一昨日のキス、明日にキス

豆狸

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40・三度目のX年7月13日①

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「あああああ、あああああああ……」

 日曜日のイベント、同人誌即売会の会場で、菜乃花は麻宮のスペースに座っていた。
 ひとつのサークルに与えられた空間は、長机の半分とパイプ椅子二脚。
 菜乃花が腰かけていないほうの椅子には、弥生と麻宮の荷物が置いてある。
 奇声を発しているのは、スペースにやって来た客だった。
 机上に並べられた同人誌を見て感極まっている。
 そろそろ七月も半ばになるが、この地域では梅雨明けが宣言されていない。
 雨こそ降らないものの、湿気が多く蒸し暑い毎日が続いている。
 そんな中、彼女はサングラスにマスクで人相を隠し、布地の分厚い帽子を深々とかぶっていた。帽子の端から、ウェーブのかかった茶色い髪が覗いている。

(隠れ腐女子かな?)

 BLが好きだからといって、みんながみんな弥生や麻宮のようにオープンにしているわけではなかった。周囲には秘密にしているものも多い。
 それはそれで個人の自由だと、菜乃花は考えている。
 菜乃花自身、面白ければ読むものの、BLというジャンルにこだわっているわけではないので、ひとつの作品ならともかくジャンルごと好きだといったことはない。
 前に夢中だった不良漫画にしても、好きな作品は限られている。

「新刊ですか?」

 麻宮ファンの常連が押し寄せる時間帯は過ぎていた。
 そういえば、鈴木もあのときに来ていたのだろうか。
 常連でなく通りすがりで立ち寄ってくれる人もいるけれど、彼女は通りすがりとは思えない。机上の同人誌を見るサングラス越しの視線は、ずっと探していたものを見つけたときのそれだ。
 イベント自体が初めてなのかもしれない。
 ネットに公開されたものを見るだけでは我慢できなくなって、同人誌を買いに来たのだ。
 緊張と蒸し暑さでテンパってるんだろうな、などと考えながら、菜乃花は尋ねた。
 何度も頷く頭がかぶっている帽子には、猫の飾りがついている。

「し、新刊と、後、既刊も全部……あれ?」
「新刊は今回からの新シリーズで既刊の続きじゃないんですが、いいですか?」
「……佐藤っち?」
「え?」

 菜乃花の説明を遮って、客が顔を近づけてきた。

「やっぱり佐藤っちだ。すごい、佐藤っちがンーア先生だったの?」

 サングラスとマスクを外した彼女は、佐々木だった。

「あー……佐々木さん」

(この前部室に入らなくても、BL好きになる運命だったんだ。もしかしたら、前から腐女子だったのかなあ)

 菜乃花は首を横に振る。

「わたしはお手伝いしてるだけだよ。ンーア……エヌエー先生は……あ、帰ってきた」

 袋に詰め込んだ大量の同人誌を手にして、麻宮が戻ってきた。
 たぶん留守番役の交代ではなく、買い込んだ本を置きに来ただけだ。
 彼女のペンネーム兼ハンドルネームはアルファベットで『NA』、渚・麻宮の頭文字で、本人は『エヌエー』と読んでいるけれど、とくに振り仮名は振っていない。佐々木のように『ンーア』もしくは『ンア』だと思っている読者も多かった。

「エヌエー先生はあちらです」
「え、あ、そそ、そうなの? えっと、うち、ファ、ファンです!」

 佐々木に深々とお辞儀をされて、麻宮は目を白黒させた。
 菜乃花はそっと腕を伸ばし、彼女から同人誌の袋を受け取って無人の椅子の下へ置く。
 座席の上には置くための空間がすでにない。

「うん、ありがとう?……あれ? どこかであった?」
「あ、そそ、そうですね。麻宮先輩、うちです。同じ高校の……一年のとき生徒会にメイクで注意受けてたとこ、助けてもらいました」
「そんなこともあったっけね。あたしが好きで生徒会にケンカ売ってただけだから、あんま気にしないで。あのときは向こうがセクハラまがいだったから助けたけど、学校でのメイクはほどほどにね」
「はい! あ、あのときも昨夜もありがとうございました」
「昨夜?」

 佐々木は、こくん、と頷いた。
 サングラスを外した彼女の目元は、泣き腫らしたかのように赤く染まっている。
 サングラスとマスクで誤魔化すつもりだったのか、今日はメイクもしていなかった。

「うち昨日失恋して……すっごい落ち込んでたときにンーア、じゃなくてエヌエー先生がSNSで上げてくださってたBL漫画見つけて……すっごい萌えて立ち直れたんです。オタクだってバカにしてたゲーム好きのねーねのことも理解できるようになって、今日は一緒にイベントに来ました。ねーねに謝れたのもエヌエー先生のおかげです」
「……よくわかんないけど、良かったね」

 満面の笑顔を浮かべた佐々木は、ふたりの会話の間に菜乃花が用意した麻宮の同人誌の詰め合わせを受け取って代金を支払い、スペース前で騒いだことを詫びて去っていった。

「いやあ、ハマりたての子って熱いわあ」

 と呟きながら、麻宮はまたイベントの人込みへと消えていく。
 その後ろ姿を見送って、菜乃花は用意していたペットボトルで水分を補給した。

(わたしの行動に関係なく、変わる出来事と変わらない出来事がある……)

 冴島が行方不明になるというのは、変えられることなのか変えられないことなのか──菜乃花にはわからない。だけど、諦める気はなかった。
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