初体験しないまま死にたくなかった悪役令嬢

ChaCha

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溺れた君

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湖畔の風は、思ったよりも静かだった。

水面に落ちた光が、ゆっくりと揺れている。
鳥の声も、葉擦れの音も、どこか遠い。

――彼女の唇が、甘かった。

ただそれだけの事実が、
胸の奥で何度も反芻される。

腕の中にある体温。
抱きしめれば壊れてしまいそうなのに、
離すという選択肢が、もう思い浮かばない。

さきほどまで、
湖に落ちて怯えていた彼女が、
今は、こんなにも無防備に、近くにいる。

……俺は、何をしている。

そう思うのに、
思考より先に、心が答えを出していた。

――離したくない。

「……大丈夫?」

掠れた声で、そう尋ねると、
マリエッタは、少し照れたように笑った。

「ええ。
びっくりしたけれど……もう平気」

平気、という言葉が、
どうしてこんなに、頼りなく聞こえるのか。

濡れた服。
冷えた身体。
それらを一つずつ、俺は見落としていなかった。

だから、魔術を使った。
躊躇いは、なかった。

温風が、彼女を包む。
水気が消え、
頬に血の色が戻る。

その過程すら、
目を逸らすべきだったのかもしれない。

だが、逸らせなかった。

――危険だ。

分かっている。
分かっていて、
それでも。

彼女が俺を見上げる。
「気持ちいいね」と、
屈託のない声で言う。

……それ以上、
俺に何をさせたい。

思わず、腕に力が入った。

抱きしめたのは、
衝動ではない。
確認だ。

ここにいる。
生きている。
俺の腕の中にいる。

「君は……」

喉が鳴る。

「どれだけ、俺を……」

言葉にしきれない。
気が済むはずがない。
気が済んでしまったら、
それはもう、戻れない場所だ。

彼女の声が、
小さく落ちる。

「今……すごく、
ヴィンを、感じたい」

……やめてくれ。

そんなふうに、
まっすぐ言われたら。

「……ダメ、かな?」

その一言で、
最後の理性が、音を立てて揺れた。

――それでも。

俺は、逃げなかった。

唇が、重なる。
今までの“軽さ”は、ない。

触れたまま、
確かめるように、
息を合わせる。

彼女の吐息が、
すぐそこにある。

そして――
彼女から、絡めてきた。

拒まなかった。
拒めなかった。

……応えた。

唇の奥で、
彼女の温度を受け止める。

溺れる、という言葉が、
こんなにも正確だとは思わなかった。

深く。
深く。

水音のように、
熱が、胸へ落ちていく。

彼女の身体が、
小さく震えたのが分かる。

それを感じた瞬間、
俺は、はっきりと理解した。

――もう、戻れない。

だが、
まだ、進まない。

ここで踏み込めば、
彼女を“守る”という言葉が、
嘘になる。

だから、離れた。

名残惜しく、
それでも、確実に。

彼女が、恨めしそうに言う。

「……こんなに、
気持ちがいい口付け……
今まで、おあずけされてたなんて……」

笑ってしまった。

「これからも、
溺れさせてあげるよ」

……本当は、
俺の方が、
先に溺れている。

湖の水よりも、
彼女の唇の方が、
ずっと深くて、
ずっと温かかった。

今日もまた、
眠れない夜が来るだろう。

それでもいい。

彼女が、
俺の腕の中で、
生きて、笑っている限り。
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