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間話12

パルシアンのその後

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 マリアンセイユ様が魔界に向かわれてから、一週間が経ちました。
 わたくしとヘレンは、ガンディス子爵……いえ、正式にフォンティーヌ公爵となられたマリアンセイユ様の兄上から頼まれ、パルシアンの管理を任されることになりました。

 マリアンセイユ様が五年ほどお過ごしになった黒い家リーベン・ヴィラと旧フォンティーヌ邸の管理、維持、および牧場の管理でございます。
 きっと、周りの者からは「マリアンセイユ様がいなくなって用済みになった」と思われるかもしれませんが、この地は聖女シュルヴィアフェス、そして聖女マリアンセイユが降り立った地として後世まで長く伝えるべき場所でございます。
 むしろ光栄なこと、と考えなければならないでしょう。


   * * *


 朝に日記を書くことにしているアイーダ女史は、今日のページにそう記し、パタンと革表紙を閉じた。
 身支度を整え、いつものダークブルーの衣装を着てビシッと背筋を伸ばし、トントントンと階段を降りていく。

 一階のリビングでは、ヘレンがソファに座り針仕事をしていた。アイーダ女史に気づくと
「おはようございます、アイーダ女史。お茶をお持ちしますね」
と言って布を横に置き、さっと立ち上がる。

 アイーダ女史とヘレンが再び住むことになった、黒い家リーベン・ヴィラのすぐ傍にある小さな一軒家。
 昨日の夕方にこの家にやってきた二人は、昨晩はそれぞれ涙を堪えながら夜を過ごした。
 マユと一緒にいた頃に住んでいたこの場所に戻ると、どうしてもいろいろな思い出が脳裏をよぎってしまう。

「アイーダ女史、今日はギルマン領にお出かけなさるんですよね?」

 テーブルについたアイーダ女史にお茶を出しながら、ヘレンが努めて明るく言う。明らかに目が少し腫れていたが、アイーダ女史は何も言わなかった。

「ええ、フォンティーヌ公爵夫人となりロワネスクにいらっしゃることが多くなりましたからね、ザイラ様は。実質的な事業管理を任されておりますので」

 パルシアンからギルマン領もそう近くではないが、ロワネスクからの移動に比べれば幾分マシである。
 会計士でもあるアイーダ女史は、ブラジャー事業に関してザイラに業務委託をされた。そのほか、マリアンセイユが住んでいた頃と同様に牧場の経営管理などもあるため、アイーダ女史の毎日はなかなか忙しい。

「昨日、こちらに来たばかりですのに……」
「ですので、まずは状況を確認しておきたいのです。そういうことなのでヘレン、お屋敷の確認はもう少し後にいたしましょう。今日は黒い家リーベン・ヴィラの方をお願いいたします。明日には戻りますね」
「かしこまりました」
「……それは、マユ様のサロペットですか?」

 ソファに投げられている菫色の布地を見て、アイーダ女史が不思議そうに聞く。

 このパルシアンに三人でいた頃、マユが
「乗馬のためにもっとラクな格好がしたい」
と言い、アイーダ女史が認めてくれるようなデザインを、と二人で知恵を絞って考え出した、ある意味ここでの生活の象徴。

「はい、ほつれたところを直しています」

 ヘレンは布地を手に取ると、アイーダ女史に広げて見せた。

「マユ様は『聖なる者』の衣装のままで行ってしまわれましたから。尊き衣装ですが、マユ様のことですから『楽な格好がしたい!』と不満に思っておられるかも、と。ですので、こちらにいらっしゃった時にお渡しできればいいな、と思いまして」
「……何十年後かもしれませんよ」

 初代フォンティーヌ公爵の日記によれば、聖女シュルヴィアフェスが初代フォンティーヌ公爵のもとに現れたのは、公爵が隠居したあと。
 聖女が魔王の下へ行ってから、優に八十年以上が経過していた。

 ほとぼりが冷めるまで――その存在と記憶が確実に過去となるまでは、マリアンセイユは現れないかもしれない。

「……それでも、いいのです。まだ……まだ、わたくし……」

 そう呟くと、ヘレンの瞳からあっという間に涙が溢れ、ボタボタボタと大粒の雫が頬を伝った。

「――今日は、この家で過ごしなさい。繕い物も、たくさんあるのでしょう」

 自分に言い聞かせるためにヘレンにも厳しいことを言ってしまった、と、アイーダ女史は申し訳なく思い、ヘレンからついっと視線を逸らしてしまった。
 早口で告げ、らしくなく紅茶をごくごくと飲み干す。

「ごちそうさまでした」

 そしてすっと立ち上がり、そのまま足早に玄関へと向かった。

「え、あ、女史、どちらへ?」
黒い家リーベン・ヴィラに残っているマユ様のブラジャーを持っていこうと思います」
「え?」
「……新調しておこうと思うのですよ。三か月の学院生活で、すっかりくたびれたようですから」

 最後に黒い家リーベン・ヴィラに来た時の物が残されていますから職人にサイズ調整をしてもらわないと、と言い、アイーダ女史がきまり悪そうな顔をした。
 結局アイーダ女史も、諦めきれてはいない。そのことが分かったヘレンは、嬉しそうにふふふと笑った。

