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想の章【紅い蝶に恋をした】
紅い蝶ひとひら 弍
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大学でも日々と変わりない。
ちょっと俺が変な夢を見たってくらいで、そうなにも。
紅子さんと一緒に受ける講義も、そうでない講義も、話題は何気ないこと。ちょっとした噂。どこそこの店のクレープが美味しいとか、そんな普通のことばかり。
── ねえ知ってる?
── 自分のドッペルゲンガーを見てしまうと死んじゃうんだってね
だけれど、自然と耳に入ってくる。
そんな話が気になって仕方がないのだ。あんな夢を見ていたからだろうか。不思議な不思議な怪異譚。周囲は人外だらけで…… そんな世界に踏み込む切っ掛けとなった紅子さんとの夢での脱出ゲーム。いつもいつでも彼女が近くにいて、絶望に飲み込まれそうになっていた俺の新たな〝 相談相手 〟になってくれた幽霊。
壮大で救いのないような夢の中で、初めて俺の心を掬い上げてくれたからかい癖のある都市伝説。
その姿がどうしても重なって、ここにいるはずの紅子さんに失礼なのが分かっているはずなのに影を追う。
大学には秘色さんだっているし、彼女は年上の男性と付き合うことに成功している。親友の桜子さんとはお互いに手作りマフラーまで送る程の仲だ。
桜子さんは料理や裁縫が得意なようで、ハンドクラフターとしてネットにショップを開設している。結構売れているらしい。
そう、そこかしこに知っている姿がある。
夢の中で救うことができなかった者。人ではなかった者。不幸に終わった者。それらが皆、この町の中で幸せに暮らしている。
まるで夢の中ではこの世の全ての幸福を反転してしまったかのような、そんなキラキラ輝いている世界。
この彩色町には自然が溢れかえり、街中を歩けば花壇や公園などがすぐに見つかる。
季節外れの蝶々まで飛んでいるのを見かけるほど、この町はとても美しい。
そう、望んだままの。
願ったままの美しい世界。
紅子さんと大学から帰る途中、いつものようにからかわれながら寄り道をし、評判のクレープを奢る。
無邪気にとはいかないが、僅かに微笑む彼女の顔をもっと見ていたいから。
夢の中では決して見られぬような心底幸せですと表すような、その姿を。
「令一さん?」
「…… っえ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「また? まあいいけどねぇ。そんなに夢のことが気になるのかな。いいよ、相談に乗ってあげるからそこの公園に入ろうか」
情けないな。心配をかけてばかりだ。
弟が言うように、告白したのは俺からなのだ。呆れて嫌われてしまわないためにもあんまり弱いところを見せたくないよなあ。
それでも、いち早く気がついて彼女は世話を焼いてくれてしまうのだが。
公園にひらりひらりと蝶が舞う。
鮮やかな紅色の蝶々が、視界を掠めて飛んでいく。
「きゅ」
いつもいつも聞いていたその声を引き連れて。
そうして、
「紅子さん?」
「…… 令一さん、走って」
私服の彼女に手を取られ、そのまま公園を抜けて駆けていく。
焦ったように俺の手を引く紅子さんはまるで紅色の蝶から逃れるように、俺を連れて駆けていく。
なぜか、ひどく胸騒ぎがした。
俺達二人の息遣いだけが空気に溶けていく。
もういいんじゃないかと後ろを振り向いてみても、まだ俺達を追うように紅色の蝶がひらひらと舞い踊る。
おかしい。蝶々なんて人間が走れば簡単に振り切れるはずなのに。絶対におかしい。
冷や汗が流れる。この感じ、夢の中で何度も体感した…… そう、怪異の気配。
そうして街角を走って、走って、走って……
ふと、抜け落ちていた考えが頭の中を過ぎった。
── そういえば、なんであいつが。神内千夜がいないのだろう
夢の中ではしつこく俺を虐げていた、あいつが。
知り合いが夢の中に出てきていたというのなら、俺はあいつに出会ったことがあるか? そんなことはない。今日、俺はあいつの姿を見なかった。記憶の中にもない。まったくの知らない人間……
ぞわりと、得体の知れない怖気が背筋に走る。
嫌な予感がする。でもそれがなにかは分からない。
なんだか、このままではいけないような…… そういえば、なんで紅子さんはあの紅色の蝶から逃げるのだろう。
鮮やかな紅の蝶なんて、確かに不気味ではあるけれど。必死になって逃げるほどでは……
「な、なあ紅子さん」
「な、なにかな?」
走りながらで息がきれる。でも、どうしても聞いておかなければならなかった。上手く言葉にはできない。けれど、絶対に言わなくてはならないこと。
「あの蝶はなんだ? どうして逃げるんだ?」
確かに感じる妖しい気配。でも、なぜだか嫌な感じはしないんだ。ただの勘でしかないけれど。逃げなければならないほど悪いものでは、ないのではと……
「ね、ねえ令一さん。アタシ怖いんだよ。分かんないけど、あれを見てると、すごく怖いんだ。おかしいかな」
泣きそうな横顔に、らしくないと思った。
弱音を吐くなんて、紅子さんらしくない。
あの人は、こんなにか弱い女の子ではないはずなのだ。
俺の、俺の知ってる彼女とは……
「違う」
ピタリと、彼女が立ち止まった。
そして、彼女の背にぶつかるようにして紅い蝶が溶け消えていく。
強い衝撃を受けたかのように紅子さんの体が前方に傾いだ。
「どう、して」
絞り出すようにそう言った途端、彼女の姿からバタバタと夥しい量の紅色の蝶が飛び出して行き、その姿が見えなくなる。
蝶に埋もれるようなその光景に心臓が跳ねる。繋いでいた手は、自然に彼女の方から離されてしまっていた。
「……ああ、そうだね。アタシはこんなにか弱くなんてない。弱音をキミなんかに話してやらない。アタシは生きてなんかいない。怪異だ。これは、お兄さんが見ていた〝 理想の赤座紅子 〟の幻想にすぎないんだよ」
そうして、紅色の蝶が全て周りに散っていくと、そこに立っていたのは…… 果たして、夢の中と全く同じ姿。
女の子らしい私服ではない、赤いセーラー服の上に真っ赤なマントを羽織った怪異の紅子さん。
「紅子、さん」
「ここはお兄さんの理想の世界なんだね」
目を細めて俺を真っ直ぐに射抜くその赤い瞳に、蛇に睨まれた蛙のように竦みあがる。なぜだが彼女が酷く恐ろしいように思えてしまって、後ずさる。
「でもねお兄さん。これは、悪い夢なんだ。お兄さんは悪い夢に囚われている。そりゃあ、理想の世界で生きたいっていうのは悪いことじゃないけれどね…… 戻ってこられなくなったらいけないよ」
本当に?
ずっとずっと夢の中の世界が不幸で、現実が幸福だと信じ込もうとした。
それが俺の理想だったから。文字通り、夢にまで見た世界だったから。浸ろうとした。慣れようとした。嫌なことも、不幸なことも、なにもかも無かった世界があってほしくて。
それが俺の望みだったから。
「戻ってきなよ。そのためになら……」
紅子さんは、いつの間にか握っていたガラス片をその首に当てる。
「ちょ、ちょっと紅子さんそれはっ……」
「そのためになら…… アタシは、何度だってキミの理想を殺してあげるよ」
ニヒルな笑みを浮かべたまま、その手をすいっと横にズラす。
それだけで彼女の首は横一文字に裂かれて事切れる。
彼女のいた場所から、大量の紅い蝶がバラバラに散っていく…… それらを捕まえようと手を伸ばしても一匹も捕まることなく、スルリと俺の手の中から消えていくのだ。
まるで、本当に紅子さんみたいだ。掴んだと思っても掴めない。そんな彼女。
「きゅう」
呆然としていれば、また聞き覚えのある声で我に帰った。
「リン…… 、リン、なのか?」
「きゅうう」
一匹の紅色の蝶と、赤色の小さな竜。
それらが俺の目の前をはたはたと舞っていた。
「…… 分かったよ」
道しるべのように俺を待っている〝 二人 〟をゆっくりと追いかける。
理想の、決してありえない世界から別れを告げるように。
「…… 分かってたよ」
情けなくも涙が落ちていく。
蝶と竜を追っていけば、俺の意識は急速に遠のいて行き…… そして。
── パチンと、なにかが弾けた。
ちょっと俺が変な夢を見たってくらいで、そうなにも。
紅子さんと一緒に受ける講義も、そうでない講義も、話題は何気ないこと。ちょっとした噂。どこそこの店のクレープが美味しいとか、そんな普通のことばかり。
── ねえ知ってる?
── 自分のドッペルゲンガーを見てしまうと死んじゃうんだってね
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そんな話が気になって仕方がないのだ。あんな夢を見ていたからだろうか。不思議な不思議な怪異譚。周囲は人外だらけで…… そんな世界に踏み込む切っ掛けとなった紅子さんとの夢での脱出ゲーム。いつもいつでも彼女が近くにいて、絶望に飲み込まれそうになっていた俺の新たな〝 相談相手 〟になってくれた幽霊。
壮大で救いのないような夢の中で、初めて俺の心を掬い上げてくれたからかい癖のある都市伝説。
その姿がどうしても重なって、ここにいるはずの紅子さんに失礼なのが分かっているはずなのに影を追う。
大学には秘色さんだっているし、彼女は年上の男性と付き合うことに成功している。親友の桜子さんとはお互いに手作りマフラーまで送る程の仲だ。
桜子さんは料理や裁縫が得意なようで、ハンドクラフターとしてネットにショップを開設している。結構売れているらしい。
そう、そこかしこに知っている姿がある。
夢の中で救うことができなかった者。人ではなかった者。不幸に終わった者。それらが皆、この町の中で幸せに暮らしている。
まるで夢の中ではこの世の全ての幸福を反転してしまったかのような、そんなキラキラ輝いている世界。
この彩色町には自然が溢れかえり、街中を歩けば花壇や公園などがすぐに見つかる。
季節外れの蝶々まで飛んでいるのを見かけるほど、この町はとても美しい。
そう、望んだままの。
願ったままの美しい世界。
紅子さんと大学から帰る途中、いつものようにからかわれながら寄り道をし、評判のクレープを奢る。
無邪気にとはいかないが、僅かに微笑む彼女の顔をもっと見ていたいから。
夢の中では決して見られぬような心底幸せですと表すような、その姿を。
「令一さん?」
「…… っえ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「また? まあいいけどねぇ。そんなに夢のことが気になるのかな。いいよ、相談に乗ってあげるからそこの公園に入ろうか」
情けないな。心配をかけてばかりだ。
弟が言うように、告白したのは俺からなのだ。呆れて嫌われてしまわないためにもあんまり弱いところを見せたくないよなあ。
それでも、いち早く気がついて彼女は世話を焼いてくれてしまうのだが。
公園にひらりひらりと蝶が舞う。
鮮やかな紅色の蝶々が、視界を掠めて飛んでいく。
「きゅ」
いつもいつも聞いていたその声を引き連れて。
そうして、
「紅子さん?」
「…… 令一さん、走って」
私服の彼女に手を取られ、そのまま公園を抜けて駆けていく。
焦ったように俺の手を引く紅子さんはまるで紅色の蝶から逃れるように、俺を連れて駆けていく。
なぜか、ひどく胸騒ぎがした。
俺達二人の息遣いだけが空気に溶けていく。
もういいんじゃないかと後ろを振り向いてみても、まだ俺達を追うように紅色の蝶がひらひらと舞い踊る。
おかしい。蝶々なんて人間が走れば簡単に振り切れるはずなのに。絶対におかしい。
冷や汗が流れる。この感じ、夢の中で何度も体感した…… そう、怪異の気配。
そうして街角を走って、走って、走って……
ふと、抜け落ちていた考えが頭の中を過ぎった。
── そういえば、なんであいつが。神内千夜がいないのだろう
夢の中ではしつこく俺を虐げていた、あいつが。
知り合いが夢の中に出てきていたというのなら、俺はあいつに出会ったことがあるか? そんなことはない。今日、俺はあいつの姿を見なかった。記憶の中にもない。まったくの知らない人間……
ぞわりと、得体の知れない怖気が背筋に走る。
嫌な予感がする。でもそれがなにかは分からない。
なんだか、このままではいけないような…… そういえば、なんで紅子さんはあの紅色の蝶から逃げるのだろう。
鮮やかな紅の蝶なんて、確かに不気味ではあるけれど。必死になって逃げるほどでは……
「な、なあ紅子さん」
「な、なにかな?」
走りながらで息がきれる。でも、どうしても聞いておかなければならなかった。上手く言葉にはできない。けれど、絶対に言わなくてはならないこと。
「あの蝶はなんだ? どうして逃げるんだ?」
確かに感じる妖しい気配。でも、なぜだか嫌な感じはしないんだ。ただの勘でしかないけれど。逃げなければならないほど悪いものでは、ないのではと……
「ね、ねえ令一さん。アタシ怖いんだよ。分かんないけど、あれを見てると、すごく怖いんだ。おかしいかな」
泣きそうな横顔に、らしくないと思った。
弱音を吐くなんて、紅子さんらしくない。
あの人は、こんなにか弱い女の子ではないはずなのだ。
俺の、俺の知ってる彼女とは……
「違う」
ピタリと、彼女が立ち止まった。
そして、彼女の背にぶつかるようにして紅い蝶が溶け消えていく。
強い衝撃を受けたかのように紅子さんの体が前方に傾いだ。
「どう、して」
絞り出すようにそう言った途端、彼女の姿からバタバタと夥しい量の紅色の蝶が飛び出して行き、その姿が見えなくなる。
蝶に埋もれるようなその光景に心臓が跳ねる。繋いでいた手は、自然に彼女の方から離されてしまっていた。
「……ああ、そうだね。アタシはこんなにか弱くなんてない。弱音をキミなんかに話してやらない。アタシは生きてなんかいない。怪異だ。これは、お兄さんが見ていた〝 理想の赤座紅子 〟の幻想にすぎないんだよ」
そうして、紅色の蝶が全て周りに散っていくと、そこに立っていたのは…… 果たして、夢の中と全く同じ姿。
女の子らしい私服ではない、赤いセーラー服の上に真っ赤なマントを羽織った怪異の紅子さん。
「紅子、さん」
「ここはお兄さんの理想の世界なんだね」
目を細めて俺を真っ直ぐに射抜くその赤い瞳に、蛇に睨まれた蛙のように竦みあがる。なぜだが彼女が酷く恐ろしいように思えてしまって、後ずさる。
「でもねお兄さん。これは、悪い夢なんだ。お兄さんは悪い夢に囚われている。そりゃあ、理想の世界で生きたいっていうのは悪いことじゃないけれどね…… 戻ってこられなくなったらいけないよ」
本当に?
ずっとずっと夢の中の世界が不幸で、現実が幸福だと信じ込もうとした。
それが俺の理想だったから。文字通り、夢にまで見た世界だったから。浸ろうとした。慣れようとした。嫌なことも、不幸なことも、なにもかも無かった世界があってほしくて。
それが俺の望みだったから。
「戻ってきなよ。そのためになら……」
紅子さんは、いつの間にか握っていたガラス片をその首に当てる。
「ちょ、ちょっと紅子さんそれはっ……」
「そのためになら…… アタシは、何度だってキミの理想を殺してあげるよ」
ニヒルな笑みを浮かべたまま、その手をすいっと横にズラす。
それだけで彼女の首は横一文字に裂かれて事切れる。
彼女のいた場所から、大量の紅い蝶がバラバラに散っていく…… それらを捕まえようと手を伸ばしても一匹も捕まることなく、スルリと俺の手の中から消えていくのだ。
まるで、本当に紅子さんみたいだ。掴んだと思っても掴めない。そんな彼女。
「きゅう」
呆然としていれば、また聞き覚えのある声で我に帰った。
「リン…… 、リン、なのか?」
「きゅうう」
一匹の紅色の蝶と、赤色の小さな竜。
それらが俺の目の前をはたはたと舞っていた。
「…… 分かったよ」
道しるべのように俺を待っている〝 二人 〟をゆっくりと追いかける。
理想の、決してありえない世界から別れを告げるように。
「…… 分かってたよ」
情けなくも涙が落ちていく。
蝶と竜を追っていけば、俺の意識は急速に遠のいて行き…… そして。
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