蹴落とされ聖女は極上王子に拾われる

砂城

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おまけ

初恋は始まらず、終わらない 中

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 まさか……と、更に聞き耳をたてれば――。

「無礼なっ! 馬車の先を阻むどころか、その物言い――切り捨てられたくなければ早々に去れ!」
「えー? そんなつれないこと言わないでよ。こっちは久しぶりに出てきたっていうのに……」

 それなりの年齢を感じさせる声と、それに似つかわしくない軽い口調。
 もう、何十年も聞いてはいないが、それでも忘れられるものではない。

「まだ言うか! この慮外者がっ!」
 
 護衛の者の怒声と、剣を抜き払うような音――未だにジークリンドの聴力は衰えていない。
 その事に感謝しつつ、慌てて馬車の戸を開け、叫んだ。

「止せっ! その方に無礼を働いてはならんっ!」
「……は? 閣下?」

 二頭立ての馬車の正面に立っているのは、白とも銀ともつかない髪を腰まで伸ばし、金色の光彩を持つ五十過ぎほどに思われる、正体不明の男だった。

「……やはり……カイン殿かっ」
「やぁ、ジークリンド君――って、もう『ジークリンド君』じゃなくて、さすがに『さん』づけしないといけないよね。久しぶりだね、元気だった?」
「……閣下。この者――いえ、この方は、本当に閣下のお知り合いでいらっしゃるのですか?」
「ああ、古い知り合いで――かつて、とてもお世話になった方だ」

 八十を過ぎたジークリンドが、自分よりもかなり年下に見える相手に敬語を使う。しかも『とてもお世話になった方』と口にした。
 その事に疑問をいだいたとしても、彼の護衛に過ぎない自分が詳細を知る必要はない――そう判断したのか剣を鞘に納め、『失礼をいたしました』とカインに一礼し、護衛が後ろへと下がる。
 それを見届けた後、改めてジークリンドはカインへと向き直った。

「お久しぶりです、カイン殿」
「うん、久しぶり――それにしても、君も随分と年を取ったねぇ」
「さすがにもう八十を過ぎましたから」

 そういうカインは、最後に会った時と寸分違わない様に見える。
 これが、シルヴァージュの建国以来――いや、そのずっと前から、この世界に存在していた『賢者』であり『予言者』なのだ。
 ジークリンドがそんな彼を知ることになったのは、かつてあったトラブルの所為であり、それが収まってからもしばらくは秘かな交流が続いていた。
 それが途切れたのは、ちょうどライムートが退位した辺りだと記憶している。

「それにしても……今まで、どうして姿を見せてくれなかったのです? 私は何度も、あの店に足を運んで、貴方を待っていたのに」

 ジークリンドと彼が会うのは、いつも王都の場末にある酒場兼飯処だった。治安が良くない場所で、店の構えもうらびれており、店主に至ってはこれまで何人殺した? と聞きたくなるようなご面相だ。
 だが、料理は美味かった。酒も。勿論、王城で出されるような洗練されたものとは全く異なり、荒くれ者たちが好む濃い味付けで、見た目も素朴を通り越しておおざっぱとしか呼びようがないものだったが、それでも、爵位持ちで美食の何たるかを知るジークリンドの舌をうならせた――そんな、とても不思議な場所だった。

「あー、あの店ね……それなんだけどね。あそこ、代替わりしたら、なんだかこう、違った感じになっちゃったでしょ?」
「は? ……ああ、そういえば……」

 ライムートの退位の直前か、それとも少し後だったか――あの頃はジークリンド自身も、引き継ぎで忙しく、しばらくその店に足を運ぶことができなかった。
 久しぶりに出向いた時、いつもの親父ではなくもっと細身の男が厨房に立っており、店構えも以前に比べて小ぎれいになっていた。
 不思議に思い尋ねたところ、前の店主は体を悪くして引退し、娘婿である自分が跡を継いだのだという。
 その話を聞きながら、いつものように『豆と臓物の煮込み』を注文したところ、それはもうやっていないと拒まれた。
『義父の代とは違うんです。もっと、きちんと味の分かる客を相手にすることにしたんです』と。
 代わりに出されたのは、何やら長ったらしい名のシチューのような品だったが、その味は、何というか――とても『普通』だったと記憶している。

