初体験しないまま死にたくなかった悪役令嬢

ChaCha

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私の望んだ夜

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扉が閉まった。

神殿の祝福も、拍手も、花びらも。
あんなに眩しくて、甘かったはずなのに。

今はもう、遠い。

ランデル侯爵邸の敷地内に用意された新居。
その寝室の扉が、静かに音を立てて閉まるだけで。

空気が、変わった。

重い。
甘い。
――そして、薄く冷たい。

灯りは柔らかい。
壁に揺れる影は、炎のせいで丸く滲む。
ベッドの天蓋は白く、布は新しい香りがする。

祝福の夜に相応しい。
完璧な舞台。

なのに、胸の奥で、何かが鳴り続けていた。

私は、花嫁衣装のまま立っている。
侍女たちが整えてくれた髪。
胸元の飾り。
指輪。

そして。

私の目の前にいる、夫。

ヴィンセントは、そこにいた。
最初からそこにいたみたいに、当たり前に。
背筋を伸ばして、静かに笑って――

……笑って、いる。

なのに。

目が、笑っていない。
いや、違う。

笑っているのに、笑っていない。

矛盾した感覚が、舌の上に残る。

披露宴の間もそうだった。
腰を抱かれ、離されず、私だけを見られて。

嬉しいはずだった。
私は、散々それを夢見てきたのだから。

相思相愛。
溺愛。
推しに抱かれる未来。

なのに、体温が近いほど、背中が冷えた。

「マリエッタ」

名を呼ばれるだけで、心臓が跳ねる。
跳ねるのに、嬉しいだけじゃない。

怖い。

……いや。
怖いって、何よ。

私、何を言ってるの。

この人は、私のヴィンセント。
五日間会えなくて、逢いたくて逢いたくて。
今日、やっと――

だから私は、笑った。
笑って近づいて、腕の中へ入った。

彼の腕が回る。
背中に添えられる手が、確かめるように動く。

熱い。

なのに、その熱が、まるで鍵みたいだと思った。

閉める鍵。
逃がさない鍵。

「……」

息が、浅くなる。

私が身じろぎすると、ヴィンセントの腕が少し強くなる。
痛いほどではない。
でも、逃げる方向だけを潰す。

私はその瞬間、神殿での声を思い出した。

『安心した』

――何を、だろう。

私が「恐い」と言ったのに。
離してと言ったのに。

安心した?

胸の奥が、ちくりとする。

私は、笑顔のまま、そっと冗談みたいに言ってみた。

「……ヴィン。
披露宴の間、ずっと腰を抱いてたでしょう。
私、花瓶か何かだった?」

軽口。
マリエッタの武器。
場を明るくするための、いつもの。

けれど。

ヴィンセントは笑ったまま、私の頬に指を滑らせた。

「綺麗だった」

「うん、ありがとう。
……それ、さっきも言った」

「何度でも言う」

低い声。
優しい声音。

なのに、言葉が、まっすぐ私の胸に入ってこない。

喉の奥が乾く。

「……ねえ、ヴィン。
私、今日……完璧でしょう?」

言ってみた。
自画自賛で、いつもなら彼が呆れて笑うやつ。

「完璧だ」

即答。
迷いがない。

あ、嬉しい。
――はずなのに。

彼の目が、私の顔から離れない。

まるで、確認しているみたいだ。

逃げないか。
揺れないか。
別の答えを言わないか。

私は笑って、視線を逸らした。
逸らした瞬間、指先が強く握られた。

「……っ」

思わず小さく息が漏れる。

「痛い……?」

ヴィンセントが問いかける。
声は優しい。
表情も優しい。

でも、手は離れない。

私は冗談っぽく、でも本音を混ぜて言った。

「……あのね。
今日、神殿で『恐い、離して』って言ったの。
私、あとで思い出して恥ずかしくて死にそうだった」

笑って誤魔化した。
笑っておけば、空気は戻ると思った。

なのに。

ヴィンセントの指が、私の手首に移った。

きゅ、と。

強くはない。
けれど、角度が完璧すぎて。
逃げるという選択肢だけが消える。

「……マリエッタ」

声が落ちる。
甘いのに、冷たい。

「俺は、君を恐がらせたいわけじゃない」

「う、うん。分かってる」

分かってる。
分かってるはず。

なのに、胸の奥が鳴る。

彼は、私の額に口付けた。
神殿で感じたのと同じ、丁寧さ。

「君が、俺を選んでいるのなら」

囁きが、耳の内側に貼りつく。

「俺は、安心できる」

まただ。
安心した、だ。

何を、安心しているの。

私は、息を吸って、言葉を探した。

「……ヴィン。
私ね、五日間……会えなかったの、正直、寂しかった」

言った。
可愛く言ったつもりだった。
場を戻したくて。

けれど、ヴィンセントの視線は揺れない。

「寂しかったのは、俺だ」

即答。

そして、静かに、続けられた。

「二度と、あんな時間は要らない」

……え。

私の背中に、ぞくりとしたものが走った。

それは怒りじゃない。
憎しみでもない。

“決定”だ。

決めてしまった人の声。

私の、いつもの頭の中が、勝手に昔の記憶を引っ張り出す。

乙女ゲーム。
攻略対象。
ルート分岐。
そして。

“ヤンデレ執着ルート担当”。

あの担当が見せるバッドエンドは、いつも決まっていた。
逃げ場を奪い、選択肢を潰し、祝福の言葉さえ“確保”に変える。

――囲い込む。

精神ごと。

あの、重さ。

……良い。
良すぎる。

見ている側の私は、確かにそう言った。
画面越しに、指で唇を押さえて、にやにやして。

「最高」って。

でも。

される側になって初めて、分かった。

これは、笑って見られる重さじゃない。

「……マリエッタ」

ヴィンセントが私の頬に手を添えた。
親指が、唇の端に触れる。

呼吸が、止まる。

「大丈夫だ」

優しい声。
優しい指。
優しいのに――逃げ場がない。

「君は、俺の妻だ」

その言葉は、甘い。
本来なら、私が飛び跳ねて喜ぶ言葉。

なのに、胸の奥が鳴る。

私は、ちゃんと笑った。
笑って、頷いた。

「……うん。
私、ヴィンの妻」

言えた。
言えたはず。

それなのに、ヴィンセントの目が細くなる。

笑みが、深くなる。

「よかった」

ほっとしたように言って。

私の腰を抱く手が、少しだけ強くなる。

鍵が、回るみたいに。

私は自分の心臓の音を数えながら、必死に明るく言った。

「……ねえ、ヴィン。
私、完璧だって言ったでしょう?
だから――えっと……その……」

言葉が詰まる。

恥ずかしい。
期待してる。
怖い。
嬉しい。

全部が一緒に来る。

私は、笑って誤魔化した。

「……その、優しく……してね?」

本当に望んだ言葉。
ずっと欲しかった夜。

ヴィンセントは、ゆっくり頷いた。

「もちろんだ」

そして、囁く。

「君が二度と迷わないように」

……また、その言い方。

私は、笑ったまま、胸の奥が鳴る音を聞いた。

私の望んだ夜。

私は、その腕の中で、
ちゃんと笑っていたはずだった。

なのに、胸の奥で、
何かが静かに鳴り続けていた。

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