14 / 27
姫君には鍵をかけて
1
しおりを挟む
◇
スイス・ローザンヌの美術館は、独特の静寂に包まれていた。
絵画展示室で、一人の女性観光客が油彩画を鑑賞していた背の高いゲルマン系の男性と肩越しにぶつかり、はずみで男性が小脇に挟んでいたリーフレットが滑り落ちた。
女性は恐縮した様子で慌ててリーフレットを拾い上げ、声をひそめた。
「ごめんなさい、よそ見していて…」
「どういたしまして」
男性はゆったりと微笑んだ。
女性は、豊かな栗色の髪をかきあげながら彼に笑みを返した。
「フランス語、お上手ですね。でも、ドイツの方でしょう?」
「どうして?」
「簡単な推理ですわ、ムシュウ。だってほら、これ、ドイツ語のリーフレット」
女性は「ふふっ」と笑って悪戯っぽく目を細めた。茶色い瞳がとても魅力的だった。
「かないませんね、ミス・マープル。名推理だ」
「メルシィボクゥ」
二人は顔を見合わせ、声を殺して笑った。
「こちらには観光で?」
「ええ、レマン湖の畔の叔父の別荘でバカンスを。でも、この2・3日叔父の体調がすぐれなくて」
「それはお気の毒に」
「安静にしていれば大丈夫だというので心配はないと思いますけど。とりあえず、市庁舎の近くに大きなドラッグストアがあると聞いてきたので、そこで何かいい薬を買って帰るつもりです」
女性の言葉に、男性は小首をかしげた。
「そういえば、市庁舎の前の通りは通行止めだったな」
「えっ、そうなんですか?」
「事故があったみたいでしたよ。…これからそっちに回ると時間がかかるでしょうから、薬はほかの店でお求めになったほうがいいかもしれない」
「そうですか。じゃあ、そうします。助かりました、ムシュウのおかげで無駄足にならなくてよかったわ」
「どういたしまして」
男性がやさしく応えると、女性は彼を見返して、ふと思い出したように言った。
「もしかして、ムシュウは獅子座?」
「Oui」
「やっぱり。星占いのとおりね」
彼女は、バッグから折り曲げた女性雑誌を取り出して開いて見せた。
「ほら、ここ。私は水瓶座なの。獅子座の異性に会うといいことがあるって。ね、当たってるわ」
同じフロアにいた老夫妻が、微笑ましげに二人を眺めながらそばを通り過ぎた。
「待って、ムシュウの運勢も見てあげる」
男性は苦笑しながら、我慢強く彼女を見下ろしていた。
「獅子座の男性はね、えっと…『期待どおりの成果が得られる暗示、ステップアップするとき』ですって」
「なるほど。占ってみるものですね。おかげでいい一日になりそうだ」
二人は、互いに目を見交わしてにっこりと笑った。
「それじゃ、私はこれで。お先に、マドモアゼル・アクエリアス」
「オールボワ、ムシュウ」
男女は短い挨拶をして別れた。
それきり二人が互いを返り見ることは決してなく、展示室は再びもとの静けさに戻った。
その後、この二人の姿は、また別の場所で見ることになる。
Ⅰ
「どこに行くんです、有栖川さん」
その声に、祐介は腰が抜けるほど驚いた。
「由樹彦、おまえッ! け、気配ってもんがないのか‼」
「なにコソコソしてるんです? いい大人がみっともない」
「後ろめたいところがあるからですわ」
京極冴子が呆れ顔で目を伏せた。
舌打ちした祐介はドアノブから手を離し、不貞腐れて口を尖らせた。
由樹彦はそんな彼に冷ややかな視線を注いで言った。
「あなたには、僕に与えた迷惑を償う義務があるんです。今のあなたに選択の自由はありません。ですから、僕の許可なく職場放棄しようなどと思わないほうがいいですよ」
いつもどおりの断言口調で言いたいだけ言うと、由樹彦はさっさと背中を向けた。
出るのは溜め息ばかりだった。
うなだれた祐介は戸口に座り込むと、溜め息混じりにぼやいた。
「なあ、冴子女史。なんかあいつ、むちゃくちゃ機嫌悪くない?」