「だよね。だから、なんとなく僕も足が遠のいちゃってさー。代わりに、ベヤンでいい店を見つけたんで、もっぱらそっちに行ってたんだよね」

 賢者が口にしたのは、シルヴァージュから見てトラインの更に先にある小国の名だ。

「……それが、私と接触を絶たれた理由、ですか?」

 あまりにもあまりなセリフに、当時の自分の気持ちを思い出し、どっと疲れが押し寄せてくる。
 その後も、何度もその店に通い――そのうち、方針転換に失敗した店がつぶれてからは、ひたすらに彼からの連絡を待ち続けていたというのに。

「まぁ、それだけが理由ってことでもないんだけどね」

 飄々とした態度は、彼の見掛けと同じく、最後に会った時と変わらない。それでまた思い出したのは、彼がこのような態度をとっているときは、どれほど問い詰めようが答える気はない、ということだ。
 思わず、ため息がこぼれる。そのタイミングで――。

「……あの、閣下。この方は、その……閣下のお知り合いで間違いない、ということですか?」

 おずおずと従者が口をはさんでくる。

「そうだよ。ふるーい知り合いだよ」
「ならば、その……このまま立ったままでお話しされるのも、何でございますし……」
「ああ、それもそうだな」

 何しろここは街道のど真ん中だ。幸い、通行するものは少ないが、何時までもここにいては邪魔になる。先を急ぐ旅ではないが、それでも一日の行程の予定というものもある。

「……カイン殿。実は私はこれから――」
「ウルカトに行くんでしょ? ちょうど僕もそっち方面に用事があってね。一緒にその馬車にのっけてくれるとありがたいなぁ」

 ついでに宿とか飯の面倒も見てくれると、すごい助かるんだよね――と。
 余りにも図々しい言い草に、従者がわずかに怒りの表情を見せる。だが、ジークリンドの反応は正反対だった。

「それは、是非に!」
「そう? じゃあ、遠慮なく」

 こんな得体のしれない相手と同乗など――従者や護衛としては、絶対に許せることではなかったが、主人であるジークリンドの命令とあらば仕方がない。しかも、二人で話をしたいから、と従者を後続の馬車に移動させられてしまった。

「心配ない。それより、周囲への警戒を頼むぞ」

 それでも、そのように命じられば、そうする他はなく――あれはいったい何者なのか、と。
 頭をひねりつつも、一行は再度、街道の上を進み始めた。 
 


「……改めて、お久しぶりです、カイン殿」
「うん、お久しぶり。君も元気そうで何よりだね」

 護衛や従者たちの心情はさておき、馬車の中では向かい合わせに座った二人が、のんびりとした会話を始めていた。

「ありがとうございます――それにしても、ここでお目にかかれるとは思いませんでした」
「そう? 僕としては、君がちょっとくらいは予想してたんじゃないかって、思ってたんだけど?」
「確かに、お会いしたい、とは思っていました……」

 正直に言えば、期待していた。ライムートと絵里の葬儀に、彼が姿を現してくれるのではないかと。

「お葬式の時? それは前に言ったよね、僕があの二人に会うことはないって」
「ええ、ですが……」

 最後の別れ位はしてもいいだろうに。
 そんな思いが顔に出ていたのか、カインが苦笑する。

「死んだ人には、誰がお葬式に来たかなんてわからないし、僕は、あの二人にはもうさよならを告げてある。それに、ああいう儀式は死者の為じゃない。生者の為にやるものだよ。だから、直接顔を見たこともないあの二人の子供や孫の前に、僕が出ていくのはちょっと違わない?」

 冷たい言葉、に聞こえる。以前の――まだカインに出会ったばかりの頃のジークリンドであれば、血相を変えて詰め寄っていたかもしれない。
 けれど、八十を越えるまでに、ジークリンドも幾つもの『別れ』を経験していた。だからこそ、全てに賛成はできずとも、共感する部分は確かにあった。

「生者の為の…・・・ですか」
「僕はそう思うよ。勿論、それが悪いって言ってるわけじゃないけどね」

 残されたものが、気持ちの区切りを必要とするのは、至極当たり前のことだ。

「現に、君だってそうでしょー? あんなお葬式じゃ区切りをつけられなくて、こんなところをのこのこ進んでたんでしょうに? 絵里ちゃんも、まさか君が直接持っていくとは思ってなかったんじゃないかな」
「……相変わらず、お見通しですね」

 先ほど、この度の目的地(の一つ)を言い当てたときと同じだ。
 何故、知っているのか? どうやって知ったのか?
 そのような問いは、この男(カイン)に対しては無意味だ。

「良く周りが許してくれたよね。説得するのは大変だっただろ?」
「私の役目は終わりましたからね。これが最後の御奉公です」

 ライムートと共に、ライムートのために生きてきた。誰に、強制されたわけでもない。彼自身が選んだ生き方だった。

「うん。君がそう決めたなら、そうするといいよ。それに、時期もいい――知ってる? トラインがようやく重い腰を上げて、あの村までの道を整備したんだ。今じゃ、この馬車くらいは悠々と通れる立派な道ができてるよ」
「ほう……それは知りませんした。麓で馬に乗り変えねば、と思っていたのですが……」

 かつて、彼がそこへと赴いた折には、馬で通るのも難儀するような山道だったのだ。

「今じゃ、立派なトラインの観光名所になってるからね。それとこれも教えておくけど、彼女――片野春歌さんね、まだ元気だよ。毎日のように集まってくる人に、ありがたいお説教して大人気」
「……」

 少しどころか、大いに驚く情報だった。思わず無言になる程度には。

「あの子もねー、しばらく……二十年くらいかな、そのくらいは色々悩んだり、足掻いたりしてたみたいだね。けど、その後はなんか吹っ切れたらしくてねー。自分の失敗を人に聞かせて、ついでに悩み相談なんかもうけてて、さ。あの時の騒動で『竜の巫女』なんて名前が付いたけど、昨今じゃ『お悩み相談巫女』様って呼ばれてるよ」
「……変われば変わるものですね」

 正直に言えば、彼女(片野春歌)の事は、あの事件が解決した後は殆ど思い出すことさえなかった。彼女の印象は最悪だったし、対峙したときには大いに腹をたてもしたが、事が終わってしまえば、ごくたまに『まだ生きているのだろうか?』と考える、その程度だった。
 けれど、彼女もまた自分たちと同じだけの年月を過ごしてきているのだ。

「本当に面白いよね、人って。この僕でさえ驚くような変わり方をしてくれる」

 でも、たまに全く変わらないのもいるけど――と。
 ちらりと自分の方を見られ、苦笑する。

「私の場合、変わる必要を感じませんでしたので」
「そういうとこ、ホントに頑固だよねぇ」
「誉め言葉と受け取っておきますよ」

 見た目も性格も何もかもが変わらないカインと軽口をたたき合っていると、まるで時が数十年も遡ったような錯覚に陥る。
 その所為で――というわけでもないが、カインを前に少々油断しすぎていた、とはジークリンド自身も認めざるを得なかった。

「でも、その頑固もそろそろいいんじゃない? ライムート君も最後の最後に、絵里ちゃんに白状してたんだし」
「……なんのことでしょう?」
「ああ、君は知らないか……ライムート君ね、亡くなる前の日に、自分の初恋が絵里ちゃんだったって、とうとう告白してたんだよ」
「それは……そうでしたか」

 何故それを――は、無駄だ。しかし、そこまでライムートが隠し通したことを、自分が聞いてもいいものなのだろうか?
 ジークリンドがそんなことを思ったのもつかの間、次のカインの言葉に体をこわばらせる。

「だから、さ。この際、君も言っちゃいなよ。自分の初恋、ってやつ? 大丈夫、誰にも言わないからさー」
「……何をおっしゃっておられるかわかりませんね」
「いいじゃない。どうせもう、国(シルヴァージュ)に帰るつもりはないんでしょ? 最後の最後まで抱え込んで逝くつもりなのもしれないけど、折角、僕がここにいるんだしー。ライムート君を見習って、ここはひとつ、すっきりしてから死ぬってのはどう?」

 いつも通りの人を食ったような微笑みと、これもやはりいつも通りの軽い口調で告げられた内容に、ジークリンドの胸中に、こらえきれない怒気が沸き起こる。
 これまで数十年間、胸の奥底に秘めてきたことを、こうまであっさりと――。

「……人は、それを余計なお世話というのですよ」

 二呼吸程の間に、ジークリンドがそれを抑え込めたのは、偏にこれまで培った人生経験があったからだ。

「うん、わかってるよー。それに、僕もいつもはこんなめんどくさいことはしないし?」
「私だから……ということですか?」
「うーん……どっちかというと、単なる僕の気まぐれ、かな」

 抑え込んだはずの怒りが、またも頭をもたげそうになる。
『この人はこういう人だ』と、かつて何度も思った言葉を、ひたすら心の中で繰り返すことで、それを何とかやり過ごし――ようやく冷静になったところで、一つため息をつく。

「本当に、腹の立つ方ですね」
「まぁまぁ、そういわずに。暇な年寄りを、ちょっと楽しませてくれてもいいんじゃない?」
「見た目からすれば、私の方がずっと年寄りです」

 そんなに憎まれ口を叩きながらも、降参するといった風に両手を上げる。

「貴方の事ですから、ここで白状しなければ、この先ずっとこの話を蒸し返すんですよね?」
「まぁ、そうかなー。だって、こんなに面白……じゃない、興味をそそられる話ってそうそうないんだよ」

 本気でそう思っているのか、それとも『興味をそそられはするが、それほど重要なことではない』と言外に伝えようとしているのか――カインの事だ、その両方であっても不思議ではない。

「何度もしつこく聞かれるよりはマシ、ですね……懺悔のつもりで、聞いていただけますか?」
「それほど重たい話じゃない気がするんだけどねー。まぁ、ジークリンドさんがそんな風に感じてるなら。一応、僕って神官の資格も持ってるし?」
「……今、一瞬、フォスに対して非常に無礼なことを考えました。それと、先ほどから気になっていましたが、そのとってつけたような『さん』付けはやめてください」
「えー? 今更それを言うの? 珍しく僕が気を使ったのに」
「貴方に気を使われていると思うと、非常にうすら寒い気持ちになりますので。是非とも以前のように呼んでいただきたく思います」

 カインと話をしていると、いつも――かつては、いつも――こうやって本題に入るのが遅くなる。
 軽口と無駄口、たまに憎まれ口のたたき合い。
 謹厳実直を絵にかいたようだと誰もが言うジークリンドのこんな姿を、もし普段の彼を知るものが見れば、己の目を疑うだろう。
 だが、ここにはカインとジークリンドの二人しかいない。
 八十を過ぎた老爺が、まるで若者のような口をきき、五十そこそこに見える男が、相手よりも偉そうに話していても、誰にとがめられることもない。
 だからこそ。

「さて、と――これだけ時間をかけたんだしさー。腹も決まったでしょうし、そろそろ始めない?」
「本当に、貴方はブレませんね……」
「どーんと懺悔しちゃいなよ! 神官様な僕が、ちゃんと聞いてあげるから」
「……懺悔、というほど、大げさなものではない気がしてきました」

 この短時間でそう思えるようになった。そこは感謝すべきだろう――決して口には出さないが。
 ふう、と大きく息を吐き、しばし瞑目した後。
 ジークリンドはゆっくりと話し始めた。


「先ほど、貴方は『私の初恋』と表現されましたが、そんなものではありません。少なくとも『恋』ではない。それほどの熱はありません。ただ……心は確かに動きました。それまでも、その後も、あの方ほど、私の心を動かした女人はいらっしゃいませんでした」

 ジークリンドの語りに、カインは何も言わない。ただ、その先を促すように、小さくうなづいた。

「最初にお目にかかったときは、正直って、どうしてこのような平凡な……と思いました。ですが、直ぐにそれが間違いだったとも気づきました。あの方は、黄金の心を持っていらっしゃいました。惜しみなく与え、さらけ出し、水のようにすべてを包み込んでくださる。ああ、確かにこの方ならば、と。私の生涯の主たるライムート様の側にいるに足りるお方だと確信したんです」
「……本人がそれを聞いたら、恥ずかしくてのたうち回るんじゃないかと思うんだけど……?」
「黙って聞くんじゃなかったんですか?」
「そんなことは一言も言ってないよ? しかし……美化にもほどがある思うんだけどなぁ?」
「いいんですよ。私がそう感じた、というのが重要なのです。あの方……妃殿下……絵里様は、私にとって、そういう存在でした」

 絵里様、と。ジークリンドは、おそらく彼の生涯で初めて、その名を口にする。ライムートが何十年かかっても、正確には発音できなかった、彼女の本当の名前を。

「くれぐれも申し上げますが、私が絵里様に抱いていたのは恋情ではありません。肉の欲を感じたことも、一度たりともありません」
「……それはそれで、傷つくんじゃないかと……」
「うるさいですよ。貴方が話せとしつこくつついたんですから、黙って聞きなさい」

 ライムートではないが、一生秘しておこうと思っていた『想い』を告白するにしては、どうにもしまらない状況だ。だが、だからこそ、全てを吐き出すことができたのだろう。

「私がライムート陛下――ライ様のおそばにいるのは、当然であり、必然であり、何より私の願いです。一歩前に出て、ライ様をお守りし、一歩下がって、ライ様がなすべきことをなされるのを見届ける――隣に立つなどと不遜なことは致しません。そこは、絵里様の為の場所です」
 ライ様。物心ついた頃からそう呼び、十歳になった時に封印した懐かしい呼び名を口にしたのも、この相手だからだ。

「それがつらい、とかはなかったのかな?」
「は? 私の話を聞いていましたか? 恋情ではないと言ったばかりですが、もう忘れましたか?」
「……僕より老けてる爺にボケ老人扱いされるのは、かなり心外……」
「実際の貴方は、私の数百倍は生きてるんでしょうに。それでボケていないのは奇跡ですね――そういうことですから、あのお二人にお仕えすることは、私の誇りであり喜びでした。苦痛だ、等とは一度たりとも思ったことはありません」

 いろいろときっぱりと言い切ると、カインは何とも言えない顔をする。

「まぁ、ジークリンド君がそこまで言うんだから、それが君にとっての真実なのはわかったけど……でもさ、恋じゃないっていうのなら、どうして結婚しなかったの?」
「……しつこいですね」
「だって、気になるしー。ここまでぶっちゃけてくれたんなら、そこも話してくれてもいいでしょ」

 どうあっても、最後まで聞きだすつもりのようだ。その熱心さ(?)に呆れて、ジークリンドはもう一度ため息を吐く。

「簡単な話ですよ。絵里様以上に、私の心を動す相手がいなかった。それだけです」
「絵里ちゃんへの気持ちは、恋でも愛でもないんでしょ? なのに?」
「だからこそ、です。私の剣はライ様に。忠誠はライ様と絵里様に捧げました。残るのは心ですが、それを託すに足る相手に出会わなかった。そんな状態で結婚したとしても、ろくな結果にはならないでしょう?」
「その絵里ちゃんに動いた『心』っていうのが、君にとっての『愛』じゃないの?」
「ならばお聞きしますが、カイン殿。貴方は、『気に入った』相手――この場合、異性と仮定して、そのすべてに『性愛』を感じるのですか?」

 逆に問い返され、今度はカインが苦笑する。

「確かに、それはないね」
「でしょう? 何らかの『情』はあっても、そこから先に進むのは稀です。無論、時間をかけて、それこそ結婚でもすれば、それが変化することはあるでしょう。ですが、私の場合は、最初の『情』すら覚えられない相手となるわけですから、希望はもてません。何より、私はあのお二方にお仕えしていたのです。その私が、表面だけを取り繕う仮面夫婦など――あのお二方を前に、そのような恥さらしな真似は死んでも御免です」
「……それが、君の譲れない一線なんだねぇ」

 要するに、ライムートと絵里の様に相思相愛の相手でないのならば、結婚しない方がマシ、ということだ。これが十代の若造のセリフならまだしも、八十を過ぎた老爺が真面目そのものの顔で言うのだから、カインとしても苦笑するほかない。

「それでも、さ……今までの間に、寂しいとか、誰か側にいてほしいとかもなかったの?」
「ありませんね。私の人生の中で最も孤独を感じたのは、ライ様がいらっしゃらなかった十年間です。そのライ様が戻ってきてくださった。絵里様とご一緒に。その上望むものなど何もありません」

 忠誠心をこじらせている、と言えるかもしれない。
 ジークリンドの言葉を額面通りに受け取るならば、彼の人生は、ひたすらライムート(と絵里)の為に費やされた。そこに、一般的な意味で言う『彼自身の幸せ』は存在していない――ように思える。
 だが。

「それじゃ、最後にもう一つだけ――君は、本当にそれで幸せだった?」
「ええ。まぎれもなく。私の人生は幸福そのものでした」
「そうか。じゃ、それでいいやー」

 それでも、ジークリンドの人生は、彼だけのものだ。その生き方をどうこう言うのは、僭越を通り越して傲慢でしかない。

「君の初恋話で、笑ってやろうと思ったのになー」
「生憎ですが、そんなものは存在しません」
「うん、そうだね……始まりもしてないもんね。けど、終わりもしてない。僕の思ってたのとはちょっと違ったけど……ほんとに、君は……君たちは素敵だよ」
「おほめに与った、と受け取っておきます」 

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