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鬼神の腕
⑥
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六
覚えているのは、細くて美しい白い手だけであった。
「―――捨てられたんだ、おれたちは」
何が悲しくて泣けるのかわからないが、無性に淋しくて膝を抱えていると、彼がいつもそう言った。
「…ぼくが…変だから…?」
「違う、おまえは変なんかじゃない。おまえが変なら、おれも変なんだ」
七つ年上の彼は、どんなときもそばにいた。まだ〈力〉の使い方がわからない自分が、無邪気にしてみせる様々なことに人々が驚き、恐れおののくそのときも、彼だけは片時もそばから離れなかった。
自分たちに向けられる謂れのない非難が、彼の怒りの捌け口だった。
人里離れた山寺に置き去られ、待ってもこない迎えを待ち続ける日々が、見捨てられたという思いを駆り立てたとしても無理はない。
(でも…)
白い手の記憶は、自分の中では違う印象を残していた。
『…お願いね。―――をお願いね』
あの人は、日に日に確かなものになっていくこの〈力〉が人々の妨げになることを知っていたのだ。だから、霊験のある場所に移されることを望んで縁の深い山寺に預けたのだろう。
しかし、彼もまた幼い者を託されて必死だったのだ。
「いいか、泣いてもだめだ。誰も助けてなんかくれない。おれたちは二人きりだ、おれとおまえと二人きりなんだ」
自らを奮い立たせ、思慕を振り切ることしかできなかったのだろう。あの頃の彼と自分は、それくらい幼かった。
物心ついた頃から、自分は人とは違うと気付いていた。
感情を高ぶらせてはいけない。
激情に流されてはいけない。
突き動かされてはいけない、引き摺られてはいけない―――そんな暗示が、いつしか身についていた。
注がれる眼差しのその奥に見えるどす黒い何かに怯えて、壊れ物をたくさん拵えてしまうと、やさしい声がこう言った。
『いい? みんなを驚かせてはだめよ。あなたが怖がると、色々なものが暴れてしまうから』
それからは、何が視えても心の中で「怖くない」と呟いた。
自分には当然のように見えているものが、人には見えないとわかったときもそうだった。
『あなたの見ているものは本当にそこにあるのよ。でも、誰にも言ってはだめ。みんなには、見たくないものは見えないだけなの』
とはいえ、見えてしまったものを見ないふりするのは、なかなか難しかった。
道端にいる一本足の怪物とか、蟇蛙に乗ったお喋りな小鬼といったわけのわからない物の怪や、昼夜を問わず現われる死霊や亡者たちとはなるべく目を合わせないようにした。
ただ、不吉の影を察してしまったときだけは、居ても立ってもいられなくなった。
炭焼きの老人を黒い影が迎えにきたときも、川で透き通った無数の手が少女を捕まえたときも、その恐ろしさを黙って抱え込むことはできなかった。
けれど、本当に恐ろしかったのはそのあとだった。
「人が死ぬのを言い当てるなんて」
「死神を見たなんて言うんだよ」
「気味の悪い子供だ」
「狐憑きだよ、あれは」
無遠慮に浴びせられるどろどろした思念には、とても平静ではいられなかった。
人の念の強さというのは無尽蔵である。殊に、異質の者に対する恐れは際限がない。山寺に連れていかれたのは、きっとそんな毎日にいたたまれなくなったからだろう。
彼は捨てられた、と言ったが、やはりそれは少し違う。あの人は、たとえ二度と会えなくなっても、人里で異端視され続けるより、この〈力〉を目立たぬところへ埋もれさせることを願ったのだ。
あの美しい白い手が、母を知る唯一の記憶であった。
ほどなく、彼と二人で京の山奥に移った。〈力〉を自在に使いこなすためには修行が必要だと聞かされていた。
「もう隠さなくてもいいんだ。ここなら、誰もおまえを変だなんて言わない」
「本当?」
半信半疑だった。人里を離れる原因はこの〈力〉にある。だから、ずっと自分に暗示をかけ、人に悟られぬように息をひそめていた。彼以外の周りのすべてに対して、いつのまにか身構えることを覚えていたのだ。
傍らに立つ彼の手を、しっかりと握っていた。
いくら修行の場といっても、やはり僧とて人である。好奇の眼差しにさらされ、大勢の思念が一斉に押し寄せてきたとき、緊張に耐えかね〈力〉が爆発した。
―――みんなを驚かせてはだめよ。あなたが怖がると、色々なものが暴れてしまうから。
つむじ風が、自分ではどうしようもないほどの勢いで吹き荒れていた。
もう、ここにもいられなくなる―――そう思ったときだった。
「瘧の風だな」
落ち着いた静かな声がした。
「ああ…なんでもない。気を静めなさい」
後ろから伸びてきたあたたかい手に目隠しをされると、すうっと力が抜けた。
「むやみに〈力〉を放ってはならぬ。そのときは、ここに気を集めるのだ」
額を指されて、初めて相手の顔を見た。墨染めの僧衣を纏っているが、なぜか剃髪はしていない。けれど、周りの雰囲気からしてかなり高い地位の人物のようだった。
その人は、とてもいい匂いがした。
「弟か?」
傍らで、彼が黙って頷いた。
「泣かぬ子だな。泣きもしないが、笑いもしない」
じっと見つめられても、その人からは不思議と思念を感じなかった。
「いくつだ」
「五才」
「おまえは?」
「十二」
その人は「そうか」と言って、促すように僧院の奥を指し示した。
「今日からここが、おまえたちの修行の場だ」
それが、お師さまとの出会いだった。
もともと彼には素質があったのだろう。修行が始まると、彼はぐんぐん力をつけた。頭もよかったし、呑み込みも早かった。
とくに、法力の習得にかけては修行僧の中で群を抜いていた。
彼は次々に新しい術を身につけた。その貪欲さには高僧たちも舌を巻くほどであった。私はといえば、不安定な精神を一から鍛え、その頃になってようやく自分の能力を操れるようになっていた。
