国王の情婦

豆狸

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最終話 心浮き立つ春のように

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 私はアリアーナ。
 今は馬に乗って草原を駆けています。
 グレコ公爵令嬢だった私は死にました。

 侍女のバンビが貧民窟の顔役から買い上げた赤い髪の女性の遺体を身代わりにして逃げ出したのです。
 バンビは王国民に多い茶色い髪だったので、私の身代わりが見つかってから探したのでも間に合いました。
 遺体が手に入ってすぐに逃げ出したのは、いくら火災で誤魔化そうとしても時間が経つと遺体の腐敗具合が進んでしまうからです。せっかく細工をしてまで逃げ出すのに、偽装に気づかれてしまったのでは意味がありません。

 王太子エドアルド殿下の婚約者という立場を放り出してまで逃げ出したのは、私が恋をしているからです。
 愛してはいけない方を愛しているからです。
 私の前を走っていた彼は、馬を止めて振り返りました。

「そう言えばお嬢、どこへ行くんだ? 旧レオーネ公爵領か?」

 バンビの兄のバルダッサーレです。
 私が十五歳のときに姿を消したのは、婆やと爺やの死に不穏なものを感じたからだったそうです。
 周囲の人間を消して私を孤立させようとしているは、手に入れたい私のことだけは傷つけないだろうと考えて、私を救い守るための力を求めて旅立ったのだと言います。妹のバンビは女の子で、私をから奪うような力はないので大丈夫だと思ったのだそうです。そのとは……いいえ、今は逃げることに集中しましょう。

「莫迦なこと言わないでよ、兄さん。父さん達がお嬢様を迎えたら、すぐにレオーネ公爵家復興を叫び出すわよ。お嬢様を表舞台に引きずり出されたら、これまでの努力がすべて水の泡になっちゃうじゃない」
「ははは、そりゃそうだな。じゃあ俺が修業していた町へでも行くか?」
「どうなさいますか、お嬢様」

 後ろを走っていたバンビの馬が私の隣に並びます。

「そうね、それも良いわね。……バルダッサーレの剣のお師匠様に、私と離れていたころのバルダッサーレの様子を聞きたいわ」
「……っ」
「その顔なによ、兄さん。悪所にでも行ってたんでしょ。旅に出る前はいつもいやらしい顔でお嬢様のこと見てたものね」
「うるせぇな。お嬢に、その、恋していたのは確かだが、だからこそお嬢以外の女になんか手ぇ出してねぇよ。ただ師匠は意地悪だから、俺が修行で失敗してたことばっか話すんだろうなって思っただけだ」
「ふふふ、楽しみだわ」

 神殿で私が言った『愛してはいけない方』とはバルダッサーレのことです。
 学園の最終学年に上がったときに手紙が来て、かつての想いが蘇ったのです。
 捨てられたのではなく私のために離れていたのだと知って、以前よりも強く彼を想うようになったのです。……私は王太子殿下の婚約者だというのに。

 カンナヴァーロ陛下にときめいたこともありました。
 夜会の日に露台でキスされたときは、恋に落ちていたのだと思います。
 でも陛下は私を知りません。私がアリアーナだということを受け入れてくださいません。陛下はいつも言うのです。

 ──私のベラ。

 そのたびに私の心に灯った恋心は砕け散ります。
 あの方にとって私は戻ってきた母ベラドンナで、それ以外の存在ではなかったのです。
 もし一度でもアリアーナと呼ばれていたら、私は国王の情婦という不名誉な呼び名ですら受け入れて、婚約者のエドアルド殿下の命を奪ってでも陛下の側にい続けたかもしれません。

 だけど、陛下は私の名前を呼んではくださいませんでした。アリアーナという娘がこの世に存在したことすら、陛下の頭にはないのです。

「……アリアーナ」
「いきなりどうしたの、バルダッサーレ」
「ああ、いや、その……これからはお嬢じゃなくて、名前で呼んでも良いか?」
「お嬢っていう呼び方がそもそも失礼なのよ、兄さん」
「良いのよ、バンビ。良かったら貴女も名前で呼んで」
「アリアーナ様?」
「うふふ。嬉しいわ、バンビ」

 少々卑怯な手段で逃げ出してしまいましたが、王太子殿下の婚約者である私が姿を消すにはほかの方法はなかったのです。
 愛してはいけない方を愛してしまった私は、いつか罰を受けるのかもしれません。
 ですが私ではない存在として生き続けることは出来なかったのです。

 私はアリアーナ。
 王太子殿下の婚約者でも国王の情婦でもない、ただのアリアーナなのです。
 愛する人バルダッサーレがいて、大切な友バンビがいて、目の前には自由な未来が広がっていて、心浮き立つ春のように私はときめいています。青い空に胸が疼くことも、やがてなくなるでしょう。私は草原を駆け抜けていきました。
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