「そうですか?」
「まだ根に持ってんのかな~。そりゃ、あのあと呼び出しすっぽかして、トンズラしたりしたけどさぁ…。羽根のばしたってゆったって、たった13時間半よ⁉ 日付が変わる前に御用になったじゃんか。…だいたい、なんでおれだけッ⁉ コーヘイはどーしたんだよ、コーヘイは」
「鏑木さんはフランス大使館の招きで、刺繍とレース編みの展示会に。会場で講習もされるそうですわ」
「かーっ! 何が講習だよ‼ どーせマダムたちにうまいこと言って、飲んで食ってるだけだぜ⁉ なんでこーいつもあいつばっかりいい思いするかな~‼」
半ばヤケクソ気味にその場にひっくり返った祐介は、三度目の溜め息をついた。
「あーあ。もとはと言えば、女でしくじったのはおれだし、文句いえる義理じゃないけどさぁ。ったくツイてねーよなー…」
すっかりいじけてブツブツ言っている彼のところに、京極冴子が歩み寄った。
「私は、有栖川さんのきれいなお顔を毎日眺めていられて幸せですけど」
「……ホント?」
「ええ」
冴子はにっこりと笑った。
慰めに気をよくした祐介は、立ち直りも早かった。
「おれ、もー女史の奴隷になっちゃう♡」
「お茶でも入れましょうか。付き合ってくださる?」
「もちろん。女史が付き合えとおっしゃるなら、10杯でも20杯でも」
祐介は仰向けのまま、両膝を胸のあたりまでもってくると、反動をつけてさっと敏捷に飛び起きた。
冴子がイギリス式の正当なやり方で入れる紅茶は、いつでも香り高く、口当たりもまろやかだった。
別室の由樹彦に紅茶を差し入れ、戻ってきた彼女に祐介はこわごわ訊ねた。
「由樹彦、なんか言ってた?」
冴子は含むように笑って目を細めた。
「いいえ。でも、怒ってなどいらっしゃいませんわよ、あの方」
「あれで?」
「ええ。むしろ楽しんでいらっしゃるんです」
「楽しむ―――⁉ ジョーダンじゃないぜ、まったく…」
「お気持ちはわからなくもありませんわ。有栖川さんのような秀麗な方を拘束して、思いのままに独占しているんですもの」
「相変わらずサディスティックなヤツ☆」
祐介が露骨に顔をしかめると、冴子は静かにティーポットを揺らしながらそっと目を伏せた。
「珍しいんですのよ、あの方がここまで物事に執着なさるのは。どちらかというと淡泊な方ですのに」
「……屈折してんなぁ」
祐介はうんざりしたように低く呟き、頬杖をついた。
「恋に、近いのかもしれませんわね」
程よく温められたロイヤルコペンハーゲンが、豊かな音を立てながらゆっくりと紅茶色に染まっていく。
「カンベンしてよ」
「それだけ、お二人をお気に召されたということですわ」
はあっと大きく息を吐いた祐介は、天井を仰いで気だるげに言った。
「女史、おれのテイストはブランデーにして」
「お好きなんですのね、ティー・ロワイヤル」
「てゆーか、オモシロイじゃん、砂糖に火つけて燃やすの」
軽くいなされて、冴子は苦笑した。
「そういえば、一度お尋ねしたかったんですけど」
「何?」
「鏑木さんとの馴れ初めは、どういうきっかけだったんですの?」
冴子がそう言いながらカップを差し出すと、祐介は黙って振り向き、ソーサーから角砂糖の乗ったティースプーンだけを取った。
「お聞きしてはいけないことでしたかしら」
「―――別に」
祐介はブランデーの染みた砂糖に火をつけ、青い炎をしばらく見つめていた。
「あいつがおれのバービーちゃんに総レースのドレス作ってくれたのが、最初」
火のついたままのスプーンを紅茶の中に沈めると、彼はとらえどころのない表情で薄く笑った。
「なんたって一品物だからね」
冴子の手からカップを取った祐介は、口元に笑みを浮かべたまま、ちらりと上目遣いに彼女を見た。
冴子は吐息混じりに首を振った。
「……わかりませんわ。私には、とてもそれだけのご関係とは思えませんもの」
