ニャル様のいうとおり

時雨オオカミ

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伍の怪【シムルグの雛鳥】

家庭科室の桜子さん

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「転ぶなんて、久しぶり……」

 一方攫われてしまったいろはは呑気にそんなことを呟いていた。
 前方に倒れた体制から徐々に起き上がり、ぶつけたおでこをさするとピリリとした痛みが彼女を襲う。擦りむいているようだ。

「鏡……」

 いろははそう言うと服のポケットに次々と手を突っ込んでいく。そしてワイシャツのポケットにお目当のものを見つけ出した。
 どうやらきちんとコンパクトミラーを携帯していたらしい。彼女はその場に散らかったスケッチブックや筆記用具を手元に引き寄せ、額を確認した。
 赤くなっている。やはり彼女の思った通り、擦りむいていたようだ。

「仕方ないか」

 そう言ってコンパクトをワイシャツのポケットにしまい、辺りを彼女が見渡すと、そこがどこだか分かったようだった。
 調理台付きのテーブルに、引き出しの中の刃物や飾られた食器、それに箸やフォーク、スプーン。

「家庭科室……」

 そこは六番目の七不思議の舞台である。
 それを彼女が知覚すると同時に、いろはは突然膝裏を斬り裂かれて再び床に倒れこんだ。

 咄嗟にスケッチブックへと伸ばした手は途中で鋭い痛みによって縫い付けられ、スケッチブックも何者かの足によって蹴飛ばされてしまう。

「…… ぃ、た…………」

 彼女の左手を貫いた果物ナイフはそのまま床に突き刺さり、まるで標本にされてしまったかのようにいろははただ痛みに喘いだ。

 足は膝裏を裂かれて動かすたびに痛みが襲い、とても立ち上がれそうにはない。無理やり立ち上がることも彼女にはできるだろうが、そうすればどうなるかは頭上で浮遊する刃物達のせいで明白だった。

 まだ動く右手をなんとか伸ばそうとするが、それも左手と同じようにざっくりとナイフが貫通して床に縫い付けられる。

「ん…… ぐぅ…… う……」
「あははははは! こんばんは、どんな気持ち? 痛い? 苦しい? ぼくに教えてくれるかなぁ!」

 いろはが眼前から聞こえる声に顔を上げると、そこには自分とよく似た少女が立っていた。
 セミロングの明るい茶髪はハーフアップにされ、桜の髪留めでまとめられている。七彩高校の制服がブレザーに変わる前のセーラー服を着用し、丁寧に整えられた桜色の爪。それに、狂気を感じさせる真っ赤な瞳。
 髪の長さ以外に共通点はないというのに、性格や声の張りを加えても似ている部分などどこにもないというのに、なぜだかいろはは彼女のことを似ていると感じていた。

「あなたは…… 意識がはっきり…… してるの?」

 いろはが訊ねると、彼女は驚いたように目を見開いて仰け反った。

「うわお、ぼくに会った第一声が痛いでも苦しいでもないなんて! あー、びっくりした。きみって凄いね。面白いから教えてあげるよ」

 彼女は嬉しそうにいろはの頭を撫でると立ち上がり、演説を始める。

「ぼくは普通の人よりも少しだけ変なものが見えてたんだ。だからかな、殺されて…… 幽霊になってからも結構はっきりしてるんだよね。だからこそ、他の七不思議を脅してきみをここに連れてくることができたんだけどね」

 ペラペラと饒舌に語る彼女に、いろはは首が疲れてうつ伏せのまま頬を床につける。
 そろそろ貫かれた手のひらが痺れてきたようだ。痛みは既に通り過ぎ、感覚が麻痺してきている。

「きみはどうやらとても厄介みたいだ。絵に描いただけで皆救われてしまう…… でもぼくは救われたくなんてない」

 いろはは右手を持ち上げ、ナイフを引き抜いた。

「殺されて、そのまま天に召されろって? そんなの無理無理。そう、ぼくは復讐がしたいんだ」

 けれど、自由になった手はほんの少ししか動かすことができなかった。
 それを見てほくそ笑んだ彼女は家庭科室のテーブルにどっかりと座り、いろはを見下した。

「復讐をするためには〝 カラダ 〟が必要だ。ぼくは幽霊になって…… こんな風に…… ポルターガイストを起こすことができるけれど、やっぱりこの手にナイフを掴んで直接やりたいじゃない?」

 左手に刺さったナイフが不思議な力で抜かれ、再びいろはの手を突き刺した。
 いろはは荒い息を吐きながらも、しかし泣き叫ぶことはなかった。
 テーブルの上の彼女はナイフを引き寄せて頬擦りをした。けれど、彼女が傷つくことはないようだ。

「影達が言ったんだよ。丁度御誂おあつらえ向きに空っぽな人間がこの学校にいるってさ。確かにきみは空っぽ…… というより透明なのかな? いわゆる、〝自分がない〟ってやつ」

 ナイフをくるくると回しながら彼女は演説に夢中になっている。
 いろははそれを確認して、僅かに動く手で床をかいた。

「自分がないやつほど幽霊や妖怪に乗っ取られやすいんだって。あいつらに言われて始めて知ったんだけどね…… まあ、だからこの機会が訪れるのを待っていたんだ。歓迎する、嬉しいよ」

 彼女は本当に嬉しそうにしている。
 いろははそれを聴きながら、一生懸命に爪を床に立てた。

「だからこそ、ぼくが行く先々でアドバイスしてあげてたんだよ? さっさと他の七不思議をクリアしてぼくのところに来て欲しかったからさ! ぼくはきみを決して〝 かえさない 〟し、〝 にがさない 〟! そう、あの赤い文字はぜーんぶ! ぼくがきみの役に立とうと頑張った結果だったんだ!」

 そのわりには殺す気が所々に見受けられるなアドバイスの数々だった。
 そういろはが口に出そうとして、慌てて飲み込んだ。彼女の機嫌を今すぐに損ねてしまうのはとても危険だから。そして、そんなことを言う暇があるのならもっと有意義なことをするべきだと知っているからだ。
 床に広がった血溜まりはいろはの手によって広がり続けている。

「それにね、今日は七番目が学校に来ていないからチャンスだったんだ! 不思議なことに、ここの七番目様は人間を殺すことを良しとしないからね。だから影にも今日が絶好のチャンスだって教えてあげたんだよ」

 いろはは彼女の漏らす情報を聞きながら思案しているようだ。
 どうやら、黒幕はまた別にいるらしい。
 そして七不思議の七番目を相手にしなくていいことを知って、安心した。
 腕は動かし続けている。

「でもきみには厄介なことにその絵の腕があるし、なにより面倒なやつが引っ付いてた。だから五番目に〝 お願い 〟してきみたちに隙を作らせてもらった」

( 脅したの間違いじゃないかな…… )

 いろはは訂正するか迷ったが、意味がないと断じて手先に集中した。

「ぼくがきみになって復讐を果たす! ああ心配しないで、きみの意識は残しておいてあげるよ。きみはぼくの中で、〝 自分を持たなかった 〟ことを後悔し続けるんだ!」

 彼女は噂に違わぬ驕り高ぶった人物のようだ。
 そしてその性格は残虐だ。けれど、いろは今までのように彼女を救ってやることはできない。それをいろは自身が知っている。分かっている。
 四番目までと同じ手は通用しないと、理解しているから手を動かしていた。

「ねえ、さっきから黙ってるけど生きてる? 生きててくれないとぼく困っちゃうんだけど」
「生きてる……」
「ねえ、さっきからなにをしているの?」

 彼女はテーブルの上で足をばたつかせながら質問した。彼女にはいろはの手元が見えていないようだ。いろはにとって、それはとても都合が良かった。

「ねえ……」
「なにかな?」
「家庭科室の、桜子さん」
「だから、なに?」

 いろはは彼女の名前を、呼んだ。
 それに桜子が応えると、いろはは顔をあげ柔らかい笑みを浮かべる。その碧眼に桜子の赤い瞳が映り込む。いろはの前には、いつの間に用意したのか懐にしまっていたコンパクトミラーが開いた状態で落っこちていた。

「きみ…… ぼくにはそれをしてももう無駄だって知らなかったの?」

 桜子はどうやら苛立っているらしい。

「知ってる…… だってあなたはもう、救いを求める幽霊じゃない。〝 妖怪 〟は、成仏なんてできない……」
「分かってるじゃないか! ならなんでこんなことをしたの? 悪足掻きはよしてよ、ぼくはきみと仲良くしたいんだ。だってこれから、そのカラダの使用権を貰うんだから…… いちいち喧嘩なんてしてられないだろう?一緒に人殺しを楽しもうよ! 透明で何者にも染まっていないきみなら、きっとぼくみたいにだってなれるはずなんだから。きみだってその力で気味悪がられたり、しただろ?」

 今までの怪異は〝 妖怪 〟ではなかった。階段の怪異さえ、鳥こそ妖怪じみていたが、本体はただ一人の死体だったのだから。
 その死体は妖怪ではなかった。なら無念を晴らし、いろはの手によって天へと召されることができる。その行先がどこであろうとも。
 しかし彼女…… 桜子は既にしっかりと意識があり、自分自身を七不思議だと知っている。そのルーツがどこにあるかも知っているし、〝 救われたいと願う気持ち 〟なんてとっくに失ってしまっている。
 そこにあるのはただただ人間を憎む気持ちを持った妖怪の姿なのだ。

「ねえ、桜子さん。わたしがほしい?」
「必要なのはぼくが動かすカラダだけ。きみを残してあげるのはぼくの僅かな良心さ」
「そう……」

 笑顔を浮かべて手を差し伸べる桜子に、いろはは動けない。
 血を流しすぎて、目の前に揺れている桜子の手がぶれて見えているようだ。
 虚ろな目でただその手を見つめるだけ。
 そんな彼女の様子に桜子はイラついているようだ。

「桜子さん…… お願い………… わたしは、わたしを…… 忘れたくないから…… あなたに、名前を…… 呼んで、ほしい…… な?」

 弱々しく懇願するいろはに桜子は眉を顰めて嗜虐的な笑みを浮かべた。これで最後だと確信したのだろうか。
 いろはは自らの血溜まりの上で小さく息を漏らしながら桜子を見つめた。

「いいよ、いろは」

 桜子は快く言葉を返した。
 そして、意地の悪い笑みを浮かべてみせる。

「ぼくはとーっても優しい妖怪だからね」
「ふふ……」

 いろはは笑った。
 その笑みは弱々しく、けれど力強く。
 彼女は素早くコンパクトミラーを自らの血で汚した。

「なっ、はあ!?」

 そして、そのコンパクトミラーに自身と、桜子の姿を同時に映して呟く。 「ありがとう、桜子さん」 と。

「やっと名前を呼んでくれた…… 妖怪への対処法を、わたしが身につけてないなんて…… そんなことを思うのは軽率だったと思うよ」

 身体を起こしたいろははその下にあった血溜まりを見やる。
 そこには自らの血液で描かれた桜子の姿があった。けれど、それだけでは桜子を成仏させることなどできない。それは先程彼女が喋っていた通りである。そんなこといろはには分かっていた。
 だからこそ、いろははコンパクトミラーを彼女の目にあたる部分に置いた。そこにいろはと桜子、2人が映り込む。
 絵を未完成のまま桜子に気づかせたのは、これのブラフだったのだ。

「あなたをどうするかは…… わたし次第…… わたしは、あなたを……〝逃さない〟」

 お互いに名前を呼ぶのがキーワード。
 それを機に、いろははコンパクトミラーに輪状に血を塗りつけ桜子といろは自身を〝囲む〟ことで縁を繋ぎ、閉じ込める。

 いろはにとってはただの思いつきだった。
 滅多にないが、彼女が妖怪を退治しようとした場合はスケッチブックの紙を何枚も使い、妖怪相手にもダメージが通るくらい切り刻んでいくのだが…… 今回は武器が取り上げられていた。
 彼女は霊を浄化できるとはいえ、彼女自身ができることは〝 描くこと 〟だけだ。
 フィクションの中の陰陽師や巫女、祓い屋のようにフダや呪文で華麗な除霊をすることはできない。〝 描くこと 〟しか知らないのだ。

 だから、この行動は完全なる勘でしかなかった。
 互いに名前を呼ぶ。名前が霊的に大事なものということくらいは、オカルトに多々遭遇する彼女も知っていた。
 名前を互いに呼ぶことで縁を結び、縁を結んだ互いを鏡の中に仕切りを作って囲む。
 単純だが、それを儀式として確固たる意志で行うことが重要だった。

 霊的な事象には〝 信仰 〟が密接に関わっているのだ。
 彼女はそうできると信じきっていた。だからこそ、この結果が生まれる。

「またね」

 いろはか目を伏せると、コンパクトミラーから風のようなものが吹き荒れ始め、みるみるうちに桜子の姿の端から花弁が散り、そこに吸い込まれていく。

「嘘だろ!? ぼくが、ぼくは救われたくなんてない! そう言ってるじゃないか! なのになんでこんな方法を取るんだよ! ぼくを消したいならもっと簡単な方法があったはずだろ!? そのために時間稼ぎをしてたんじゃないのか!? なんでなんでなんでなん……」

 いろはがコンパクトミラーを閉じると、もう目の前には誰もいなかった。
 彼女がコンパクトミラーを開けてみれば、そこには桜子の名前が刻まれている。妖怪から封印され、ただの悪霊へと戻った彼女の名前が。いろはは彼女を騙し、無力化することに成功したのだ。
 …… けれど、彼女は血を流しすぎていた。

( もう…… 見えない…… 先生、わたし…… これで、良かったのかな…… ? )

 血溜まりの上でカランとナイフが落ちる音がする。
 彼女の足に縫い付けられたナイフを誰かが抜いたのだ。
 彼女自身は血を流し、ずっと貫かれていたために足の感覚は既に痺れを通り越し、消失している。
 けれど、まだ辛うじて聴覚と意識は保っていた。

( 誰だろう…… ? )

 足元から絹を擦ったような音が近づき、彼女の頭上で止まる。

( 先生じゃ…… ない )

 その誰かは静かにいろはの頭を撫でると、顔をを上げようとする彼女の目をそっと閉じさせる。

( なんだか…… 懐かしいような…… 前に、会ったことがあるような…… )

 優しく撫ぜられながら、いろははそのまま意識を…… 失った。



「あなたの痛み、引き受けます」



 その場に真っ白な羽毛が散り、土の匂いが充満した。
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