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第十二話 母の肖像~オギュスト後編~
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近くを歩いている果物売りに声をかけて、オギュストは果実をふたつ買いアンリと分けた。
芸術に焦がれた自分が父親になるなんて想像もしていなかったので、どんな態度を取れば良いのかわからない。
アンリが嬉しげに果実を齧る姿を見て、本当は疲れていたのに遠慮していたのかな、と気の利かない自分を悔やんだ。
(卒業式の合奏は奇跡だった……)
だが同じように芸術に焦がれて囚われた身でありながら、オギュストとデジールのその後は異なるものとなった。
自分が凡才だと理解しているオギュストは奇跡を再現するべく、これまで以上に稽古に没頭した。あの演奏をきっかけに帝国の音楽大学への特別入学が決まったのも幸いだった。
でもデジールは違った。
なまじ天才だったからかもしれない。
彼女はあの合奏を生涯に一度の奇跡と判断し、自分の芸術の到達点として受け止めてしまった。
成功の快感だけを求めて酒と麻薬に溺れたのは、再び演奏しても二度とあのときと同じにはならないことを察して怯えていたからだろうか。
(音楽なんて最初から、ただ一度のものなのに。……ただ一度の幻だからこそ尊いものなのに)
卒業式の後、合奏の熱に浮かされてオギュストとデジールは体を重ねた。
恋ではなかった。
形の無い芸術の残り香を恋愛の真似事で形にしようとしたのではないかと、今のオギュストは思っている。
ふたりの子どもが出来ていたなんて、オギュストは知らなかった。
音楽大学入学後に一度だけデジールの下宿先を訪ねたことはあるけれど、それは酒や麻薬に溺れて楽器から離れているという噂を聞いて心配になったからだ。
結局言い争いになって、彼女に下宿前の道路に突き飛ばされて話は終わった。
(そういえばあのとき、階段を上がって二階に来いと言う彼女に降りてきてくれと頼んで良かったな。階段の上で突き飛ばされていたら、墜落死していたかもしれない)
あのときはなぜか、絶対に階段を上がってはいけないと感じたのだ。
オギュストにとってデジールは憎い好敵手であり、憧れてやまない天才だ。
そうでなくても酒と麻薬で弱っている彼女の願いを聞いても良いのではないかと考える気持ちもあったのだが、心のどこかが否を叫んでいたのである。不思議なことだ、とオギュストが思ったときだった。
「……オギュスト、さん」
「……うん」
幼い声に呼びかけられて、顔を向ける。
お互い前から聞かされていたとはいえ、顔を合わせたのは今日が初めてだ。
いきなり父とは呼べないだろう。オギュストだって戸惑っている。
「オギュストさんのお家は商人なんですよね? 働いたらお金持ちになれる?」
「君はお金持ちになりたいのか?」
「お金持ちじゃないと宝石は買えないでしょう? 宝石じゃないと描けないものがあるんです」
「宝石で描く?……ああ、岩絵の具か」
音楽大学のある帝国の都市は芸術の都と呼ばれていた。
絵や彫刻の大学もあって、酒場などで相席になることもあった。
だからオギュストは、宝石などの鉱物を砕いて絵具として使う技法があることを知っている。
「僕が描きたいものを最高の形にするのには、絶対に翠玉の煌めきと金剛石の深みが必要なんです!」
六歳の芸術家の顔に浮かんだ表情を見て、オギュストはデジールを思い出す。
体を重ねて子どもまで作ったくせに、オギュストは彼女と真面に会話したことがない。
それでも最初で最後の合奏で、彼女のことはわかったつもりでいた。自分の音楽には絶対に妥協しない、芸術の囚われ人だということを演奏中に幾度となく思い知らされたから。……妥協出来ないから、最高を知ってそれ以降の自分の演奏を認められなくなったのか。
(彼女に似ていると言われても、この子は嬉しがらないかもしれないが……)
「オギュストさん?」
「あ? ああ、なんでもない。涙が出たのは果実の汁が飛んだからだ」
「この果実酸っぱいから、目に入ったら痛いですよね」
「……君は絵が上手だって聞いてる。店の包装紙の図案とか考えてくれたら、きっとみんな喜ぶよ。それに俺も……父親として頑張って稼ぐから、さ」
微笑むアンリの顔は、鏡で見るオギュスト自身の顔とよく似ていた。
芸術に焦がれた自分が父親になるなんて想像もしていなかったので、どんな態度を取れば良いのかわからない。
アンリが嬉しげに果実を齧る姿を見て、本当は疲れていたのに遠慮していたのかな、と気の利かない自分を悔やんだ。
(卒業式の合奏は奇跡だった……)
だが同じように芸術に焦がれて囚われた身でありながら、オギュストとデジールのその後は異なるものとなった。
自分が凡才だと理解しているオギュストは奇跡を再現するべく、これまで以上に稽古に没頭した。あの演奏をきっかけに帝国の音楽大学への特別入学が決まったのも幸いだった。
でもデジールは違った。
なまじ天才だったからかもしれない。
彼女はあの合奏を生涯に一度の奇跡と判断し、自分の芸術の到達点として受け止めてしまった。
成功の快感だけを求めて酒と麻薬に溺れたのは、再び演奏しても二度とあのときと同じにはならないことを察して怯えていたからだろうか。
(音楽なんて最初から、ただ一度のものなのに。……ただ一度の幻だからこそ尊いものなのに)
卒業式の後、合奏の熱に浮かされてオギュストとデジールは体を重ねた。
恋ではなかった。
形の無い芸術の残り香を恋愛の真似事で形にしようとしたのではないかと、今のオギュストは思っている。
ふたりの子どもが出来ていたなんて、オギュストは知らなかった。
音楽大学入学後に一度だけデジールの下宿先を訪ねたことはあるけれど、それは酒や麻薬に溺れて楽器から離れているという噂を聞いて心配になったからだ。
結局言い争いになって、彼女に下宿前の道路に突き飛ばされて話は終わった。
(そういえばあのとき、階段を上がって二階に来いと言う彼女に降りてきてくれと頼んで良かったな。階段の上で突き飛ばされていたら、墜落死していたかもしれない)
あのときはなぜか、絶対に階段を上がってはいけないと感じたのだ。
オギュストにとってデジールは憎い好敵手であり、憧れてやまない天才だ。
そうでなくても酒と麻薬で弱っている彼女の願いを聞いても良いのではないかと考える気持ちもあったのだが、心のどこかが否を叫んでいたのである。不思議なことだ、とオギュストが思ったときだった。
「……オギュスト、さん」
「……うん」
幼い声に呼びかけられて、顔を向ける。
お互い前から聞かされていたとはいえ、顔を合わせたのは今日が初めてだ。
いきなり父とは呼べないだろう。オギュストだって戸惑っている。
「オギュストさんのお家は商人なんですよね? 働いたらお金持ちになれる?」
「君はお金持ちになりたいのか?」
「お金持ちじゃないと宝石は買えないでしょう? 宝石じゃないと描けないものがあるんです」
「宝石で描く?……ああ、岩絵の具か」
音楽大学のある帝国の都市は芸術の都と呼ばれていた。
絵や彫刻の大学もあって、酒場などで相席になることもあった。
だからオギュストは、宝石などの鉱物を砕いて絵具として使う技法があることを知っている。
「僕が描きたいものを最高の形にするのには、絶対に翠玉の煌めきと金剛石の深みが必要なんです!」
六歳の芸術家の顔に浮かんだ表情を見て、オギュストはデジールを思い出す。
体を重ねて子どもまで作ったくせに、オギュストは彼女と真面に会話したことがない。
それでも最初で最後の合奏で、彼女のことはわかったつもりでいた。自分の音楽には絶対に妥協しない、芸術の囚われ人だということを演奏中に幾度となく思い知らされたから。……妥協出来ないから、最高を知ってそれ以降の自分の演奏を認められなくなったのか。
(彼女に似ていると言われても、この子は嬉しがらないかもしれないが……)
「オギュストさん?」
「あ? ああ、なんでもない。涙が出たのは果実の汁が飛んだからだ」
「この果実酸っぱいから、目に入ったら痛いですよね」
「……君は絵が上手だって聞いてる。店の包装紙の図案とか考えてくれたら、きっとみんな喜ぶよ。それに俺も……父親として頑張って稼ぐから、さ」
微笑むアンリの顔は、鏡で見るオギュスト自身の顔とよく似ていた。
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