「どうして? おれたちのことは、おれたちよりよっぽど詳しいじゃん」
「ですから、尚更ミステリアスなんですわ」
彼女は、謎めいた表情で紅茶を啜っている祐介に再び探るように問いかけた。
「お二人は一体、どういうご関係ですの?」
「肉体関係」
そう言っておいて、祐介はククッと可笑しそうに喉を鳴らした。
揶揄っているのは瞭然だった。
冴子は小さく肩を竦めた。
「もしそれが事実でしたら、個人的には大変興味深いことですわ。ただ、そうではなくて、お二人には過去にもっと特別の…」
「へえ、特別の?」
不意に鋭い視線を浴びせられ、冴子はどきりとして口を噤んだ。
祐介は微かに笑って、伏し目がちに俯いた。
まつげの長い彼の横顔は、マスカレードの仮面のように美しい。しかし、それは無用の詮索を嫌う鉄壁の仮面にほかならなかった。
冴子はふと溜め息をついた。
(警戒されてしまったかしら)
ミルクをたっぷり注いだ紅茶を口に運んだ彼女は、そのままさり気なく祐介から視線を外した。
その頃、浩平はフランス大使公邸で大使夫人の主催する茶会に列席していた。
昼下がりの庭園で、招かれた貴婦人たちに華やかな模様編みを手ほどきした彼は、一服するために少し離れたあずまやに移った。
藤棚の下で煙草に火をつけていると、茂みの向こうから不自然に押し殺した男の低い声が洩れてきた。
よく聞き取れないがフランス語らしい。
(この下は、確か駐車場だったな)
煙草を燻らせながら佇む浩平には、いやが上にも会話が耳に入った。
「ベルンハルトが領事館に⁉」
「はい。10日前の事故で重体になっている秘書官の代用として、つい先ほど成田から入国しました。書類上は一等書記官ということになっています」
「そうか、とうとう乗り込んできたか」
年嵩の男が唸るように言うと、比較的若いほうの声にも緊張感が滲んだ。
「これで、ほぼすべてが入れ替わったことになります」
「…手回しのいいことだな」
「あの事故も、この国の警察では重過失の追突事故として片付けられましたが、実際ただの事故ではありませんでしたからね」
「巧妙なカムフラージュだ。―――雨の日のフリーウェイで前方不注意による追突。被害者は外国人の領事館職員だが、ありえない話ではないだけに、警察サイドが今の段階でほかとの関連を疑うことはまずない」
「この国の司法官が、あの領事館内で最近、不可解な更迭や送還が相次いでいることなど知る由もありませんしね」
真下の男たちは互いに言葉を失い、重苦しく沈黙した。
そのとき、浩平の足元に、不意に毛並みのいい小さな室内犬がまとわりついた。
「ごめんなさい、ご迷惑ではありません?」
フランス語の問いかけに振り向くと、若い美貌の女性が笑みを湛えて立っていた。
ドレープの美しいアフタヌーンドレスを身に纏い、栗色の豊かな髪をきれいにまとめあげている。服の上からでも体の見事な曲線がうかがえるほどの、優雅なプロポーションであった。
彼女は浩平に歩み寄ると、悪戯っぽく目を細めて言った。
「盗み聞きなんて悪趣味でしてよ、ムシュウ」
浩平は心外そうに煙草をくわえた。
「生憎と、フランス語は不得手でな」
「まあ、ご冗談ばっかり」
女性は少し大げさに笑うと、黒いサングラスの下に隠された浩平の瞳を覗き込むように美しい顔を近づけた。
「拝見したかぎり、とても流暢でいらっしゃるわ。女性を口説くのもお上手だし」
浩平は、ふと薄く笑った。
「聞かれては困る話だったのか? だとしても、おれは興味などない」
「何が重要かは、こちらで判断しますわ」
「ご随意に」
口元に不遜な笑みを浮かべたまま、浩平は紫煙をふっと藤棚に向かって吐き出した。
女性の美貌に不快感が滲んだ。
「尊大でいらっしゃるのね。女性にはもっとお優しい方だと思ってましたわ。それとも、ムシュウは熟女がお好み?」