あれほど怖いと思っていた人の思念も、自分の周りに障壁を張りめぐらし、押し留めることができた。
気持ちが楽になると修行にも身が入り、彼と競い合うように様々なことを習い覚えた。
けれど、自分の能力と法力とは、やはり少し違う気がした。学び得たものとは相容れぬ異質のものであることが、どうしても拭えなかったのだ。
私は、法力とは違う自分の能力を、次第に内に押し込めるようになっていった。
智・体・心を磨き、奥義書を繙くまでになった彼は、二十歳を目前にして周囲から一目置かれる存在になっていた。
修法の場にも欠かせぬ優秀な法力使いとして重用される彼を、私は誇らしく思っていた。
だが、あるときお師さまが言われた。
「なぜ、おまえは常に一歩引いたところにおるのだ」
意味がよくわからなかった。
「おまえも兄と同様の修行を積んでおるはずだ。だが、おまえはいつもすべての力を出し切ろうとはしない。兄に、遠慮しているのか?」
「そんなことは…。私は兄者のように優秀ではありません」
すると、お師さまは珍しく不快そうに眉を寄せた。
「おまえがそう言うのなら、もう何も申すまい」
突き放されるように視線を逸らされ、うろたえた。一体、私の何がご不快だったのか、そのときはそれがまったくわからなかった。
同じ苛立ちを、彼が抱いていることにも、そのときの私は気付かなかった。
気付くのがあまりに遅すぎたのだ。
得度式(出家して仏門に入る儀式)を間近に控え、日夜書院に籠もり続けていた彼が、何か途轍もない決心をしているのが顔つきでわかった。その頃の彼はすでに僧院では並ぶ者のない法力使いになっていた。
言い知れぬ不安に駆られ、真夜中に別院へ向かう彼のあとを追った。いやな予感は、自分でもうんざりするほどよく当たったのだ。
彼は宝物殿に忍び込み、秘伝の奥義書を持ち出してきた。
「それを、どうする気です?」
「…おまえか」
さすがに後ろめたかったのか、彼は少し驚いた様子だった。
「試してみたいことがある。いい機会だからな」
その巻き物が、禁断の書であることは一目でわかった。
「やめてください。それは禁じられた修法の書だ」
「それでこそ試す価値がある」
「失敗したら、叡山を追われるかもしれませんよ⁉」
「おまえは…!」
一瞬、あまねく僧たちから尊敬を集めるまでになっていた彼が、長年封じ込めていたあらわな感情が噴き出しそうになるのが視えた。
「このおれが仕損じるとでも思うのか」
感情を再びぐっと呑み込んだ彼は、険しく眉を寄せて私を睨んだ。
「いつもそうだな。おまえには引け目があるから自分のことをよく見せようとしたがる。自分だけは悪者になりたくないのだろう。おまえの小賢しさは虫が好かない。その、自分を悪者にしたくないというところがおれは不快なのだ」
「どうして…」
初めて向けられた彼からの強い思念に、頭がガンガンした。
「おまえにはわかるまい」
彼は顔を背けると、巻き物をばらりと解いた。
「何を…する気です…?」
「―――鬼神〈羅刹〉を召喚する」
法力の描き出す方円陣の中に巻き物を投じた彼は、凄まじい気迫で印を結んだ。
「来たれ!」
ヴォン、と空気が唸りをあげた。
「我がもとに下れ、〈羅刹〉!」
方円陣が目も眩むほど白く光りだす。肌が粟立ち、背筋がぞくぞくするのとともに、胸騒ぎが治まらなくなった。
「下れ‼」
中央に強い光の塊が盛り上がった。
喉がひりつき、鼓動が激しく鼓膜を叩いている。方円陣の中と外、双方の応酬ははじめは互角に思えた。しかし、それもわずかの間のことだった。
「…く……っ…」
彼のこめかみが痙攣した。方円陣の中のまばゆい光が次第に大きく迫り上がっていく。それは、屈服させんとする力には決して下らないという気勢のようでもあった。
こめかみからバッと血飛沫が上がった。
「おのれ…」
そして、額から滴り落ちる血が、ぱたりと地面に砕けたときだった。
大気が音を立てて震撼し、白い光が勢いを増して彼に襲いかかった。
「…〈羅刹〉―――!」
「兄者‼」
体で感じているおぞましさより、彼の身を案じる気持ちのほうが上回っていた。
恐ろしいとは思わなかった。無我夢中で彼の描いた方円陣に踏み込み、突き出した右手で白い光を摑むと、それは窯から溢れた燃えたぎる鉄の塊のようにドロリと腕にしみ込んだ。
骨も溶かすほどの物凄い熱と激しい痛みに頭が真っ白になった。
喉を裂く、声にならない声がほとばしっていた。
それからのことは朦朧として、あまりよく覚えていない。
気が付くと、遠くでお師さまの静かな声が聞こえていた。
「愚かなことをしたものだ、鬼神を召喚しようとするとは…。おまえほどの者が何を焦る」
その声の諭す相手が、彼であることは間違いなかった。
「幸い、大事に至らずに済んだからよかったものの、一つ間違えば取り返しのつかぬことになっていたぞ」
大事に至らずに済んだ―――? そうか。では、危ういところで鬼神は召喚されなかったのだ。
ほっとして体を起こそうとしたとき、自分の身のあまりのぎこちなさにぎょっとした。なぜか体が思うようにならないのだ。
右の腕に違和感がある。
まるで、そこだけ自分の体ではなくなったような感覚だった。鉛のようにずしりと重くなった腕を見て、再び気を失いそうになった。
呼吸がうまくできず、動悸が激しくなる。拳が、開かない―――…。
「……あ………あ…あ………‼」
自分の身に、何が起きたのか悟ったときにはもう遅かった。白く燃えたぎる熱線をこの手に摑んだ記憶が瞬時によみがえり、全身が熱くなった。
右腕が、嘲笑うようにドクンと搏動した。手の甲から肘に向かって不気味な青筋が浮き上がる。
叫んでいた。悲鳴とも喚き声ともつかぬ、狂った声で。
鬼神は、召喚されなかったのではない。ここにいる―――〈羅刹〉は、ここにいる!
