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おまけ
初恋は始まらず、終わらない 上
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先々代の国王にして『英雄王』たるライムート・エ・ラ・シルヴァージュが、『夢の離宮』にて薨去されてより、ひと月の後。
シルヴァージュを旅立とうとしている一台の馬車があった。
その座席に座るのは、八十をすぎた老紳士――その名をジークリンドリ・フォウ・イエンシュという。英雄王の右腕として長く仕え、王が退位をして後もその側に侍り続けた忠勤の士である。
そんな彼が乗った馬車が、ガラガラと音を立てて進むのは、ローマンコンクリートで舗装された道路だ。馬車には『サスペンション』と呼ばれる部品が取り付けられ、一昔前とは乗り心地が格段に良くなっていた。
本人は騎乗しての移動を望んでいたが、さすがにその高齢ではと反対され、仕方なく馬車の中に収まっていたのだが――。
「最近の馬車は前とは違う、とは聞いていたが……」
ごつごつとした石畳、或いはろくに整地もされていない街道を、車輪が踏む凸凹を直接拾う座席で、舌をかまないように口をつぐんで耐え忍ぶ。
そんな印象が強く、だからこそ騎乗でと願ったのだが、これならば馬上にいるよりもよほど快適な旅ができる。
「閣下は、馬車に乗られるのは久しぶりですか?」
ジークリンドリンドの世話をする為に、馬車には従者が一人同乗しており、小さなつぶやきを聞きつけたようだ。
「ああ。体が鈍るからな。できるだけ馬で移動するようにしていた」
「そうなのですね――今は、『タイヤ』と呼ばれるものが開発中だそうですよ。それがあれば、もっと快適になるとか」
「それも、妃殿下が……?」
「そのように伺っております」
彼が『妃殿下』と呼ぶのは、『英雄王』ライムートの妻であり、『奇跡の王妃』と謳われた女性だ。
今から五十年以上も前、難病を患い長い療養生活を送っていたライムート王のもとに忽然と現れ、彼の病を癒しただけではなく、遠いディアハラから突き付けられていた難問を瞬く間に解決した。
更には、どこで知りえたのか、様々な知識をシルヴァージュにもたらしてくれたのも彼女だ。
この街道を『舗装』している『ローマンコンクリート』や、馬車に取り付けられた『サスペンション』も、勿論、彼女の知識の産物だし、その他にも――数え上げればきりがない。
だが、もうその数が増えることはない。
「本当に……得難い方だったな」
「はい」
その彼女の置き土産である街道を北上中の馬車の行き先は、トライン。その後、大陸の半分を横断してウルカトへと向かう予定だ。
「すまんな、こんな旅に付き合わせて」
「何をおっしゃいます。ジークリンドリンド様にお仕えできるのは、我々の喜びです」
本当は一人で行くつもりだった。が、騎乗を止められた時の比ではない反対にあい、仕方なく大仰な馬車を仕立てての旅となっていた。
「それに、これは、亡き太王太后様の願いでもあられるのでしょう?」
「ああ……」
あの日。
ライムートが身罷る前の夜。ジークリンドは絵里に呼ばれ、その私室を訪れていた。
「……妃殿下、ジークリンドリンドです。お呼びと伺いました」
「ジーク? ……早かったのね」
長らくライムートの側近として務めあげた彼には、その役目にふさわしい屋敷を持っている。が、ライムートの在位中は、その屋敷に戻るのは着替えか就寝の為だけで、ほとんど王宮に住んでいるようなものだった。それはライムートが退位してからも変わらず、絵里と二人で小さな離宮に引っ込んだ時にも、当たり前のようについてきていた。
そのため、絵里が予想したよりも早く、彼女の部屋を訪れることができたのだが――後々、考えれば、もっとゆっくりと、絵里の心の準備ができるのを待ってからにするべきだった。
「いいわ、入ってきて」
「失礼いたします」
入室の許可が下りたために、一礼をして室内へと足を踏み入れる。その際、少しだけ扉を開けておくのは、身分ある女性の部屋での基本的な礼儀だ。
だが――。
「ああ、ドアはしっかりしめておいてね」
「は? ですが……」
それを、当の絵里から『閉めるように』と告げられ、戸惑う。
「誰かに聞かれたくない話なのよ。人払いもしてあるわ」
苦笑しながら言われ、それでも躊躇う彼に、もう一度、少しだけ強く命じられた。