浩平はクッと喉を鳴らした。
「世の中には、二種類の女がいる。下心をそそられるイイ女と、まるでその気が起きないそれ以外だ」
その言葉に、女性はわずかに眉を寄せた。
「―――失礼な方ね」
「おれはフェミニストじゃないんでね」
備え付けの大理石の灰皿に煙草を押しつけた浩平は、足元でじゃれている仔犬の頭を軽く撫でた。
「もっとも、世間には物好きな男も多いが」
そして薄く笑いながら女性に目を移すと、渋い美声を一層低く響かせて言った。
「―――ディオールのプワゾンか。悪くはないが、おれは《毒》の匂いのする女には用心することにしている」
女性は、赤い唇をきゅっと噛んだ。
浩平は不愉快そうな彼女を尻目に、肩越しに片手を挙げて立ち去った。
一人残された女性は仔犬を抱き上げると、悔しげに彼の背中を睨みつけ、しばらくの間じっとその場に佇んでいた。
スイス・ローザンヌの美術館は、独特の静寂に包まれていた。
絵画展示室で、一人の女性観光客が油彩画を鑑賞していた背の高いゲルマン系の男性と肩越しにぶつかり、はずみで男性が小脇に挟んでいたリーフレットが滑り落ちた。
女性は恐縮した様子で慌ててリーフレットを拾い上げ、声をひそめた。
「ごめんなさい、よそ見していて…」
「どういたしまして」
男性はゆったりと微笑んだ。
女性は、豊かな栗色の髪をかきあげながら彼に笑みを返した。
「フランス語、お上手ですね。でも、ドイツの方でしょう?」
「どうして?」
「簡単な推理ですわ、ムシュウ。だってほら、これ、ドイツ語のリーフレット」
女性は「ふふっ」と笑って悪戯っぽく目を細めた。茶色い瞳がとても魅力的だった。
「かないませんね、ミス・マープル。名推理だ」
「メルシィボクゥ」
二人は顔を見合わせ、声を殺して笑った。
「こちらには観光で?」
「ええ、レマン湖の畔の叔父の別荘でバカンスを。でも、この2・3日叔父の体調がすぐれなくて」
「それはお気の毒に」
「安静にしていれば大丈夫だというので心配はないと思いますけど。とりあえず、市庁舎の近くに大きなドラッグストアがあると聞いてきたので、そこで何かいい薬を買って帰るつもりです」
女性の言葉に、男性は小首をかしげた。
「そういえば、市庁舎の前の通りは通行止めだったな」
「えっ、そうなんですか?」
「事故があったみたいでしたよ。…これからそっちに回ると時間がかかるでしょうから、薬はほかの店でお求めになったほうがいいかもしれない」
「そうですか。じゃあ、そうします。助かりました、ムシュウのおかげで無駄足にならなくてよかったわ」
「どういたしまして」
男性がやさしく応えると、女性は彼を見返して、ふと思い出したように言った。
「もしかして、ムシュウは獅子座?」
「Oui」
「やっぱり。星占いのとおりね」
彼女は、バッグから折り曲げた女性雑誌を取り出して開いて見せた。
「ほら、ここ。私は水瓶座なの。獅子座の異性に会うといいことがあるって。ね、当たってるわ」
同じフロアにいた老夫妻が、微笑ましげに二人を眺めながらそばを通り過ぎた。
「待って、ムシュウの運勢も見てあげる」
男性は苦笑しながら、我慢強く彼女を見下ろしていた。
「獅子座の男性はね、えっと…『期待どおりの成果が得られる暗示、ステップアップするとき』ですって」
「なるほど。占ってみるものですね。おかげでいい一日になりそうだ」
二人は、互いに目を見交わしてにっこりと笑った。
「それじゃ、私はこれで。お先に、マドモアゼル・アクエリアス」
「オールボワ、ムシュウ」
男女は短い挨拶をして別れた。
それきり二人が互いを返り見ることは決してなく、展示室は再びもとの静けさに戻った。
その後、この二人の姿は、また別の場所で見ることになる。
Ⅰ
「どこに行くんです、有栖川さん」
