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第4幕 収監令嬢は狼と仲良くなりたい

第7話 こんばんは、ハティ

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 ハティはその日の夜に現れた。
 スコルに何か言われたのか、森の奥から眺めているのではなく小川を越えて庭まで歩いてきた。
 とは言っても、ゆっくりと、探り探りという感じだけど。

「大丈夫だよ。今日は、アイーダ女史がいないから」

 バルコニーから身を乗り出すようにして声をかける。
 私は勝手に外に出ることは禁じられている。特に夜は、魔精力が強くなるとかで庭にも降りられない。
 まぁ前にハティが来た時に降りちゃったように、ちょっとぐらいならバレないとは思うんだけどね。だけど女史も意地悪でそう言ってる訳じゃなくて、私のことを心配してるんだろうし。

 女史の心配というのは、魔物だけじゃなくて人間も含まれている。何しろ、私がいない方がいいっていう人間は、かなりいるそうだから。
 ふらふら出歩いてあっさり暗殺、なんてことになったらたまらない。

 つくづく、マリアンセイユの置かれてる立場って微妙なんだな、と思う。大公世子ディオンの婚約者だっていうのに。
 私はいつになったらこの軟禁状態から抜け出せるんだろう……。

「こんばんは、ハティ」

 上がってきて、と手招きすると、ハティがひらりとバルコニーに飛び乗ってきた。
 家の中の明かりと月明りに照らされて、ハティの灰色の毛並みが銀色に光って見える。葉っぱの色を映したような碧の瞳は、夜の方がより鮮やかだ。
 こうしてみると、ヘレンが言うように『フォンティーヌの森の護り神』のようにも見える。

「昼間、スコルに会ったの。聞いた?」
『ウン』
「ハティが来るかと思って、ヘレンにお菓子を焼いてもらったんだ」

 しゃがみ込んで視線を合わせ、食べる?と聞く。ハティはコクリと頷いた。
 マフィンの紙を剥き目の前に置いてあげると、スコルと同じくフンフンと匂いを嗅いだあと、パクリと一口で食べた。

「美味しい?」
『ウン』
「良かった。……でも、こっちではスコルに会えないのって、何か淋しいね」

 クッキーを差し出す。今度は私の手から「はぐ」と咥え、ムシャムシャと食べている。

『……フカンゼン』
「不完全?」
『ウン』

 用意しておいたスープ皿に水を入れ、床に置く。ハティは少し様子を窺ったあと、ピチャピチャと水を舐め始めた。
 その間も、何だか迷っているような思念が伝わってくる。

「ハティ、言葉にしなくても解るから。考えてることをそのまま伝えてくれればいいのよ」

 水を飲むハティの頭を撫でながらそう言うと、ハティはちょっと顔を上げて『ウン』と頷いた。
 そしてふいっと森の奥を振り返り、再び私の顔を見つめる。

“スクとハト、フォンティーヌ、森の端っこ、生まれた”
「そうなんだ」
“お父さん、知らない。お母さん、死んだ”
「……」

 お父さんが誰かを知らないっていう意味かな?
 違うわね、スコルに『フェルワンドのことは聞いた』って言ったら否定してなかったし。
 フェルワンドがハティたちが生まれたことを知らない、という意味よね、きっと。
 お母さんは狼なのかな。それとも魔物になった狼か。まぁいずれにしても、かなり特殊な事例よね……。

“スクとハト、狼、でも、魔物、でもなくて”
「魔獣でしょ?」
“ううん”

 意外なことに、ハティはぷるぷると首を横に振った。
 狼でも魔物でも魔獣でもない? どういうこと?

“ルヴィ、見つけて、名前、くれた”
「ルヴィ……」

 そう言えばスコルが言ってたわね。おっぱいだけはルヴィに勝ってる、とか何とか。
 オルヴィア様のことかと思ってたけど、スコルはオルヴィア様とは会ってないって言ってた。
 それに、スコルもハティも随分『ルヴィ』に懐いているように見える。いくら力のある創精魔導士とはいえ、平民出身のオルヴィア様が魔物や魔獣を従わせられるとは思えないな。
 そんなことができるのは、聖女の血を引いた人間しか……。
 ということは――まさか、聖女シュルヴィアフェス?

“スク、元気。ハト、死にそう”
「えっ」
“ルヴィ、スクとハトの力、分けた。助かった”
「……」
“ルヴィ、いないと、不完全”

 うーん、さすがに片言過ぎて話がわからない……。
 とにかく、ちょっと整理してみよう。

 スコルとハティは兄弟で、母親はすぐに死んでしまった。そして父親……恐らくフェルワンドだと思うけど、父の魔獣は二人の存在は知らなかった。
 生まれた時に障害でもあったのか、ハティはそのまま死んでしまうところだった。だけど聖女が見つけ、スコルの力をハティに分け与えることで命を救った。

 この世界での『魔獣』は、本能的に人を襲う『魔物』から進化した、自ら思考し人語を操る『魔王の配下』。
 だけど二匹は『自ら思考し人語を操る』ものの、魔王に認められた訳ではない。
 だから『魔獣』ではない、って言ったのかな?

 あれ? そうすると、人を襲う『魔物』とは別に、思考し人語を解するが魔王の配下ではない『魔物』がいる、ということになる。魔王の配下である『魔獣』ではないけれど、ほぼ同格の存在が。
 そういう生き物は何て呼べばいいんだろう? しかもそんな生き物が存在するってこの世界の人間は知らないんじゃ。ひょっとして、かなりディープなところに首つっこんじゃった?

 あー、駄目だ、頭がパンクする!
 ちょっとセルフィス、やっぱりこの子達に色々聞きたいんだけど! 駄目なの!?

「うーん、難しいわね。何しろ私、魔獣についての知識が殆ど無いから」
“……”
「アイーダ女史に禁止されてるのよね」
“ひっつめおばちゃん?”
「ぶっ!」

 あどけないハティの言葉に思わず吹き出す。
 確かに、アイーダ女史は白髪交じりの黒髪を後ろにひっつめて丸い団子状にしている。
 まぁ『ひっつめおばちゃん』で間違いではないけど、まさかハティがそう呼んでいたとは。

「えーと、アイーダ女史は魔精医師で、ずっと私についててくれた人でね」
“ウン”
「あ、見てたから知ってるか。それとお菓子を焼いてくれたのがメイドのヘレンね」
“へれん”
「そうそう。この二人がね、私の唯一の味方なの」

 ハティも、スコルと同じようにずっと見守っていたのだろう。
 知ってるよ、という風に頷いている。

 ふと、不敵な笑みを浮かべるセルフィスの顔が脳裏をよぎった。
 味方と言えば、彼もそうか。でも……今は大公の間諜だもんね。味方かどうかは分からない。
 ううん、多分味方でいてくれてるはず、とは思うけど……それだけじゃなくて、どう説明したらいいか分からないし。
 それに、セルフィスの存在はアイーダ女史やヘレンは知らない。二人の前でスコルやハティがセルフィスの話をしても困るしね。今はやめておこう。

「で、話を戻すね。だから魔界や魔獣についてちゃんと知りたいとは思ってるんだけど、今はまだ触れてはいけないみたいなのよね。だから、ハティ達のことあんまり解ってあげられなくて、ごめんね」
“……知らなくて、いい”
「そうなの?」
“ウン”

 いつの間にか、ハティの目の前に並べておいたお菓子がすべて無くなっていた。
 水も綺麗に飲み干し、ペロペロと口の周りを舐めている。

“マユ、危ない”
「……それ、スコルにも言われた」

 だから、どう気をつければいいのか誰か教えてよ……。
 思わず深い溜息をつくと、ハティが近づいてきて私の胸元にスリスリと顔を擦り寄せてきた。

“もわーん、ってする”
「あ、うん。そうみたいね」

 こういう風に素直に甘えられると、頭を撫でたくなるわね。
 両腕でハティの頭を包み、よしよしと首を後ろを撫でる。ハティは「くふぅ」と満足げな吐息を漏らすと、コクンと頷いた。

“決めた”
「え?」
“ハト、マユ、護りたい”

 私の腕の中で、ハティがぷるぷると首を横に振った。その途端、左耳の銀の輪っかが一つはずれ、宙に舞い上がる。三連リングが二連リングに。
 あ、と思わず手を伸ばすと、その銀の輪っかが私の右手の小指にするりと填まった。ぶかぶかだった輪がキュウウと狭まり、私の小指の付け根にピタリと収まる。

【聖女シュルヴィアフェスが命じる。左の聖獣≪ハト=ウァー=ド=リングス≫よ、われと共に】

 誓約の文言が、指輪から私の小指を伝って右腕を駆け上がり、胸の中に。中央でパーンと弾け、凛とした女性の声が響き渡った。
 その声が私の魔精力と溶け合い、混ざり合って一気に心臓から全身に行き渡る。カッと体の中心から炎が燃え広がったような感覚。

「聖獣……火の、ハト=ウァー=ド=リングス?」
『ウン!』

 ハティは元気よく頷くと、碧色の瞳をキラキラさせながら顔を近づけ、ペロリと私の左頬を舐めた。
 よしよしと頭を撫でる。右手の小指の銀の指輪が、月明かりの中できらりと光るのが見えた。

「あの声……」
『ルヴィ、召喚、呪文』 

 なるほど。聖女がスコルとハティに名前を付けたときのものなのね。『ハト=ウァー=ド=リングス』が、ハティの本名か。
 ……それにしても言いにくいわね。ちゃんと呼べるかな?

『でも、ハティ、いい』
「え?」
『マユ、つけた、名前』
「あ、うん……」

 心なしか、ハティが物凄く元気になった気がする。それまで感じられなかった魔精力が身体全身に漲って、活力が感じられるというか。

『名前、魔獣、縛る。マユ、縛られた』
「えーと……」
『ハト、ハティ、気に入った、から』

 そう言うと、ハティは私の腕の中から抜け出した。その場でピョンピョンと何度もジャンプする。

『呼んで。マユ、呼んでね』
「あ、うん」
『昼、会える。ちょっとだけ』
「そうなんだ」

 天に輝く月が無い限り、ハティは自ら人間界に来ることはできない。だけど私が召喚した場合はその限りではない。
 聖女の呪文に縛られることで制限つきながら自由に動けるようになる、ということなのね。

「そうか。これでスコルと会えるね、こっちで」

 だからこんなに喜んでるのかな。
 何だか私まで嬉しくなって笑いかけると、ハティは『ウン!』と元気に叫んで、そのままぴゅううーっと森の奥に消えていった。
 独り取り残された私の周りに、生ぬるい風が吹き抜ける。

 また「バイバイ」も言わずに行っちゃったわね……。
 ハティには挨拶から教えた方がいいかしら、と思いながら立ち上がり、夜着の裾をポンポンとはたく。
 ハティとの契約の証、銀の指輪がどこか温かく私を包んでいた。

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