8 / 8
最終話 心浮き立つ春のように
しおりを挟む
私はアリアーナ。
今は馬に乗って草原を駆けています。
グレコ公爵令嬢だった私は死にました。
侍女のバンビが貧民窟の顔役から買い上げた赤い髪の女性の遺体を身代わりにして逃げ出したのです。
バンビは王国民に多い茶色い髪だったので、私の身代わりが見つかってから探したのでも間に合いました。
遺体が手に入ってすぐに逃げ出したのは、いくら火災で誤魔化そうとしても時間が経つと遺体の腐敗具合が進んでしまうからです。せっかく細工をしてまで逃げ出すのに、偽装に気づかれてしまったのでは意味がありません。
王太子エドアルド殿下の婚約者という立場を放り出してまで逃げ出したのは、私が恋をしているからです。
愛してはいけない方を愛しているからです。
私の前を走っていた彼は、馬を止めて振り返りました。
「そう言えばお嬢、どこへ行くんだ? 旧レオーネ公爵領か?」
バンビの兄のバルダッサーレです。
私が十五歳のときに姿を消したのは、婆やと爺やの死に不穏なものを感じたからだったそうです。
周囲の人間を消して私を孤立させようとしているだれかは、手に入れたい私のことだけは傷つけないだろうと考えて、私を救い守るための力を求めて旅立ったのだと言います。妹のバンビは女の子で、私をだれかから奪うような力はないので大丈夫だと思ったのだそうです。そのだれかとは……いいえ、今は逃げることに集中しましょう。
「莫迦なこと言わないでよ、兄さん。父さん達がお嬢様を迎えたら、すぐにレオーネ公爵家復興を叫び出すわよ。お嬢様を表舞台に引きずり出されたら、これまでの努力がすべて水の泡になっちゃうじゃない」
「ははは、そりゃそうだな。じゃあ俺が修業していた町へでも行くか?」
「どうなさいますか、お嬢様」
後ろを走っていたバンビの馬が私の隣に並びます。
「そうね、それも良いわね。……バルダッサーレの剣のお師匠様に、私と離れていたころのバルダッサーレの様子を聞きたいわ」
「……っ」
「その顔なによ、兄さん。悪所にでも行ってたんでしょ。旅に出る前はいつもいやらしい顔でお嬢様のこと見てたものね」
「うるせぇな。お嬢に、その、恋していたのは確かだが、だからこそお嬢以外の女になんか手ぇ出してねぇよ。ただ師匠は意地悪だから、俺が修行で失敗してたことばっか話すんだろうなって思っただけだ」
「ふふふ、楽しみだわ」
神殿で私が言った『愛してはいけない方』とはバルダッサーレのことです。
学園の最終学年に上がったときに手紙が来て、かつての想いが蘇ったのです。
捨てられたのではなく私のために離れていたのだと知って、以前よりも強く彼を想うようになったのです。……私は王太子殿下の婚約者だというのに。
カンナヴァーロ陛下にときめいたこともありました。
夜会の日に露台でキスされたときは、恋に落ちていたのだと思います。
でも陛下は私を知りません。私がアリアーナだということを受け入れてくださいません。陛下はいつも言うのです。
──私のベラ。
そのたびに私の心に灯った恋心は砕け散ります。
あの方にとって私は戻ってきた母ベラドンナで、それ以外の存在ではなかったのです。
もし一度でもアリアーナと呼ばれていたら、私は国王の情婦という不名誉な呼び名ですら受け入れて、婚約者のエドアルド殿下の命を奪ってでも陛下の側にい続けたかもしれません。
だけど、陛下は私の名前を呼んではくださいませんでした。アリアーナという娘がこの世に存在したことすら、陛下の頭にはないのです。
「……アリアーナ」
「いきなりどうしたの、バルダッサーレ」
「ああ、いや、その……これからはお嬢じゃなくて、名前で呼んでも良いか?」
「お嬢っていう呼び方がそもそも失礼なのよ、兄さん」
「良いのよ、バンビ。良かったら貴女も名前で呼んで」
「アリアーナ様?」
「うふふ。嬉しいわ、バンビ」
少々卑怯な手段で逃げ出してしまいましたが、王太子殿下の婚約者である私が姿を消すにはほかの方法はなかったのです。
愛してはいけない方を愛してしまった私は、いつか罰を受けるのかもしれません。
ですが私ではない存在として生き続けることは出来なかったのです。
私はアリアーナ。
王太子殿下の婚約者でも国王の情婦でもない、ただのアリアーナなのです。
愛する人がいて、大切な友がいて、目の前には自由な未来が広がっていて、心浮き立つ春のように私はときめいています。青い空に胸が疼くことも、やがてなくなるでしょう。私は草原を駆け抜けていきました。
今は馬に乗って草原を駆けています。
グレコ公爵令嬢だった私は死にました。
