、一食ぐらい食べなくていいのに!
 そして二十五歳で結婚の為に家を出て、今年三十歳になる娘に対してもこの扱いだ。いつになったら大人扱いしてもらえるのだろうか?


 私は児玉こだま茜、。旧姓は遠藤茜という名前で、父は遠藤樹、母は遠藤小春。兄は「遠藤空」、「遠藤そら」、二つ名前があるらしい。どうして二つもあるのかというと、父と母が最終的に決められず父は「空」、母は「そら」と呼んでいるからだ。

 そう、あの出産から三十年が過ぎ、現在は西暦2020年。あの時の生まれた私は、三十歳になっていた。

「大丈夫、これがあるんだから」
 私はスマホに付けてある白いお守りを取り出す。そこには「安産祈願」と記されており、私はずっと肌身離さず持っている。

 安産祈願に両家で神社に行った時。ひたすらに手を合わせて祈願する両親の姿に、周囲の参拝客は大切な娘さんなのねと目を細めてくれていたけど、同じ悲劇が起きないようにと願ってくれていたんだろうと胸が苦しくなった。
 そしてその時にこのお守りを渡され、大切に今も持っていた。


 ガラガラガラ、バシン!
 母との会話を遮る、玄関を開けたかと思えば勢いよく閉まる音。バタバタバタと大きな足音がこちらに向かってくる。
 そんな落ち着きがない音に振り返ると忙しい足音は途端に静かになり、音の主は表情を険しくくしていく。


「……帰ってたのか?」
「お父さん」
 また皺が増えた父は所々白髪で、服装も昔より無頓着。だけど背筋はピシッと伸びていて、その足取りも軽やか。若い時はヘビースモーカーに加え飲酒量も多く不摂生だったらしいけど、それを感じさせないぐらいに健康体の父は物心が着く頃より健康マニアだった。
 容姿的には老けて見えるけどその動作は若々しく、父も再雇用制度を利用し車の修理工事に勤め現役バリバリで働いている。
 月に一度ぐらい車で里帰りしているんだけどその度に車を見せろとうるさくて、メンテナンスからタイヤ交換まで軽くこなしてくれる。

 そんな父は私からスッと目を逸らし、ズカズカと通り過ぎていく。無関心を装うその姿には、すっかり慣れていた。

「『帰ってたのか?』、じゃないでしょう? 里帰りの予定聞いてからやたらソワソワしてて、まだ早いって言ってるのにベビーベッド組み立てて、買い物行く度に茜の好きなプリンをいつの間にかカゴに入れて、賞味期限切れそうになって結局お母さんが食べてるの。まだ早いと何度も言ってるのにねー?」
 母は眉を下げて、明らかに父に聞こえる声で私に話してくる。

「余計な事、言わんでいい!」
 振り返った父はよりブスッとした表情を見せ、縁側に向かっていく。
 それに対し、母は「はいはい」と笑っている。ずっと見ていた光景。この関係は余程の信頼関係がないと無理だろうと思う。

 父は不貞腐れているのかと思い縁側に目をやると、庭に干してある洗濯物をパンパンと虫払いをしながら片付けて畳んでいた。先程までの態度と行動の明らかなる違いに笑ってしまう。
 父は料理が上手く、洗濯も、掃除も軽くこなしてしまう。
 父世代の男性は家事をしないことも多いらしいが、積極的にやる姿が実は誇りだったりする。


 母は、父と私を繋いでくれる存在だった。父の周りくどい物言いに意味が分からない事がよくあったけど、こうゆう意味で言っていると何度も話してくれた。はっきり言えば良いのに……っていつも思っていたけど、父はそうゆう人。何でか分からないけど母と私にはやたら口下手で、口数が少ない人だった。
 子供の頃はそんな父に、私達のこと嫌いなのかと悩んだこともあったけど母は違うと否定し、父は私達と多くの時間を共に過ごしてくれた。
 豊公園や琵琶湖を始め、春は曳山祭り、夏は市民プールに長浜花火大会、秋は伊吹山の登山、冬はスキーに連れて行ってもらったこともある。
 私が疲れて座り込むと、黙っておんぶしてくれたな。
 家にいる時も料理や園芸を教えてもらい、夜は縁側から三人で庭や空を見て話をしていた。高学年になった頃から恥ずかしくなり、私は一緒にしなくなったけど両親は今でもしているらしい。
 それだけではなく近所の散歩やお寺によく行っているらしく、何をするにもいつも一緒で仲が良すぎてこっちが恥ずかしくなるぐらいだった。

 父と母は幼馴染で家が近かったことから、元々仲が良かった。そこまでは理解出来るけど、婚約指輪を仕舞ったケースの隣にある指輪。誰の目にもおもちゃだと分かるそれを共に仕舞っている意味が分からなくて母に問うと、父から幼稚園の頃にもらったと微笑んで話していた。
 父に聞くとピンクの指輪なんか知らんとしらばくれるけど、ピンクなんて言ってないよお父さん?
 幼い頃のやり取りでそうゆうことはあるけど、大体は良き思い出として終わるもの。
 それを覚えている父も大切に持っている母も、私からしたら到底理解出来ない。

