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第五話 私の馬
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学園の授業が終わり、私はノックスに跨りました。
ノックスは夜のように黒い牡馬で、今年で十一歳になります。
八年前、避暑地の町で暴走して、私を森に振り落とした馬です。
やはりあのときは若過ぎたのか、あれからはすっかり丸くなって、今は私の感情が乱れているのを感じ取っても暴走するようなことはありません。
むしろほかの年嵩の馬よりも賢いと言われるようになりました。
種牡馬にならないかという話もあったのですが、ノックスは不思議と雌馬に興味を示しません。どこかで恋した雌馬を今も思い続けているのかも、なんて思うのは、自分が初恋に囚われ続けているからかもしれません。
護衛の女性騎士に後ろから見守られながら馬で帰宅しているのは、オズワルド様が今日もカテーナ様の馬車で帰っているからです。
彼女が留学してきて、彼の隣にいるのが当たり前のようになってから、私はずっとノックスで登下校しています。
男の子になる、なんて宣言したものの、私がフォルミーカ伯爵家の跡取りになる必要はなくなりましたし、気の弱い性格は変わっていません。
もう少し強気ならカテーナ様に直接意見して、喧嘩になっていたかもしれません。
そうなっていたら、初恋同士のふたりを引き裂く悪役として噂になっていたかもしれませんね。
ふたりの関係だけが噂になって、私のことが忘れられている今の状態のほうが良かったのかもしれません。
卒業までは後三ヶ月ほどでしょうか。
それまでにカテーナ様とルプス大公殿下の縁談は結ばれるのでしょうか。
カテーナ様がそれを拒んだら、どうしてもオズワルド様が良いとおっしゃったなら、どうなってしまうのでしょうか。
彼女を見て微笑むオズワルド様の緑の瞳は、私を見るときとは違っているように感じます。
もしかしたら……もしかしたらオズワルド様の思い出は、私のものとは異なっているのかもしれません。
内緒と言われたので、あまり口に出すことはありませんが、ちょっとしたときに思い出について話すと、微妙な齟齬を感じることがあるのです。
もしかしたらオズワルド様が覚えていらっしゃる避暑地の思い出は、私とのものではなくカテーナ様とのものなのではないでしょうか。
だから齟齬を感じるのではないでしょうか。
噂だけでなく、あのふたりは本当に初恋の相手同士なのかもしれません。
私の初恋が始まりの婚約ではありません。
そもそも避暑地の思い出を語ったことはあっても、私はカテーナ様とは違い、そのとき出会った彼が初恋の相手だとは言っていません。彼に私が初恋の相手だと言われたこともありません。
フォルミーカ伯爵家とクレックス伯爵家の政略的な婚約です。
それでも、私は彼が好きでした。
相変わらず気の弱い私が、自分なりにクレックス伯爵領のことを考えて話すのを静かに聞いてくれる彼が。
初めて会ったとき、お世辞だとしても綺麗だと言ってくれた彼が。その優しい微笑みが。
黒髪に琥珀の瞳という暗い色合いで性格も内向的な私は、他者に陰気な印象を与えるようなのです。
実際のところ、明るいかと聞かれると自分でも首を傾げてしまいます。
家族や家臣以外に綺麗と言われたのはオズワルド様が初めてでした。彼の隣に立てる人間になりたくて、これまで頑張ってきたつもりなのですが──
「ヒィーンッッ!」
帰路の途中、突然ノックスが甲高く嘶きました。
「お嬢様っ、伏せてください!」
背後の女性騎士も叫びます。
私は言われた通り頭を下げました。
キィン、と金属同士がぶつかる音がします。辺りを見回しながら、騎士が言います。
「だれかが攻撃してきました。どこかの路地にいるのかもしれません」
頭を下げたまま窺うと、騎士の馬の隣に短剣が落ちていました。
私を狙って投げられたものを騎士が剣で叩き落したものと思われます。
伏せろと言われたのは念のためでしょう。ノックスは危険を知らせるためか、嘶きに驚いた襲撃者が手元を狂わせることを期待して声を上げたに違いありません。賢い馬なのです。
ここは貴族街です。
一軒一軒が広く大きく、門番の並んだ正門は離れています。
広い庭を覗かせる鉄柵の並んだ場所での襲撃でした。騎士の言う通り、襲撃者は敷地と敷地の間の路地に隠れているに違いありません。
「……私が囮になります。路地から出てきた襲撃者が私を襲っている隙に、お嬢様はフォルミーカ伯爵邸までノックスを走らせてください」
剣を構えたまま、騎士が私に言います。
近くの貴族家に救いを求めてはどうかとも思いましたが、襲撃されたことを面白おかしい噂にされて、貴族令嬢として生きていけなくされても困ります。
騎士の言葉に頷いて、私は駆け出すべきときを待ちました。
近くの路地から気配がします。
中からの影がこちらの道へ伸びて、
「ヒヒィィィンッ!」
ノックスが再び嘶きました。
ですが、その声はなぜか危険を知らせるものではなく、歓喜しているかのように私には聞こえたのです。