「いいから、閉めて。で、そこに座って」
椅子を勧める――というか、座るように命じられ、率先して絵里が指定された向かいの席に腰を下ろす。
そこまで言われたからには、少々居心地の悪い思いをしながらもその言葉に従うほかない。
「……その様子だと、まだ何も聞いてないのね」
「はい。ただ、妃殿下がお呼びとだけ」
時間からして、夕食の誘いかとも思ったが、彼を呼びに来た女官は、ただ『お急ぎください』というだけで、仔細を語ろうとはしなかった。何より、食事をするのなら絵里の私室ではなく食堂を指定されたはずだ。
一体、何の話があるというのか。
わずかな不安が頭をもたげてくるが、それを振りはらい、絵里の言葉を待つ。
「貴方も……年を取ったわね」
しかし、最初に彼女の口から出たのは、それだった。
些か拍子抜けをしたものの、直ぐに調子を合わせる。
「はい。さすがに八十も過ぎましたので」
この年になれば、皺も白髪も増える。兄や姉のところは既にひ孫までいるのだ。
ちなみに、その内の三名ほどは、絵里とライムートのひ孫でもある――彼らの長女であるアイナと、姉の息子の孫である。
しかし、それでも今でも鍛錬は欠かさず、背はしゃんと伸びているはずだ。
どれほどその可能性が低かろうと、ライムートと絵里に何事かあったときには、その身を守る剣の一本となる。それがジークリンドの矜持であり、願いでもあった。
「体の調子は?」
「おかげさまで、まだしばらくは陛下にお仕えできそうです」
「そう……貴方には、ライも、ずっと感謝していたわ」
「……妃殿下?」
世間話の、何気ない言葉のはずだ。ただ、末尾が過去形だっただけ――けれど、おそらく、それがここに呼ばれた理由。
「まさか……陛下、は……?」
「明日までは、きっと待ってくれると思うの。だから――今は、少しだけ私の話に付き合って?」
そうではない、と。違う、と。
どうかそう言ってほしいと願ったのに、絵里から戻ってきたのは、ライムートの現状を知らせる言葉だった。
「……はい」
それでもまだ猶予はある、らしい。そのことで少しだけ焦燥が収まった。
「貴方に、いくつかやってもらいたいことがあるの。どうしても、貴方以外にはお願いできないのよ」
「何なりと」
この状況で、この言葉。それだけで十分だ。
きっぱりと答えると、絵里がかすかに微笑んだ。
「ありがとう――では、まずその短剣を貸してくれる?」
騎士でもある彼だが、流石に高齢となった今は流石に剣を携えることはやめていた。それでも、万が一の時の為に、小さなものは身に着けている。それを渡せとは、一体何を考えているのか……?
「変な心配しなくてもいいわ。何なら、貴方がやってくれる?」
「何を、でしょうか?」
「ちょっとね……髪を切ってほしいの」
ここの辺りから、こう、バッサリと――と。項の辺りを指し示しながら、絵里が言う。
夫を持つ女性は髪を結い上げるのがシルヴァージュの習慣だが、ライムートが絵里の髪の手触りを好んでいたため、公式の場以外ではずっと下ろしていた。今もそうだ。
「妃殿下……ですが……」
「ええ。ライが気に入ってくれていたから、ずっと伸ばしていたんだけどね。大丈夫よ、明日はヴェールでもかぶっていれば気づかれないわ。もう少し後にしようかと思ったんだけど、子供たちが駆けつける前の方がとやかく言われないと思うの」
「……御髪を切られて、どうなさるのですか?」
「私のいた世界ではね。夫がなくなると、妻は髪を切って仏門――って言ってもわからないわね。神様に仕えて、夫を弔うのよ。髪を切るのは、俗世とは縁を切るという印なの」
絵里の生きていた時代よりもはるか昔の習慣だが、ジークリンドリンドにはそれがわからない。ただ、彼女の言葉を聞くだけだ。
「神殿に、入られるおつもりですか?」
「まだ、そこまでは決めてないんだけどね。そう言っておいた方が、周りも納得しやすいでしょう?」
「ということは、本当の理由は他にある、と?」
「ええ」
先ほど、絵里は『いくつか』といった。ならば、この先があるはずだ。
「私の体の中には、たくさんマナが詰まっているのは貴方も知っているわよね? 前はあちこちへ行ってそれを使っていたのだけど、さすがに私もこの年で、そういうこともできなくなってきたわ。だけど、このままにしておくのはもったいないとおもわない?」
ライムートの、今際の際に、こんな会話を交わす必要があるのか?
そんなことは、もっと後回しでもいいのではないか?
一瞬、そんな風にも思ってしまうが、直ぐにそれを振り払うする。絵里が『今』でなければならないというのなら、黙って話の続きを聞くだけだ。
「私の元の世界では、女の髪には力が宿る、って言われているの。だったら、この髪にもちょっとばかりはマナがあるんじゃないかって思うのよ。だから、私がまだ元気なうちにこれを切って――それを、国のあちこちにおいておけば、この先、もし何かあったときに、少しは役に立つんじゃないかって思うのよ」
「……だから、私にその御髪を託される、と?」
「こんなおばあちゃんの髪なんて、気持ち悪いかもしれないけどね」
苦笑しながら言われた言葉を、即座に否定する。
「そのようなことは、絶対にございません」
「ありがとう、ジーク――だったら、お願いできるわね?」
さらり、と。自分の背の半ばまである髪に触れながら、絵里が礼を言う。
すっかり白髪の方が多くなったライムートや彼とは異なり、絵里の髪はいまだ黒く艶やかだ。
その絵里に目顔で促され、ジークリンドは座っていた場所から立ちあがった。
そのまま彼女の背後に回り、腰に携えていた短剣を抜くと――ほんの少し震える手で、一房ずつ、その髪をそいでいく。
ふさり、ふさり……と。長く黒い髪が、傍らのテーブルの上に積みあがり――。
「ありがとう、ジーク。ふふ……すっきり軽くなったわ」
「妃殿下……」
短剣で削いだだけだが、その切れ味に加えてジークリンドの腕がいいのだろう。
肩より少し短い長さで切られた絵里の髪は、まるで本職の手によるものの様に、きれいにそろっていた。
「それを国中の神殿に少しずつ――箱に入れて、お金と一緒に奉納するように手配してほしいの。それと……こちらは急がないでいいから、ウルカトとトラインにも。ウルカトは海に流して、トラインは……片野さんがいた神殿でいいかしらね」
「……なぜ、とお聞きしても?」
「お世話になったから、かしら? 海竜はなんとなくだけど、あの時、私が海を泳ぎ切るのを助けてくれた気がするのよ。炎竜は、まぁ……最後のご挨拶かしらね。あれっきり、ご無沙汰してるし?」
国家的な機密事項になるが、ジークリンドはそれらすべての事情を知っている。だからこそ、絵里も彼に託酢のだろう。
「面倒なことを頼んで、申し訳なく思うけど――」
「滅相もございません。謹んで承りました」
切られた髪の一筋すら残さぬように、近くにあった布で丁寧にそれらを包む。
「直ぐに手配いたします」
「ああ、今でなくてもいいわ。それより、引き留めてしまってごめんなさい。貴方も、もう、行ってあげて?」
夜更け――少なくとも朝までには、二人の子供たちが駆けつけてくるだろう。そうなれば、厳密には親族ではない彼は遠慮せざるを得ない。その前に、と。
「……お心遣い、感謝いたします」
時間にすればほんのわずかも知れないが、それこそ生まれたときからライムートの側にいたジークリンドにとって、それは何よりもありがたい言葉だった。
『二人』の葬儀の後、ジークリンドは絵里に頼まれた通り、国内の主要な都市の教会へ、そこそこの金額と共に彼女の遺髪を収めた箱を奉納した。
その髪に多量のマナが宿っている事は、取り立てて口にはしなかったが、ある程度の能力があるものが見れば一目瞭然だろう。もしそんな力を持つ者がいなくとも、亡き『奇跡の王妃』が国民の安寧を願って奉納したのだから、無碍に扱われることもないはずだ。
それらが終われば――残るはトラインとウルカトである。
国内はともかく遠方となる二か所については、おそらくは絵里は誰か人を遣って叶えたいと思っていたのだろうが、ジークリンドがそんなことをするはずがない。
老齢ということで、一応の反対はされたが『ひそかにうかがっていた御遺言』という形をとって説明すれば、渋々ながらも受け入れられた。
何より、ジークリンドリンドと、亡き夫妻との親交は誰しもが知るところであった事が大きい。
そんなことを思い出しながら馬車に揺られていれば、遠慮がちに従者が声をかけてくる。
「先はまだ長ごうございます。お休みになられてはいかがですか?」
「そうだな、もう少ししたら……」
そんな会話を交わした時。
急に馬車が止まった。
「……どうした?」
「少々お待ちください。様子を聞いてまいります」
馬車の揺れからして、下の街道は舗装済と思われる。ということは、まだここはシルヴァージュ国内だ。代々の治世が行き届いていたおかげで、少なくとも主要な街道には盗賊が姿を現さなくなって久しい。
ただ、国境が近いということで隣国から流れてきた、という可能性もある。
にわかに緊張し、車外から聞こえてくる会話に耳を澄ませる。
すると――。
「立ち去れっ! この馬車は、とある高貴なお方がお乗りになっている。貴様の様な風体の者が近寄っていいお方ではない」
「うん、しってるよ。ジークリンド君が乗ってるんだよね」
護衛に付いてきていた者と、何者かが言い争いをしているような声が聞こえてきたのだが、その相手と思しき者の声を耳にした途端。
「!?」
ジークリンドの体に衝撃が走った。
シルヴァージュを旅立とうとしている一台の馬車があった。
その座席に座るのは、八十をすぎた老紳士――その名をジークリンドリ・フォウ・イエンシュという。英雄王の右腕として長く仕え、王が退位をして後もその側に侍り続けた忠勤の士である。
そんな彼が乗った馬車が、ガラガラと音を立てて進むのは、ローマンコンクリートで舗装された道路だ。馬車には『サスペンション』と呼ばれる部品が取り付けられ、一昔前とは乗り心地が格段に良くなっていた。
本人は騎乗しての移動を望んでいたが、さすがにその高齢ではと反対され、仕方なく馬車の中に収まっていたのだが――。
「最近の馬車は前とは違う、とは聞いていたが……」
ごつごつとした石畳、或いはろくに整地もされていない街道を、車輪が踏む凸凹を直接拾う座席で、舌をかまないように口をつぐんで耐え忍ぶ。
そんな印象が強く、だからこそ騎乗でと願ったのだが、これならば馬上にいるよりもよほど快適な旅ができる。
「閣下は、馬車に乗られるのは久しぶりですか?」
ジークリンドリンドの世話をする為に、馬車には従者が一人同乗しており、小さなつぶやきを聞きつけたようだ。
「ああ。体が鈍るからな。できるだけ馬で移動するようにしていた」
「そうなのですね――今は、『タイヤ』と呼ばれるものが開発中だそうですよ。それがあれば、もっと快適になるとか」
「それも、妃殿下が……?」
「そのように伺っております」
彼が『妃殿下』と呼ぶのは、『英雄王』ライムートの妻であり、『奇跡の王妃』と謳われた女性だ。
今から五十年以上も前、難病を患い長い療養生活を送っていたライムート王のもとに忽然と現れ、彼の病を癒しただけではなく、遠いディアハラから突き付けられていた難問を瞬く間に解決した。
更には、どこで知りえたのか、様々な知識をシルヴァージュにもたらしてくれたのも彼女だ。
この街道を『舗装』している『ローマンコンクリート』や、馬車に取り付けられた『サスペンション』も、勿論、彼女の知識の産物だし、その他にも――数え上げればきりがない。
だが、もうその数が増えることはない。
「本当に……得難い方だったな」
「はい」
その彼女の置き土産である街道を北上中の馬車の行き先は、トライン。その後、大陸の半分を横断してウルカトへと向かう予定だ。
「すまんな、こんな旅に付き合わせて」
「何をおっしゃいます。ジークリンドリンド様にお仕えできるのは、我々の喜びです」
本当は一人で行くつもりだった。が、騎乗を止められた時の比ではない反対にあい、仕方なく大仰な馬車を仕立てての旅となっていた。
「それに、これは、亡き太王太后様の願いでもあられるのでしょう?」
「ああ……」
あの日。
