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43・三度目のX年7月13日④
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菜乃花の部屋にはクーラーがない。
だから夏場は、寝る直前までクーラーのある居間に入り浸っているのだけれど、今日の菜乃花は汗だくで自室にいた。少し開けた窓からは、レースのカーテンを揺らす熱風しか吹き込んでこない。
勉強机に向かい、菜乃花は携帯を眺めている。
冴島から電話やメールがくるわけないことはわかっていた。
彼は自宅の喫茶店を手伝っている時間だ。
連絡先自体は金曜日、一緒に教室へ戻りながら交換していた。
(今日はまだ、なにもないはずだけど……)
いや、本当は心配なだけではない。
ついさっき喫茶店で話をしたところなのに、菜乃花は彼の声が聞きたかった。
会いたかった。顔が見たかった。
告白してつき合い始めてデートをして──恋心が加速している。
二十八歳の菜乃花にも十八歳の菜乃花にも、初めての恋で初めてのおつき合いなのだ。
「メールくらいなら送っても……うひゃっ」
いきなり着信音を奏でた携帯に、菜乃花は跳び上がった。
冴島から電話だ。
恐る恐る携帯を耳に当てると、低い声が話しかけてくる。
『佐藤、今ヒマか?』
「うんヒマ。ヒマだよ。夕ご飯が終わって、ぼーっとしてたとこ」
『そっか。じゃあ窓開けてみてくれるか?』
「窓?」
立ち上がり、菜乃花は窓を開けた。
裏庭の萎んだ朝顔の向こうに、冴島がいる。
夏の遅い夕暮れが始まって、町並みが赤く染まっていた。
生垣の向こうの少年は片手で自転車を支えて、自分の白い携帯を耳に当てている。
目の前の少年と携帯から、同じ言葉が二重になって聞こえてきた。
「『お、当たった。やっぱここが佐藤ん家だったか』」
「冴島くん、どうしたの?」
「店の買い出し。佐藤にコンポート勧められたから、出来合いのを買っとこうかと思ってな。リンゴが旬の時期なら自分で作るんだけど」
彼は電話を切って、携帯をしまった。
「んで、ついでだから、ちょっと顔見に来た。いきなりゴメンな。……じゃ」
「待って」
「なに?」
「なにっていうか……えっと、ちょっとだけ立ち話する時間……ないよね、ゴメン」
未来うんぬんのことを話すつもりはない。
菜乃花はただ、少しでも冴島と過ごしたかったのだ。
(でもお仕事の途中だもんね)
働いていた二十八歳の菜乃花の記憶は、十八歳の菜乃花も共有している。
ワガママを言ってはいけないことは、わかっていた。
冴島が微笑んだ。
「五分くらいならいいぞ。このまま話すか?」
「ううん、そっちへ行くね。ちょっとだけ待ってて」
「ああ」
携帯を片付けて、菜乃花は机の引き出しからリップグロスを取り出した。
十年の時間を飛び越えさせてくれた、柑橘系の香りのものではない。
Wデートの前に祖母がくれた、ローズの香りのリップグロスだ。
真っ赤なハート形のプラスチックケースに入っている。
前のとき、つき合っていない冴島とB級グルメフェスティバルへ行ったときは恥ずかしくて使わなかったが、今回はWデートにもつけて行った。
(気づいてもらえなかったけど、でも……)
急いで蓋を開け、指先につけて唇で伸ばす。
ローズの香りが広がった。
色合いも柑橘系の香りのものよりも鮮やかなはずだ。
(本当はもっとメイクとかもして、冴島くんに喜んでもらえるくらい綺麗になれたらいいんだけど)
二十八歳の菜乃花が使っていた化粧品は、ここにはない。
今の菜乃花にできるのは、これが精いっぱいだった。
だから夏場は、寝る直前までクーラーのある居間に入り浸っているのだけれど、今日の菜乃花は汗だくで自室にいた。少し開けた窓からは、レースのカーテンを揺らす熱風しか吹き込んでこない。
勉強机に向かい、菜乃花は携帯を眺めている。
冴島から電話やメールがくるわけないことはわかっていた。
彼は自宅の喫茶店を手伝っている時間だ。
連絡先自体は金曜日、一緒に教室へ戻りながら交換していた。
(今日はまだ、なにもないはずだけど……)
いや、本当は心配なだけではない。
ついさっき喫茶店で話をしたところなのに、菜乃花は彼の声が聞きたかった。
会いたかった。顔が見たかった。
告白してつき合い始めてデートをして──恋心が加速している。
二十八歳の菜乃花にも十八歳の菜乃花にも、初めての恋で初めてのおつき合いなのだ。
「メールくらいなら送っても……うひゃっ」
いきなり着信音を奏でた携帯に、菜乃花は跳び上がった。
冴島から電話だ。
恐る恐る携帯を耳に当てると、低い声が話しかけてくる。
『佐藤、今ヒマか?』
「うんヒマ。ヒマだよ。夕ご飯が終わって、ぼーっとしてたとこ」
『そっか。じゃあ窓開けてみてくれるか?』
「窓?」
立ち上がり、菜乃花は窓を開けた。
裏庭の萎んだ朝顔の向こうに、冴島がいる。
夏の遅い夕暮れが始まって、町並みが赤く染まっていた。
生垣の向こうの少年は片手で自転車を支えて、自分の白い携帯を耳に当てている。
目の前の少年と携帯から、同じ言葉が二重になって聞こえてきた。
「『お、当たった。やっぱここが佐藤ん家だったか』」
「冴島くん、どうしたの?」
「店の買い出し。佐藤にコンポート勧められたから、出来合いのを買っとこうかと思ってな。リンゴが旬の時期なら自分で作るんだけど」
彼は電話を切って、携帯をしまった。
「んで、ついでだから、ちょっと顔見に来た。いきなりゴメンな。……じゃ」
「待って」
「なに?」
「なにっていうか……えっと、ちょっとだけ立ち話する時間……ないよね、ゴメン」
未来うんぬんのことを話すつもりはない。
菜乃花はただ、少しでも冴島と過ごしたかったのだ。
(でもお仕事の途中だもんね)
働いていた二十八歳の菜乃花の記憶は、十八歳の菜乃花も共有している。
ワガママを言ってはいけないことは、わかっていた。
冴島が微笑んだ。
「五分くらいならいいぞ。このまま話すか?」
「ううん、そっちへ行くね。ちょっとだけ待ってて」
「ああ」
携帯を片付けて、菜乃花は机の引き出しからリップグロスを取り出した。
十年の時間を飛び越えさせてくれた、柑橘系の香りのものではない。
Wデートの前に祖母がくれた、ローズの香りのリップグロスだ。
真っ赤なハート形のプラスチックケースに入っている。
前のとき、つき合っていない冴島とB級グルメフェスティバルへ行ったときは恥ずかしくて使わなかったが、今回はWデートにもつけて行った。
(気づいてもらえなかったけど、でも……)
急いで蓋を開け、指先につけて唇で伸ばす。
ローズの香りが広がった。
色合いも柑橘系の香りのものよりも鮮やかなはずだ。
(本当はもっとメイクとかもして、冴島くんに喜んでもらえるくらい綺麗になれたらいいんだけど)
二十八歳の菜乃花が使っていた化粧品は、ここにはない。
今の菜乃花にできるのは、これが精いっぱいだった。
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