 そんな仲の良い両親から頼まれていることは、もし二人が同時に亡くなってしまったら兄も共に納骨して欲しいだった。不慮の事故を想定しているみたいだけど、仲の良すぎる両親は本当に亡くなる時まで一緒になりそうで怖い。
 でも、よくよく考えると亡くなった兄は両親と同じ墓に入るのに、この家で生まれ育った私は一緒の墓には入らない。
 その事にどこか不思議さを感じつつ、信くんと結婚する時に父に言われた言葉を思い出す。

「結婚するのだから、もう帰ってくるな」。
 そう言われるだろうと身構えていたけどそれは真逆で、「何かあったらすぐに帰って来い」とボソッと言われた。
 聞き違いかともう一度言ってと頼んだけどそれは叶わずモヤモヤとしていたら、後に信くんが結婚の挨拶をしようとしたら父にのらりくらりと話を逸らされ、別れ際に一言「娘を泣かせたら返してもらう」と言われたらしい。
 あの父がそんな事言うの? と驚愕した私は、今だに信じられずにいる。


「ごめんなさい、もう少し時間かかりそうなの」
 手早く材料を刻みながら料理をする母は、洗濯物を片付けて戻ってきた父にそう告げる。

「とりあえず茜の分があれば良いだろ?」
 そう返す父は、まるで私を子供のように見つめてくる。
 ……だから私はもう三十だよ……。子供じゃないんだからご飯の心配しなくて良いよ……。

「ああ、今日はいらん」
 日本酒の用意をしようとしている母を父は止め、食器棚より茶碗を取り出し炊飯器からご飯をよそい始める。

「あら、そう? ……なんか三十年前を思い出すな」
 出来た野菜炒めをお皿に分けながら母は笑い、お味噌をよそっていた私をまじまじと見つめてくる。

「休肝日だ!」
「はいはい。長い休肝になりそうね」
 冷蔵庫から麦茶が入った容器を出し、三つ入れ配膳していく。

 亭主関白の古い父に、それに従うだけの母。子供の頃はそう思っていたけど、実は違うのだと最近気付いた。
 父は一見亭主関白の頑固親父に見せているけど実は不器用で口下手な人、言葉では表さないが母の事を考え意見を尊重している。そして言葉に似合わず優しい人。まさに言葉より、態度で示すタイプ。
 逆に母は従うだけに見えていたけど、実は真面目でそれ故に頑固。型にはまらないといけないと思い込み過ぎてしまい、真面目さ故に苦しむ。
 そんな母に父は無関心を装い折れている事もあり、だからこそ母はどこか救われていて普段より穏やかに過ごし、日常的に父を立てているのだろう。
 私に対して心配性だった父に、大丈夫だといつも宥めてくれていた母。父が帰りが遅いと怒るのに対し、母は高校生になったら友達との付き合いもあると迎えに行くことで帰宅が遅くなることを許してくれていた。
 父が心配性になった理由は幼少の頃に祖父を交通事故で亡くし、誰かが帰って来ないことを極度に怯えているから。母にその理由を聞いた私は、父に必ず遅くなると連絡していた。すると父は怒ることはなくなり運転免許を取りたいと話した時も一瞬表情を歪めたけど、運転する時は平常心を心掛けろと話され約束した。結果、私はゴールド免許を持ち無事故無違反が自慢だったりする。
 そんな母は私の妊娠を知り父と逆転したかのように心配性になり、悪阻が酷くて実家に療養させてもらった時、母はオロオロとしていた。十五週が過ぎて落ち着き自宅に帰るとなった時、母が父に心配だと相談しているのを聞いてしまった私は父の心配性スイッチを入れてしまったと思った。だけど、父から出たのは信幸のぶゆきくんが側に居るから大丈夫だと母を宥める言葉だった。
 父の言葉に母は頷き、表情を緩めていく。次の日に平然と私を送り出してくれて、あんな話をしていたのが嘘のように笑っていた。
 父の孤独を母が理解して支え、母の思い詰める性格を理解している父が支える。互いの弱さを支え合い困難を乗り越えていたからこそ、ずっと仲の良い夫婦なのだとようやく気付いた。

 言葉足らずだけど行動で示してくれる父は理想の人で、穏やかで優しい母は憧れの存在だったりする。……絶対に言わないけどね。

「いっただきまーす」

 ズキン。
 私の大好きな母の卵焼きに箸を伸ばそうとした途端に、痛む下腹部。
 あれ? そういえばずっと鈍い痛みを感じていたけど、今日はいっぱい歩いたからだよね?
 まだ予定日まで三週間もあるし、そんな訳……。


