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第二話 子守唄
「いつもありがとう。給仕は良いから下がっていて。なにかあったら呼びます」
「かしこまりました」
侍女に退室を命じて、私は湯気の昇るお茶を手に取りました。
私は伯爵家を守らなくてはなりません。
アルテュール様と結婚した後に殺されて、ほかにいないからと父やフォリーを跡取りにされたのでは、私だけでなく母や支えてくれた人々の人生が無駄になりますものね。
今のお爺様には頼れません。
年齢からくる体力低下で領地と王都の往復に耐えられなくなって、二年前から領地で暮らしているのですもの。
歌姫マルールは二年前に亡くなり、それで父がフォリーを引き取りました。お爺様が王都にいたならば、本邸には連れて来なかったのではないかと思います。
あの子を連れて来たときの父の、泣き腫らした真っ赤な目を今も覚えています。
その三年前に私の母が亡くなったときは、葬儀にも戻らずに歌姫のところに入り浸っていたくせに。
……跡取り教育の一環として、お爺様の監督のもとに母の葬儀の喪主を務めた私の心の支えは、アルテュール様でした。たった五年前のことなのに、遠い遠い昔のような気がします。
優しかったアルテュール様。
我が家で暮らし始めた華やかで美しいフォリーに、一瞬で骨抜きにされた愚かなアルテュール様。
あの子を愛したからと、一度は私との婚約解消を望んだ誠実なアルテュール様。あの子と別れたと私に嘘をついて、婚約解消を撤回させた不誠実なアルテュール様。
母親の名前を冠したマルール劇場を娘であるフォリーは相続出来ませんでした。
歌姫が亡くなると同時に、彼女の情夫だった若い歌手が権利書を売り払ったからです。
その歌手は所有者の変わった劇場の専属となり、女性関係の派手さで世間を賑わせています。はっきり言わせていただくと、歌姫も情夫も歌の才能は有りません。ただ見た目が良くて金持ちに媚びるのが上手いだけの人達です。
父とフォリーは劇場を取り戻したいと思っていることでしょう。
正攻法では訴えを退けられたので、お金を積んで買い戻すしかありません。
訴えを退けられたのは、情夫が歌姫に権利書をもらったという証言に信ぴょう性が認められたからです。それでも父は、歌手は歌姫の情夫ではなく弟子に過ぎなかったのだと信じているようです。
劇場の買い戻しだなんて、どれだけ吹っかけられるかわかりません。
今度はひとつふたつの事業が瓦解するどころか、伯爵家自体が崩壊しかねません。
私がどんなに父とフォリーの介入を拒んでも、ふたりの操り人形であるアルテュール様を婿に迎えたら終わりです。
アルテュール様は伯爵家当主の配偶者としての権利をフォリーのために使うでしょう。
あの子に誠実でありたいと言って私との婚約解消を望んだ彼が、別れたと嘘をついてまで婚約解消を撤回して私と結婚しようとしているのです。
彼はもう昔の彼ではないのです。あの子のためなら、どんなに不誠実なことも邪悪なことも平気な人間になってしまったのです。……私が今から婚約解消を申し出ても、簡単には受け入れてくれないでしょう。
お茶を飲み干した私は、立ち上がって窓に近寄りました。
ふたりはまだ東屋にいるようです。
屋根や柱に邪魔されていても、二階の執務室と裏庭の間にどんなに距離があっても、私には勝ち誇ったフォリーの笑みが見えるような気がしました。華やかで美しいけれど、歌姫にも私の父にも似ていない顔で笑うのが。
そういえば私が窓に近づいて裏庭を見下ろしたのは、フォリーの甲高い笑い声が風に運ばれてきたからでした。
気がつくと、私は子守唄を口遊んでいました。
幼いころ、母が歌ってくれたものです。
一緒にいる時間は短かったけれど、母は多忙な中で時間を作って、寝床の私に子守唄を歌いに来てくれていたのです。
たまに待ちきれなくて眠っていても、悪夢を見ないでいられたのは母が子守唄を歌ってくれていたからだったと思うのです。
子守唄を口にしていると、母が側にいたときのような安心感が満ちてきました。