「どうした⁉」
お師さまが駆け込んでくるのが見えた。
その目が、こちらを見た刹那、はっと見開かれた。
「―――なんということだ…」
「…お師さま…」
苦しかった。頭の中を劈く激しい耳鳴りが、鬼神の咆哮を思わせた。
「おまえが〈羅刹〉を…」
お師さまの背後で、その呟きを聞いていた彼の表情が忘れられない。
彼は一瞬顔を凍りつかせ、やがてすべてを悟ると、笑うとも泣くともつかない複雑な表情で口元を歪めたのだ。
思えば、あの瞬間に彼の憎悪がはっきりとした形を成したのかもしれなかった。
そして、彼と私は新たな名を授かった。
彼は俗世を離れ、正式に法力僧として得度するための、私は、図らずも鬼神の依代となってしまったための名であった。
現実を受け入れるにはかなりの時間を要したが、お師さまは根気強く私を宥めてくれた。
「おまえは、幼いながらに自らを律するすべを心得ている。感情を抑制できるのは何よりだ。〈羅刹〉をその身に封じることができたおまえなら、必ずや〈羅刹〉を御することができるだろう」
念のため、お師さまから額に封じ文字を印された私は、その日から「翡翠」と呼ばれるようになった。
彼は鬼神召喚の一件から特に変わったわけではなかったが、瞳にひどく昏い焔を湛えるようになっていた。それは、時折こちらに向けられる眼差しの中で激しく燃え上がった。
得度式の前夜、彼と私はともに内院に呼び出された。
彼は僧院内で形式的な謹慎をしていたし、私は奥院で物忌みをしていたので、控えの間で対峙するのが久しぶりの面会だった。
「…御名は、金剛と申されるとか。よい名を賜りましたね」
少し緊張して話し掛けると、彼はあの昏い目で私を一瞥した。
「五大尊の金剛夜叉明王から戴いたと聞きました」
いつもどおりに振る舞っていたつもりだが、やはり声がぎこちない。彼の体から溢れだす暗い気配になんとも言えない不安を感じていたのだ。
すると、彼が突然言った。
「どんな気分だ」
「え?」
彼は、昏い目で下から睨み上げるように私を見据えて再び言った。
「どんな気分だ? その身に鬼神を宿した気分は」
瞳の中の火焔が妖しく揺らいでいた。
「おまえが封じなければ、〈羅刹〉は間違いなく野に放たれた。鬼神を封じ、この世の危機を救ったおまえは、さぞ大事にされているのだろうな」
射竦められた私は声も出せなかった。
「…〈羅刹〉を下し、力を知らしめるはずだったのは我のほうだ。だが、どうだ。能力を知らしめたのは我を諌めたおまえで、我は思い上がりの粗忽者と嘲られる。おまえはこれまで、ただの一度も本気で法力を極めようとはしなかったのにな」
怒りと、蔑みの入り混じった鋭い眼差しだった。
「兄…」
「この世は不公平だな、翡翠。求める者には与えられず、求めぬ者には備わる。いくら資質が違うといっても、これでは努力するのが愚かしくなるのも仕方あるまい」
「兄者は、優れた法力使いではありませんか」
すると、彼は驚いたように目を見張り、そしてふと唇を歪めた。
「優れた法力使い? 自らの法力で鬼神を召喚しながら、満足に従えることもできなかった者がか」
彼は、また昏い焔を瞳にともした。
「鬼神召喚は奥義中の奥義。地上に召喚した者にしか屈伏させることはできなかったはずだ。だが…」
焔が、ゆらり、と燃え上がった。
「おまえはそれを無意識にやってのけた」
「…私は…」
「我は優れた法力使いなどというくだらん称賛が欲しかったのではない。我が欲しかったのは力だ。これまで誰も得ることのできなかった、鬼神の―――〈羅刹〉の力だ」
控えの間の空気が、次第に張りつめていくのがわかった。押し殺しきれない彼の気が、その体からじわじわと滲みだしているようだった。
「叡山などというちっぽけな世界で優越してなんになる。鬼神を制すれば、我はこの世に君臨できたのだ。…おまえは考えたことはないのか? その〈力〉を使いこなせるようになったとき、かつておまえを恐れ蔑んだ者たちに思い知らせてやろうと」
「そんなこと…考えたことも…」
「ただの一度もか? 〈羅刹〉が屈するほどの能力だぞ」
「ありません。だいたい、〈羅刹〉は私に屈したわけではないし、私だって〈羅刹〉を封じようと思ったわけでは…」
彼の瞳がぎらりと光った。
「―――持てる者の余裕だな」
ずっと押さえていた私への苛立ちが、ぱっくりと開いた黒い傷口から静かに溢れてくる。私はそこで、自分がこれまでどれほど彼の自尊心を傷つけてきたのかを気付かされることになった。
「いかに高度な法力を会得しようと、ろくに努力もしないおまえがこうして我を虐げる。おまえにその〈力〉があるかぎり、我はおまえを凌ぐことができぬ」
「そんな…。兄者は私など及びもつかぬほど素晴らしい才をお持ちではありませんか」
「詭弁だな」
私の言葉を遮り、彼はこめかみを痙攣させた。
「おまえに同情されるほど腹立たしいことはない」
「そんなつもりは…」
「また、そんなつもりはない、と言うのか。つもりはなくとも、おまえにはなんでもできるのだな」
昏く冷たい眼差しに息を呑んだ。彼の鬱積した怒りがここまで高じているとは思ってもいなかった。
彼は、凍るような目で険しく私を見据えた。