「……茜、もしかしてお腹痛い波が、結構前からきていたんじゃないの?」
 私が卵焼きにも手を付けず険しい表情をした姿に、母はすかさずそう聞いてきた。

「えーと、そういえば家に着いてから、なんか痛いなーみたいな? しばらくしたら止むし、大丈夫みたいな?」
「それ陣痛かもしれないじゃない! 時間計るから!」
 平穏な家族団らんとは打って変わり、場が緊迫していく。いやいやいや、そんないきなり生まれるわけないしー。


「十六分か。これは今日あたり来るかもしれないわね」
 母は測定したスマホを眺め、冷静に呟く。
 出産に何度となく立ち会っているはずの私の方がはわはわとしてしまうぐらい、母は冷静だった。

「なにー! 生まれるのか! 救急車! ……な、何番だっけ?」
 横で一部始終を眺めていた父のスマホを持つ手が震えている。いやいやいや、この程度で呼んだら迷惑だよ! 絶対やめてー!

「大丈夫……だから……」
 突然の痛みに驚いてしまったけど、こんな痛み序の口だと分かる。出産の痛みはこんなに甘くない。分かってるから……。
 しかし父はひたすらに騒いでいた。私の荷物を全て車に詰め込み、私の手を掴んだかと思えば病院に行くぞと叫びだす。
 病院に行くのは陣痛の感覚が十分切ってからだと説明するけど、心配性の父はそんなこと聞いちゃいない。

「お父さん、まだ生まれないから! それよりやることがあるの!」
 それを止めてくれた母は、私を椅子に座らせてくれる。やることって何? スクワット? 椅子に座ってやるの?

「茜、ご飯食べて行きなさい」
 母から言われた言葉に、父と私は同時に母を見つめる。
「飯? そんな場合か!」
 父が私の気持ちまで代弁してくれる。父とは気が合わないことが多いが、今回はさすがに同意見だった。

「そんな場合です! 体力いるから、食事は大事なの! 陣痛感覚が十分以内になったら病院に電話するから、食べて行きなさい!」
「……あ、そっか」
 痛みがない間に食事をパクパクと運んでいく。……全く、いつも指導している側なのに何でこんなことも出来ないのだろう。
 改めて勉強と実践は違うのだと痛感しつつ、今後に活かせようと食事を噛み締める。
 本当に母が居てくれて良かった。もし父と二人だけだったら……。想像しただけで恐ろしかった。

 そういえば久しぶりに見たな。父がここまで焦っている姿。
 小学五年生の時。痛みで苦しむ私をあたふたしながら、でも運転は平常心を保って病院に連れて行ってくれた。病院に着く頃にそれは激痛へと変わっていて、歩けない私をおんぶして診察室まで連れて行ってくれた事は今でも覚えている。
 結果盲腸で破裂寸前と分かり、夜中に緊急手術になり痛みに苦しむ私の手を繋いでくれていたことを今でも覚えている。
 中学三年生の時、高校受験で緊張していた私に母がお守りを渡してくれた。買ってきたのは父で、なんで直接渡さないのか聞くと、心配性の父が側にいると悪い影響を与えるからと自ら早朝から出勤したと聞きただ驚愕した。何で、お父さんが緊張してるの? って。まあその時は反抗期真っ盛りで、一言も話さなかったんだけどね。
 そういえば無事に合格し高校に通い始めると、自転車が勝手にピカピカになっていることがあった。その頃は反抗期のピークは過ぎて少しは話していたけど、お礼を言えるほど大人ではなかった。母を通して言う、それぐらいだったな。
 高校三年生の初夏。進路を決める時期になり以前より母に相談していた通り、専門学校に通い看護師になりゆくゆくは助産師を目指したいと告げると、こちらを振り返ることなく「そうか」としか言わなかったけど、後に母から聞くと寡黙の父が母に多弁に話すぐらいに喜んでいたと聞いた。
 その後必死に勉強して看護学校に進学出来たけど、そこで現場を知り過酷な仕事をやっていけるか思い悩んでいると、「星も月も綺麗だから出来る」と意味が分からない事言っていた。でも何故か出来ると考えてしまったんだよね、根拠なんてないのに。
 父の激励のおかげか卒業して看護師になるも、命に向き合う仕事の重圧に悩んでいるとケーキを買って来てくれ、「空が見ているから大丈夫」だと、また意味が分からない事を言っていた。
 後で「空」は亡くなった兄に付けたの名前だと母から聞き、そうゆう意味だったのかとようやく理解出来た。本当に不器用な人、ちゃんとそこまで話してくれないと分からないよ……。本当に言葉で表してくれない人なんだから。


 陣痛の感覚はどんどんと短くなり、母の勘は当たりもうその時は来てしまったようだ。

「十分切ったわね。お母さんは病院に電話するから、茜は信幸さんに連絡しなさい。車でこっちに来るには一時間以上かかるし、病院に直接行ってもらえるから」
「え? 信くん? 生まれてからで良いよ。どうせ来ないし」
 あの人を呼ぶ気は全くない。だって……。

