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第四話 葬儀から三ヶ月後の彼女
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「思い当たる名前はあったかい、オルタンシア」
ジャコブに聞かれて、私は首を横に振りました。
王都神殿の行方不明名簿をどんなに眺めても記憶は戻って来ませんでした。
彼には『オルタンシア』と呼ばれていますが、本当は自分がなんという名前だったのかもわかりません。
四ヶ月ほど前の豪雨の日から数日後に、ジャコブの住んでいる農村近くの川に流れ着いた私が紫陽花の刺しゅうをしたヴェールを握り締めていたから、そう呼ばれているのです。
その川は王都を流れる大きな河から分かれたものです。
私が王都から流されて来たのではないかと考えたジャコブが、今日ここに連れて来てくれたのです。
ジャコブに助けられてから四ヶ月もかかったのは、いろいろあったからでした。
最初の一ヶ月はほとんど寝たきりで、意識も朦朧としていました。
高熱に侵されていたのです。
次の一ヶ月は目覚めたは良いものの記憶はなく体は寝たり起きたりで、ジャコブが支えてくれなければ、歩く練習もままなりませんでした。
それからの二ヶ月は──私はジャコブの背負った大きな荷物に目をやりました。
彼が作った農業器具です。これまで農村で使われていたものより改良されていて、暮らしている村で配った試作品は大好評でした。
この二ヶ月間は、ジャコブがこれを作ったり改良を重ねたりしていたのです。
農作業の途中でぼーっとすることのある彼に理由を聞いたら、器具をこうしたらもっと使いやすいんじゃないかと思うんだけど、と言われて改良を勧めたのです。
ジャコブは道具を作るなんて専門の人間がすることで、ちゃんと習ったことのない自分には出来ないものと思い込んでいました。だけど私は、ものは変化していくものだと知っていました。道具だけでなく花や野菜だって、人間とともに変わっていくのです。
ジャコブに助けてもらうまでの記憶は無いので、どうしてそんなことを知っているのかは自分でもわかりませんが。
ともあれ、彼にも王都へ行く理由があったほうが私も連れてきてもらいやすいと思ったのです。
彼に持ち込みを勧めた王都の大きな商会の存在も、どうして知っているのかはわかりません。
「ほかの地区の神殿にも行ってみようか」
「良いのですか?」
「うん、村の仕事は終えてきたし、この器具を持ち込もうと思ってた商会の店舗はお休みだったし……オルタンシア」
「はい?」
「ここへ来る途中で、親子連れを見たじゃないか」
「……はい」
「父親が子どもを肩車して、隣を歩く母親は笑ってて……とても幸せそうだった。もしかしたらオルタンシアも、そんな生活を送っていたのかもしれない。きっと家族が君を探している」
厳ついけれど整っているジャコブの顔が、苦し気に歪みます。
さっきの親子連れを見たときに思ったことを私は彼に言えませんでした。
父親らしき男を見た私は、貧弱な人、と思ってしまったのです。ジャコブのほうが素敵、とも思いました。
なんというか、我ながら性格が悪いです。
あれが私の本性なのでしょうか。
ジャコブが心配してくれる言葉を聞いても、元の生活に戻るよりもこのまま彼と一緒にいたいと考えているのですから、ロクでもない人間だということは間違いありません。
でも……私はジャコブに恋をしているのです。
流されて死にかけていたところを助けてもらったからもあるでしょう。
ですがどんな出会い方をしていても、逞しくて少しのんびり屋で優しい彼に、恋をせずにはいられなかったでしょう。だけど、私の過去が判明してなにも問題が無いとわかった上でなければ、ジャコブは私を受け入れてくれないと思います。そんなところも好きでした。
「名前と髪や瞳の色だけではわかりませんよね」
お礼を言って行方不明者名簿を返すと、神官様が溜息をついておっしゃいました。
「服や持ち物の特徴も届け出てくれていたら時間が経っても……」
言葉を濁されたのは、死体が腐敗して髪が抜け落ち眼球が転がっても服や持ち物から身元を判明出来るということでしょう。
お世話になっている村で刺しゅうの代金としてもらったお金で寄進をしようとしたら、ジャコブに止められました。
まだ君は俺の庇護下にあるんだから、と言って代わりに寄進をしてくれます。どうして彼は、何度も私を恋に落とすのでしょう。お金を出してくれたから、ではなく私を守ろうとしてくれる気持ちが嬉しいのです。
寄進のための署名をしているジャコブの横顔を見つめていたら、神殿の奥の扉が開きました。
身元不明の死者を安置する地下の霊廟へ続く扉です。
泣いている女性と彼女の肩を抱く男性が神官様に案内されて出てきます。ちょうど私の両親くらいの年代でしょうか。
ジャコブも筆を止めてふたりを見ました。
彼は早くに両親を亡くして、お婆様と暮らしています。
いきなりやって来た私にも優しくしてくださる素敵なお婆様です。寄進のお金をジャコブが出してくれたので、自分のお金でお土産を買って帰りましょうか。
「……オルタンシアに似てる……」
「え?」
ジャコブの呟きに彼を見たとき、女性が顔を上げたのが視界の隅に入りました。
紫がかった青い瞳が私を映しています。
確かに村の手伝いをしているときに見る、川面に映った私によく似ています。
「エリザベト!」
彼女が叫びました。
ジャコブに聞かれて、私は首を横に振りました。
王都神殿の行方不明名簿をどんなに眺めても記憶は戻って来ませんでした。
彼には『オルタンシア』と呼ばれていますが、本当は自分がなんという名前だったのかもわかりません。
四ヶ月ほど前の豪雨の日から数日後に、ジャコブの住んでいる農村近くの川に流れ着いた私が紫陽花の刺しゅうをしたヴェールを握り締めていたから、そう呼ばれているのです。
その川は王都を流れる大きな河から分かれたものです。
私が王都から流されて来たのではないかと考えたジャコブが、今日ここに連れて来てくれたのです。
ジャコブに助けられてから四ヶ月もかかったのは、いろいろあったからでした。
最初の一ヶ月はほとんど寝たきりで、意識も朦朧としていました。
高熱に侵されていたのです。
次の一ヶ月は目覚めたは良いものの記憶はなく体は寝たり起きたりで、ジャコブが支えてくれなければ、歩く練習もままなりませんでした。
それからの二ヶ月は──私はジャコブの背負った大きな荷物に目をやりました。
彼が作った農業器具です。これまで農村で使われていたものより改良されていて、暮らしている村で配った試作品は大好評でした。
この二ヶ月間は、ジャコブがこれを作ったり改良を重ねたりしていたのです。
農作業の途中でぼーっとすることのある彼に理由を聞いたら、器具をこうしたらもっと使いやすいんじゃないかと思うんだけど、と言われて改良を勧めたのです。
ジャコブは道具を作るなんて専門の人間がすることで、ちゃんと習ったことのない自分には出来ないものと思い込んでいました。だけど私は、ものは変化していくものだと知っていました。道具だけでなく花や野菜だって、人間とともに変わっていくのです。
ジャコブに助けてもらうまでの記憶は無いので、どうしてそんなことを知っているのかは自分でもわかりませんが。
ともあれ、彼にも王都へ行く理由があったほうが私も連れてきてもらいやすいと思ったのです。
彼に持ち込みを勧めた王都の大きな商会の存在も、どうして知っているのかはわかりません。
「ほかの地区の神殿にも行ってみようか」
「良いのですか?」
「うん、村の仕事は終えてきたし、この器具を持ち込もうと思ってた商会の店舗はお休みだったし……オルタンシア」
「はい?」
「ここへ来る途中で、親子連れを見たじゃないか」
「……はい」
「父親が子どもを肩車して、隣を歩く母親は笑ってて……とても幸せそうだった。もしかしたらオルタンシアも、そんな生活を送っていたのかもしれない。きっと家族が君を探している」
厳ついけれど整っているジャコブの顔が、苦し気に歪みます。
さっきの親子連れを見たときに思ったことを私は彼に言えませんでした。
父親らしき男を見た私は、貧弱な人、と思ってしまったのです。ジャコブのほうが素敵、とも思いました。
なんというか、我ながら性格が悪いです。
あれが私の本性なのでしょうか。
ジャコブが心配してくれる言葉を聞いても、元の生活に戻るよりもこのまま彼と一緒にいたいと考えているのですから、ロクでもない人間だということは間違いありません。
でも……私はジャコブに恋をしているのです。
流されて死にかけていたところを助けてもらったからもあるでしょう。
ですがどんな出会い方をしていても、逞しくて少しのんびり屋で優しい彼に、恋をせずにはいられなかったでしょう。だけど、私の過去が判明してなにも問題が無いとわかった上でなければ、ジャコブは私を受け入れてくれないと思います。そんなところも好きでした。
「名前と髪や瞳の色だけではわかりませんよね」
お礼を言って行方不明者名簿を返すと、神官様が溜息をついておっしゃいました。
「服や持ち物の特徴も届け出てくれていたら時間が経っても……」
言葉を濁されたのは、死体が腐敗して髪が抜け落ち眼球が転がっても服や持ち物から身元を判明出来るということでしょう。
お世話になっている村で刺しゅうの代金としてもらったお金で寄進をしようとしたら、ジャコブに止められました。
まだ君は俺の庇護下にあるんだから、と言って代わりに寄進をしてくれます。どうして彼は、何度も私を恋に落とすのでしょう。お金を出してくれたから、ではなく私を守ろうとしてくれる気持ちが嬉しいのです。
寄進のための署名をしているジャコブの横顔を見つめていたら、神殿の奥の扉が開きました。
身元不明の死者を安置する地下の霊廟へ続く扉です。
泣いている女性と彼女の肩を抱く男性が神官様に案内されて出てきます。ちょうど私の両親くらいの年代でしょうか。
ジャコブも筆を止めてふたりを見ました。
彼は早くに両親を亡くして、お婆様と暮らしています。
いきなりやって来た私にも優しくしてくださる素敵なお婆様です。寄進のお金をジャコブが出してくれたので、自分のお金でお土産を買って帰りましょうか。
「……オルタンシアに似てる……」
「え?」
ジャコブの呟きに彼を見たとき、女性が顔を上げたのが視界の隅に入りました。
紫がかった青い瞳が私を映しています。
確かに村の手伝いをしているときに見る、川面に映った私によく似ています。
「エリザベト!」
彼女が叫びました。
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