「屈伏させようとしたわけでも、封じようとしたつもりもないなら、なぜ〈羅刹〉はおまえの内でおとなしくしている? 内臓を引き千切り、その皮膚を食い破っても外に出てこようとしないのはなぜだ?」
動揺し、首を振ることしかできなかった。ずっと彼を慕い、心の底から尊敬していた彼の憎悪を受け止めることができなかったのだ。
彼は顔を歪めた。
「―――認めているからだ。屈する気はなくとも、宿主として不足のない器であると」
「兄者…」
「黙れ!」
ドンッと苛立ちのこもった拳が畳に打ちつけられた。そのとき、初めて彼の感情が表に噴き出すのを見た。
「なぜ〈羅刹〉は我でなくおまえを選んだ? 力を望むこの我ではなく、おまえのように法力を本気で極める気もない者に…必要としない者のもとに、なぜ下った⁉」
怒りに拳がわなないている。とめどなく噴き出す激しい憎しみに、どう応えていいのかわからなかった。
「おまえは…我が血を吐く思いで積み上げたすべてを一瞬にして砕いたのだ」
虚ろに顔を上げた彼は、おもむろにふらりと立ち上がった。
「そうして、なんの苦もなく昇りつめていくがいい。おまえなら、そんなつもりはなくともそれが叶うのだからな」
「…兄者…」
「金剛と呼べ。おまえに殊勝らしく兄などと敬われるのはうんざりだ」
再び押し殺した彼の気配が黒く澱んで視えた。石のように固まった忌まわしい右腕が、たまらなくキリキリと痛んだ。
「どこへ…行かれるのです…」
出ていこうとする彼を、やっとの思いで引き止めた。
「内院からの呼び出しがまだ…」
「坊主どものくだらん評議に付き合う気はない」
「この試問は、あなたが得度するための最後の…」
目眩をこらえて必死に言うと、彼は振り向きもせず障子を開け放った。
回廊の軒下に、仏塔の影がそびえている。
「我は仏門に下る気はない」
「…では、叡山でのこれまでの修行は一体なんだったのですか⁉」
「知れたことよ」
ふっと嘲笑した彼は、やおら両手に凄まじい気を溜め、それを気合もろとも仏塔に向けて打ち込んだ。
「砕破!」
ドォンという大音響とともに塔は吹き飛び、周囲に火の手が上がった。
「兄者…!」
「我が今日まで叡山にとどまったは、この力を得るためだ」
肩越しに振り返った彼の横顔は、燃え盛る真っ赤な炎に彩られていた。
「もう用はない」
「兄者っ」
「ここに残っても、おまえがいるかぎり我はせいぜい『優秀な法力使い』止まりだ。鬼神を屈服させることも叶わず、おまえに能力の差を見せ付けられて生きねばならぬこの屈辱に、我が耐えられると思うのか」
これまで、どんなことがあっても彼に疎んじられたことはなかった。彼はどんなときも私のそばにいて、いつも私の味方でいてくれた。だから、この先も私と彼は共にあるのだと信じていた。
けれど、それは私の勝手な思い込みだった。私は彼に甘えていたのだ。自分の能力を押し隠し、次席に居座る私に、彼がどれほど歯痒い思いをしていただろう。
「我に屈辱を味わわせたおまえを生涯赦すつもりはない。覚えておけ、いずれ必ず決着をつける」
もう取り返しがつかない。私は、気高い彼の誇りを傷つけたのだ。
それきり、叡山から姿を消した彼を、お師さまは内院に諮って放逐とした。禁を犯した鬼神召喚の一件と、それに伴う謹慎中であったこと、加えて仏塔破壊に、座主の許可なく山を下りたことを並べ立てられては、お師さまも破門せざるをえなかったのだ。
〈羅刹〉を封じたのは思いがけないことだった。しかし、それが彼を憎悪に走らせるきっかけになったことは確かだ。彼は誰よりも私のそばにいて、私の〈力〉がどんなものであるのか知り尽くしていたのだから。
彼の言うとおり、〈羅刹〉を縛っているのは私の能力だ。無理に押し隠さず、すべての能力を早くから出し切っていたら、彼にわかってもらうことができたのだろうか。
でも、あのとき私は〈羅刹〉を封じようとしたのではない。
能力を知らしめようとしたのでも、この世の危機を救ったと高僧たちから褒めそやされることを望んだのでもない。
私が救いたかったのは彼だけだ。
私はただ、彼を救いたかったのだ。
覚えているのは、細くて美しい白い手だけであった。
「―――捨てられたんだ、おれたちは」
何が悲しくて泣けるのかわからないが、無性に淋しくて膝を抱えていると、彼がいつもそう言った。
「…ぼくが…変だから…?」
「違う、おまえは変なんかじゃない。おまえが変なら、おれも変なんだ」
七つ年上の彼は、どんなときもそばにいた。まだ〈力〉の使い方がわからない自分が、無邪気にしてみせる様々なことに人々が驚き、恐れおののくそのときも、彼だけは片時もそばから離れなかった。
自分たちに向けられる謂れのない非難が、彼の怒りの捌け口だった。
人里離れた山寺に置き去られ、待ってもこない迎えを待ち続ける日々が、見捨てられたという思いを駆り立てたとしても無理はない。
(でも…)
白い手の記憶は、自分の中では違う印象を残していた。
『…お願いね。―――をお願いね』
あの人は、日に日に確かなものになっていくこの〈力〉が人々の妨げになることを知っていたのだ。だから、霊験のある場所に移されることを望んで縁の深い山寺に預けたのだろう。