「来る来ないは別にして。いいから連絡だけはしておきなさい」
「分かったよ……」
 そう言った母は病院に連絡してくれて、父には食器を洗っておくように指示を出す。父を落ち着かせる為にあえて仕事を振るなんて、母はとにかく冷静でさすが経験者。
 やっぱりすごいな、お母さんは。全部分かっているって感じ。

「……ねえ、ついでにお母さんから信くんに電話してくれない?」
「だめ。自分で言いなさい」
「えー!」
 軽く一蹴されてしまった。
 前言撤回、全然分かってない!
 気が重いけど仕方がないから、私は自分でスマホを操作し電話をかける。
 珍しく一度目の着信で応対してくれた信くんは、「ん?」と返事しただけでこれ以上何も言ってこなかった。

「もしもし信くん? 陣痛きた!」
 私は状況を必死に話し、今から病院に行くと話すも信くんは一切の返答をしなかった。

「何か言う事、ないの!」
『あ、ああ……』

 プツン。ツー、ツー、ツー。
 何かの間違いだとスマホを耳元から離し液晶パネルを見るも、それは間違いではなく通話は切れていた。

「はあー! 切れたしー! マジで、ありえないんだけど!」
 電話が切れた途端に陣痛の波が来て、痛みも相まって絶叫する。もー、だから連絡したくなかったのに!

「あらら。まあとにかく、病院行こっか?」
 そんなやり取りを目の当たりにしていたにも関わらず、母は動じずこの波が引いた時に車に乗ろうと話してくる。
 いやいやいや、お腹の子の父親。こんな時でも「あ、ああ」しか言わないんだけど!

 ……でもね、信くんも言葉では言わないけど行動で示してくれる人。妊娠を告げても何も言わなかったのに、次の日には妊娠や命名の本を買ってきた。その時に分かった。何も言わないけど、喜んでくれているんだって。

「ほら、行きましょう!」
 母は私に肩を貸してくれ後部座席に乗せてくれる。ドアを閉め運転席に乗り込もうとすると、それを静止したのは父だった。母を私の後ろに押し込んだかと思えば、運転席をぶんどってしまった。

「お父さん?」
 母と私で顔を見合わせ、同時に父の白髪混じりの頭に目をやる。車にはエンジンがかかり、深く深呼吸を繰り返していた。

「え、お父さんが運転するの! いやいやいや、ダメでしょう!」
 そう言い母に同意を求めるも、母は父をただ眺めている。
 え? まさか?

「お父さん、お願いします」
 真っ直ぐな目で父を見つめ、そう口にしていた。
 嘘でしょうー!
 そう口にしようとした途端、陣痛の波がきて声に出せなかった。
 日が沈んだ空には大きな満月が出ていて、まさか今日来ないよねーと笑っていたけど本当に満月だと陣痛が来やすいのだと今日身をもって知った。
 いや、今そんなことはどうでも良いし。本当にお父さんに運転してもらうの? 私が死んだら、お腹の子も巻き添えなんだけど!
 そう思いながら不意に助手席に目がいくと、そこには綺麗にまとめられている私の出産用鞄。あんなにパニックになっていたのに、父は冷静に積んでくれたのだと気付く。

「……お父さん、お願い」
 我が子の命を父に預け、母に私の体を預ける。
 すごく心強いな、お母さんとお父さんが側に居てくれるなんて。
 普段は少しうるさいと感じるけどこうゆう時は両親が居てくれるのは心強い。
 こんな時だから分かる、両親のありがたみ。

 父と母の両親は早くに亡くなり、兄が亡くなった時も私が生まれる時も側に居てもらえなかった。それがどれほど心細いか、両親が居てくれることがどれほど恵まれているか。
 そして両親は私を一人にさせない為に、どれほど健康に気を使い長生きしてくれたか。今、分かったような気がした。

「……お父さん、お母さん。ありがとう」
 母の手を握り、そう言葉に出来た。
 母はその時、握れなかった手を。

「茜こそ、無事に生まれてきてくれてありがとうな」
「お父さんも、お母さんも、嬉しかったの。お兄ちゃんの時は静かな出産だったから、茜は元気いっぱいに生まれてきてくれたんだって」
 父と母の声は震え、涙声だった。

 静かな出産。その悲しみは当然知っている。
 母親のうめき声が止まり速い息遣いの中、告げるお疲れ様でしたの言葉。母親も、立ち会っていた父親も、我が子が亡くなっていること、もしくは数分で亡くなる運命だと医師より告げられて出産に臨んでいる。
 しかしどれほど分かっていても、覚悟していても受け入れている人なんておらず、分娩室に響くのは涙する生きられなかった子供の母親。
 それはどれだけ経験しても慣れることはなく、助産師として一番苦しい仕事。
 両親もこれほど悲しみ、嘆いたのだろう。分かっていたからこそ、余計に悲しく苦しかった。

「……うん」
 こんな時に、何を言っているのだろう?
 いや、こんな時だからこそ言えたのかもしれない。


 車を走らせること十分。父の運転は普段と同じく穏やかで、病院の敷地内に入っていく。すると父は前方に目を凝らし、「不審者か?」と呟いた。
 その声に反応した母は父が凝視する先に目を向け険しい表情を浮かべるも、すぐに声を上げて笑い私に向かって「ほらね」と指差していた。
 不審者に知り合いは居ないと思いながら母が指指す先を見ると、そこには周囲を睨み付けキョロキョロする不審者。……いや、お腹の子の父親であり私の夫である信幸が居た。

「信幸くん? どうしたんだ、あんな怪しいことして」
「お父さんに、そっくりだけど?」
 父の疑問に、ハッキリ答える母。
 うん。父も傍目から不審者だけど、自覚ないのかな? 母を探し追いかける父は、完全に怪しい人だった。
 ……って、そんなことどうでも良いわ!

「信幸めー! 黙って電話切ったくせに、何しに来たのー!」
 私の怒りは、陣痛の痛みと共に突如ヒートアップしていく。

「まあまあ。信幸さんは心配して来てくれたんだから。この時間で駆けつけてくれたのも、近くにいたからだろうし」
 母はいつも信くんを庇う。まるであの人の気持ちを代弁してくれるように。

「もう、一言ぐらい言ってよ!」
 ウチの車に気付いて、追いかけてきた信幸の奴。両親には挨拶や礼を告げ状況を聞くのに、私には一切話しかけてくれない。
 怒りと痛みマックスな私は、信くんに向かい叫ぶ。ええ、八つ当たりですとも。

「え……、あ……」
 すると両親に対しての態度と打って変わり、言葉に詰まった信くんは目をキョロキョロと動かし余計に挙動不審になっていく。

「こんな時ぐらい、何か言ってよー!」
 夜間用出入り口前に停めさせてもらった車内で、私は感情のまま叫んでしまった。
 ……元・勤務先の病院で。
 だって仕方がないじゃない。長浜市の総合病院で産婦人科があるの、この病院しかないんだから! 母を安心させる為に、設備の整った総合病院を選んだんだから。

 母とバカ信幸の肩を借りて車から降り、父は荷物を運んでくれる。電話をしていたことから警備室に名前を告げると、すぐに病棟看護師が迎えに来てくれた。

「近藤ー! 生まれるんだってー?」
 ピシッとした白衣に身を包んだショートヘアの助産師が、車椅子を押して近付いてくる。それはそのはず、元同僚だから。

「あ、今は児玉さんか? ごめん、ごめん」
 手をクイックイッと仕切りに動かし、ははっと笑う姿に。
「どっちでも良いわー! 早くして!」
「はいはい。この様子じゃ、まだ生まれんわー」
「うるさい!」
 退職前と同じノリで、悪態をつく。
 だけどこの感じに、少し安らぎを得てしまう。彼女、三島が居たらこの出産は安泰。運が良いね、この子。

「じゃあ、行きましょうか」
 波が引いた時に車椅子に乗ると、どこまでも落ち着いた三島の声により病棟に向かっていく。
 急患用のエレベーターに乗り込むと、あっという間に産婦人科病棟に辿り着く。

「荷物、こちらに置いてください」
 三島が指したのは、詰所に置いてある荷物置きの台車。おお、お前さんまだ現役だったのかい?
 懐かしい金属の台車に綻んでいると、荷物を置いた父と母は立ち止まってしまった。

「お父さん、お母さん?」
「……頑張りなさい」
 父と母は目を潤ませ、そう小さく呟いた。

「え、え! 付いてきてくれないの!」
 三島がガッツリ見ているのに、そう呟いてしまった。
「ああ。お母さんと話していた。いい加減、子離れしないといけないって」
「茜は親になるの。側にいるべきは信幸さん。三人で家族になるんだから。信幸さん、茜をお願いします」
 両親の言葉に、私まで目が潤んでしまう。そんなこと結婚する時に分かっていたのに。
 どうやら親離れ出来ていなかったのは、私の方だったみたい。

「はい」
 頭を下げる両親に、信くんまで頭を下げる。
 ちょっと、結婚の挨拶の時みたいなことまたしないでよ!

「世話、手伝ってよね! おじいちゃん、おばあちゃん!」
「勿論だ」
「その為にお酒の量を減らしたんだからね? おじいちゃん?」
「余計なことを言うな!」
「はいはい、お仕事の邪魔になるから帰りましょう」
 突っかかる父を宥めながら、母は父の手を引いて背を向けて歩いていく。

「お母さん、お父さん」
 私はどうしようもない不安から、そう声を漏らしてしまう。子供を産めば、私はもう両親の一番ではなくなってしまう。そんな思いが押し寄せてきた。
 そんな想いが通じたのか両親は足を止め、こちらに向かって来たかと思えば一言。

「茜が結婚しようと子供を産もうと、お父さんお母さんの子供。それは一生変わらないから」
 母は私の耳元でそう呟く。

「私が一番?」
 そんな子供みたいなこと、口にしてしまった。

「それは自然と分かるから、ほら頑張ってきなさい」
 顔を上げると母の目から涙が流れ、父は目を潤ませ微かに微笑んでいた。
 こんな顔するんだ。
 初めて見る緩んだ父の表情に、私はただ微笑み返した。


「いたい! いたい! もう無理! 信くん変わって!」
 その後に診察を受け分娩が進んでいると入院になった私は陣痛室に通され、五分毎になった陣痛の波に悶絶していた。

「近藤、息遣いも忘れたの? ほら、旦那さんを見習いなよ」
 様子を見に来た三島の声にイラッとしながら信くんを見ると、まさかの完璧な呼吸法を習得していた。

「うん。腰の押し方も完璧! 愛されてるねー」
「はあー! ちょっと待てー!」
「また様子を見に来ますー」
 こんな茶々を入れながら、ちゃっかり診察はしている。三島はプロの助産師だ。診察はしっかり行い、妊婦を和ませる。
 ……私はあいつに憧れていたんだから。

 この仕事を始めて、辛かったことなんて数えきれないぐらいにあった。
 流産、死産、生まれてすぐに消えていく命。懸命な治療を受けても救われなかったこともある。でもある意味一番辛かったのは、誰にも祝福されない命が存在しなかったように消されてしまうこと。その現実を目の当たりにし、私は助産師を諦めようとした。
 その時に励まされたのは父の「空が見ていてくれるから大丈夫」の言葉と、三島の「それにより生きていける人もいる」という別の角度から考えた答え。
 両親のように一つの命が失われたことに嘆き悲しむ人もいれば、また別の人も居る。両親に常に言われてきたことは、人それぞれ事情はある。だから自分の価値観だけで物事を推し量ってはいけないという言葉だった。
 だから私は助産師の仕事を続けると決めたんだ。

 痛がる私の腰を押し込み呼吸法までマスターした信くんの顔を見ると、汗を流し険しい表情をしている。
 ……これじゃあ、出会った時とあべこべじゃん。
 私は、この病院で彼と出会った日を思い起こしていた。


 あれは二十歳の看護学生だった頃。看護自習の為、系列病院この病院の整形外科で勉強しに来ていた時だった。建設会社で勤めていた男性が不注意から五メートルの現場から落下し、大怪我により運ばれてきたことだった。
 足から落ちた為複雑骨折していたが、その他は支障なく命に別状はなかった。しかし落ち方によっては死亡や後遺症が残ると、現場監督さんにすごく怒られていた。
 私は何故かこの人の担当になり足が動かせないからと身の回りの世話をするけど、すごく嫌がられた。女性だからじゃないと指導看護師さんは宥めてくれたけど、明らかに私にだけ何も話さずブスッとしている。
 腹立つー! 私が実習生で頼りないとか思ってるんでしょう! ……まあ、実際そうなんだろうけど、自信がなかった私はその現実により一層落ち込んでいった。
 もう少しで整形外科での自習が終わる頃、私の大嫌いな課題となった。
 採血。
 自分相手だと上手く出来るのに、人には何故か上手くいかない。多分失敗出来ないプレッシャーが大きいと思うんだけど、どうにも上手くいかない。
 案の定、その患者さん相手にも出来ず、私は謝り付き添いの看護師さんに頼んだ。しかし。

『俺、丈夫なだけが取り柄ですし、問題ないです』
 そう言い、成功するまでやれと言ってきた。
 この患者さんが口を開いたのは、この時だけ。あとは成功して喜んでハイタッチを求めても、何度も礼を告げても知らんフリ。よく分からん人だけど、嬉しかったから問題なし!
 こうして苦手だった採血を克服し、整形外科での自習は終わった。だけど私は、別の科での自習が始まったのに何故か病室をこっそり覗くようになった。
 リハビリが始まったと聞けば、夜勤実習を終えた後で眠いのに何かと理由をつけてその姿を眺める。……あれ、この人こんなにデカい人だったの? いつも寝ているか座っているかだったから、知らなかった。
 背が高くて、表情が乏しくて、寡黙。
 ん? 誰かに似ているな?
 そんなことを考えていると、松葉杖で歩く練習をしている彼と目が合った。
 その時の衝撃は今でも覚えている。
 あの人は父親にそっくりなんだ。これはマズイ。関わらない方が良い。
 胸の高鳴りを感じながら、私はただその場を立ち去った。

『俺、明日退院します』
 松葉杖を器用に使い歩けるようになった彼は、私を呼び止め声をかけてくれた。まあ声をかけてくれたと言うか、私がストーカーみたいなことを繰り返していたから、ただ話しかけてきたと言う方が正しいのかもしれないけど。

『……え? あ……』
 その言葉に私は黙り込んでしまった。仮にも看護師を志している者が退院おめでとうすら言わないなんて、相当ヤバい看護学生だろう。

『あなたのおかげでもう一度頑張ろうと思いました。ありがとうございました』
 皆目見当もつかないことを言い残し、その場を去っていく憎い背中。私はそれを追いかけてしまった。
 話を聞くと彼も仕事で悩んでいたけど、直向きに頑張る私に勇気付けられたとボソボソと話してくれた。話し方まで、父にそっくり。仕事熱心なところまで。
 どうして私が彼の担当になったのか、分かったような気がした。互いを高め合える相手、そう指導看護師さんが思ったのだろう。駆け出しで、不器用で、やる気だけはある私達を。
 そして話を聞いて分かったのは彼は滋賀県の人ではなく、転勤で来ているだけだった。彼が勤めている建築会社は各地方に赴き、そこが終われば新たな地に行く。長浜に居るのは後少しだと話していた。

『連絡先とか……、教えてもらえませ……?』
 最後の声は消えているも、意味は通じた。
 これはヤバい。断るべきだ。
 分かっていたのに私は教えた。彼はもう患者ではなくなるから。
 間もなく私の自習が終わり学校での勉強に戻るも気になるのは国家資格試験ではなく、彼からのメッセージ。あいつ何なの? 連絡先聞いといて、連絡の一つもよこさないなんて!
 ああー! だから連絡先なんて交換するべきじゃなかった! 気になって勉強に集中出来ないから!
 結局、待てど暮らせど連絡をして来ず、このままでは試験に落ちるわ! と私から連絡した。
 メッセージは単語で、会話したら一言。会えばムスッとした表情で寡黙。
 まるで父と会っていると錯覚を起こすほどそっくりな彼に、私はやめとけ、後悔するぞと何度も心のアラームを鳴らし続けた。

『転勤が決まった。北海道だ。……付いてきて……』
 また言葉の最後が消えていたけど、意味は分かる。滋賀県から飛行機でないと行けない距離で、気軽に会えなくなる。
 私はその時、二十五歳。夢の助産師になり、まだ駆け出しの頃。北海道に行けば、両親とも軽く会えなくなる。しかし、私は。

『仕方がないから、付いて行ってあげる』
 そう返事し、指輪をはめてもらう。
 この人と生きていく。そう決めた。


「いったーい! 痛いんだけど!」
「あらら。こりゃ、もう生まれるね。分娩室に一人ご案内ー」
 三島と信くんに肩を貸してもらい僅かな陣痛の感覚の間に、分娩台へと上がる。
 感覚は一分を切り、あまりの痛みに信くんの手を掴み、ギューと握り潰す勢いで握る。

「いたーい! 無理! 無理ー!」
 痛みはピークを迎え、腰が砕けるような痛みに叫んだ。こんな痛み、みんな耐えてるの? お母さんも耐えたの? 無理、無理、無理ー!

「ほら、赤ちゃんに会えるんだから頑張りなさい!」
「当たり前じゃん! こんなに痛いのに会えなかったら……」
 そう言葉にしようとしと、口を噤む。
 そうだ。当たり前じゃないんだ。

 母はこの苦しみを二度知っている。一度は私に会う為、もう一度は。
 会えたけど直ぐに別れなければならなかった、我が子。両親が別れの前日に兄と写った写真は、涙を堪え無理に微笑んでいた。その写真を見て、ただ胸が痛んだ。その苦しさが想像出来るからこそ余計に。

「……ねえ、信くん」
「水か?」
「私のこと好き?」
 それを口にした途端に、落ちるストロー付きペットボトル。
 口をモゴモゴさせ、黙り込んでしまった。

 だって私は痛みで泣いているのに、やはり信くんは何も言ってくれない。代わるのは無理でも「頑張ってくれ」とか、「愛してる」とかないの? って言うか、私一度も好きとか結婚してくれとか言われたことないんだけど!

 ……私は母に似ているとよく言われる。見た目も中身も。好きな異性のタイプも。
 だからこそ口下手な相手の気持ちが分からなくて、不信感から勝手に怒って、勘違いだと気付いて謝る。
 だけどさ、こっちも悪いけど話さない方だって悪いんだからね?
 まあ、その性格知って結婚したこっちも悪いんだけど……。

 寡黙な父を理解して接していた母の姿に、絶対私には無理だとこのタイプとは結婚しないと決めていた子供時代からの誓い。
 しかし大人になった私は、いつの間にか父みたいな人と出会ってしまっていた。どれだけこの人はダメだと抗っても、好きになったものは仕方がない。
 信くんが結婚の挨拶に来たら父は黙り込み、母は良い人じゃないと上機嫌。
 ……血は争えないと言う事なのだろうか?

 まあ、そんな人を選んだからこの状況。
 こんな時にこんな大事なことを聞いても、目を泳がせ何も言葉になんかしてくれない。
 父もそうだったのだろうか?

「……俺は女性が苦手だ」
「は?」
 質問の解答など明確には期待していなかったけど、女性が苦手? じゃあ、何で結婚したんじゃあー!
 押し寄せる激痛に言葉は出ないけど、手を握り締め怒りを盛大にぶつける。

「だから、避けていた」
 こちらに目をやらず、ボソッと呟く。
 それって出会った時の話? いやいやいや、他の看護師さんとは話していたじゃないー!

「茜はどう関わって良いか、分からなかった。つまり、そうゆうことだから」
 背けていた顔をこちらにやった信くんの頬は、やたら赤い。これって私が手を握り潰す勢いで握っているから? それとも?

「分かんないんだけど」
 普段ならこれ以上言わないことに、今日は突っかかる。だってこのドタバタな今じゃないと聞けないような気がするから。

「俺は適当に連絡先聞かないし、付いて来て欲しいとか言わない。そうゆうことだから」
 真っ直ぐに見つめる瞳が逸らされることはなかった。

 私のこと好き?
 その返答はなかった。だけど。
 彼は、私の手を強く握ってくれている。そしてどれほど強く握っても絶対離さない。
 言葉より行動で示してくれる人。採血失敗しまくっても、腕を引っ込ませることなく差し出し続けてくれた。妊娠を知ったら妊娠と出産、名付けの本まで買って来た。背中の押し方が上手いのも呼吸法が完璧なのも、本を読んで覚えて来たから。これがこの人の優しさなのだ。
 ……だから好きになった……。


 子供の頃、母はなぜ父と結婚したのか不思議だったけどこうゆう事だとようやく知った。
 私は知らないけど、きっと父も行動で母を大切にしてきた人なのだろう。

 そんな父は無愛想だけど、いつも母の側に居る。話をする訳でもないのに同じ空間に居ようとする。
 少しでも母の所在が分からないと私に母の居場所を聞いて来て、「知らない」と返すと近所を探し始める。当時は、祖父が不慮の事故で亡くなっていたことを知らなかったから、子供じゃないのにと呆れ顔で眺めていた。携帯なんて持ち始めるとすぐに電話をし、どこに居るか? 何時に帰ってくるのか? と聞いている姿も何度も見た。
 表向きには「飯を作る都合があるから、何時に帰ってくるか教えろ!」とかなんとか言っていたけど、本当は母が居ないと淋しくて嫌なのだと私は知っている。

 そして、それはこの人も一緒。
 連絡もなく帰りが遅いと、朝起きた時に私が居ないと、不安で仕方がないらしく鬼電をかましてくる。
 いやいやいや。私、病院勤めだよ? 帰れないことも、深夜の緊急呼び出しもあるって。
 そう思っていたけど、この人も不安を抱えている人なんだ。結婚の時、家族のこと一度も話してくれなかったから。
 両親に、人には事情があるから話したくないことは聞くなと言われていたからそれ以上は追求しなかったんだけど。

「私はどこにも行かないよ?」
「……え?」
「信くん一人にしたら、お茶漬けしか食べないから」
 私の言葉に、苦笑いを浮かべる信くん。
 あなたを一人にすることなんて出来ない。母も、きっとそんな思いだったのだろう。

 そんな大切な話をしている時でも、陣痛の波は激しく私を襲う。

「いたーい! いたい! いたい! いたいー!」
「頭出てきた! もう少しだから!」
 母はこんな痛みに耐えながら、私と亡くなった兄を産んだのか……。すごい、すごいよ。私なら耐えられない……。

 気付けば夜は明けていて、空は東雲色に染まる頃。その時はとうとうきた。

「ほぎゃ、ほぎゃ、ほぎゃ」
 分娩室に響く、大きな泣き声。
 その瞬間、今まで痛み苦しみ全てが報われた。
 無事に出産を終えて懐かしの先生に処置してもらっていると、震える手。何かとそっちに目をやると信くんはボロボロと泣いていて、そんな姿を初めて見た私はただ彼の頭をゴシゴシと撫でた。
 処置が終わり泣きすぎと笑っていると、三島が「おめでとうございます」と凛とした表情で連れて来てくれたのは、小さな小さな命。

 やっぱり男の子だった。性別は生まれた時のお楽しみにしたかったのに、エコー見たら分かっちゃうんだよね。
 まあ、信くんにはサプライズ出来たから良かったんだけど。
 胸に抱いたその子は、なんだかみんなに似ているように見えた。信くん、お父さん、お母さん、そしてお兄ちゃんに……。

「……ありがとう」
 信くんは私の手を握り、珍しく自分から話しかけてくれた。

「こっちこそ。あなたのおかげで、この子に出会えた。ありがとう」
 ガラにもなくそう返した私は、彼にこの子を抱いて欲しいとそっと託す。
 我が子を受け取った彼の手はぎこちないも、宝物を包むように抱きしめて、そして笑った。

 こんな顔するんだ。穏やかで、優しくて、温かい。そんな表情を。
 すごいな、小さな命は。

 窓から見える朝日は、たった今誕生したこの子を祝福してくれているようにただ美しく輝いている。
 お父さん、お母さん、お兄ちゃん。私は命を繋ぐ事が出来ました。
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