一昨日のキス、明日にキス

豆狸

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11・X年7月10日

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 木曜日。
 菜乃花は昼食を終えて、漫研の部室を出た。
 今日の弁当は自分で作った。これからすることを考えていたら眠りが浅くて、早過ぎる時間に起きてしまったからだ。
 テニスボールが打ち合わされる音を聞きながら、コートの横を歩く。
 昨日、佐々木に依頼されたことをやり遂げなくてはならない。
 冴島はいつものようにベンチに腰かけている。

「よお」

 低い声に呼び止められた。

「今日はブラウニーあるけど、食うか?」

 頷いて、菜乃花は彼の隣に座った。もちろんふたりの間には、人ひとりが余裕で入れる空間がある。
 茶色くて四角いブラウニーを受け取って、菜乃花は齧った。
 しっとりした生地に隠された、ロースト済みのくるみが香ばしい。

「美味しい!」
「そうか。……佐藤はいつも美味そうに食ってくれるから、餌付けし甲斐があるな」
「え? わたし、餌付けされてたの」
「はは、どうかな」

 冴島が浮かべた優しい表情に、菜乃花の心臓が跳ね上がる。
 二十八歳の記憶では、Wデートの誘いに手間取ってはいなかった。
 だけど──
 菜乃花は俯いて、冴島から視線を逸らす。

(なんか……記憶のせいで、なんか……)

 Wデートのとき、菜乃花は冴島とキスをする。
 単なる偶然の産物に過ぎないけれど、菜乃花にとっては大切な初キスだ。
 二十八歳も十八歳も関係ない。
 一度意識してしまうともう、恥ずかしくてたまらなかった。

(なんかまるで、キス目当てで誘うみたいで……)

「佐藤」
「な、なに?」
「ここ……」

 くすっと笑みをこぼし、冴島が菜乃花に触れる。
 骨ばった指が頬を擦った。

「チョコついてた」
「あああ、ありがとう!」

 菜乃花は飛び跳ねるようにして立ち上がる。

「どうした? ブラウニーまだあるぞ」
「えっと、あの、今日は、今日は急いで教室に戻らないといけなくて」
「そうなのか」
「それで、えっと、あの……冴島くんっ!」
「なんだ?」
「こっ、今度、今度の……えっと、こここ交通ルールは守ってる?」

 冴島の目が丸くなった。
 菜乃花も自分の発言に驚いている。
 十年後の弥生や類に交通事故ではないかと言われてから、気にしていたことではあるのだけれど。

「交通ルール? うん、まあ守ってるぜ。つっても、ながら運転されたり、変な薬でキメてるヤツが突っ込んできたりしたら、どうしようもねぇけど」
「そ、そうだよね」
「佐藤。良かったら残りのブラウニーもらってくれよ。友達とでも食べてくれ」
「ありがとう!」

 ラップにくるまれて、スーパーのナイロン袋に入れられたブラウニーを受け取り、菜乃花は冴島を見つめた。

(Wデートのこと言わなくちゃ。告白は無理でも仲良くなれたら、なにか力になれるかもしれない。なにが起こるのかもわからないんだから)

「どうした、佐藤」

 家の喫茶店を手伝っているからか、冴島は年齢以上に大人びて見える。
 昼食の後で弥生と一緒にベンチに座った彼の前を通り過ぎていた一年生のころは、てっきり上級生だと思っていた。

「今度の土曜日。映画に行こう!」
「土曜日?……いいけど、ふたりでか?」
「ううん、あの、えっと……」

 菜乃花はベンチに座り直し、冴島に佐々木の計画を囁いた。
 目の前のコートで当事者の八木が練習をしていたので、あまり大きな声で話すのは良くないと思ったのだ。本人以外に聞かれても良くない。文武両道の八木は女子人気が高く、テニス部のアイドルだ。

「……わかった。アイツにも言っとく。たぶん大丈夫だ。その映画、観たがってたから」
「よろしく! じゃあわたしはこれで!」
「おう。……転ぶなよ、右手と右足一緒に出てるぞ」

 そう言われても難しい。
 まつ毛の長さがわかるほど近い距離で囁いたさっきの瞬間を思い出すと、体が思うように動かなくなるのだ。二十八歳も十八歳もなく、菜乃花はブラウニーの袋を握り締めて、よろよろと歩いて校舎へ入った。
 もちろん、教室に早く戻らなくていけないというのは、焦って口走ってしまっただけの嘘だった。
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