侍女のバンビが貧民窟の顔役から買い上げた赤い髪の女性の遺体を身代わりにして逃げ出したのです。
バンビは王国民に多い茶色い髪だったので、私の身代わりが見つかってから探したのでも間に合いました。
遺体が手に入ってすぐに逃げ出したのは、いくら火災で誤魔化そうとしても時間が経つと遺体の腐敗具合が進んでしまうからです。せっかく細工をしてまで逃げ出すのに、偽装に気づかれてしまったのでは意味がありません。
王太子エドアルド殿下の婚約者という立場を放り出してまで逃げ出したのは、私が恋をしているからです。
愛してはいけない方を愛しているからです。
私の前を走っていた彼は、馬を止めて振り返りました。
「そう言えばお嬢、どこへ行くんだ? 旧レオーネ公爵領か?」
バンビの兄のバルダッサーレです。
私が十五歳のときに姿を消したのは、婆やと爺やの死に不穏なものを感じたからだったそうです。
周囲の人間を消して私を孤立させようとしているだれかは、手に入れたい私のことだけは傷つけないだろうと考えて、私を救い守るための力を求めて旅立ったのだと言います。妹のバンビは女の子で、私をだれかから奪うような力はないので大丈夫だと思ったのだそうです。そのだれかとは……いいえ、今は逃げることに集中しましょう。
「莫迦なこと言わないでよ、兄さん。父さん達がお嬢様を迎えたら、すぐにレオーネ公爵家復興を叫び出すわよ。お嬢様を表舞台に引きずり出されたら、これまでの努力がすべて水の泡になっちゃうじゃない」
「ははは、そりゃそうだな。じゃあ俺が修業していた町へでも行くか?」
「どうなさいますか、お嬢様」
後ろを走っていたバンビの馬が私の隣に並びます。
「そうね、それも良いわね。……バルダッサーレの剣のお師匠様に、私と離れていたころのバルダッサーレの様子を聞きたいわ」
「……っ」
「その顔なによ、兄さん。悪所にでも行ってたんでしょ。旅に出る前はいつもいやらしい顔でお嬢様のこと見てたものね」
「うるせぇな。お嬢に、その、恋していたのは確かだが、だからこそお嬢以外の女になんか手ぇ出してねぇよ。ただ師匠は意地悪だから、俺が修行で失敗してたことばっか話すんだろうなって思っただけだ」
「ふふふ、楽しみだわ」
神殿で私が言った『愛してはいけない方』とはバルダッサーレのことです。
学園の最終学年に上がったときに手紙が来て、かつての想いが蘇ったのです。
捨てられたのではなく私のために離れていたのだと知って、以前よりも強く彼を想うようになったのです。……私は王太子殿下の婚約者だというのに。
カンナヴァーロ陛下にときめいたこともありました。
夜会の日に露台でキスされたときは、恋に落ちていたのだと思います。
でも陛下は私を知りません。私がアリアーナだということを受け入れてくださいません。陛下はいつも言うのです。
──私のベラ。
そのたびに私の心に灯った恋心は砕け散ります。
あの方にとって私は戻ってきた母ベラドンナで、それ以外の存在ではなかったのです。
もし一度でもアリアーナと呼ばれていたら、私は国王の情婦という不名誉な呼び名ですら受け入れて、婚約者のエドアルド殿下の命を奪ってでも陛下の側にい続けたかもしれません。
だけど、陛下は私の名前を呼んではくださいませんでした。アリアーナという娘がこの世に存在したことすら、陛下の頭にはないのです。
「……アリアーナ」
「いきなりどうしたの、バルダッサーレ」
「ああ、いや、その……これからはお嬢じゃなくて、名前で呼んでも良いか?」
「お嬢っていう呼び方がそもそも失礼なのよ、兄さん」
「良いのよ、バンビ。良かったら貴女も名前で呼んで」
「アリアーナ様?」
「うふふ。嬉しいわ、バンビ」
少々卑怯な手段で逃げ出してしまいましたが、王太子殿下の婚約者である私が姿を消すにはほかの方法はなかったのです。
愛してはいけない方を愛してしまった私は、いつか罰を受けるのかもしれません。
ですが私ではない存在として生き続けることは出来なかったのです。
私はアリアーナ。
王太子殿下の婚約者でも国王の情婦でもない、ただのアリアーナなのです。
愛する人がいて、大切な友がいて、目の前には自由な未来が広がっていて、心浮き立つ春のように私はときめいています。青い空に胸が疼くことも、やがてなくなるでしょう。私は草原を駆け抜けていきました。
636
この作品は感想を受け付けておりません。
あなたにおすすめの小説
愛のゆくえ【完結】
春の小径
恋愛
私、あなたが好きでした
ですが、告白した私にあなたは言いました
「妹にしか思えない」
私は幼馴染みと婚約しました
それなのに、あなたはなぜ今になって私にプロポーズするのですか?