「あ、わたくしも参ります! まだクローゼットにお衣装が残ってるんです」

 ヘレンは慌てて涙を拭くと、菫色の布地をソファに置き、アイーダ女史の後をついて一軒家を出た。

 道を挟んですぐそばにある黒い家リーベン・ヴィラ。ここで暮らしていたあの頃、二人は日に何度もここを往復していた。
 その頃のことを思い出しながら、アイーダ女史が持っていた鍵で黒い扉を開ける。
 そして、廊下をまっすぐに進んで右手にある、その木の扉の奥には。


「あー、もー、やっと来たわね!」

 濃いボルドー色のドレスのままソファに寝そべっていたマユが、パッと飛び起きた。それは、マユには一番よく似合う、とヘレンがしきりに言っていた色。

「「――マユ様!?」」

 アイーダ女史とヘレンが同時に声を上げる。
 マユは両手を腰に当てると、ぷうっと頬を膨らませた。

「もう、『あの場所で』ってちゃんと言っておいたのに。パルシアンに来るの、随分遅かったのね」
「まだ一週間しか経っていませんが……」
「私、三日前に一度覗いたのよ。ここにいないしお屋敷も一通り見たけどいないから、ガッカリしちゃった」
「ま……マユ様!」

 ヘレンが涙をポロポロこぼしながらガバーッとマユに抱きつく。

「い、いらっしゃってたならどうしてすぐに言ってくださらないのですかー!」
「だって私、ヘレン達の家は行ったことないからいきなり押し掛けるのも……」
「うううううー!」
「それに、驚かせたくて。再会するなら、やっぱりここでしょう?」

 あはは、とマユが大口を開けて笑う。
 マユの胸で泣き続けるヘレンと、その背中を優しく撫でるマユを呆気にとられて見ていたアイーダ女史は、ハッと我に返り、眼鏡のブリッジを上げた。

「ですから、どうしてそう勝手な振る舞いをなさるのです!」
「勝手と言われてもぉ。こういうのはサプライズって言うのよ」
「要りません、そんなもの!」

 状況が飲み込めたアイーダ女史は、すっかりいつもの調子を取り戻したようだ。マユの軽く調子のよい言葉を一刀両断する。

「マユ様、お会い出来たら絶対に聞こうと思っていたことがあるのです」
「え、な、何?」
「『聖なる者』選定の日のことです。あなたは――最初から、魔王の下へ行くつもりでしたよね?」
「えっ」

 ビクッと体を震わせるマユに、アイーダ女史の眼鏡の奥の瞳がキラリと光る。

「あの日――クォンを泣き止ませるためと言って護り神様と共に出掛けられた、あの日。明け方になってから、ひどく疲れた様子で戻ってこられましたよね。魔界に関わることだから言えない、と言っておられましたが、何があったのですか?」
「えーと……」
「思えばあの日、最後の日と同じ目をしておられました。マユ様は既に、覚悟を決めておられていたのでしょう」
「……は、はは……」

 マユがシラーッとアイーダ女史から視線をそらし、苦笑いをしている。

「あの日の演説は素晴らしいものでした。……が、マユ様がああいう風にお話をなさるのは、自分の望む結論に持っていくべく、状況を素早く冷静に分析なさって人心を掌握し、話を展開しているときです」
「えーと?」
「平たく言えば、相手を丸め込もうとしているときです」
「何か詐欺師みたいな言われようね」
「遠くはないはずですよ。わたくしには、よーく分かっております」

 自信満々に力強く、アイーダ女史が頷く。
 ヘレンには、アイーダ女史がどこか嬉しそうなのが、手に取るようにわかった。

「リンドブロム闘技場にマデラギガンダが現れることは、分かっていらっしゃいましたね。でなければ、いくらマユ様でも王獣相手にいきなり落ち着いて対峙などはできないでしょう。ましてや魔法で戦うなど。……ホワイトウルフのときだって、最初は腰が引けてらっしゃったのに」
「ぐ……」
「それに、土壇場であの決断をできたとはとても思えません」
「うう……」

 マユがガックリと項垂れる。アイーダ女史は眼鏡のつるをクイッと上げると
「さあ、今日はしっかりとお話ししていただきますよ!」
とマユにぐいぐい迫った。

「えー、でも……」
「あの、アイーダ女史、今日はギルマン領にお出かけになる予定では……」
「これより大事な用などありません! さ、マユ様!」
「ちょ、ちょっと待ってよ。せめてお茶ぐらい飲みたいし、ヘレンのお菓子が食べたいわ」
「すっ、すぐに準備をいたしますー!」

 ヘレンが慌てふためいて扉から出て行く。

「わたくしもギルマンの方に本日は行けないことを報せなければ。マユ様、しばらくお一人にしますが、逃げないでくださいね?」
「逃げないわよ。そんなにしょっちゅうこっちに来れる訳じゃないんだもの」

 口を尖らせて反論するマユをひと睨みすると、アイーダ女史は足早に出て行った。
 一人残されたマユはふう、と息をつくとやがてクスクスと笑い出した。

「もう、全然変わってないんだから。……まぁ、一週間だしね。そりゃそうか」

 そう独り言をつぶやくと、マユはボスン、とソファに腰をかけた。
 チューリップの花束のようなシャンデリアを見上げる。

 そして、十日ほど前の出来事――アッシメニアに会い、ミーアと喧嘩し、マデラギガンダに遭遇したあの日のことを、ゆっくりと思い返し始めた。
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