しかし、彼もまた幼い者を託されて必死だったのだ。
「いいか、泣いてもだめだ。誰も助けてなんかくれない。おれたちは二人きりだ、おれとおまえと二人きりなんだ」
自らを奮い立たせ、思慕を振り切ることしかできなかったのだろう。あの頃の彼と自分は、それくらい幼かった。
物心ついた頃から、自分は人とは違うと気付いていた。
感情を高ぶらせてはいけない。
激情に流されてはいけない。
突き動かされてはいけない、引き摺られてはいけない―――そんな暗示が、いつしか身についていた。
注がれる眼差しのその奥に見えるどす黒い何かに怯えて、壊れ物をたくさん拵えてしまうと、やさしい声がこう言った。
『いい? みんなを驚かせてはだめよ。あなたが怖がると、色々なものが暴れてしまうから』
それからは、何が視えても心の中で「怖くない」と呟いた。
自分には当然のように見えているものが、人には見えないとわかったときもそうだった。
『あなたの見ているものは本当にそこにあるのよ。でも、誰にも言ってはだめ。みんなには、見たくないものは見えないだけなの』
とはいえ、見えてしまったものを見ないふりするのは、なかなか難しかった。
道端にいる一本足の怪物とか、蟇蛙に乗ったお喋りな小鬼といったわけのわからない物の怪や、昼夜を問わず現われる死霊や亡者たちとはなるべく目を合わせないようにした。
ただ、不吉の影を察してしまったときだけは、居ても立ってもいられなくなった。
炭焼きの老人を黒い影が迎えにきたときも、川で透き通った無数の手が少女を捕まえたときも、その恐ろしさを黙って抱え込むことはできなかった。
けれど、本当に恐ろしかったのはそのあとだった。
「人が死ぬのを言い当てるなんて」
「死神を見たなんて言うんだよ」
「気味の悪い子供だ」
「狐憑きだよ、あれは」
無遠慮に浴びせられるどろどろした思念には、とても平静ではいられなかった。
人の念の強さというのは無尽蔵である。殊に、異質の者に対する恐れは際限がない。山寺に連れていかれたのは、きっとそんな毎日にいたたまれなくなったからだろう。
彼は捨てられた、と言ったが、やはりそれは少し違う。あの人は、たとえ二度と会えなくなっても、人里で異端視され続けるより、この〈力〉を目立たぬところへ埋もれさせることを願ったのだ。
あの美しい白い手が、母を知る唯一の記憶であった。
ほどなく、彼と二人で京の山奥に移った。〈力〉を自在に使いこなすためには修行が必要だと聞かされていた。
「もう隠さなくてもいいんだ。ここなら、誰もおまえを変だなんて言わない」
「本当?」
半信半疑だった。人里を離れる原因はこの〈力〉にある。だから、ずっと自分に暗示をかけ、人に悟られぬように息をひそめていた。彼以外の周りのすべてに対して、いつのまにか身構えることを覚えていたのだ。
傍らに立つ彼の手を、しっかりと握っていた。
いくら修行の場といっても、やはり僧とて人である。好奇の眼差しにさらされ、大勢の思念が一斉に押し寄せてきたとき、緊張に耐えかね〈力〉が爆発した。
―――みんなを驚かせてはだめよ。あなたが怖がると、色々なものが暴れてしまうから。
つむじ風が、自分ではどうしようもないほどの勢いで吹き荒れていた。
もう、ここにもいられなくなる―――そう思ったときだった。
「瘧の風だな」
落ち着いた静かな声がした。
「ああ…なんでもない。気を静めなさい」
後ろから伸びてきたあたたかい手に目隠しをされると、すうっと力が抜けた。
「むやみに〈力〉を放ってはならぬ。そのときは、ここに気を集めるのだ」
額を指されて、初めて相手の顔を見た。墨染めの僧衣を纏っているが、なぜか剃髪はしていない。けれど、周りの雰囲気からしてかなり高い地位の人物のようだった。
その人は、とてもいい匂いがした。
「弟か?」
傍らで、彼が黙って頷いた。
「泣かぬ子だな。泣きもしないが、笑いもしない」
じっと見つめられても、その人からは不思議と思念を感じなかった。
「いくつだ」
「五才」
「おまえは?」
「十二」
その人は「そうか」と言って、促すように僧院の奥を指し示した。
「今日からここが、おまえたちの修行の場だ」
それが、お師さまとの出会いだった。
もともと彼には素質があったのだろう。修行が始まると、彼はぐんぐん力をつけた。頭もよかったし、呑み込みも早かった。
とくに、法力の習得にかけては修行僧の中で群を抜いていた。
彼は次々に新しい術を身につけた。その貪欲さには高僧たちも舌を巻くほどであった。私はといえば、不安定な精神を一から鍛え、その頃になってようやく自分の能力を操れるようになっていた。
あれほど怖いと思っていた人の思念も、自分の周りに障壁を張りめぐらし、押し留めることができた。
気持ちが楽になると修行にも身が入り、彼と競い合うように様々なことを習い覚えた。
けれど、自分の能力と法力とは、やはり少し違う気がした。学び得たものとは相容れぬ異質のものであることが、どうしても拭えなかったのだ。
私は、法力とは違う自分の能力を、次第に内に押し込めるようになっていった。
智・体・心を磨き、奥義書を繙くまでになった彼は、二十歳を目前にして周囲から一目置かれる存在になっていた。
修法の場にも欠かせぬ優秀な法力使いとして重用される彼を、私は誇らしく思っていた。
だが、あるときお師さまが言われた。
「なぜ、おまえは常に一歩引いたところにおるのだ」
意味がよくわからなかった。
「おまえも兄と同様の修行を積んでおるはずだ。だが、おまえはいつもすべての力を出し切ろうとはしない。兄に、遠慮しているのか?」
「そんなことは…。私は兄者のように優秀ではありません」
すると、お師さまは珍しく不快そうに眉を寄せた。
「おまえがそう言うのなら、もう何も申すまい」
突き放されるように視線を逸らされ、うろたえた。一体、私の何がご不快だったのか、そのときはそれがまったくわからなかった。
同じ苛立ちを、彼が抱いていることにも、そのときの私は気付かなかった。
気付くのがあまりに遅すぎたのだ。
得度式(出家して仏門に入る儀式)を間近に控え、日夜書院に籠もり続けていた彼が、何か途轍もない決心をしているのが顔つきでわかった。その頃の彼はすでに僧院では並ぶ者のない法力使いになっていた。
言い知れぬ不安に駆られ、真夜中に別院へ向かう彼のあとを追った。いやな予感は、自分でもうんざりするほどよく当たったのだ。
彼は宝物殿に忍び込み、秘伝の奥義書を持ち出してきた。
「それを、どうする気です?」
「…おまえか」
さすがに後ろめたかったのか、彼は少し驚いた様子だった。
「試してみたいことがある。いい機会だからな」
その巻き物が、禁断の書であることは一目でわかった。
「やめてください。それは禁じられた修法の書だ」
「それでこそ試す価値がある」
「失敗したら、叡山を追われるかもしれませんよ⁉」
「おまえは…!」
一瞬、あまねく僧たちから尊敬を集めるまでになっていた彼が、長年封じ込めていたあらわな感情が噴き出しそうになるのが視えた。
「このおれが仕損じるとでも思うのか」
感情を再びぐっと呑み込んだ彼は、険しく眉を寄せて私を睨んだ。
「いつもそうだな。おまえには引け目があるから自分のことをよく見せようとしたがる。自分だけは悪者になりたくないのだろう。おまえの小賢しさは虫が好かない。その、自分を悪者にしたくないというところがおれは不快なのだ」
「どうして…」
初めて向けられた彼からの強い思念に、頭がガンガンした。
「おまえにはわかるまい」
彼は顔を背けると、巻き物をばらりと解いた。
「何を…する気です…?」
「―――鬼神〈羅刹〉を召喚する」
法力の描き出す方円陣の中に巻き物を投じた彼は、凄まじい気迫で印を結んだ。
「来たれ!」
ヴォン、と空気が唸りをあげた。
「我がもとに下れ、〈羅刹〉!」
方円陣が目も眩むほど白く光りだす。肌が粟立ち、背筋がぞくぞくするのとともに、胸騒ぎが治まらなくなった。
「下れ‼」
中央に強い光の塊が盛り上がった。
喉がひりつき、鼓動が激しく鼓膜を叩いている。方円陣の中と外、双方の応酬ははじめは互角に思えた。しかし、それもわずかの間のことだった。
「…く……っ…」
彼のこめかみが痙攣した。方円陣の中のまばゆい光が次第に大きく迫り上がっていく。それは、屈服させんとする力には決して下らないという気勢のようでもあった。
こめかみからバッと血飛沫が上がった。
「おのれ…」
そして、額から滴り落ちる血が、ぱたりと地面に砕けたときだった。
大気が音を立てて震撼し、白い光が勢いを増して彼に襲いかかった。
「…〈羅刹〉―――!」
「兄者‼」
体で感じているおぞましさより、彼の身を案じる気持ちのほうが上回っていた。
恐ろしいとは思わなかった。無我夢中で彼の描いた方円陣に踏み込み、突き出した右手で白い光を摑むと、それは窯から溢れた燃えたぎる鉄の塊のようにドロリと腕にしみ込んだ。
骨も溶かすほどの物凄い熱と激しい痛みに頭が真っ白になった。
喉を裂く、声にならない声がほとばしっていた。
それからのことは朦朧として、あまりよく覚えていない。
気が付くと、遠くでお師さまの静かな声が聞こえていた。
「愚かなことをしたものだ、鬼神を召喚しようとするとは…。おまえほどの者が何を焦る」
その声の諭す相手が、彼であることは間違いなかった。
「幸い、大事に至らずに済んだからよかったものの、一つ間違えば取り返しのつかぬことになっていたぞ」
大事に至らずに済んだ―――? そうか。では、危ういところで鬼神は召喚されなかったのだ。
ほっとして体を起こそうとしたとき、自分の身のあまりのぎこちなさにぎょっとした。なぜか体が思うようにならないのだ。
右の腕に違和感がある。
まるで、そこだけ自分の体ではなくなったような感覚だった。鉛のようにずしりと重くなった腕を見て、再び気を失いそうになった。
呼吸がうまくできず、動悸が激しくなる。拳が、開かない―――…。
「……あ………あ…あ………‼」
自分の身に、何が起きたのか悟ったときにはもう遅かった。白く燃えたぎる熱線をこの手に摑んだ記憶が瞬時によみがえり、全身が熱くなった。
右腕が、嘲笑うようにドクンと搏動した。手の甲から肘に向かって不気味な青筋が浮き上がる。
叫んでいた。悲鳴とも喚き声ともつかぬ、狂った声で。
鬼神は、召喚されなかったのではない。ここにいる―――〈羅刹〉は、ここにいる!
「どうした⁉」
お師さまが駆け込んでくるのが見えた。
その目が、こちらを見た刹那、はっと見開かれた。
「―――なんということだ…」
「…お師さま…」
苦しかった。頭の中を劈く激しい耳鳴りが、鬼神の咆哮を思わせた。
「おまえが〈羅刹〉を…」
お師さまの背後で、その呟きを聞いていた彼の表情が忘れられない。
彼は一瞬顔を凍りつかせ、やがてすべてを悟ると、笑うとも泣くともつかない複雑な表情で口元を歪めたのだ。
思えば、あの瞬間に彼の憎悪がはっきりとした形を成したのかもしれなかった。
そして、彼と私は新たな名を授かった。
彼は俗世を離れ、正式に法力僧として得度するための、私は、図らずも鬼神の依代となってしまったための名であった。
現実を受け入れるにはかなりの時間を要したが、お師さまは根気強く私を宥めてくれた。
「おまえは、幼いながらに自らを律するすべを心得ている。感情を抑制できるのは何よりだ。〈羅刹〉をその身に封じることができたおまえなら、必ずや〈羅刹〉を御することができるだろう」
念のため、お師さまから額に封じ文字を印された私は、その日から「翡翠」と呼ばれるようになった。
彼は鬼神召喚の一件から特に変わったわけではなかったが、瞳にひどく昏い焔を湛えるようになっていた。それは、時折こちらに向けられる眼差しの中で激しく燃え上がった。
得度式の前夜、彼と私はともに内院に呼び出された。
彼は僧院内で形式的な謹慎をしていたし、私は奥院で物忌みをしていたので、控えの間で対峙するのが久しぶりの面会だった。
「…御名は、金剛と申されるとか。よい名を賜りましたね」
少し緊張して話し掛けると、彼はあの昏い目で私を一瞥した。
「五大尊の金剛夜叉明王から戴いたと聞きました」
いつもどおりに振る舞っていたつもりだが、やはり声がぎこちない。彼の体から溢れだす暗い気配になんとも言えない不安を感じていたのだ。
すると、彼が突然言った。
「どんな気分だ」
「え?」
彼は、昏い目で下から睨み上げるように私を見据えて再び言った。
「どんな気分だ? その身に鬼神を宿した気分は」
瞳の中の火焔が妖しく揺らいでいた。
「おまえが封じなければ、〈羅刹〉は間違いなく野に放たれた。鬼神を封じ、この世の危機を救ったおまえは、さぞ大事にされているのだろうな」
射竦められた私は声も出せなかった。
「…〈羅刹〉を下し、力を知らしめるはずだったのは我のほうだ。だが、どうだ。能力を知らしめたのは我を諌めたおまえで、我は思い上がりの粗忽者と嘲られる。おまえはこれまで、ただの一度も本気で法力を極めようとはしなかったのにな」
怒りと、蔑みの入り混じった鋭い眼差しだった。
「兄…」
「この世は不公平だな、翡翠。求める者には与えられず、求めぬ者には備わる。いくら資質が違うといっても、これでは努力するのが愚かしくなるのも仕方あるまい」
「兄者は、優れた法力使いではありませんか」
すると、彼は驚いたように目を見張り、そしてふと唇を歪めた。
「優れた法力使い? 自らの法力で鬼神を召喚しながら、満足に従えることもできなかった者がか」
彼は、また昏い焔を瞳にともした。
「鬼神召喚は奥義中の奥義。地上に召喚した者にしか屈伏させることはできなかったはずだ。だが…」
焔が、ゆらり、と燃え上がった。
「おまえはそれを無意識にやってのけた」
「…私は…」
「我は優れた法力使いなどというくだらん称賛が欲しかったのではない。我が欲しかったのは力だ。これまで誰も得ることのできなかった、鬼神の―――〈羅刹〉の力だ」
控えの間の空気が、次第に張りつめていくのがわかった。押し殺しきれない彼の気が、その体からじわじわと滲みだしているようだった。
「叡山などというちっぽけな世界で優越してなんになる。鬼神を制すれば、我はこの世に君臨できたのだ。…おまえは考えたことはないのか? その〈力〉を使いこなせるようになったとき、かつておまえを恐れ蔑んだ者たちに思い知らせてやろうと」
「そんなこと…考えたことも…」
「ただの一度もか? 〈羅刹〉が屈するほどの能力だぞ」
「ありません。だいたい、〈羅刹〉は私に屈したわけではないし、私だって〈羅刹〉を封じようと思ったわけでは…」
彼の瞳がぎらりと光った。
「―――持てる者の余裕だな」
ずっと押さえていた私への苛立ちが、ぱっくりと開いた黒い傷口から静かに溢れてくる。私はそこで、自分がこれまでどれほど彼の自尊心を傷つけてきたのかを気付かされることになった。
「いかに高度な法力を会得しようと、ろくに努力もしないおまえがこうして我を虐げる。おまえにその〈力〉があるかぎり、我はおまえを凌ぐことができぬ」
「そんな…。兄者は私など及びもつかぬほど素晴らしい才をお持ちではありませんか」
「詭弁だな」
私の言葉を遮り、彼はこめかみを痙攣させた。
「おまえに同情されるほど腹立たしいことはない」
「そんなつもりは…」
「また、そんなつもりはない、と言うのか。つもりはなくとも、おまえにはなんでもできるのだな」
昏く冷たい眼差しに息を呑んだ。彼の鬱積した怒りがここまで高じているとは思ってもいなかった。
彼は、凍るような目で険しく私を見据えた。
「屈伏させようとしたわけでも、封じようとしたつもりもないなら、なぜ〈羅刹〉はおまえの内でおとなしくしている? 内臓を引き千切り、その皮膚を食い破っても外に出てこようとしないのはなぜだ?」
動揺し、首を振ることしかできなかった。ずっと彼を慕い、心の底から尊敬していた彼の憎悪を受け止めることができなかったのだ。
彼は顔を歪めた。
「―――認めているからだ。屈する気はなくとも、宿主として不足のない器であると」
「兄者…」
「黙れ!」
ドンッと苛立ちのこもった拳が畳に打ちつけられた。そのとき、初めて彼の感情が表に噴き出すのを見た。
「なぜ〈羅刹〉は我でなくおまえを選んだ? 力を望むこの我ではなく、おまえのように法力を本気で極める気もない者に…必要としない者のもとに、なぜ下った⁉」
怒りに拳がわなないている。とめどなく噴き出す激しい憎しみに、どう応えていいのかわからなかった。
「おまえは…我が血を吐く思いで積み上げたすべてを一瞬にして砕いたのだ」
虚ろに顔を上げた彼は、おもむろにふらりと立ち上がった。
「そうして、なんの苦もなく昇りつめていくがいい。おまえなら、そんなつもりはなくともそれが叶うのだからな」
「…兄者…」
「金剛と呼べ。おまえに殊勝らしく兄などと敬われるのはうんざりだ」
再び押し殺した彼の気配が黒く澱んで視えた。石のように固まった忌まわしい右腕が、たまらなくキリキリと痛んだ。
「どこへ…行かれるのです…」
出ていこうとする彼を、やっとの思いで引き止めた。
「内院からの呼び出しがまだ…」
「坊主どものくだらん評議に付き合う気はない」
「この試問は、あなたが得度するための最後の…」
目眩をこらえて必死に言うと、彼は振り向きもせず障子を開け放った。
回廊の軒下に、仏塔の影がそびえている。
「我は仏門に下る気はない」
「…では、叡山でのこれまでの修行は一体なんだったのですか⁉」
「知れたことよ」
ふっと嘲笑した彼は、やおら両手に凄まじい気を溜め、それを気合もろとも仏塔に向けて打ち込んだ。
「砕破!」
ドォンという大音響とともに塔は吹き飛び、周囲に火の手が上がった。
「兄者…!」
「我が今日まで叡山にとどまったは、この力を得るためだ」
肩越しに振り返った彼の横顔は、燃え盛る真っ赤な炎に彩られていた。
「もう用はない」
「兄者っ」
「ここに残っても、おまえがいるかぎり我はせいぜい『優秀な法力使い』止まりだ。鬼神を屈服させることも叶わず、おまえに能力の差を見せ付けられて生きねばならぬこの屈辱に、我が耐えられると思うのか」
これまで、どんなことがあっても彼に疎んじられたことはなかった。彼はどんなときも私のそばにいて、いつも私の味方でいてくれた。だから、この先も私と彼は共にあるのだと信じていた。
けれど、それは私の勝手な思い込みだった。私は彼に甘えていたのだ。自分の能力を押し隠し、次席に居座る私に、彼がどれほど歯痒い思いをしていただろう。
「我に屈辱を味わわせたおまえを生涯赦すつもりはない。覚えておけ、いずれ必ず決着をつける」
もう取り返しがつかない。私は、気高い彼の誇りを傷つけたのだ。
それきり、叡山から姿を消した彼を、お師さまは内院に諮って放逐とした。禁を犯した鬼神召喚の一件と、それに伴う謹慎中であったこと、加えて仏塔破壊に、座主の許可なく山を下りたことを並べ立てられては、お師さまも破門せざるをえなかったのだ。
〈羅刹〉を封じたのは思いがけないことだった。しかし、それが彼を憎悪に走らせるきっかけになったことは確かだ。彼は誰よりも私のそばにいて、私の〈力〉がどんなものであるのか知り尽くしていたのだから。
彼の言うとおり、〈羅刹〉を縛っているのは私の能力だ。無理に押し隠さず、すべての能力を早くから出し切っていたら、彼にわかってもらうことができたのだろうか。
でも、あのとき私は〈羅刹〉を封じようとしたのではない。
能力を知らしめようとしたのでも、この世の危機を救ったと高僧たちから褒めそやされることを望んだのでもない。
私が救いたかったのは彼だけだ。
私はただ、彼を救いたかったのだ。
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