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第八話 酒を飲む
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「アルトゥール、今夜も執務室で休むの?」
ゲファレナに問われてアルトゥールは頷いた。
学園を卒業して、メーラー侯爵家に婿入りして数ヶ月が経つ。
まだ当主はゲファレナの父ブレッヒェンのままだが、彼はアルトゥールが家に入ると同時に仕事を放棄した。一日中酒ばかり飲んでいる。
「お父さんがごめんなさい」
「君のせいじゃない。気にせずに君は早く寝なさい」
「ありがとう、おやすみなさい」
ブレッヒェンのゴリ押しで学園にこそ通っていたものの、ゲファレナは貴族家の当主になるための勉強はしたことがない。
次期メーラー侯爵家当主となるのはゲファレナでも、実務を執り行うのはアルトゥールの役目であった。
バルバラとの絶縁後、ブレッヒェンは恋人と正式に婚姻し、養女にしたゲファレナを跡取りとして届け出ていた。この国では神殿で正式な婚姻を結んだ男女以外から生まれた子どもを家の跡取りにするには、そういう方法しかないのである。こんなことにならなければ、次代の侯爵家はアルトゥールとバルバラの第二子が継いでいただろう。
王都にある侯爵邸の執務室でひとりになったアルトゥールは、机の引き出しから酒瓶を出した。
仕事をするけれど酒も飲む。
酒を飲まなくてはやってられなかった。
二番目の女でなくなってもゲファレナはなにも変わらない。
か弱く儚げで、アルトゥールがいなければ生きていけないように見える。
バルバラの存在に支えられていたときは好ましく思っていたそれが、今は疎ましい重荷としか思えなくなっていた。
義父になるブレッヒェンが酒に溺れるようになったのは、おそらくフォーゲル辺境伯に言われたことが原因だろう。
義理の息子として、ゲファレナの夫としては、辺境伯の発言を酷い暴言だと怒らなくてはいけないのだろうが、アルトゥールの心に怒りは湧かなかった。
むしろ辺境伯の言う通りだと思った。
本当に愛しているのなら、ゲファレナの母親は身を引くべきだった。
それが出来ないのなら、ブレッヒェンを説得し爵位を返上させて平民にならせるべきだった。
メーラー侯爵家を守るにしても、辺境伯令嬢を犠牲にするべきではなかった。
ゲファレナ親娘からは悪意を感じない。
ふたりが本当にアルトゥールとブレッヒェンを愛しているのはわかる。
わかるからこそ、どこか薄気味悪いものを感じずにはいられない。ブレッヒェンも同じように思い、辺境伯の言葉を繰り返したのではないか。それは本当に愛なのか、と。
答えが出ないまま、あるいは答えを出したくなくてブレッヒェンは酒に溺れているのだろう。
アルトゥールが酒に溺れる理由も半分はブレッヒェンと同じだ。
ゲファレナと自分の間にあるのが本当の愛なのかどうかわからない。もちろん身勝手なアルトゥールが、二番目の女でなくなった彼女に価値を感じなくなったのもある。
もう半分の理由は、フォーゲル辺境伯領で暮らすバルバラに縁談があるという噂を聞いたからだ。
ミュラー公爵家に相応しい女性を自分で選ぶと言って婚約者を決めていなかったダーフィトが、公爵家の跡取りの座を弟に譲ってまでバルバラに求婚したのだという。
身勝手なアルトゥールはふたりに嫉妬しているのだ。嫉妬してもなにも出来ないから、酒に溺れているのだ。
(どうしてだ、ダーフィト。君はゲファレナにも求婚していたのじゃないか)
アルトゥールとゲファレナの関係に苦言を呈していたダーフィトが、いきなり彼女に求婚したときは驚いた。
本当はゲファレナを好きで、それで自分を責めていたのかと思いかけたが、そんなわけはなかった。アルトゥールからゲファレナを引き離すためだったのだ。
彼の真意を聞いても受け入れられなくて、アルトゥールはその縁談を壊した。
(……あのとき、人生をかけてまで私を正そうとしてくれたダーフィトの友情に応えるべきだったんだ。今ならわかる。ゲファレナがダーフィトと婚約もしくは結婚して、ミュラー公爵領に連れて行かれて会うことがなくなったなら、私は彼女のことを忘れていただろう)
都合の良いとき側にいて摘まみ食い出来る二番目の女だから、アルトゥールはゲファレナに溺れていたのだ。
遠く離れても思い続けていられるほどの気持ちはアルトゥールにはなく、美しい幻を作り出すほどの魅力はゲファレナになかった。
彼女はか弱く儚げで、アルトゥールがいなければ生きていけないところに価値があったのだ。離れても平気なのだと気づけば、ゲファレナの価値は消え失せる。
逆に離れれば離れるほど、アルトゥールはバルバラを欲するようになっていた。
自分への愛の籠った瞳に見つめられたいと思うようになっていた。
無理なのはわかっている。だから酒を飲む。酔い潰れてもバルバラの夢は見られないけれど、酔っている間は自分の心から目を逸らすことが出来るから。
今夜もアルトゥールは酒を飲む。
いつか仕事すらしなくなり、ブレッヒェンのように酒浸りになるかもしれない。
ゲファレナ親娘は心配するかもしれないが、領地を任せた代官が税収を上げてくれて生活に支障がなければ、争ってまで夫を諫めようとはしないのではないかとアルトゥールは思っていた。
(バルバラなら、きっと……)
どんなに酔っても、思い出せるのは最後に見た嫌悪に歪んだ彼女の表情だけだった。
もう遅いと、どうしようもないとわかっているのに、アルトゥールはバルバラを、自分を愛してくれていたころの彼女を求めずにはいられない。きっとこれからもずっと。
自分でもどうにもならないのが愛であり、恋心なのだから。
ゲファレナに問われてアルトゥールは頷いた。
学園を卒業して、メーラー侯爵家に婿入りして数ヶ月が経つ。
まだ当主はゲファレナの父ブレッヒェンのままだが、彼はアルトゥールが家に入ると同時に仕事を放棄した。一日中酒ばかり飲んでいる。
「お父さんがごめんなさい」
「君のせいじゃない。気にせずに君は早く寝なさい」
「ありがとう、おやすみなさい」
ブレッヒェンのゴリ押しで学園にこそ通っていたものの、ゲファレナは貴族家の当主になるための勉強はしたことがない。
次期メーラー侯爵家当主となるのはゲファレナでも、実務を執り行うのはアルトゥールの役目であった。
バルバラとの絶縁後、ブレッヒェンは恋人と正式に婚姻し、養女にしたゲファレナを跡取りとして届け出ていた。この国では神殿で正式な婚姻を結んだ男女以外から生まれた子どもを家の跡取りにするには、そういう方法しかないのである。こんなことにならなければ、次代の侯爵家はアルトゥールとバルバラの第二子が継いでいただろう。
王都にある侯爵邸の執務室でひとりになったアルトゥールは、机の引き出しから酒瓶を出した。
仕事をするけれど酒も飲む。
酒を飲まなくてはやってられなかった。
二番目の女でなくなってもゲファレナはなにも変わらない。
か弱く儚げで、アルトゥールがいなければ生きていけないように見える。
バルバラの存在に支えられていたときは好ましく思っていたそれが、今は疎ましい重荷としか思えなくなっていた。
義父になるブレッヒェンが酒に溺れるようになったのは、おそらくフォーゲル辺境伯に言われたことが原因だろう。
義理の息子として、ゲファレナの夫としては、辺境伯の発言を酷い暴言だと怒らなくてはいけないのだろうが、アルトゥールの心に怒りは湧かなかった。
むしろ辺境伯の言う通りだと思った。
本当に愛しているのなら、ゲファレナの母親は身を引くべきだった。
それが出来ないのなら、ブレッヒェンを説得し爵位を返上させて平民にならせるべきだった。
メーラー侯爵家を守るにしても、辺境伯令嬢を犠牲にするべきではなかった。
ゲファレナ親娘からは悪意を感じない。
ふたりが本当にアルトゥールとブレッヒェンを愛しているのはわかる。
わかるからこそ、どこか薄気味悪いものを感じずにはいられない。ブレッヒェンも同じように思い、辺境伯の言葉を繰り返したのではないか。それは本当に愛なのか、と。
答えが出ないまま、あるいは答えを出したくなくてブレッヒェンは酒に溺れているのだろう。
アルトゥールが酒に溺れる理由も半分はブレッヒェンと同じだ。
ゲファレナと自分の間にあるのが本当の愛なのかどうかわからない。もちろん身勝手なアルトゥールが、二番目の女でなくなった彼女に価値を感じなくなったのもある。
もう半分の理由は、フォーゲル辺境伯領で暮らすバルバラに縁談があるという噂を聞いたからだ。
ミュラー公爵家に相応しい女性を自分で選ぶと言って婚約者を決めていなかったダーフィトが、公爵家の跡取りの座を弟に譲ってまでバルバラに求婚したのだという。
身勝手なアルトゥールはふたりに嫉妬しているのだ。嫉妬してもなにも出来ないから、酒に溺れているのだ。
(どうしてだ、ダーフィト。君はゲファレナにも求婚していたのじゃないか)
アルトゥールとゲファレナの関係に苦言を呈していたダーフィトが、いきなり彼女に求婚したときは驚いた。
本当はゲファレナを好きで、それで自分を責めていたのかと思いかけたが、そんなわけはなかった。アルトゥールからゲファレナを引き離すためだったのだ。
彼の真意を聞いても受け入れられなくて、アルトゥールはその縁談を壊した。
(……あのとき、人生をかけてまで私を正そうとしてくれたダーフィトの友情に応えるべきだったんだ。今ならわかる。ゲファレナがダーフィトと婚約もしくは結婚して、ミュラー公爵領に連れて行かれて会うことがなくなったなら、私は彼女のことを忘れていただろう)
都合の良いとき側にいて摘まみ食い出来る二番目の女だから、アルトゥールはゲファレナに溺れていたのだ。
遠く離れても思い続けていられるほどの気持ちはアルトゥールにはなく、美しい幻を作り出すほどの魅力はゲファレナになかった。
彼女はか弱く儚げで、アルトゥールがいなければ生きていけないところに価値があったのだ。離れても平気なのだと気づけば、ゲファレナの価値は消え失せる。
逆に離れれば離れるほど、アルトゥールはバルバラを欲するようになっていた。
自分への愛の籠った瞳に見つめられたいと思うようになっていた。
無理なのはわかっている。だから酒を飲む。酔い潰れてもバルバラの夢は見られないけれど、酔っている間は自分の心から目を逸らすことが出来るから。
今夜もアルトゥールは酒を飲む。
いつか仕事すらしなくなり、ブレッヒェンのように酒浸りになるかもしれない。
ゲファレナ親娘は心配するかもしれないが、領地を任せた代官が税収を上げてくれて生活に支障がなければ、争ってまで夫を諫めようとはしないのではないかとアルトゥールは思っていた。
(バルバラなら、きっと……)
どんなに酔っても、思い出せるのは最後に見た嫌悪に歪んだ彼女の表情だけだった。
もう遅いと、どうしようもないとわかっているのに、アルトゥールはバルバラを、自分を愛してくれていたころの彼女を求めずにはいられない。きっとこれからもずっと。
自分でもどうにもならないのが愛であり、恋心なのだから。
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