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9話
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◇◇◇◇
その夜、森は異様なほど静かだった。
風もなく、葉擦れの音すらない。松明の火だけが、じりじりと音を立てている。
「静かすぎるな」
フェンの低い声に、後ろを歩く若い衛兵が唾を飲み込んだ。
「本当に、ここで合ってるんですか?」
「痕跡はある。血と、足跡……」
言い終わる前に、それは来た。
葉がざわめき、目の前の一層濃い影が動く。
「ッ! 来るぞ!」
影が弾けるように飛び出す。
獣の形をした魔物。二体、三体。いや、もっと。
「くそ、数が多い!」
剣を抜く音が重なり、獰猛な赤い目が迫る。
一体目を斬る。
だが、後に続いてくる魔物は怯まない。肉を裂いても、勢いを殺せない。
牙が閃き、腕に掠る。焼けるような痛み。
「下がれ!」
フェンは叫び、前に出た。
二体目、三体目。
息が荒くなる。足元の土が、血と泥で滑る。
背後で、短い悲鳴が上がった。
「うぁぁあああ!!!」
若い衛兵だ。
若い衛兵は足を取られ、転んだ。魔物が、一直線に飛びかかる。
フェンは考えるより先に、身体が動いた。
「伏せろ!」
若い衛兵と魔物の間に割り込んだ。
衝撃。
牙が、肩の鎧の隙間をこじ開けられ、次には腹を、深く、抉られる。
一体、二体と、魔物がフェンに取り付き、三体目に左腕を前腕からもぎ取られる。
「ぐっ!」
血の匂いが一瞬で充満して、フェンの視界が暗くなり、膝が折れた。
それでも剣を離さず、至近距離で肩に這っている魔物の喉を突き刺す。
「キャウン!」
可愛らしい魔物の断末魔に、ぬるり、と刃が抜けた。
次に腹に噛み付いていた魔物にも、突き刺す。同じように断末魔を上げ、フェンは解放された。
だが、フェンもまた、立っていられなかった。
「フェンさん!」
仲間の声が、遠い。
血が、止まらない。
噛みちぎられた左腕の欠損部を手で押さえても、指の隙間から血が溢れ出す。
「……撤退、だ」
絞り出すように言った。
フェンに庇われた若い衛兵がフェンを支え、引きずるように森を離れる。
魔物の遠吠えが、響く。魔物は衛兵を追わなかった。衛兵たちは魔物に逃がされたのだ。
魔物の本能とは違う。何かの目的があるかのようだった。
◇◇◇◇
綺麗な白の長髪を靡かせて、星篝の魔女は、狼型の魔物の頭を撫でながら、ノクスグラート領の方角を見た。
月明かりに照らされた森の奥で、魔物たちは静かに息を潜めている。
赤い目ではなく、満月のような黄色の目は落ち着きを取り戻し、牙も、爪も、今はしまわれたまま。
「やっぱりこっち行ったのね。白の魔女ちゃん」
柔らかな声だった。
からかうようで、懐かしむようで。けれど、慈しみはない。
星篝の魔女は、指先で狼の耳の付け根を軽く弾く。
「全部、あなたのせいよ」
狼は唸らない。ただ、命じられるのを待つように伏せた。
「ヴァルディウス王国で、随分と人を救っていたものね。薬を配って、怪我を癒して、病を鎮めて、呪いまで進んで清めて」
吐息が、夜気に溶ける。
「禁忌にまで手を出す。その優しさが、どれだけ危ういか。あなたも、もう分かったでしょ」
森の向こうの街の灯りが、かすかに瞬いている。負傷者が増え、治療を求める声が集まる場所を遠く、遠くで感じる。
星篝の魔女は、わざと、魔物を送り込んだ。殺しすぎないように。だが、確実に傷つくように。
腕を失い、腹を裂かれ、命の境目を彷徨う程度には、生かされた。
「大丈夫。殺さなくていいのよ」
狼型の魔物の顎を持ち上げ、その黄色の目は星篝の魔女を覗き込む。
「死なせない。でも、助けを求める声が広がる。人手を、薬も、時間も足りなくなる。そうすれば、どうなるかしら?」
自然と、白の魔女が動く。隠していた力を、隠しきれなくなる。
星篝の魔女は、ふっと笑った。
「白の魔女は禁忌を犯した魔女。この世界のみんなが知っている常識。だから禁忌の魔女だって、知られたら終わりでしょう?」
ヴァルディウス王国で起きたこと。白の魔女は助けたがゆえに、裏切られ、追われた記憶。
「同じ過ちは、繰り返させない。いいえ、あなたはやる。相当なお人好しですもの」
今度こそ、完全に連れて帰る。
「安心して。バリスハリス王国は隣国だもの」
声は、ひどく穏やかだった。
「大事にはしないわ。ただ、噂の通りに、疑いが生まれて、ヴァルディウス王国のように追い出されるだけ」
星篝の魔女は立ち上がり、森の闇に溶ける。
「恩があればノクスグラートの人たちはあなたを殺すまではいかないと思うの。あなたは、生き残る」
だからこそ。
「居場所だけ、失えばいいの」
狼たちが、一斉に森へと散っていく。
次の夜も、その次の夜も、街は傷を増やすだろう。
白の魔女が、耐えきれなくなる、その日まで。
「さあ、選びなさい、白の魔女セレナ」
星篝の魔女は、ノクスグラートを見下ろしながら、静かに告げた。
「救って、正体を晒すか。見捨てて、人であることを守るか」
