この毒で終わらせて

豆狸

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「だれだ」

 枝を掻き分ける音に気づいて、オートムヌ王国では珍しい黒髪の青年が顔を上げた。
 南のエルテ王国の人間かしら。
 辺境伯領の南にあるこの森はオートムヌ王国とエルテ王国の国境だ。森に国境線が引かれているのではなく、森自体が境の役目を成していた。どちらの民も森の恵みを受け取ることを許されている。

「……ごめんなさい」

 鋭い瞳に射られて、私は素直に頭を下げた。
 だれかが傷ついて泣いているのかと思って来たのだが、そういうわけではなかったようだ。
 青年の服装は瀟洒で品が良い。野盗ではないだろう。むしろエルテ王国の貴族かもしれない。

「……苺のような髪だな」

 頭を上げて元の場所へ引き返そうとしたら、青年がぽつりと呟いた。
 初めて聞く独特の表現に、私はつい吹き出してしまう。

「そうですか?」
「ああ。……言われたことはないか?」
「ないです。いつもは紅玉とか葡萄酒とか……あ、いえ、なんでもないです」

 自分で自分への褒め言葉を口に出すのは恥ずかしい。
 ちなみに紅玉だと言ってくださったのはお爺様と伯父様、葡萄酒と言ってくださったのはコンスタンス様だ。
 私の言葉に黒髪の青年は頷く。

「そうだな。紅玉のように気高く煌めいているし、葡萄酒のように蠱惑的でもある。悪しきものを祓う炎のように激しくて、竃で揺れる炎のように優しい。だが……やはり苺だ」

 どうしよう。褒め言葉が増えた。こういうときはお返しするものよね?

「あ、あなたの髪は夜の闇のようです」
「そうか? 薄汚い汚泥と言われるよりは有り難い表現だな」
けなしたのではありません。夜の闇ほど美しいものはないでしょう? すべての色が入り混じって、どんな苦しみも悲しみも眠りのとばりに包んでくれる優しい色だもの」

 アルベール殿下への報われない思いにひとり涙するときも、窓の外の闇が見守ってくれていた。
 青年は、まじまじと私を見つめる。
 精いっぱい頑張ってみたのだけれど、褒め言葉になっていなかったのかしら。殿下にも話しかけるなと言われていたくらい、私はしゃべるのが下手なんですものね。

 ──ふっと、彼は微笑んだ。

「俺を口説くつもりなのか、苺髪の姫君」
「……」
「姫君?……キスを待っているのか?」

 私は大きく息を吸い込んだ。
 今、彼の笑顔を見た瞬間に心臓が収束して息が止まった。
 知っている感覚だけれど、そんなはずはない。私は恋忘れの薬を飲んだのだから。涙こそあふれていないだけで泣きそうな顔をしていた青年が微笑んだからって、恋に落ちたりするはずがない。

「ち、ち、違います!」
「そうか、残念だな」
「あ、あ、あなたのほうこそ私を口説くつもりですか?」
「苺髪なんて言葉で口説かれてくれるのか? 気位の高い姫君なら、それだけで怒り出しそうな気がするがな」
「苺は可愛いし綺麗だし美味しいです」
「そうだな。俺も一番好きな……」

 黒髪の青年は真っ赤になって、自分の口元を押さえて私から顔を背けた。
 先ほどまでの私のようにどもりながら言う。

「ち、違うからな。俺が苺を好きだからと言って、君にひと目惚れしたりはしていない。ちょっとからかってみただけだからな」
「わかっています」

 私には、だれかにひと目惚れされるほどの魅力はない。
 幼いころに婚約をして、長い年月を過ごしてきた婚約者にも愛されなかった娘だ。
 恋を忘れた今も、愛されなかった記憶を思い出すと、胸にザラリとした感触が蘇る。

「……ベアトリスー……」
「……どこだー……」
「……兄ちゃんが肉焼いて食べてたからベアトリスがいなくなっちゃったんだ……」
「……ベアトリスはそんなに肉食べないし、全部持って帰ると重いだろ……」

 風が従兄弟達の声を運んでくる。
 いけない! 愛してくれている大切な人達を心配させてしまった。
 声のした方向を振り返ったとき、すっと、黒髪の青年が私の髪に触れた。彼は一瞬で指先を離す。

「ベアトリス。オートムヌの辺境伯家が最近引き取った孫娘か」
「……あなたの名前は?」
「当ててみろ、苺髪の姫君。俺の名前を当てられなかったら、この指先を火傷させた報いを受けてもらうぞ」
「わ、私の髪で火傷なんかするはずありません!」
「そうか? そうだな。苺に触って火傷することなどあるはずがない。では君の髪は炎だったのかな。許しも得ずに触れた愚か者の指を燃やしたのだから。今も……熱い」

 彼は私の髪に触れた指先に口付けた。
 この人はなにを言っているのだ。どこまで私をからかうつもりなのか。

「あなたの名前くらい当てて見せます、宵闇の貴公子様」

 からかい返したつもりなのに、彼は嬉しそうに微笑んで去っていった。
 頬が熱い。顔が火照る。
 髪の毛なのに、ほんの一瞬だけだったのに、触れられた髪から熱が上がってくる。

 知らない知らない知らない!
 こんな気持ち……知っているけれど知らない。
 苦しいだけの悲しいだけの恋なんて、神から授かった恩恵ギフトで作った薬が消し去ってくれた。私はもう二度と恋なんてしない、するはずがない。

 ……なのに。

「ベアトリス、こんなところにいたのか」
「探したぞ」
「心配したんだぞー」
「勝手に動いてごめんなさいね。ところで、お肉は美味しかった?」
「「「っ!」」」
「その毛皮から見ると猪ね。猪肉ならこの香草ハーブで包んで焼いたほうが美味しかったのに」
「兄ちゃんが全部悪いんだ」
「そうだな」
「この裏切り者ども!」

 合流した従兄弟達と帰路を辿りながらも、私の心臓は早鐘を打っていた。
 胸の中から、彼の微笑みが消えようとしない。
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