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間話4

アイーダ女史の散歩

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 マユとヘレンとスコルが珍妙なお茶会をしていた頃。

 執事長に公爵への報告を伝え、女中頭と今後の打ち合わせをするためにロワネスクのフォンティーヌ公爵邸に赴いたアイーダ女史。
 それらの用事をさっさと終わらせると、女史は石畳が波紋のように広がる美しい灰色の道を一人で歩いていた。

 本当ならば、このまま同じロワネスクにあるガンディス子爵邸に赴き、ザイラ夫人と面会するはずだった。しかし約束の時間まで余裕があったので、少し街を散歩することにしたのだ。

 リンドブロム城の石橋から真っすぐに城下外まで続く大通り。上流貴族の邸宅が建ち並ぶこのエリアは、殆ど人通りが無い。

 ロワーネの谷を守るようにそびえ立つ、リンドブロム城。その前には広大な湖が広がり、中央には石造りの橋が架かっている。橋の先は、緑の中にもおびただしい数の建物と綺麗に舗装された道路が網目のように広がる城下町に繋がっている。
 この街が、リンドブロム大公国の中心であるロワネスクである。

(やはり、マユ様にはそろそろ専門の魔法教育が必要なのでは……)

 そんなことを考えながら、アイーダ女史は公爵邸を出て大通りを北に向かい、城に繋がる石橋の前まで来た。
 正面のリンドブロム城、そして右手の聖女騎士団エリア、左手の学園エリアをぐるりと眺める。

 湖のそば、橋より東はリンドブロム聖女騎士団が管轄するエリア。各隊の上役が詰める会議場や兵士の宿泊所、訓練所などさまざまな施設が建ち並んでいる。
 各国の監視を目的として設立されたリンドブロム聖女騎士団。しかし当然大公国を守るという役目もあり、石橋前の検問をパスしなければリンドブロム城へと渡ることはできない。

 橋より西は、騎士学校と魔導士学院、および学生寮。
 橋より近い方から騎士学校、学生寮、魔導士学院と並んでいる。下流貴族と平民が入学可能な全寮制の学校。
 騎士学校は男子のみで貴族と平民で別棟となっており、カリキュラムも全く違う。各部隊長になるべき貴族と兵士となるべき平民では、必要なスキルが全く異なるのだ。

 しかし魔導士学院で重視されるのはその魔精力。共学で能力別となっているため、下流貴族と平民が入り混じっている。
 一つ一つの施設がかなり大きいため、自然と接する必要のある魔導士学院は森と湖に囲まれたかなり奥地にあり、大通りからはあまり見えない。

 下流貴族の血筋であるアイーダ女史は、この魔導士学院の出身だった。卒業後はそのまま学院に残り、魔精力と人体、医療の研究を続けた。研究に没頭するあまり婚期を逃し、独身であった。
 やがて魔導士学院の講師兼専属医師となったアイーダ女史は、その選抜試験で平民出身の逸材、オルヴィアと出会う。

 彼女の類い稀なる才能に目をつけた女史は、特待生扱いで彼女を魔導士学院に入学させた。すでに両親を亡くし天涯孤独だったオルヴィアを後見し、実の娘のように面倒をみた。
 卒業後、オルヴィアは聖女騎士団のフォンティーヌ魔導士部隊に入隊、一気にその才能を開花させてゆく。

 オルヴィアがエリック・フォンティーヌ公爵に見初められて求愛された頃、アイーダ女史もまた己の身の振り方を考えていた時期だった。

 上流貴族は、学校へは通わない。すべて自宅に家庭教師を招き入れて様々なことを学んでゆく。
 後に聖女騎士団の部隊長となる男子は剣術の修行のため聖女騎士団の訓練場に赴くこともあるが、大概は騎士団から剣の師匠を招き入れ、教えを請う形だった。

 女子の場合は、生まれつき魔導士の才能がある場合も専門教育を受けることはなく、ましてや外へ出て教えを請うなどあり得ないことだった。
 どんなに優れた才能があろうともその血を子孫に残すことが重要視されるため、より良い縁談に恵まれるよう、貴族令嬢としての嗜みを身につける方を優先する。

 聖女の血筋が聖女の魔法陣を起動することができる、と解ってからは、貴族の婚姻は厳重なものとなった。
 婚姻の成立には大公の承認が必ず必要、血の拡散を防ぐため各家は二人までしか子を儲けてはならない、など様々な決まりがあった。
 また、爵位の引継ぎは長子男性優先だが、女子しか生まれなかった場合は女性が爵位を継ぐ場合もあった。優先されるのはあくまで血筋だった。

 そして爵位を継ぐ貴族は平民を迎え入れることもできるが、貴族から平民に嫁ぐことはできない。聖女の血を平民にばら撒く訳にはいかないからだ。
 必然的に、貴族女性の独身率は上がっていた。どんなに能力があろうとも、嫁ぐことができるのは貴族の家のみである。適齢の男性がいなければどうにもならない。

 アイーダ女史も、そんな一人だった。しかし彼女の場合は魔精医師になるという夢があったため、自分の身を悲観することもなくむしろ精力的にこれまでやってきたのだが。
 四十をとうに過ぎ、魔導士学院の講師兼医師を続けることに体力の限界を感じていた。それならば、これまでの実績と経験から上流貴族の家庭教師として雇ってもらうのはどうか、と考えていたのだ。
 そんな時期に、オルヴィアから相談された。

「先生、どうしよう。フォンティーヌ公爵のことは好きだけど、私なんかが公爵家なんて……」

 自分の出自と公爵への想いに悩み、涙ぐむオルヴィアを見て、アイーダ女史は決意した。
 悩むオルヴィアを支えよう。自分の知識を、残りの人生を、娘のように可愛がっていたオルヴィアのために使おう。
 そしてアイーダ女史は魔導士学院を退官、オルヴィアと共に公爵家に入ったのだった。

(不思議ね、オルヴィア。マリアンセイユ様より、記憶を無くした今のマユ様の方があなたに似ているとは)

 オルヴィアの若き頃と無邪気に笑うマユの顔を見比べ、ふっと微笑む。
 しかしすぐに、その表情は厳しいものになった。アイーダ女史は真剣に悩んでいたのだ。

「この子は、すごいの……感じるの。解るの。先生、お願い。どうか、この子を……魔導士に……」

 意識が朦朧としながらも呟いた、オルヴィアの言葉。
 魔導士として、オルヴィアはマリアンセイユの力を見抜いていた。とんでもない能力の持ち主だ、と。
 それは、オルヴィアの体力と精神力を削り――死に至らしめるほど。

 上流貴族の令嬢が魔導士の専門教育を受ける必要など一つもない。ましてやマリアンセイユは大公世子ディオンの婚約者だ。むしろ、いずれ大公宮に入るための教育をしなければならない。
 上流貴族は魔導士学院には通えない。ならば魔導士の専門講師を寄越してくれ、と言ったところで公爵が許してくれるとは思えなかった。

 アイーダ女史がマユに教えられることも、もう殆ど無くなった。マユは四属性を完璧に、しかも呪文詠唱、魔法陣共に扱えるようになった。
 しかし異なる属性を同時には発動できないという壁にぶつかっている。有り余るほどの魔精力を蓄えながら、発揮できないでいる。
 これまで数多の魔導士を育ててきた一流の講師と引き合わせれば、その理由も解決策も見つかるはずだった。
 
(しかし……おや?)

 ふと顔を上げた女史の目に、建設途中らしき石造りの建物が映った。
 魔導士学院のさらに奥。樹が邪魔をしてよく見えないが、大きな石がいくつも運ばれ、高く積み上げられている。大工が屋根に上がり何やら作業しているところを見ると、もう完成間近のようだ。
 半年ほど前にロワネスクに来た時は気づかなかった。不思議に思った女史は、じっと目を凝らした。

 魔導士学院は殊更に古の言い伝えを大事にしている。現在の校舎は二代目リンドブロム大公の時代に造られたもので、修繕を重ねてここまでずっと使われてきた場所。
 数多くの優秀な魔導士を生み出した学び舎。いろいろな人間の魔精力を吸い込んだ建物だけに、ただの歴史的建造物という意味だけではない、はるかに重要な価値があった。新しく建て替える必要などあろうはずもない。

 そのとき、大通りの城下町側から、けたたましい蹄の音が聞こえてきた。ハッとして振り返ったアイーダ女史は、さっと石橋から離れ、端に避けた。邪魔にならないよう、大通りを南へと下っていく。
 その横を、赤茶色の馬車が走り抜けていった。馬車の紋章は、六角形の盾に十字架が組み合わさったもの。

(あれは、レグナンド男爵の……)

 ふと足を止め、後ろを振り返る。石橋の前に詰めている兵士と馬車から降りてきた御者が何事か話していた。事前に許可は取ってあったのだろう、その馬車はその後すんなりと石橋を渡っていった。
 行き先は、奥に見える白い荘厳な城、リンドブロム城。

 アイーダ女史が気になったのは、一瞬だけ見えた少女。
 明るい栗色の髪に似合わない、やせこけた頬、尖った顎。つくりは美しかったものの、おおよそ貴族令嬢とは思えぬその風貌。

(レグナンド男爵には、確か跡継ぎの男子一人しかいなかったはず……)

 考え込みそうになったそのとき、城下町の鐘が鳴った。ザイラとの約束の時間が迫っている。
 アイーダ女史は前を向くと、再び大通りを南へと向かって歩き始めた。

 下流貴族である男爵が上流貴族のお供ではなく単独でリンドブロム大公との面会を許可されるというのは、かなり珍しい。
 魔導士学院の奥に作られている新しい建造物といい、これは国に関わる重要な何かが起こっている。

 そう考えたアイーダ女史の足は、ひとりでに速くなっていた。
 ロワネスクの貴族社会についてなら、ガンディス子爵夫人、未来の公爵夫人であるザイラが知らないはずがない。

(今日は事業計画について話をするつもりだったけれど……ザイラ様がわたくしを呼んだのも、その『重要な何か』のせいかもしれない)

 アイーダ女史はグッと腹に力を入れ気を引き締めた。歩調が自然と早く、力強いものになる。
 道端にいた野生の小鳥が、何事かを察したように慌ただしく飛び立っていった。


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