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第七話 それは本当に愛なのか
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ゲファレナの母親は、娘と同じでか弱く儚げな女性だった。
元はメーラー侯爵家で下働きをしていた。
学園に入学したばかりの十五歳で父を失って当主として立ち、佞臣達に傀儡にされて侯爵家を食いものにされたブレッヒェンにとって、彼女は唯一無二の救いだった。王家に押し付けられた婚約者など、彼にとっては足枷でしかなかった。
王都にある侯爵家の応接室で、ブレッヒェンとフォーゲル辺境伯が手続きをしていた。
バルバラの籍を侯爵家から抜くための書類を作成し、これまで辺境伯家が侯爵家にしてきた支援をどうするかの話し合いだ。
ブレッヒェンは心から愛している女性と結婚出来るのなら、支援金もバルバラの母親の持参金もすべて返済するつもりだった。
彼の愛する女性は平民だ。少々貧しい暮らしになっても受け入れてくれるだろう。
なによりふたりとその大切な娘の間には愛があるのだ。
辺境伯家の令嬢を娶り、その娘が王太子の婚約者だったことでゲファレナの母親とは正式に再婚出来ないでいたが、バルバラや辺境伯家と絶縁すればそれも可能になる。ブレッヒェンにとって辺境伯家との関りは王家に押し付けられた悪夢だった。
これからは幸せになれるのだと、ブレッヒェンは明るい未来を夢見ていた。
「……ところで」
手続きを終えたところで、フォーゲル辺境伯が口を開いた。
彼は長椅子に座ったブレッヒェンの後ろに立つゲファレナの母親に視線を向けた。
ゲファレナ親娘がこの部屋にいるのは、辺境伯がそう望んだからだ。
「最後にひとつ聞いておきたい。貴様がわしの娘の夫と不貞を働いたのはどうしてだ?」
「閣下!」
思わず怒鳴りつけようとしたブレッヒェンを愛する女性は優しく止める。
「申し訳ございません、辺境伯様。私はブレッヒェン様を愛してしまったのです。婚約者が、奥様がいらっしゃると知っていても愛さずにはいられなかったのです」
愛する女性の言葉に胸が温かくなるのを感じていたブレッヒェンに、辺境伯の低い声が冷水を浴びせてくる。
「それは本当に愛なのか? 貴様のしていることは、貧民窟で妻や娘に体を売らせて作った金で酒をかっ喰らっている屑男と変わらんではないか」
「あ……」
「……っ」
鋭い視線でブレッヒェン達の反論を封じ、辺境伯は言葉を続ける。
「そうだろう? 貴様は自分の恋人を男娼としてわしの娘に売ったのだ。そしてその金でこれまで暮らしてきたのだ。……娘は亡くなった婚約者を愛していた。出来るなら生涯彼を想って生きていきたいと願っていた。そんな人生は虚しいと決めつけて婚約と結婚を強行してしまったが、男娼を押し付けられて金を絞られるだけの人生なら、愛するものを想いながらひとりで生きるほうが良かったとは思わぬか?」
ブレッヒェンはバルバラの母親は自分との結婚を望んでいたのだと思っていた。
望んでいたから自分に近寄ってきて、婚約者として妻として尽くしていたのだと。
自分を愛しているか、婚約者を喪ったことで行き遅れになるのが嫌で必死だったのだと勝手に考えていた。彼女もこの結婚を嫌がっていただなんて思わなかった。
「娘は自分が男娼を押し付けられただなんて知らなかった。貴族令嬢として政略結婚を受け入れて、家のためにも子どものためにも愛し愛されて生きようと努力していた。ああ、無駄な努力だ! 商売で女を抱く男娼に愛情など伝わるはずがないのだからな。いや、貧民窟の男娼や娼婦のほうがメーラー侯爵殿よりマシだ。彼らは貧しさゆえに体を売るという道しか選べなかっただけで、ほかの道もありながら屑女に贅沢をさせるために男娼になることを選んだ貴殿とは違う!」
辺境伯の言う通り、ブレッヒェンにはべつの道もあった。
王命の婚約を拒んでメーラー侯爵家の爵位と領地を返上し、愛する女性と同じ平民となって生きる道だ。
フォーゲル辺境伯令嬢との縁談は王命ではあったものの、あくまで先王の恩人である先代侯爵の残したメーラー侯爵家を救済し、婚約者を亡くした令嬢に新しい嫁ぎ先を紹介するという形で提案されたものだった。王都に辺境伯家の血筋を留めたいという願いはあっても強制ではなかったのだ。
ブレッヒェンがこの縁談を受け入れたのは──
「彼女に贅沢をさせるためにバルバラの母親と結婚したわけではない。結婚する前に彼女は身を引いてくれた!」
「……だが戻って来た。わしの娘が妊娠して貴殿に余裕が生まれたときに、娘の持参金で侯爵家の財政が落ち着いたときに」
なあ、と辺境伯は新生メーラー侯爵家の面々を見渡した。
「自分の恋人を男娼に仕立て上げるのは本当の愛なのか? 王命に逆らうのが怖くて、自分の代で家を潰すのが嫌で、金目当てで女性を娶っておきながら、彼女を冷遇して浮気相手に溺れるのは本当の愛なのか?……半分とはいえ血のつながった姉が、心の底から愛している男を横から寝取るのが本当の愛なのか?」
ブレッヒェンには答えられなかった。
辺境伯の低いが良く響く声を聞いているうちに、本当に自分が男娼になったような気持ちになっていた。
夢見ていた明るい未来が辺境伯家への返済で押し潰されていくのが見える。ゲファレナの母親がいてもブレッヒェンは救われない。だからブレッヒェンは王命の婚約を受け入れ、辺境伯令嬢と結婚したのだ。
(私が、私が愛しているのは、私の幸せは……)
ブレッヒェンにはわからなかった。
元はメーラー侯爵家で下働きをしていた。
学園に入学したばかりの十五歳で父を失って当主として立ち、佞臣達に傀儡にされて侯爵家を食いものにされたブレッヒェンにとって、彼女は唯一無二の救いだった。王家に押し付けられた婚約者など、彼にとっては足枷でしかなかった。
王都にある侯爵家の応接室で、ブレッヒェンとフォーゲル辺境伯が手続きをしていた。
バルバラの籍を侯爵家から抜くための書類を作成し、これまで辺境伯家が侯爵家にしてきた支援をどうするかの話し合いだ。
ブレッヒェンは心から愛している女性と結婚出来るのなら、支援金もバルバラの母親の持参金もすべて返済するつもりだった。
彼の愛する女性は平民だ。少々貧しい暮らしになっても受け入れてくれるだろう。
なによりふたりとその大切な娘の間には愛があるのだ。
辺境伯家の令嬢を娶り、その娘が王太子の婚約者だったことでゲファレナの母親とは正式に再婚出来ないでいたが、バルバラや辺境伯家と絶縁すればそれも可能になる。ブレッヒェンにとって辺境伯家との関りは王家に押し付けられた悪夢だった。
これからは幸せになれるのだと、ブレッヒェンは明るい未来を夢見ていた。
「……ところで」
手続きを終えたところで、フォーゲル辺境伯が口を開いた。
彼は長椅子に座ったブレッヒェンの後ろに立つゲファレナの母親に視線を向けた。
ゲファレナ親娘がこの部屋にいるのは、辺境伯がそう望んだからだ。
「最後にひとつ聞いておきたい。貴様がわしの娘の夫と不貞を働いたのはどうしてだ?」
「閣下!」
思わず怒鳴りつけようとしたブレッヒェンを愛する女性は優しく止める。
「申し訳ございません、辺境伯様。私はブレッヒェン様を愛してしまったのです。婚約者が、奥様がいらっしゃると知っていても愛さずにはいられなかったのです」
愛する女性の言葉に胸が温かくなるのを感じていたブレッヒェンに、辺境伯の低い声が冷水を浴びせてくる。
「それは本当に愛なのか? 貴様のしていることは、貧民窟で妻や娘に体を売らせて作った金で酒をかっ喰らっている屑男と変わらんではないか」
「あ……」
「……っ」
鋭い視線でブレッヒェン達の反論を封じ、辺境伯は言葉を続ける。
「そうだろう? 貴様は自分の恋人を男娼としてわしの娘に売ったのだ。そしてその金でこれまで暮らしてきたのだ。……娘は亡くなった婚約者を愛していた。出来るなら生涯彼を想って生きていきたいと願っていた。そんな人生は虚しいと決めつけて婚約と結婚を強行してしまったが、男娼を押し付けられて金を絞られるだけの人生なら、愛するものを想いながらひとりで生きるほうが良かったとは思わぬか?」
ブレッヒェンはバルバラの母親は自分との結婚を望んでいたのだと思っていた。
望んでいたから自分に近寄ってきて、婚約者として妻として尽くしていたのだと。
自分を愛しているか、婚約者を喪ったことで行き遅れになるのが嫌で必死だったのだと勝手に考えていた。彼女もこの結婚を嫌がっていただなんて思わなかった。
「娘は自分が男娼を押し付けられただなんて知らなかった。貴族令嬢として政略結婚を受け入れて、家のためにも子どものためにも愛し愛されて生きようと努力していた。ああ、無駄な努力だ! 商売で女を抱く男娼に愛情など伝わるはずがないのだからな。いや、貧民窟の男娼や娼婦のほうがメーラー侯爵殿よりマシだ。彼らは貧しさゆえに体を売るという道しか選べなかっただけで、ほかの道もありながら屑女に贅沢をさせるために男娼になることを選んだ貴殿とは違う!」
辺境伯の言う通り、ブレッヒェンにはべつの道もあった。
王命の婚約を拒んでメーラー侯爵家の爵位と領地を返上し、愛する女性と同じ平民となって生きる道だ。
フォーゲル辺境伯令嬢との縁談は王命ではあったものの、あくまで先王の恩人である先代侯爵の残したメーラー侯爵家を救済し、婚約者を亡くした令嬢に新しい嫁ぎ先を紹介するという形で提案されたものだった。王都に辺境伯家の血筋を留めたいという願いはあっても強制ではなかったのだ。
ブレッヒェンがこの縁談を受け入れたのは──
「彼女に贅沢をさせるためにバルバラの母親と結婚したわけではない。結婚する前に彼女は身を引いてくれた!」
「……だが戻って来た。わしの娘が妊娠して貴殿に余裕が生まれたときに、娘の持参金で侯爵家の財政が落ち着いたときに」
なあ、と辺境伯は新生メーラー侯爵家の面々を見渡した。
「自分の恋人を男娼に仕立て上げるのは本当の愛なのか? 王命に逆らうのが怖くて、自分の代で家を潰すのが嫌で、金目当てで女性を娶っておきながら、彼女を冷遇して浮気相手に溺れるのは本当の愛なのか?……半分とはいえ血のつながった姉が、心の底から愛している男を横から寝取るのが本当の愛なのか?」
ブレッヒェンには答えられなかった。
辺境伯の低いが良く響く声を聞いているうちに、本当に自分が男娼になったような気持ちになっていた。
夢見ていた明るい未来が辺境伯家への返済で押し潰されていくのが見える。ゲファレナの母親がいてもブレッヒェンは救われない。だからブレッヒェンは王命の婚約を受け入れ、辺境伯令嬢と結婚したのだ。
(私が、私が愛しているのは、私の幸せは……)
ブレッヒェンにはわからなかった。
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