☆12時30分より1時間更新
(6月1日0時30分 完結)
こう言う話はサクッと完結してから読みたいですよね?
……違う?
とりあえず13日後ではなく13時間で完結させてみました。
他社でも公開
君に愛は囁けない
しーしび
恋愛
姉が亡くなり、かつて姉の婚約者だったジルベールと婚約したセシル。
彼は社交界で引く手数多の美しい青年で、令嬢たちはこぞって彼に夢中。
愛らしいと噂の公爵令嬢だって彼への好意を隠そうとはしない。
けれど、彼はセシルに愛を囁く事はない。
セシルも彼に愛を囁けない。
だから、セシルは決めた。
*****
※ゆるゆる設定
※誤字脱字を何故か見つけられない病なので、ご容赦ください。努力はします。
※日本語の勘違いもよくあります。方言もよく分かっていない田舎っぺです。
【完結】断罪された悪役令嬢は、全てを捨てる事にした
miniko
恋愛
悪役令嬢に生まれ変わったのだと気付いた時、私は既に王太子の婚約者になった後だった。
婚約回避は手遅れだったが、思いの外、彼と円満な関係を築く。
(ゲーム通りになるとは限らないのかも)
・・・とか思ってたら、学園入学後に状況は激変。
周囲に疎まれる様になり、まんまと卒業パーティーで断罪&婚約破棄のテンプレ展開。
馬鹿馬鹿しい。こんな国、こっちから捨ててやろう。
冤罪を晴らして、意気揚々と単身で出国しようとするのだが、ある人物に捕まって・・・。
強制力と言う名の運命に翻弄される私は、幸せになれるのか!?
※感想欄はネタバレあり/なし の振り分けをしていません。本編より先にお読みになる場合はご注意ください。
行き場を失った恋の終わらせ方
当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」
自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。
避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。
しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……
恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。
※他のサイトにも重複投稿しています。
(完結)私が貴方から卒業する時
青空一夏
恋愛
私はペシオ公爵家のソレンヌ。ランディ・ヴァレリアン第2王子は私の婚約者だ。彼に幼い頃慰めてもらった思い出がある私はずっと恋をしていたわ。
だから、ランディ様に相応しくなれるよう努力してきたの。でもね、彼は・・・・・・
※なんちゃって西洋風異世界。現代的な表現や機器、お料理などでてくる可能性あり。史実には全く基づいておりません。
あなたは愛を誓えますか?
縁 遊
恋愛
婚約者と結婚する未来を疑ったことなんて今まで無かった。
だけど、結婚式当日まで私と会話しようとしない婚約者に神様の前で愛は誓えないと思ってしまったのです。
皆さんはこんな感じでも結婚されているんでしょうか?
でも、実は婚約者にも愛を囁けない理由があったのです。
これはすれ違い愛の物語です。
婚約破棄は踊り続ける
お好み焼き
恋愛
聖女が現れたことによりルベデルカ公爵令嬢はルーベルバッハ王太子殿下との婚約を白紙にされた。だがその半年後、ルーベルバッハが訪れてきてこう言った。
「聖女は王太子妃じゃなく神の花嫁となる道を選んだよ。頼むから結婚しておくれよ」
婚約破棄は嘘だった、ですか…?
基本二度寝
恋愛
「君とは婚約破棄をする!」
婚約者ははっきり宣言しました。
「…かしこまりました」
爵位の高い相手から望まれた婚約で、此方には拒否することはできませんでした。
そして、婚約の破棄も拒否はできませんでした。
※エイプリルフール過ぎてあげるヤツ
※少しだけ続けました
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる