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第七話 覚えていない
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ハロルドとエヴァンジェリンの婚約は早急に白紙撤回された。
学園の卒業式までもう一ヶ月という時期だったが、ハロルドは卒業の手続きだけしてアラーニャ侯爵家の領地へ戻った。
婚約者を冷遇して溺れていた恋人が殺人犯だったという噂が広がるのを恐れたからだ。
「あの女は初犯ではなかったようだな。母親の死にも怪しいところがあったので、衛兵が問い詰めたら自白したそうだ。母親が犯罪組織に属していた情人との付き合いに反対していたかららしい」
侯爵領の屋敷で父に恋人の話を聞かされたハロルドは、虚ろな目で問いを返した。
「エヴァンジェリンの家で、彼女の母親の部屋に鈴蘭を飾ろうとしていたのは……」
「もちろん殺すためだろう。鈴蘭を挿していた水を飲めば人間は死ぬ。枕元に置いて、こっそり倒しておけば事故だと誤魔化せるかもしれない。カバジェロ伯爵の後妻の座を狙っていたんだな」
「情人がいたのにですか?」
「カバジェロ伯爵にはエヴァンジェリン嬢しか子どもがいなかった。後妻に入って男の子を産めば家を乗っ取れる。そうしたら伯爵と令嬢を殺して情人を招き入れるつもりだったのだろう。そもそも初めから情人の入れ知恵かもしれない」
「……」
「まだわかっていないのか、ハロルド」
「え?」
「お前も同じ目的で狙われていたんだぞ? あの女がお前に結婚を要求しなかったのはなぜだと思う? お前がエヴァンジェリン嬢と結婚した後も愛人として囲われ、最終的にはエヴァンジェリン嬢を殺して伯爵家を乗っ取るつもりだったからだ」
「そんな……」
付き合っていた間に金を要求してこなかったのも、信用させて後々大きく奪うつもりだったからだろうと父は言う。
ハロルドは救いを求めて思考を巡らせた。
あることを思い出して、父に尋ねる。
「で、でもメンティラはナバロ子爵の愛人だったのでしょう? 僕の愛人にならなくても……」
「あの女は亡くなった夫の遺産で暮らしていると言い、それがもうすぐ無くなると告げていたのだったな? ナバロ子爵の跡取りは母親を踏み躙っている父親に深い憎しみを抱いていた。彼は自分が子爵家を継いだ暁には父親を幽閉するとまで言っていたんだ。母親の死とその醜聞で早まってしまったが、どちらにしろ子爵が自由に使える金はもうすぐ無くなっていた。お前はその次の寄生先だ」
メンティラが囲われていたあの家は、子爵夫人が嫁ぐ前に家族で暮らしていた家だった。
彼女は息子が子爵となったら夫と離縁して、あの家でひとり静かに暮らす予定を立てていたのだという。
夫の浮気に心を砕かれて息子以外のすべてに無関心になっていた彼女が、あの聖花祭の日にメンティラのもとを訪ねたのはそのせいだ。家族との大切な想い出が残る家の壁紙を張り替えられ家具を入れ替えられ、不貞の現場にされていることには耐えられなかったのである。
ナバロ子爵に実家の財産を吸い上げられた今も、あの家の権利だけは夫人が持っていた。
メンティラは想定外の状況に混乱し、いつもの手段を取った。鈴蘭を挿していた水を子爵夫人に飲ませたというわけだ。
ハロルドがあの家を訪ねたとき、扉の向こうには子爵夫人の死体があった。
「情人がいたのに、僕やナバロ子爵とも関係を持っていたのですか?」
「あの女は情人に夢中だったかもしれんが、男にとっては何人もいる金蔓のひとりだ。ナバロ子爵を捕まえられなかったら、その時点で娼館に売り払われていたに違いない」
「……」
黙って俯いたハロルドに、父が言葉を続ける。
「ハロルド、お前は私の可愛い息子だ。次男だからと言って見捨てるつもりはなかった。エヴァンジェリン嬢との婚約は最良のものだったと思っている」
「……」
「だが、カバジェロ伯爵は私の親友だ。爵位こそ低いものの、商才のある彼にはいつも助けられてきた。エヴァンジェリン嬢も親友の可愛い娘だ。彼女がお前を好きになれないようなら婚約の話を進めるのはやめておこうと思っていた」
でも、と父はハロルドに語る。
「伯爵夫人の葬儀の日、ずっと泣きじゃくっていたエヴァンジェリン嬢がお前の言葉で笑顔になったのを見て、この婚約は私の大切な人々を幸せにするものだと確信したんだ」
「エヴァンジェリンの……笑顔……」
ハロルドは、自分の言葉でエヴァンジェリンが笑顔になったことは覚えていた。
けれど自分がなんと言ったのかは覚えていなかった。泣きじゃくる彼女が疎ましくて適当なことを言ったとしか覚えていない。
それだけでなく、ハロルドは自分の隣で笑うエヴァンジェリンの顔すら思い出せなかった。覚えているのは、記憶を失った彼女が自分を見たときに浮かべた怪訝そうな表情だけだ。
「お前達が幸せになれると信じていたのだがなあ……」
鼻声で言う父は親友を失った。母は幼いころから可愛がっていたエヴァンジェリンが義娘にならなくなったことを悲しんでいる。
兄は妙な事件に巻き込まれたハロルドに渋い顔だ。
長男の兄はすでに結婚していて子どももいる。
ハロルドが王都でひとりを満喫出来ていたのは、両親が孫可愛さに領地に引き籠っていたからだ。
兄が学園に通っていたときは母が一緒に王都で暮らしていた。
両親のどちらかがいてくれたなら自分は過ちを犯さなかっただろうか、とハロルドは思う。
(いや、駄目だな。僕は病人の部屋に毒花を飾るということに疑問を抱かなかった。怒ったエヴァンジェリンのほうが悪いと決めつけていた。僕は最初から、彼女のことを見ようともしていなかったんだ)
メンティラとその情人は殺人と事後従犯で処刑された。ナバロ子爵は息子の宣言通り自宅の離れで幽閉されている。
ハロルド自身の未来も閉ざされている。最良の婚約者を持ちながら浮気をし、しかもその浮気相手が犯罪者だった人間と縁を結ぼうという家があるとは思えない。
ハロルドは唇を噛んだ。
学園の卒業式までもう一ヶ月という時期だったが、ハロルドは卒業の手続きだけしてアラーニャ侯爵家の領地へ戻った。
婚約者を冷遇して溺れていた恋人が殺人犯だったという噂が広がるのを恐れたからだ。
「あの女は初犯ではなかったようだな。母親の死にも怪しいところがあったので、衛兵が問い詰めたら自白したそうだ。母親が犯罪組織に属していた情人との付き合いに反対していたかららしい」
侯爵領の屋敷で父に恋人の話を聞かされたハロルドは、虚ろな目で問いを返した。
「エヴァンジェリンの家で、彼女の母親の部屋に鈴蘭を飾ろうとしていたのは……」
「もちろん殺すためだろう。鈴蘭を挿していた水を飲めば人間は死ぬ。枕元に置いて、こっそり倒しておけば事故だと誤魔化せるかもしれない。カバジェロ伯爵の後妻の座を狙っていたんだな」
「情人がいたのにですか?」
「カバジェロ伯爵にはエヴァンジェリン嬢しか子どもがいなかった。後妻に入って男の子を産めば家を乗っ取れる。そうしたら伯爵と令嬢を殺して情人を招き入れるつもりだったのだろう。そもそも初めから情人の入れ知恵かもしれない」
「……」
「まだわかっていないのか、ハロルド」
「え?」
「お前も同じ目的で狙われていたんだぞ? あの女がお前に結婚を要求しなかったのはなぜだと思う? お前がエヴァンジェリン嬢と結婚した後も愛人として囲われ、最終的にはエヴァンジェリン嬢を殺して伯爵家を乗っ取るつもりだったからだ」
「そんな……」
付き合っていた間に金を要求してこなかったのも、信用させて後々大きく奪うつもりだったからだろうと父は言う。
ハロルドは救いを求めて思考を巡らせた。
あることを思い出して、父に尋ねる。
「で、でもメンティラはナバロ子爵の愛人だったのでしょう? 僕の愛人にならなくても……」
「あの女は亡くなった夫の遺産で暮らしていると言い、それがもうすぐ無くなると告げていたのだったな? ナバロ子爵の跡取りは母親を踏み躙っている父親に深い憎しみを抱いていた。彼は自分が子爵家を継いだ暁には父親を幽閉するとまで言っていたんだ。母親の死とその醜聞で早まってしまったが、どちらにしろ子爵が自由に使える金はもうすぐ無くなっていた。お前はその次の寄生先だ」
メンティラが囲われていたあの家は、子爵夫人が嫁ぐ前に家族で暮らしていた家だった。
彼女は息子が子爵となったら夫と離縁して、あの家でひとり静かに暮らす予定を立てていたのだという。
夫の浮気に心を砕かれて息子以外のすべてに無関心になっていた彼女が、あの聖花祭の日にメンティラのもとを訪ねたのはそのせいだ。家族との大切な想い出が残る家の壁紙を張り替えられ家具を入れ替えられ、不貞の現場にされていることには耐えられなかったのである。
ナバロ子爵に実家の財産を吸い上げられた今も、あの家の権利だけは夫人が持っていた。
メンティラは想定外の状況に混乱し、いつもの手段を取った。鈴蘭を挿していた水を子爵夫人に飲ませたというわけだ。
ハロルドがあの家を訪ねたとき、扉の向こうには子爵夫人の死体があった。
「情人がいたのに、僕やナバロ子爵とも関係を持っていたのですか?」
「あの女は情人に夢中だったかもしれんが、男にとっては何人もいる金蔓のひとりだ。ナバロ子爵を捕まえられなかったら、その時点で娼館に売り払われていたに違いない」
「……」
黙って俯いたハロルドに、父が言葉を続ける。
「ハロルド、お前は私の可愛い息子だ。次男だからと言って見捨てるつもりはなかった。エヴァンジェリン嬢との婚約は最良のものだったと思っている」
「……」
「だが、カバジェロ伯爵は私の親友だ。爵位こそ低いものの、商才のある彼にはいつも助けられてきた。エヴァンジェリン嬢も親友の可愛い娘だ。彼女がお前を好きになれないようなら婚約の話を進めるのはやめておこうと思っていた」
でも、と父はハロルドに語る。
「伯爵夫人の葬儀の日、ずっと泣きじゃくっていたエヴァンジェリン嬢がお前の言葉で笑顔になったのを見て、この婚約は私の大切な人々を幸せにするものだと確信したんだ」
「エヴァンジェリンの……笑顔……」
ハロルドは、自分の言葉でエヴァンジェリンが笑顔になったことは覚えていた。
けれど自分がなんと言ったのかは覚えていなかった。泣きじゃくる彼女が疎ましくて適当なことを言ったとしか覚えていない。
それだけでなく、ハロルドは自分の隣で笑うエヴァンジェリンの顔すら思い出せなかった。覚えているのは、記憶を失った彼女が自分を見たときに浮かべた怪訝そうな表情だけだ。
「お前達が幸せになれると信じていたのだがなあ……」
鼻声で言う父は親友を失った。母は幼いころから可愛がっていたエヴァンジェリンが義娘にならなくなったことを悲しんでいる。
兄は妙な事件に巻き込まれたハロルドに渋い顔だ。
長男の兄はすでに結婚していて子どももいる。
ハロルドが王都でひとりを満喫出来ていたのは、両親が孫可愛さに領地に引き籠っていたからだ。
兄が学園に通っていたときは母が一緒に王都で暮らしていた。
両親のどちらかがいてくれたなら自分は過ちを犯さなかっただろうか、とハロルドは思う。
(いや、駄目だな。僕は病人の部屋に毒花を飾るということに疑問を抱かなかった。怒ったエヴァンジェリンのほうが悪いと決めつけていた。僕は最初から、彼女のことを見ようともしていなかったんだ)
メンティラとその情人は殺人と事後従犯で処刑された。ナバロ子爵は息子の宣言通り自宅の離れで幽閉されている。
ハロルド自身の未来も閉ざされている。最良の婚約者を持ちながら浮気をし、しかもその浮気相手が犯罪者だった人間と縁を結ぼうという家があるとは思えない。
ハロルドは唇を噛んだ。
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