その声に、祐介は腰が抜けるほど驚いた。
「由樹彦、おまえッ! け、気配ってもんがないのか‼」
「なにコソコソしてるんです? いい大人がみっともない」
「後ろめたいところがあるからですわ」
京極冴子が呆れ顔で目を伏せた。
舌打ちした祐介はドアノブから手を離し、不貞腐れて口を尖らせた。
由樹彦はそんな彼に冷ややかな視線を注いで言った。
「あなたには、僕に与えた迷惑を償う義務があるんです。今のあなたに選択の自由はありません。ですから、僕の許可なく職場放棄しようなどと思わないほうがいいですよ」
いつもどおりの断言口調で言いたいだけ言うと、由樹彦はさっさと背中を向けた。
出るのは溜め息ばかりだった。
うなだれた祐介は戸口に座り込むと、溜め息混じりにぼやいた。
「なあ、冴子女史。なんかあいつ、むちゃくちゃ機嫌悪くない?」
「そうですか?」
「まだ根に持ってんのかな~。そりゃ、あのあと呼び出しすっぽかして、トンズラしたりしたけどさぁ…。羽根のばしたってゆったって、たった13時間半よ⁉ 日付が変わる前に御用になったじゃんか。…だいたい、なんでおれだけッ⁉ コーヘイはどーしたんだよ、コーヘイは」
「鏑木さんはフランス大使館の招きで、刺繍とレース編みの展示会に。会場で講習もされるそうですわ」
「かーっ! 何が講習だよ‼ どーせマダムたちにうまいこと言って、飲んで食ってるだけだぜ⁉ なんでこーいつもあいつばっかりいい思いするかな~‼」
半ばヤケクソ気味にその場にひっくり返った祐介は、三度目の溜め息をついた。
「あーあ。もとはと言えば、女でしくじったのはおれだし、文句いえる義理じゃないけどさぁ。ったくツイてねーよなー…」
すっかりいじけてブツブツ言っている彼のところに、京極冴子が歩み寄った。
「私は、有栖川さんのきれいなお顔を毎日眺めていられて幸せですけど」
「……ホント?」
「ええ」
冴子はにっこりと笑った。
慰めに気をよくした祐介は、立ち直りも早かった。
「おれ、もー女史の奴隷になっちゃう♡」
「お茶でも入れましょうか。付き合ってくださる?」
「もちろん。女史が付き合えとおっしゃるなら、10杯でも20杯でも」
祐介は仰向けのまま、両膝を胸のあたりまでもってくると、反動をつけてさっと敏捷に飛び起きた。
冴子がイギリス式の正当なやり方で入れる紅茶は、いつでも香り高く、口当たりもまろやかだった。
別室の由樹彦に紅茶を差し入れ、戻ってきた彼女に祐介はこわごわ訊ねた。
「由樹彦、なんか言ってた?」
冴子は含むように笑って目を細めた。
「いいえ。でも、怒ってなどいらっしゃいませんわよ、あの方」
「あれで?」
「ええ。むしろ楽しんでいらっしゃるんです」
「楽しむ―――⁉ ジョーダンじゃないぜ、まったく…」
「お気持ちはわからなくもありませんわ。有栖川さんのような秀麗な方を拘束して、思いのままに独占しているんですもの」
「相変わらずサディスティックなヤツ☆」
祐介が露骨に顔をしかめると、冴子は静かにティーポットを揺らしながらそっと目を伏せた。
「珍しいんですのよ、あの方がここまで物事に執着なさるのは。どちらかというと淡泊な方ですのに」
「……屈折してんなぁ」
祐介はうんざりしたように低く呟き、頬杖をついた。
「恋に、近いのかもしれませんわね」
程よく温められたロイヤルコペンハーゲンが、豊かな音を立てながらゆっくりと紅茶色に染まっていく。
「カンベンしてよ」
「それだけ、お二人をお気に召されたということですわ」
はあっと大きく息を吐いた祐介は、天井を仰いで気だるげに言った。
「女史、おれのテイストはブランデーにして」
「お好きなんですのね、ティー・ロワイヤル」
「てゆーか、オモシロイじゃん、砂糖に火つけて燃やすの」
軽くいなされて、冴子は苦笑した。