ライムートが身罷る前の夜。ジークリンドは絵里に呼ばれ、その私室を訪れていた。
「……妃殿下、ジークリンドリンドです。お呼びと伺いました」
「ジーク? ……早かったのね」
長らくライムートの側近として務めあげた彼には、その役目にふさわしい屋敷を持っている。が、ライムートの在位中は、その屋敷に戻るのは着替えか就寝の為だけで、ほとんど王宮に住んでいるようなものだった。それはライムートが退位してからも変わらず、絵里と二人で小さな離宮に引っ込んだ時にも、当たり前のようについてきていた。
そのため、絵里が予想したよりも早く、彼女の部屋を訪れることができたのだが――後々、考えれば、もっとゆっくりと、絵里の心の準備ができるのを待ってからにするべきだった。
「いいわ、入ってきて」
「失礼いたします」
入室の許可が下りたために、一礼をして室内へと足を踏み入れる。その際、少しだけ扉を開けておくのは、身分ある女性の部屋での基本的な礼儀だ。
だが――。
「ああ、ドアはしっかりしめておいてね」
「は? ですが……」
それを、当の絵里から『閉めるように』と告げられ、戸惑う。
「誰かに聞かれたくない話なのよ。人払いもしてあるわ」
苦笑しながら言われ、それでも躊躇う彼に、もう一度、少しだけ強く命じられた。
「いいから、閉めて。で、そこに座って」
椅子を勧める――というか、座るように命じられ、率先して絵里が指定された向かいの席に腰を下ろす。
そこまで言われたからには、少々居心地の悪い思いをしながらもその言葉に従うほかない。
「……その様子だと、まだ何も聞いてないのね」
「はい。ただ、妃殿下がお呼びとだけ」
時間からして、夕食の誘いかとも思ったが、彼を呼びに来た女官は、ただ『お急ぎください』というだけで、仔細を語ろうとはしなかった。何より、食事をするのなら絵里の私室ではなく食堂を指定されたはずだ。
一体、何の話があるというのか。
わずかな不安が頭をもたげてくるが、それを振りはらい、絵里の言葉を待つ。
「貴方も……年を取ったわね」
しかし、最初に彼女の口から出たのは、それだった。
些か拍子抜けをしたものの、直ぐに調子を合わせる。
「はい。さすがに八十も過ぎましたので」
この年になれば、皺も白髪も増える。兄や姉のところは既にひ孫までいるのだ。
ちなみに、その内の三名ほどは、絵里とライムートのひ孫でもある――彼らの長女であるアイナと、姉の息子の孫である。
しかし、それでも今でも鍛錬は欠かさず、背はしゃんと伸びているはずだ。
どれほどその可能性が低かろうと、ライムートと絵里に何事かあったときには、その身を守る剣の一本となる。それがジークリンドの矜持であり、願いでもあった。
「体の調子は?」
「おかげさまで、まだしばらくは陛下にお仕えできそうです」
「そう……貴方には、ライも、ずっと感謝していたわ」
「……妃殿下?」
世間話の、何気ない言葉のはずだ。ただ、末尾が過去形だっただけ――けれど、おそらく、それがここに呼ばれた理由。
「まさか……陛下、は……?」
「明日までは、きっと待ってくれると思うの。だから――今は、少しだけ私の話に付き合って?」
そうではない、と。違う、と。
どうかそう言ってほしいと願ったのに、絵里から戻ってきたのは、ライムートの現状を知らせる言葉だった。
「……はい」
それでもまだ猶予はある、らしい。そのことで少しだけ焦燥が収まった。
「貴方に、いくつかやってもらいたいことがあるの。どうしても、貴方以外にはお願いできないのよ」
「何なりと」
この状況で、この言葉。それだけで十分だ。
きっぱりと答えると、絵里がかすかに微笑んだ。
「ありがとう――では、まずその短剣を貸してくれる?」
騎士でもある彼だが、流石に高齢となった今は流石に剣を携えることはやめていた。それでも、万が一の時の為に、小さなものは身に着けている。それを渡せとは、一体何を考えているのか……?
「変な心配しなくてもいいわ。何なら、貴方がやってくれる?」
「何を、でしょうか?」
「ちょっとね……髪を切ってほしいの」
ここの辺りから、こう、バッサリと――と。項の辺りを指し示しながら、絵里が言う。
夫を持つ女性は髪を結い上げるのがシルヴァージュの習慣だが、ライムートが絵里の髪の手触りを好んでいたため、公式の場以外ではずっと下ろしていた。今もそうだ。
「妃殿下……ですが……」
「ええ。ライが気に入ってくれていたから、ずっと伸ばしていたんだけどね。大丈夫よ、明日はヴェールでもかぶっていれば気づかれないわ。もう少し後にしようかと思ったんだけど、子供たちが駆けつける前の方がとやかく言われないと思うの」
「……御髪を切られて、どうなさるのですか?」
「私のいた世界ではね。夫がなくなると、妻は髪を切って仏門――って言ってもわからないわね。神様に仕えて、夫を弔うのよ。髪を切るのは、俗世とは縁を切るという印なの」
絵里の生きていた時代よりもはるか昔の習慣だが、ジークリンドリンドにはそれがわからない。ただ、彼女の言葉を聞くだけだ。
「神殿に、入られるおつもりですか?」
「まだ、そこまでは決めてないんだけどね。そう言っておいた方が、周りも納得しやすいでしょう?」
「ということは、本当の理由は他にある、と?」
「ええ」
先ほど、絵里は『いくつか』といった。ならば、この先があるはずだ。
「私の体の中には、たくさんマナが詰まっているのは貴方も知っているわよね? 前はあちこちへ行ってそれを使っていたのだけど、さすがに私もこの年で、そういうこともできなくなってきたわ。だけど、このままにしておくのはもったいないとおもわない?」
ライムートの、今際の際に、こんな会話を交わす必要があるのか?
そんなことは、もっと後回しでもいいのではないか?
一瞬、そんな風にも思ってしまうが、直ぐにそれを振り払うする。絵里が『今』でなければならないというのなら、黙って話の続きを聞くだけだ。
「私の元の世界では、女の髪には力が宿る、って言われているの。だったら、この髪にもちょっとばかりはマナがあるんじゃないかって思うのよ。だから、私がまだ元気なうちにこれを切って――それを、国のあちこちにおいておけば、この先、もし何かあったときに、少しは役に立つんじゃないかって思うのよ」
「……だから、私にその御髪を託される、と?」
「こんなおばあちゃんの髪なんて、気持ち悪いかもしれないけどね」
苦笑しながら言われた言葉を、即座に否定する。
「そのようなことは、絶対にございません」
「ありがとう、ジーク――だったら、お願いできるわね?」
さらり、と。自分の背の半ばまである髪に触れながら、絵里が礼を言う。
すっかり白髪の方が多くなったライムートや彼とは異なり、絵里の髪はいまだ黒く艶やかだ。
その絵里に目顔で促され、ジークリンドは座っていた場所から立ちあがった。
そのまま彼女の背後に回り、腰に携えていた短剣を抜くと――ほんの少し震える手で、一房ずつ、その髪をそいでいく。
ふさり、ふさり……と。長く黒い髪が、傍らのテーブルの上に積みあがり――。
「ありがとう、ジーク。ふふ……すっきり軽くなったわ」
「妃殿下……」
短剣で削いだだけだが、その切れ味に加えてジークリンドの腕がいいのだろう。
肩より少し短い長さで切られた絵里の髪は、まるで本職の手によるものの様に、きれいにそろっていた。
「それを国中の神殿に少しずつ――箱に入れて、お金と一緒に奉納するように手配してほしいの。それと……こちらは急がないでいいから、ウルカトとトラインにも。ウルカトは海に流して、トラインは……片野さんがいた神殿でいいかしらね」
「……なぜ、とお聞きしても?」
「お世話になったから、かしら? 海竜はなんとなくだけど、あの時、私が海を泳ぎ切るのを助けてくれた気がするのよ。炎竜は、まぁ……最後のご挨拶かしらね。あれっきり、ご無沙汰してるし?」
国家的な機密事項になるが、ジークリンドはそれらすべての事情を知っている。だからこそ、絵里も彼に託酢のだろう。
「面倒なことを頼んで、申し訳なく思うけど――」
「滅相もございません。謹んで承りました」
切られた髪の一筋すら残さぬように、近くにあった布で丁寧にそれらを包む。
「直ぐに手配いたします」
「ああ、今でなくてもいいわ。それより、引き留めてしまってごめんなさい。貴方も、もう、行ってあげて?」
夜更け――少なくとも朝までには、二人の子供たちが駆けつけてくるだろう。そうなれば、厳密には親族ではない彼は遠慮せざるを得ない。その前に、と。
「……お心遣い、感謝いたします」
時間にすればほんのわずかも知れないが、それこそ生まれたときからライムートの側にいたジークリンドにとって、それは何よりもありがたい言葉だった。
『二人』の葬儀の後、ジークリンドは絵里に頼まれた通り、国内の主要な都市の教会へ、そこそこの金額と共に彼女の遺髪を収めた箱を奉納した。
その髪に多量のマナが宿っている事は、取り立てて口にはしなかったが、ある程度の能力があるものが見れば一目瞭然だろう。もしそんな力を持つ者がいなくとも、亡き『奇跡の王妃』が国民の安寧を願って奉納したのだから、無碍に扱われることもないはずだ。
それらが終われば――残るはトラインとウルカトである。
国内はともかく遠方となる二か所については、おそらくは絵里は誰か人を遣って叶えたいと思っていたのだろうが、ジークリンドがそんなことをするはずがない。
老齢ということで、一応の反対はされたが『ひそかにうかがっていた御遺言』という形をとって説明すれば、渋々ながらも受け入れられた。
何より、ジークリンドリンドと、亡き夫妻との親交は誰しもが知るところであった事が大きい。
そんなことを思い出しながら馬車に揺られていれば、遠慮がちに従者が声をかけてくる。
「先はまだ長ごうございます。お休みになられてはいかがですか?」
「そうだな、もう少ししたら……」
そんな会話を交わした時。
急に馬車が止まった。
「……どうした?」
「少々お待ちください。様子を聞いてまいります」
馬車の揺れからして、下の街道は舗装済と思われる。ということは、まだここはシルヴァージュ国内だ。代々の治世が行き届いていたおかげで、少なくとも主要な街道には盗賊が姿を現さなくなって久しい。
ただ、国境が近いということで隣国から流れてきた、という可能性もある。
にわかに緊張し、車外から聞こえてくる会話に耳を澄ませる。
すると――。
「立ち去れっ! この馬車は、とある高貴なお方がお乗りになっている。貴様の様な風体の者が近寄っていいお方ではない」
「うん、しってるよ。ジークリンド君が乗ってるんだよね」
護衛に付いてきていた者と、何者かが言い争いをしているような声が聞こえてきたのだが、その相手と思しき者の声を耳にした途端。
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