星の光だけが、彼女の笑みを照らしていた。
その夜、森は異様なほど静かだった。
風もなく、葉擦れの音すらない。松明の火だけが、じりじりと音を立てている。
「静かすぎるな」
フェンの低い声に、後ろを歩く若い衛兵が唾を飲み込んだ。
「本当に、ここで合ってるんですか?」
「痕跡はある。血と、足跡……」
言い終わる前に、それは来た。
葉がざわめき、目の前の一層濃い影が動く。
「ッ! 来るぞ!」
影が弾けるように飛び出す。
獣の形をした魔物。二体、三体。いや、もっと。
「くそ、数が多い!」
剣を抜く音が重なり、獰猛な赤い目が迫る。
一体目を斬る。
だが、後に続いてくる魔物は怯まない。肉を裂いても、勢いを殺せない。
牙が閃き、腕に掠る。焼けるような痛み。
「下がれ!」
フェンは叫び、前に出た。
二体目、三体目。
息が荒くなる。足元の土が、血と泥で滑る。
背後で、短い悲鳴が上がった。
「うぁぁあああ!!!」
若い衛兵だ。
若い衛兵は足を取られ、転んだ。魔物が、一直線に飛びかかる。
フェンは考えるより先に、身体が動いた。
「伏せろ!」
若い衛兵と魔物の間に割り込んだ。
衝撃。
牙が、肩の鎧の隙間をこじ開けられ、次には腹を、深く、抉られる。
一体、二体と、魔物がフェンに取り付き、三体目に左腕を前腕からもぎ取られる。
「ぐっ!」
血の匂いが一瞬で充満して、フェンの視界が暗くなり、膝が折れた。
それでも剣を離さず、至近距離で肩に這っている魔物の喉を突き刺す。
「キャウン!」
可愛らしい魔物の断末魔に、ぬるり、と刃が抜けた。
次に腹に噛み付いていた魔物にも、突き刺す。同じように断末魔を上げ、フェンは解放された。
だが、フェンもまた、立っていられなかった。
「フェンさん!」
仲間の声が、遠い。
血が、止まらない。
噛みちぎられた左腕の欠損部を手で押さえても、指の隙間から血が溢れ出す。
「……撤退、だ」
絞り出すように言った。
フェンに庇われた若い衛兵がフェンを支え、引きずるように森を離れる。
魔物の遠吠えが、響く。魔物は衛兵を追わなかった。衛兵たちは魔物に逃がされたのだ。
魔物の本能とは違う。何かの目的があるかのようだった。
◇◇◇◇
綺麗な白の長髪を靡かせて、星篝の魔女は、狼型の魔物の頭を撫でながら、ノクスグラート領の方角を見た。
月明かりに照らされた森の奥で、魔物たちは静かに息を潜めている。
赤い目ではなく、満月のような黄色の目は落ち着きを取り戻し、牙も、爪も、今はしまわれたまま。
「やっぱりこっち行ったのね。白の魔女ちゃん」
柔らかな声だった。
からかうようで、懐かしむようで。けれど、慈しみはない。
星篝の魔女は、指先で狼の耳の付け根を軽く弾く。
「全部、あなたのせいよ」
狼は唸らない。ただ、命じられるのを待つように伏せた。
「ヴァルディウス王国で、随分と人を救っていたものね。薬を配って、怪我を癒して、病を鎮めて、呪いまで進んで清めて」
吐息が、夜気に溶ける。
「禁忌にまで手を出す。その優しさが、どれだけ危ういか。あなたも、もう分かったでしょ」
森の向こうの街の灯りが、かすかに瞬いている。負傷者が増え、治療を求める声が集まる場所を遠く、遠くで感じる。
星篝の魔女は、わざと、魔物を送り込んだ。殺しすぎないように。だが、確実に傷つくように。
腕を失い、腹を裂かれ、命の境目を彷徨う程度には、生かされた。
「大丈夫。殺さなくていいのよ」
狼型の魔物の顎を持ち上げ、その黄色の目は星篝の魔女を覗き込む。
「死なせない。でも、助けを求める声が広がる。人手を、薬も、時間も足りなくなる。そうすれば、どうなるかしら?」
自然と、白の魔女が動く。隠していた力を、隠しきれなくなる。
星篝の魔女は、ふっと笑った。
「白の魔女は禁忌を犯した魔女。この世界のみんなが知っている常識。だから禁忌の魔女だって、知られたら終わりでしょう?」
ヴァルディウス王国で起きたこと。白の魔女は助けたがゆえに、裏切られ、追われた記憶。
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今度こそ、完全に連れて帰る。
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声は、ひどく穏やかだった。
「大事にはしないわ。ただ、噂の通りに、疑いが生まれて、ヴァルディウス王国のように追い出されるだけ」
星篝の魔女は立ち上がり、森の闇に溶ける。
「恩があればノクスグラートの人たちはあなたを殺すまではいかないと思うの。あなたは、生き残る」
だからこそ。
「居場所だけ、失えばいいの」
狼たちが、一斉に森へと散っていく。
次の夜も、その次の夜も、街は傷を増やすだろう。
白の魔女が、耐えきれなくなる、その日まで。
「さあ、選びなさい、白の魔女セレナ」
星篝の魔女は、ノクスグラートを見下ろしながら、静かに告げた。
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