「そういえば、一度お尋ねしたかったんですけど」
「何?」
「鏑木さんとの馴れ初めは、どういうきっかけだったんですの?」
冴子がそう言いながらカップを差し出すと、祐介は黙って振り向き、ソーサーから角砂糖の乗ったティースプーンだけを取った。
「お聞きしてはいけないことでしたかしら」
「―――別に」
祐介はブランデーの染みた砂糖に火をつけ、青い炎をしばらく見つめていた。
「あいつがおれのバービーちゃんに総レースのドレス作ってくれたのが、最初」
火のついたままのスプーンを紅茶の中に沈めると、彼はとらえどころのない表情で薄く笑った。
「なんたって一品物だからね」
冴子の手からカップを取った祐介は、口元に笑みを浮かべたまま、ちらりと上目遣いに彼女を見た。
冴子は吐息混じりに首を振った。
「……わかりませんわ。私には、とてもそれだけのご関係とは思えませんもの」
「どうして? おれたちのことは、おれたちよりよっぽど詳しいじゃん」
「ですから、尚更ミステリアスなんですわ」
彼女は、謎めいた表情で紅茶を啜っている祐介に再び探るように問いかけた。
「お二人は一体、どういうご関係ですの?」
「肉体関係」
そう言っておいて、祐介はククッと可笑しそうに喉を鳴らした。
揶揄っているのは瞭然だった。
冴子は小さく肩を竦めた。
「もしそれが事実でしたら、個人的には大変興味深いことですわ。ただ、そうではなくて、お二人には過去にもっと特別の…」
「へえ、特別の?」
不意に鋭い視線を浴びせられ、冴子はどきりとして口を噤んだ。
祐介は微かに笑って、伏し目がちに俯いた。
まつげの長い彼の横顔は、マスカレードの仮面のように美しい。しかし、それは無用の詮索を嫌う鉄壁の仮面にほかならなかった。
冴子はふと溜め息をついた。
(警戒されてしまったかしら)
ミルクをたっぷり注いだ紅茶を口に運んだ彼女は、そのままさり気なく祐介から視線を外した。
その頃、浩平はフランス大使公邸で大使夫人の主催する茶会に列席していた。
昼下がりの庭園で、招かれた貴婦人たちに華やかな模様編みを手ほどきした彼は、一服するために少し離れたあずまやに移った。
藤棚の下で煙草に火をつけていると、茂みの向こうから不自然に押し殺した男の低い声が洩れてきた。
よく聞き取れないがフランス語らしい。
(この下は、確か駐車場だったな)
煙草を燻らせながら佇む浩平には、いやが上にも会話が耳に入った。
「ベルンハルトが領事館に⁉」
「はい。10日前の事故で重体になっている秘書官の代用として、つい先ほど成田から入国しました。書類上は一等書記官ということになっています」
「そうか、とうとう乗り込んできたか」
年嵩の男が唸るように言うと、比較的若いほうの声にも緊張感が滲んだ。
「これで、ほぼすべてが入れ替わったことになります」
「…手回しのいいことだな」
「あの事故も、この国の警察では重過失の追突事故として片付けられましたが、実際ただの事故ではありませんでしたからね」
「巧妙なカムフラージュだ。―――雨の日のフリーウェイで前方不注意による追突。被害者は外国人の領事館職員だが、ありえない話ではないだけに、警察サイドが今の段階でほかとの関連を疑うことはまずない」
「この国の司法官が、あの領事館内で最近、不可解な更迭や送還が相次いでいることなど知る由もありませんしね」
真下の男たちは互いに言葉を失い、重苦しく沈黙した。
そのとき、浩平の足元に、不意に毛並みのいい小さな室内犬がまとわりついた。
「ごめんなさい、ご迷惑ではありません?」
フランス語の問いかけに振り向くと、若い美貌の女性が笑みを湛えて立っていた。
ドレープの美しいアフタヌーンドレスを身に纏い、栗色の豊かな髪をきれいにまとめあげている。服の上からでも体の見事な曲線がうかがえるほどの、優雅なプロポーションであった。