悪夢は、終わらせなくてはいけません。
「かしこまりました」
侍女に退室を命じて、私は湯気の昇るお茶を手に取りました。
私は伯爵家を守らなくてはなりません。
アルテュール様と結婚した後に殺されて、ほかにいないからと父やフォリーを跡取りにされたのでは、私だけでなく母や支えてくれた人々の人生が無駄になりますものね。
今のお爺様には頼れません。
年齢からくる体力低下で領地と王都の往復に耐えられなくなって、二年前から領地で暮らしているのですもの。
歌姫マルールは二年前に亡くなり、それで父がフォリーを引き取りました。お爺様が王都にいたならば、本邸には連れて来なかったのではないかと思います。
あの子を連れて来たときの父の、泣き腫らした真っ赤な目を今も覚えています。
その三年前に私の母が亡くなったときは、葬儀にも戻らずに歌姫のところに入り浸っていたくせに。
……跡取り教育の一環として、お爺様の監督のもとに母の葬儀の喪主を務めた私の心の支えは、アルテュール様でした。たった五年前のことなのに、遠い遠い昔のような気がします。
優しかったアルテュール様。
我が家で暮らし始めた華やかで美しいフォリーに、一瞬で骨抜きにされた愚かなアルテュール様。
あの子を愛したからと、一度は私との婚約解消を望んだ誠実なアルテュール様。あの子と別れたと私に嘘をついて、婚約解消を撤回させた不誠実なアルテュール様。
母親の名前を冠したマルール劇場を娘であるフォリーは相続出来ませんでした。
歌姫が亡くなると同時に、彼女の情夫だった若い歌手が権利書を売り払ったからです。
その歌手は所有者の変わった劇場の専属となり、女性関係の派手さで世間を賑わせています。はっきり言わせていただくと、歌姫も情夫も歌の才能は有りません。ただ見た目が良くて金持ちに媚びるのが上手いだけの人達です。
父とフォリーは劇場を取り戻したいと思っていることでしょう。
正攻法では訴えを退けられたので、お金を積んで買い戻すしかありません。
訴えを退けられたのは、情夫が歌姫に権利書をもらったという証言に信ぴょう性が認められたからです。それでも父は、歌手は歌姫の情夫ではなく弟子に過ぎなかったのだと信じているようです。
劇場の買い戻しだなんて、どれだけ吹っかけられるかわかりません。
今度はひとつふたつの事業が瓦解するどころか、伯爵家自体が崩壊しかねません。
私がどんなに父とフォリーの介入を拒んでも、ふたりの操り人形であるアルテュール様を婿に迎えたら終わりです。
アルテュール様は伯爵家当主の配偶者としての権利をフォリーのために使うでしょう。
あの子に誠実でありたいと言って私との婚約解消を望んだ彼が、別れたと嘘をついてまで婚約解消を撤回して私と結婚しようとしているのです。
彼はもう昔の彼ではないのです。あの子のためなら、どんなに不誠実なことも邪悪なことも平気な人間になってしまったのです。……私が今から婚約解消を申し出ても、簡単には受け入れてくれないでしょう。
お茶を飲み干した私は、立ち上がって窓に近寄りました。
ふたりはまだ東屋にいるようです。
屋根や柱に邪魔されていても、二階の執務室と裏庭の間にどんなに距離があっても、私には勝ち誇ったフォリーの笑みが見えるような気がしました。華やかで美しいけれど、歌姫にも私の父にも似ていない顔で笑うのが。
そういえば私が窓に近づいて裏庭を見下ろしたのは、フォリーの甲高い笑い声が風に運ばれてきたからでした。
気がつくと、私は子守唄を口遊んでいました。
幼いころ、母が歌ってくれたものです。
一緒にいる時間は短かったけれど、母は多忙な中で時間を作って、寝床の私に子守唄を歌いに来てくれていたのです。
たまに待ちきれなくて眠っていても、悪夢を見ないでいられたのは母が子守唄を歌ってくれていたからだったと思うのです。
子守唄を口にしていると、母が側にいたときのような安心感が満ちてきました。
悪夢は、終わらせなくてはいけません。
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