前の声よりも大きく長く鳴いていたからでしょうか。
ノックスは夜のように黒い牡馬で、今年で十一歳になります。
八年前、避暑地の町で暴走して、私を森に振り落とした馬です。
やはりあのときは若過ぎたのか、あれからはすっかり丸くなって、今は私の感情が乱れているのを感じ取っても暴走するようなことはありません。
むしろほかの年嵩の馬よりも賢いと言われるようになりました。
種牡馬にならないかという話もあったのですが、ノックスは不思議と雌馬に興味を示しません。どこかで恋した雌馬を今も思い続けているのかも、なんて思うのは、自分が初恋に囚われ続けているからかもしれません。
護衛の女性騎士に後ろから見守られながら馬で帰宅しているのは、オズワルド様が今日もカテーナ様の馬車で帰っているからです。
彼女が留学してきて、彼の隣にいるのが当たり前のようになってから、私はずっとノックスで登下校しています。
男の子になる、なんて宣言したものの、私がフォルミーカ伯爵家の跡取りになる必要はなくなりましたし、気の弱い性格は変わっていません。
もう少し強気ならカテーナ様に直接意見して、喧嘩になっていたかもしれません。
そうなっていたら、初恋同士のふたりを引き裂く悪役として噂になっていたかもしれませんね。
ふたりの関係だけが噂になって、私のことが忘れられている今の状態のほうが良かったのかもしれません。
卒業までは後三ヶ月ほどでしょうか。
それまでにカテーナ様とルプス大公殿下の縁談は結ばれるのでしょうか。
カテーナ様がそれを拒んだら、どうしてもオズワルド様が良いとおっしゃったなら、どうなってしまうのでしょうか。
彼女を見て微笑むオズワルド様の緑の瞳は、私を見るときとは違っているように感じます。
もしかしたら……もしかしたらオズワルド様の思い出は、私のものとは異なっているのかもしれません。
内緒と言われたので、あまり口に出すことはありませんが、ちょっとしたときに思い出について話すと、微妙な齟齬を感じることがあるのです。
もしかしたらオズワルド様が覚えていらっしゃる避暑地の思い出は、私とのものではなくカテーナ様とのものなのではないでしょうか。
だから齟齬を感じるのではないでしょうか。
噂だけでなく、あのふたりは本当に初恋の相手同士なのかもしれません。
私の初恋が始まりの婚約ではありません。
そもそも避暑地の思い出を語ったことはあっても、私はカテーナ様とは違い、そのとき出会った彼が初恋の相手だとは言っていません。彼に私が初恋の相手だと言われたこともありません。
フォルミーカ伯爵家とクレックス伯爵家の政略的な婚約です。
それでも、私は彼が好きでした。
相変わらず気の弱い私が、自分なりにクレックス伯爵領のことを考えて話すのを静かに聞いてくれる彼が。
初めて会ったとき、お世辞だとしても綺麗だと言ってくれた彼が。その優しい微笑みが。
黒髪に琥珀の瞳という暗い色合いで性格も内向的な私は、他者に陰気な印象を与えるようなのです。
実際のところ、明るいかと聞かれると自分でも首を傾げてしまいます。
家族や家臣以外に綺麗と言われたのはオズワルド様が初めてでした。彼の隣に立てる人間になりたくて、これまで頑張ってきたつもりなのですが──
「ヒィーンッッ!」
帰路の途中、突然ノックスが甲高く嘶きました。
「お嬢様っ、伏せてください!」
背後の女性騎士も叫びます。
私は言われた通り頭を下げました。
キィン、と金属同士がぶつかる音がします。辺りを見回しながら、騎士が言います。
「だれかが攻撃してきました。どこかの路地にいるのかもしれません」
頭を下げたまま窺うと、騎士の馬の隣に短剣が落ちていました。
私を狙って投げられたものを騎士が剣で叩き落したものと思われます。
伏せろと言われたのは念のためでしょう。ノックスは危険を知らせるためか、嘶きに驚いた襲撃者が手元を狂わせることを期待して声を上げたに違いありません。賢い馬なのです。
ここは貴族街です。
一軒一軒が広く大きく、門番の並んだ正門は離れています。
広い庭を覗かせる鉄柵の並んだ場所での襲撃でした。騎士の言う通り、襲撃者は敷地と敷地の間の路地に隠れているに違いありません。
「……私が囮になります。路地から出てきた襲撃者が私を襲っている隙に、お嬢様はフォルミーカ伯爵邸までノックスを走らせてください」
剣を構えたまま、騎士が私に言います。
近くの貴族家に救いを求めてはどうかとも思いましたが、襲撃されたことを面白おかしい噂にされて、貴族令嬢として生きていけなくされても困ります。
騎士の言葉に頷いて、私は駆け出すべきときを待ちました。
近くの路地から気配がします。
中からの影がこちらの道へ伸びて、
「ヒヒィィィンッ!」
ノックスが再び嘶きました。
ですが、その声はなぜか危険を知らせるものではなく、歓喜しているかのように私には聞こえたのです。
前の声よりも大きく長く鳴いていたからでしょうか。
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