彼女は浩平に歩み寄ると、悪戯っぽく目を細めて言った。
「盗み聞きなんて悪趣味でしてよ、ムシュウ」
浩平は心外そうに煙草をくわえた。
「生憎と、フランス語は不得手でな」
「まあ、ご冗談ばっかり」
女性は少し大げさに笑うと、黒いサングラスの下に隠された浩平の瞳を覗き込むように美しい顔を近づけた。
「拝見したかぎり、とても流暢でいらっしゃるわ。女性を口説くのもお上手だし」
浩平は、ふと薄く笑った。
「聞かれては困る話だったのか? だとしても、おれは興味などない」
「何が重要かは、こちらで判断しますわ」
「ご随意に」
口元に不遜な笑みを浮かべたまま、浩平は紫煙をふっと藤棚に向かって吐き出した。
女性の美貌に不快感が滲んだ。
「尊大でいらっしゃるのね。女性にはもっとお優しい方だと思ってましたわ。それとも、ムシュウは熟女がお好み?」
浩平はクッと喉を鳴らした。
「世の中には、二種類の女がいる。下心をそそられるイイ女と、まるでその気が起きないそれ以外だ」
その言葉に、女性はわずかに眉を寄せた。
「―――失礼な方ね」
「おれはフェミニストじゃないんでね」
備え付けの大理石の灰皿に煙草を押しつけた浩平は、足元でじゃれている仔犬の頭を軽く撫でた。
「もっとも、世間には物好きな男も多いが」
そして薄く笑いながら女性に目を移すと、渋い美声を一層低く響かせて言った。
「―――ディオールのプワゾンか。悪くはないが、おれは《毒》の匂いのする女には用心することにしている」
女性は、赤い唇をきゅっと噛んだ。
浩平は不愉快そうな彼女を尻目に、肩越しに片手を挙げて立ち去った。
一人残された女性は仔犬を抱き上げると、悔しげに彼の背中を睨みつけ、しばらくの間じっとその場に佇んでいた。
0
あなたにおすすめの小説
本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います
こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。
※「小説家になろう」にも投稿しています
後宮薬師は名を持たない
由香
キャラ文芸
後宮で怪異を診る薬師・玉玲は、母が禁薬により処刑された過去を持つ。
帝と皇子に迫る“鬼”の気配、母の遺した禁薬、鬼神の青年・玄曜との出会い。
救いと犠牲の狭間で、玉玲は母が選ばなかった選択を重ねていく。
後宮が燃え、名を失ってもなお――
彼女は薬師として、人として、生きる道を選ぶ。
幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~
二階堂吉乃
恋愛
同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。
1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。
一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。
~春の国~片足の不自由な王妃様
クラゲ散歩
恋愛
春の暖かい陽気の中。色鮮やかな花が咲き乱れ。蝶が二人を祝福してるように。
春の国の王太子ジーク=スノーフレーク=スプリング(22)と侯爵令嬢ローズマリー=ローバー(18)が、丘の上にある小さな教会で愛を誓い。女神の祝福を受け夫婦になった。
街中を馬車で移動中。二人はずっと笑顔だった。
それを見た者は、相思相愛だと思っただろう。
しかし〜ここまでくるまでに、王太子が裏で動いていたのを知っているのはごくわずか。
花嫁は〜その笑顔の下でなにを思っているのだろうか??
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる