明治クエスト1871 ―異邦の絆―

地熱スープ

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サンフランシスコの罠

偽りの歓迎

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霧に包まれたサンフランシスコ港の桟橋は、朝の冷気と異国の熱気が入り混じり、ざわめきが波のように広がっていた。


潮の匂いに混じって、石炭と異国の香辛料の刺激的な香りが鼻を刺す。
霧の湿り気が肌を刺し、足元の板がきしむ音が微かに響く。
遠くからは汽笛の甲高い音や、港湾労働者たちの怒鳴り声、各国使節の話し声が、重い霧のヴェールに吸い込まれていく。
まるで、この港自体が何かを隠しているかのようだった。

***

壇上にはカリフォルニア州知事が立ち、金色の刺繍が施された制服の肩章がかすかに朝日に輝いている。
彼は笑みを浮かべながらも、目元は獲物を見定めるように細められ、時折、使節団の面々を鋭く見やる。


「日米友好」と高らかに謳うその声は、どこか芝居じみて響き、手振りも大げさだった。
だが、使節団の面々は、その言葉の裏に潜む思惑を敏感に感じ取っていた。

新太郎は公式通訳として知事の隣に立つ。
身長170cmほどの細身の体に、緊張が走っているのが傍目にも分かる。
指先はわずかに震え、通訳用のノートを握る手に汗が滲む。


新太郎は慎重に言葉を選び、知事の演説を日本語に訳していく。
その声は落ち着いているが、訳し終えるたびに胸の奥で心臓が早鐘のように鳴っていた。
呼吸は浅く、視線が一瞬だけ足元に落ちる。

(学問こそが毒を中和する――福沢先生はそう仰った。だが、この偽りの言葉の毒を、僕に中和できるのか…?)

やがて、壇上の係官が厳かに銀盆を差し出し、新太郎の手に条約批准書が渡された。
重厚な羊皮紙はひんやりと冷たく、手にずっしりとした重みが伝わる。
赤い蠟封は硬く、中央には「江戸城御用達」の桐紋――幕府の印章がくっきりと刻まれていた。
新太郎は思わず息を呑み、声を押し殺す。

「これは……幕府の……」


手のひらがじっとりと汗ばみ、指先がわずかに震える。すぐ隣に控える影照にそっと目配せする。

(なぜ、この異国の地で、幕府の印が……?父が守ろうとした『日本の誇り』が、こんな形で弄ばれているのか?)

胸の奥で、怒りと無力感がせめぎ合う。

影照は新太郎の動揺を即座に察知した。
彼は袖の下で普段から持ち歩く試験管を握りしめる。中には薬品の微妙な変化を捉えるための、彼自身が調合した特殊な試薬が入っている。

羊皮紙に押されたインクの匂いをそっと嗅ぎ取り、眉をひそめる。

「このインク、何か妙だ……まるで、死の匂いだ」と小声で呟く。


薬品の冷たさが指先に伝わり、影照の碧眼が鋭く光る。


(技術は人のためにある。だが、この技術は一体、何を企んでいる?)


彼の胸にも、得体の知れぬ不安と警戒が静かに広がっていった。

***

一方、つばきは外交官夫人たちが集う一角にいた。
シャンデリアの光がドレスの刺繍を照らし、香水と紅茶の香りが空気に漂う。
つばきは控えめな微笑みを浮かべつつも、周囲の視線や会話の端々に緊張を感じ取っていた。
絨毯の柔らかな感触が足元に伝わり、カップの小さな音が遠く響く。

そこへ、黒いヴェールをまとった謎めいた女性――お千代――が静かにすれ違う。
お千代の歩みは音もなく、まるで霧の中に溶け込むようだった。


すれ違う瞬間、微かな香が漂い、その切れ長の瞳が一瞬、つばきと交錯した。
視線の強さに、つばきの心臓が一拍跳ねる。

その瞬間、つばきの足元に扇子が落ちる。
拾い上げて内側を見ると、「批准書のインクは痘瘡膿」と墨書きされていた。

つばきの指先が凍りつき、手のひらにじっとりと汗が滲む。
周囲のざわめきが遠のき、耳鳴りのような静寂が広がる。

彼女は慌てて鞄から医学書を取り出し、ページを素早く繰った。
指先が震え、呼吸が浅くなる。


(痘瘡膿……まさか、天然痘?そんなことが……!)


(女性でも世界を広げ、社会に貢献できると信じてきたのに。この医学の知識が、こんな恐ろしい真実を暴くために使われるなんて……)

桟橋の空気は、霧とともに一層重苦しくなっていった。
湿った霧が肌や衣服にまとわりつき、冷たい空気が頬を刺す。
使節団の誰もが、平和の名の下に仕組まれた陰謀の気配を、五感で感じ取っていた。

***

義経は桟橋の端に立ち、霧の向こうでざわめく群衆を鋭い目で見渡していた。
背筋はぴんと伸び、手は無意識のうちに腰の刀の柄に添えられている。
刀の冷たさが手のひらに伝わり、指先にわずかな汗がにじむ。

演説の最中も、誰かが小さく咳き込む音や、靴音の乱れに即座に反応し、視線を素早く走らせた。


「……あの帽子の男、さっきから同じ場所を動かないな」


義経の心は静かに波立っていた。


新太郎やつばきの表情に張り詰めた緊張を見て取り、何か異変があればすぐに駆けつける覚悟を固める。
深呼吸を一つ、胸の奥で静かに息を整える。

彼の耳には、遠くの汽笛や、港湾労働者の怒号、そして時折混じる英語の罵声が重なって聞こえてくる。


(この平和の裏に、別の「いくさ」の気配がする。武士の本懐は、己の義を貫き、守るべき者を守ること……)

***

その頃、港のざわめきを切り裂くように、現地新聞『デイリー・アルタ』の号外が宙を舞い、人々が奪い合うように手にしていた。
新聞紙のざらつきが指先に残り、「黄禍再来!」という血のように赤い大きな見出しが一面を覆う。


その下には天然痘患者の悲惨な写真がぼかして掲載され、群衆は押し合いながら紙面に見入っている。

港のあちこちで、新聞を手にした現地人たちが日本使節団を遠巻きに眺め、「黄色い疫病」「東洋の罠」といったひそひそ声が潮風に乗って聞こえてきた。


歓迎の言葉を口にしながらも、その視線は冷たく、まるで得体の知れない病原菌を見るかのような警戒心が露骨に滲んでいた。

つばきや新太郎の胸には、その言葉が耳鳴りのように残り、肌に刺さるような圧迫感が広がる。

***

影照は批准書のインクに異常な匂いを嗅ぎ取り、つばきと共にホテルへ戻ると、すぐに自作の簡易顕微鏡を取り出した。
レンズを覗き込む指先がわずかに震え、息を詰めて焦点を合わせる。


(もし我々が無症状の媒介者となるなら、日本の未来が危うくなる――)


レンズ越しの世界に、彼の不安と責任感が重くのしかかる。

新太郎はホテルの一室で条約文書を慎重に広げ、内容を再確認していた。
羊皮紙の感触を確かめるように指先を滑らせ、「江戸城御用達」の桐紋が刻まれた赤い蠟封を何度も見つめる。

ページをめくる音が静寂に響き、胸には「時代に流されず、己の信念を貫け」という父の言葉が木霊していた。


「この文言……どこか引っかかる。表向きの友好の裏に、何か罠が仕掛けられている気がする……」


新太郎は自身の「真実の翻訳」という役割と、日本の未来を左右する責任に思いを巡らせ、深く息を吐いた。

彼の「理想主義と現実主義」の葛藤が、この条約の文言を前にして一層強くなっていた。

***

夜、義経はグランドホテルの廊下を静かに巡回していた。
絨毯に吸い込まれる足音、ガス灯の淡い明かり、どこか遠くで軋む扉の音――
彼の五感は極限まで研ぎ澄まされていた。


時折、廊下の奥からほのかな香水や煙草の残り香が漂い、窓ガラス越しには霧の冷たさが肌に伝わる。

義経は耳を澄ませて一瞬立ち止まり、港から届く不穏なざわめきや、遠吠えのような汽笛の音を聞き取る。


(この『文明開化』の輝きが、新たな闇を引き寄せているのかもしれない……)


窓の外に広がる深く重い霧を見つめ、腰の愛刀にそっと手を添える。
刀の柄の冷たさが手のひらに伝わり、背筋が自然と伸びる。


「今夜は何も起きなければいいが……」


義経は使節団の無事を祈るように小さく息を吐いた。
彼の「武士の本懐は、己の義を貫き、守るべき者を守ること」という信念が、静かに彼の背中を支えていた。

***

四人はそれぞれの専門性と立場を活かし、サンフランシスコの霧の中に潜む陰謀の気配を、静かに、しかし確実に追い始めていた。


ホテルの窓には霧の水滴が滲み、夜の静けさの中で「学問の炎」が、真実という名の毒を中和せんと、より一層激しく燃え上がろうとしていた。
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